うちは神主を継ぐ家系である。父親は半年前に持病を悪化させて亡くなった。よってそれまで普通の会社員として働いていた自分は、ある日突然、亡き父の跡を継いでその神社の神主とならなければならなくなったのだった。
 母は仕事ばかりしている父に愛想を尽かして、自分が中学生の頃に出ていった。その頃はまだ祖父が生きていて、父もまた会社員をしていた。そして自分が高校を出る頃になり祖父が亡くなった。それから父は神主としてその神社に住まうようになり、都内の大学に進学することになっていた自分は一人暮らしをしていた。そしてそのまま都内の企業に就職し、働いていた。しかしそんな時に舞い込んできた突然の訃報で、自分の人生設計は途中から真っ白になった。別に大金持ちになりたいとか、そういうことではない。しかし、こうして会社員として暮らし、いつかは結婚をして老いて、穏やかな老後を迎えたいというくらいのささやかな望みはあった。
 しかし、今はどうだ。小さな頃一度訪れたきりの、神社のあるその町の駅に降り立った捲簾は、大きなバッグ一つを持ったまま立ち尽くした。そこは、立派な田園地帯であった。つい昨日までコンクリートジャングルで生活していた彼にとっては考えられないことだった。急に一昔前のような、絵に描いたような田舎に放り込まれたのだから。きっと自分はここに骨を埋めることになる。もう都会には戻れない。付き合っていた彼女とも別れてきた。もう神社を放り出すことも出来ない。世を儚み、失神してしまいたかった。
 歩いてみれば、趣があると言えなくもない昭和の街並みだった。とりあえず煙草屋と酒屋はなければ生きていけない。そう思いながら商店街をゆっくりと眺めて歩いた。活気があるのはいいことだ。過疎の進んだ田舎町などには住む気にもなれない。見慣れぬ人間が珍しいのか、あちらこちらから好奇の視線を向けられる。それぞれに愛想良く会釈をし、捲簾はその商店街を通り抜けた。
 地図によれば、この近辺のはずだ。立ち止まり、手の中にある小さな紙切れに視線を落とした捲簾は、再び辺りを見渡した。そして、視線の端に赤い鳥居が掠めたのに気付く。木に隠れて見え辛くなっていた鳥居。それがあるのは、全くの逆方向だった。全く役に立たなかった手の中の紙切れを握り潰した。そしてそれをポケットに突っ込み、道を引き返すべく歩き出した。
 大きな鳥居をくぐると、そこからは大きな本殿が見えた。こんな小さな町の神社にしては大きいし、落ち葉も綺麗に掃除されている。心なしか空気も澄んでいるように思えて、バッグを地面に降ろした捲簾は一度大きく深呼吸した。伸びをして再びバッグを持ち上げ、これから毎日を過ごすことになる社務所へと向かって歩き出した。梢が揺れて、鳥の鳴く声が辺りに静かに響いた。
 綺麗好きな父らしく、社務所の中は綺麗に片付いていた。テレビや掃除機、洗濯機など必要なものはそのまま残っているようだ。一通り中を見て回った後居間に戻り、バッグを下ろした。ジャケットを脱いで座卓の上に置き、まず何をしなければならないのだろうか、と考えて腕組みをする。そしてちらりと部屋の隅に畳んで置かれた着物と袴に目をやった。気分がげっそりとした。

 とりあえず着替えてみて鏡の前、予想通りの似合わなさに乾いた笑いが漏れた。信仰心の欠片もない俗物に塗れた男だという自覚がある。似合わなくて当然だ。しかしこれからゆっくりと染まっていくほかないのだった。草履を引っ掛けて外へと出る。老後を過ごすとしたら、こんなに良い場所はないだろう。自然は多く、商店街には活気がある。そして車の騒音もない。しかしまだまだ若輩者の自分には何処か物足りない気がした。拝殿前をゆっくりと歩く。後で本殿の掃除もしなければならない、と考えながらふと鳥居の方へ視線を向けた。鳥居の横の方には、木々に隠れるようにして小さな祠が立っている。その前に誰かがいた。誰かがいてもおかしくない場所だ。しかし、その姿格好が不思議で、捲簾は一歩ずつゆっくりとその祠へ向かって歩き出した。
