「誰だ、今日は一日曇りだなんて言った奴」 酷くなる一方の雨で張り付く髪をかき上げながら、 捲簾は随分前から本来の役割を果たさなくなっている煙草を放り、靴の底で踏み締めた。 「あのお天気キャスターの姉ちゃん、嘘吐きやがって」 誰ですかそれ、と洋閏ならば律儀に突っ込んでくれる処だが、 相手が永繕ではそうはいかない。 「仕方ないでしょう。運動会じゃないんですから、雨天延期という訳にはいきませんよ」 にこりともせずに言い放ちながら、壁のように聳えるごつごつとした岩場を探っている。 「さっきから何してる?」 「足掛かりになりそうな場所を探しているんです」 一年にも満たない付き合いだが、永繕の思考回路と行動基準は全て敬愛する元帥閣下と知っている。 天蓬率いる本隊は、ちょっとした崖のようになっている丘の上に布陣していた。 捲簾らの位置からでは、迂回しなければ辿り着けない。 彼の身を案じて上がろうとしているのだろうが、それでは作戦行動に支障が生じる。 まあ、既に生じているからこその現状だが。 「勝手な行動は認めねえぞ」 雨で足場も悪い。 永繕に何かあれば、今回の出陣で彼を配下にしている捲簾の責任であり、後で天蓬に何を言われるか。 何より、想定外の事態でバラバラになってしまっている今、無闇に動けば収拾がつかなくなる。 “別命あるまで待機”と、上から天蓬の声が降って来たばかりだ。 永繕は少し考えるような素振りをしてから、雨水の滴る顔を上げて捲簾を見た。 「あの爆発の際、洋閏は何処にいましたか」 「後方部隊への伝令だろ」 「私の記憶でもそうです」 「それが?」 作戦行動中、こと捲簾相手であれば、必要最低限以外の口を利かない男だ。 また、頭の回転の速さでは天蓬に次ぐ。 感情の読めない永繕の顔を見返して、先を促した。 「我々の陽動作戦が見破られ、裏をかかれて分断された。・・・本当にそうでしょうか」 「何が言いたい」 「何処か、違和感がありませんか。本当に元帥が読み誤られたんでしょうか」 二人の視線が雨で煙る中を交錯する。 その一瞬に様々な可能性を憶測した。 「・・・つまり?」 簡潔に先を促す。永繕も要点だけを答えた。 「失策などではなく、今の状態こそが最初から元帥の作戦であった。お一人で行動する為に」 「無茶苦茶だ」 それは永繕の答えに対してではなく、あの飄々とした上官に対して。 一年弱、隣で天蓬を見て来た捲簾にも、永繕の言い分が突飛なものとは思えなかった。 雨を凌げる場所にいた愛馬を呼び寄せて素早く跨ると、永繕を促した。 「迂回するぞ」 渋々といった様子で永繕も自分の馬に飛び乗る。 「急がば回れ、っつーだろ。・・・ンだよ、その顔」 「まさか大将の口から、そんな言葉が出るとは思いませんでした」 お前ね、と捲簾が吐き捨てる。 素直なんだか慇懃無礼なんだか分からない。 「どっかの誰かさんじゃねえんだから、見境無く猪突猛進する訳じゃねえよ」 「そのお言葉、忘れないでいて頂きたいものですが」 「何でわかった」 馬を並べて走りながら、捲簾が言った。 「天蓬の思惑」 まだそうと決まった訳ではないが、恐らくという確信めいた予感がある。 元帥の考案された全ての作戦、戦略を頭に叩き込んでいますし、と永繕が言葉を切る。 「進退窮まった時、迷った時、いつも考えるからです。天蓬元帥なら、どうなさるだろうか、と」 それ故に、普段と異なる違和感を読み取れたということか。 永繕を始めとする第一小隊員達は、伊達に天蓬の背を見てきた訳ではない。 それは、つい数日前に捲簾が天蓬に言ったことだった。 『お前の立てる奇抜な作戦、それ自体は凄えかもしんないけど、実行できるのは隊員あってこそだろ』 『わかっていますよ。うちの隊は少数ですが、優秀な軍人ばかりです』 少しもわかっていない、と溜め息を吐いた。 永繕のように、一心に見上げて来たからこそ、裏に隠された周到な意図まで感じ取って遂行できるのだ。 また、全員が指揮官に絶対的な信頼を置いているからでもある。 14名もの秀逸な軍人が何故、彼に従い、その下に在ることを誇りとしているか。 本人は全く自覚していなかった。 