 それは、年の頃十五、六の子供だった。祠の前にちょこんと座り込んでいる。身に付けている服は、まるで巫女装束のような凝った飾りのついた着物に袴姿だった。現代に、こんな姿でうろつく子供がいるのだろうか。もしかしたらこの町では普通なのかもしれない、と思いながらも何か言い知れぬ不安を感じてゆっくりと身を隠しながら近付く。木々がざわめいた。それまでじっと祠を見つめていたその子供は、祠に手を伸ばした。そして、祠の前に置かれていた供物の―――恐らく豆大福―――を鷲掴みにした。目を瞠る捲簾をよそに、その子供はそれを躊躇いもなく口へと運んだのだった。捲簾とて信心深い質ではない。しかし、祠に供えられた食べ物を口にするなどということは到底許されるものではないことくらいはよく分かる。絶句する捲簾の目の前で、もぐもぐとその大福を頬張っていた子供は、もう一つの大福にも手を伸ばした。まだ食べる気だ。
 別に神主としての立場云々の問題ではなく、ここは注意するのが普通だろう、と捲簾は小さく咳払いした。そして、態とその子供に存在を気付かせるように足の音を立てて歩み寄った。子供は顔を上げない。
「あー……その、君」
 子供はまだ顔を上げない。しかし、むしゃむしゃと顎を動かす動作を繰り返しながらちらりと視線だけ上に向けてみせた。それでやっと気付いたか、と思ったのもつかの間、子供は再び大福を食べ始めた。大人に見付かったと逃げるでもなく、それどころかばつの悪そうな顔一つ見せない。そして、その子供は今度は最中へと手を伸ばした。
「ちょっと、お前な!」
 無視されたこと、そして子供の無法ぶりにかちんときた捲簾は、ずかずかとその子供の脇へと歩み寄り、しゃがんでその薄い肩を掴んだ。子供は一瞬驚いたように目を瞠ったが、その後迷惑そうに眉を寄せて捲簾を見上げた。
「どうして、僕に捧げられたものを口にしちゃいけないんですか」
「は……」
 そう言って子供は最中に噛り付いた。一瞬呆気に取られて手の力を緩めた捲簾だったが、子供の言うことの可笑しさに気付いて苦笑いする。変わった子供だ。親の顔が見てみたい、と思いながら、諭すような口調で続けた。
「あのなぁ坊主、この祠はな、ここの稲荷のために建てられたもんで、だからこれはここのお稲荷さんに捧げられてるもんなの」
「あなた、新しい宮司ですか?」
「え? ああ……」
 唐突に言葉を遮り、逆に問い掛けられた捲簾は一瞬言葉に詰まる。しかし一応丁寧に答えておいた。すると、大福二つと最中を食べ終えた子供は満足げに口の周りを舐め、すっくと立ち上がった。そしてコキコキと首を鳴らしながら、しゃがみ込んだ捲簾を見下ろす。その、鳶色の眸にじっと見詰められ、宙が揺らぐような感覚を味わった。
「僕、つぶあんが好きなんです」
「……は?」
「これからはつぶあんでお願いしますね」
 そう言って、その子供は初めてにっこりと微笑んだ。そして捲簾に背を向ける。それを止めようと捲簾が腕を伸ばした瞬間、その腕から逃れるように、その姿は消えた。ざわりと頭の上の木々が揺れる。消えたように見えたそれは、木の枝の上に立っていた。驚き、言葉を失う捲簾の前で、子供はにっこりと笑い、……くるりと一回転して飛び降りた。地面に降り立ったのは、美しい純白の毛並みの仔狐。きらりと鳶の眸が木洩れ日を弾く。目の際の毛色は紅。周りの空気が心なしか煌いて見えた。その豊かな毛並みの大きな尾を優雅に揺らめかせたそれは、捲簾を一瞥してから、静かに林の中へと消えていった。

 到着早々怪奇現象に襲われた捲簾は、その後呆然と社務所に戻り、竹箒でぼうっと境内の掃除を始めた。何かやっていなければおかしくなりそうだったのだ。一体あの子供は何なのだ。答えは何となく分かっていたのだけれど、認めたくなかった。そういうものが見える質ではなかったはずだ。恐る恐る、もう一度あの祠を見る。また明日も来るのだろうか。怖いもの見たさなのか何なのか分からなかったが、もう一度会ってみたい気がした。
 竹箒を持ったまま、再び祠へと歩いた。供え物は綺麗になくなっている。町の人間はおかしく思わないのだろうか。そんな風に思っていると、ふと後ろの方から足音を感じ、咄嗟に振り返った。するとそこには、そっとこちらを窺っている一人の女性がいた。長い黒髪の、意志の強そうな眸の美しい人だ。捲簾が戸惑って目を瞬かせると、彼女は無遠慮だったことに気付いたように、ぺこりと頭を下げた。
「あ、急にすみません……ひょっとして、新しい宮司さんですか?」
「ええ、そうですが……」
「そうですか、あ……お父様のこと、本当に残念でした」
 そう言って彼女は再び頭を下げた。どうやら父は町人と良い関係を築いていたらしい。その跡を継ぐのだ、と思えば背筋の伸びる思いである。彼女に頭を下げ返して、竹箒を持ち直した。
「今まではどちらに……?」
「今までは東京で、会社員をやってまして」
「まあ……じゃあ急にこんな田舎に来られて、びっくりされたんじゃないですか?」
 びっくりしたどころの問題ではない。そして、それ以上に驚かされた事態も起こった。笑えない状態だったが、とりあえず彼女には笑って誤魔化しておいた。それを微笑んで見ていた彼女は、何か思い出したように手にしていたバッグに手を入れた。そして、祠の前へと歩み寄り、しゃがみ込んだ。彼女の取り出したのは小さなタッパーだった。彼女はその蓋を開け、中から何か菓子を取り出した。
「この町はここのお狐様に守られているんですよ」
「え……」
「何でも、真っ白な毛並みの綺麗な仔狐なんだとか。そして人に変化すると、とても美しい少年の姿をしているそうですよ」
 にっこりと微笑む彼女に引き攣った笑顔で笑い返しながら、捲簾は寝込んでしまいたい、と思った。
「うちの曾お爺様が一度、この祠の前に淋しげに立ち尽くす美少年の姿を見たんだそうです。そして、曾お爺様が見ていることに気付くと、ひらりと狐に姿を変えて林の中へと消えていったそうで……他にも、この町では色々不思議なことがあるんですよ」
「……たとえば?」
「近隣の市町村が災害に襲われている中この町だけ被害が少なくて済んだり、農作物に必要なだけきっちり雨が降ったり……この辺では、雨はお狐様の涙だって言われているんです。突然俄か雨が降ったりすると、子供たちが“お狐様が泣いてる”なんて言ったりして」
 どうやら、信仰が深く根付いている町らしい。彼女の語り口からも、稲荷がこの町の風習に組み込まれていることがよく分かる。感嘆の声を漏らす捲簾に、彼女はとっておきの話をするように声を潜めた。目が悪戯を目論んでいる子供のようにキラキラしている。
「私もね、ちょっと不思議な出来事に遭ったことがあるんですよ」
「え?」
 ついさっきそんな出来事に遭遇した捲簾は、どきっとした。
「私、小さな頃一度迷子になったことがあったんです。あの森なんですけど……大人からすれば、小さな森ですよね。だけど子供にはすごく大きく見えるでしょう。ちょっとした冒険のつもりで入り込んだら、出られなくなっちゃったんです。そして一人で大泣きしちゃって。……だけど、ふと泣き止んで目を開けてみたらそこは、うちの玄関の前だったんですよ」
 彼女は笑って、きっとお狐様のおかげだと思うんです、と言った。

「……おい、キツネ」
 彼女の帰った鳥居の前。捲簾は林の中へ向かって声を掛けた。反応はない。しかし捲簾はそのまま反応を待ち続けた。
「……尻尾が見えてんだよ」
 そう言うと、木と木の間から見えていた白いふさふさの尻尾がすぐに姿を消した。それを見て溜息を吐く。あくまでも隠れているつもりらしい。竹箒を下に腕を組み、笑って彼のいる方を見つめていた。すると、暫くして漸くそのくりくりした眸が木々の間からおずおずと覗いた。その頭には白い耳が付いたままだ。どうやら化け損ねたらしい。
「あなた、本当に見えるんですね……」
「おう。出てこいっつうの」
 そう言って手招きすると、少し逡巡したようだったその子供はそっと木の後ろから出てきた。ゆらり、と白い尾が揺れる。
「お前は、迷子の配達までやってるワケ?」
「あれは気まぐれです。あの子……八百鼡さんは、小さな頃からお供えしてくれたり、お掃除してくれたりする感心な子だったので」
「ふうん……」
 そう言って、捲簾は先程の彼女のことを思い出した。そんな捲簾をじっと見詰めていた子供は、ぽつりと呟く。
「彼女は既婚ですからね」
「……俺がそういうことばっかり考えてると思ってんのか」
 初対面でなんて失礼な狐だ、と捲簾が顔を顰めると、その子供はその目を瞬かせて不思議そうに首を傾げた。まるで、何故捲簾が怒っているのかが分からないようだった。そういった感覚も、まるで人とは違うのだろう。
「……お前、名前とか……ないの?」
「僕ですか? ありますけど、それが?」
「教えろよ。……呼び辛いだろうが」
 子供は、驚いたように目を瞠る。そして戸惑ったように視線を落とした後、ぽつりと名前を呟いた。その仔狐の名前は、天蓬といった。