その天蓬が今また、部下の思いも汲み取らずに無茶をしているだろうことを思うと苛立ちが増す。 「ったく。何でアイツはいつもこうなんだ」 「元帥だけを責めるのは、短絡的に過ぎるかと存じますが」 永繕の口調は淡々としていたが、その手綱捌きには焦りが感じられた。 天蓬が絡むと雨の中、崖をよじ登ろうとするくらいに平静さを失う彼だ。 「信頼というのはどうやってするものなのか、理解らないんですよ。 何処までを自分でやって何処からを他者に頼むべきか、何処までが信頼で何処からが甘えなのか。 それを御存知ない不器用さを、責めるのは簡単ですけど、それでは解決にならないでしょう」 「前から訊こうと思ってたんだけどさ。お前、俺のこと嫌い?」 すぐには応えが無かった。 ばしゃり、と二人を乗せた蹄が水溜りを掻き分ける音が何度か続いて、永繕が呟いた。 嫌いではありません、しかし。 「正直に申し上げて、俺は貴方が憎い」 言葉の割に淡々とした声に感情はなく、だからこそ余計、捲簾に返す言葉を失わせた。 『私』ではなく『俺』、『大将』ではなく『貴方』と言ったことはつまり、私人としての永繕に、 上官としてではなく一個人として憎まれているという事実は、重いものに違いなかった。 「・・・最近、元帥は変わられました。それは決して悪い方向ではないと思っておりますし、 捲簾大将のお力なのでしょう。ですが、あまり無茶をなさらなくなった代わりに、 執着も薄れているように感じるんです。第一小隊への、引いては生への」 「矛盾してんじゃねーか」 「生きている者や世界に、矛盾しない感情が在りますか」 きっぱりと返された言葉に、少し黙ってしまう。 「この状況で何処が無茶しなくなってんだ」 「相対論ですよ。それに、お一人で先走らなくなられたのも、死に対するハードルが低くなられたのも、 自分がいなくても大丈夫と思われて此処から離れて行かれるせいなら、矛盾ですらない」 否、生への執着など、元々持っていないのかもしれない。彼は。 今までは第一小隊の隊員を残しては逝けないという責任感があっただけ、 それも、安心して後を任せられる人物を見つけてしまった。 確かに洋閏を筆頭として、捲簾を兄のように慕っている隊員は多い。 しかし、そもそも永繕ら14人は、天蓬元帥という軍人に従って来たのであり、 捲簾に寄せる信頼とはまた別物だというのに。 「自ら、離れて行こうとしているように見えるんです。安心して、いなくなれるとでもいうように」 そうして、いつか本当に消えてしまうのではないか。 自分達を残して。 否、俺を置いて。 今のように誰もいない処で密かにいなくなってしまうのではないか。 猫は孤独に死んでゆくため、終わりを悟ると死に場所を探して姿を消すという。 「だから俺は、俺からあの御方を奪って行く貴方が憎い」 「・・・俺は、お前や天蓬みたいに小難しいことはわかんねえけどよ」 雨脚が少し弱まっただろうか。 それでも道はぬかるんでいるのを、二頭の馬には無理をさせて飛ばしている。 「離れて行ってんのは、お前の方なんじゃねえのか、永繕。お前が、 もう天蓬に自分は必要ないんじゃないかと思っているから、遠くなったように感じるだけだろ」 永繕は一瞬、目を瞠って、それから溜め息を吐くように少し笑った。珍しいことだ。 「そうですね。だから、これはただの嫉妬です。お忘れください。 作戦行動中であることを失念し、失礼致しました」 天蓬元帥という軍人の最も近しい場所に立つことを認められた存在。 その背を護ることを唯一許された存在。 それは永繕にとってプライドではなく誇りであり、驕りではなく喜びだった。 しかし、これからは、あの方が背を預ける相手は、自分ではなくなるのだろう。 捲簾の言うように、自分がそう考えるからこそ、その通りになってしまうのかもしれなかった。 「ッ!」 視界が開けた途端、爆音と共に地響きが伝わり、馬が嘶く。 粉塵をやり過ごしながら二人は馬から飛び降りる。 銃を片手に軍服の裾を翻す背を見つけて、銃のセーフティを解除しながら永繕が言った。 「やはり、お恨み申し上げます。大将」 「・・・照準を誤るなよ?」 「成る程、その手がありましたか」 「おい」 |