 翌朝、頭を掻きながら外に出た捲簾は、本殿の辺りでふわふわと白い尻尾を揺らしながら座っている小さな背中を見つけた。一応朝の勤めのため竹箒を物置から取り出し、本殿の方へと向かった。草履と地面の擦れる音に、その白い耳がひくひく震える。そしてくるりと振り返ったその透ける鳶色が朝日に輝いて捲簾を見上げた。
「……おはよ」
「おはようございます。精が出ますね、六代目」
 仔狐はそう言ってふにゃふにゃと笑った。控えめな桜色の唇に、白い頬の上が薄く紅色に染まっている。目は悪戯に、そして強気にきらめいていた。本当に綺麗な顔をしている狐だ。狐が、相手の人間の好みに合わせて化けるのだとしたら頷ける。もしこんな女がいたら迫らずにおれないだろう。しかし、髪は長いが、一人称は“僕”だった。そもそもこういうものに性別があるのかどうかも分からないが。
「……っていうか、俺で六代目なの?」
「ええ、すぐに代わっちゃった時もありましたし……途中で間違っちゃったかもしれませんけど」
 微妙な返答に苦笑いをする。彼も笑って、その豊かな毛並みの白い尾を揺らした。一瞬触ってみたい、とも思ったが、流石に無礼か、と思い直してその手を止めた。座った仔狐はぷらぷらと袴の下から覗く足を揺らしている。その目はゆっくりと昇ってくる太陽を見つめているようだった。
「……朝飯は食ったのか?」
「はい。ねずみを二匹」
「……」
「冗談ですよ。僕、別に食べ物は要らないんです」
「要らない?」
「はい。お団子とかお饅頭は美味しいから食べるだけで、別に栄養は必要ないので。食べなくても死なないですし……」
 そう言ってから、徐に顔を上げた彼は即座に立ち上がった。しゃら、と彼の着物に付けられた飾りが揺れて、小さな音を立てる。そして彼は境内を真っ直ぐに走り出した。その後ろ姿は途中から曖昧に歪み、鳥居の下を駆け抜けていったのは小さな白狐だった。何か美味しそうなものでも見つけたのだろうか。一人本殿前に取り残された捲簾は、朝日の眩しさに目を眇めて、竹箒を片手に大きく溜息を吐いた。今日も綺麗な空だ。
 境内の掃き掃除をして、本殿の雑巾がけ、父からの引継ぎの雑事をこなそうと思えばいくら時間があっても足りないくらいだ。猫の手も借りたいとも思うが猫にどうこう出来ることでもない、と帳簿を前に溜息を吐いた。こういった事務系の仕事は慣れているはずが、社務所に置かれた少々古いパソコンでは効率も落ちる。今は友人に預かってもらっている自分のパソコンを持ってきて交換しようかとも思い、その友人の休暇日を思い出そうとした。仕事が一段落し、椅子の上で伸びをした捲簾は、窓から覗く青空を見上げた。夕飯の買い物にも行かねばならない。酒も必要だし、煙草のストックも要る。町の人たちに顔を見せておくのも悪くない。捲簾はペンを置いて、着物を脱ぎ始めた。気分転換に町に出てみることにしたのだ。


「あらあらあら男前ねぇ〜!」
 八百屋のおばちゃんの嬉しそうな声に、商店街の人々が驚いて振り返った。その前で苦笑いをした捲簾は、とりあえず大根とキャベツを購入する。おばちゃんは良く言えばぽっちゃり、恰幅の良い女性だった。その割にほっそりとした旦那が奥で苦笑いをしているのを見て、軽く会釈をした。
「捲簾さんって仰るのー……お父さんにも本当にお世話になったのよ」
「そうですか……」
 一緒に暮らしていた時も仕事ばかりで、それから彼と別れて生活するようになってからは年に一度くらいの手紙のやり取りしかしていない。殆ど日常生活を送っている父というものを見たことがないのだった。しかし、町の人々の評判からするに、穏やかな性格の、優しい人だったらしい。それに安堵しつつ、何だか言葉にならない微妙な気分にもなるのだった。不器用で、都会の中で生きるのが下手だった父はきっとこの穏やかで素朴な町できっと幸せだったことだろう。それはいい。しかし、自分と母と共に暮らしていた頃は大分無理をしていたのだろうと思うと、苦しくてやりきれない思いが湧き出る。
「何も引き継ぎが出来ないままで、困ったでしょう? 仕事の内容覚えるのも大変じゃない?」
「ええ、何とか少しずつ……本当に信心深くもない自分が突然来て、皆混乱されると思いますが」
「いいのよ、固くならないでもう。あ、食事とかはどうしてるの」
「あ、料理は好きなんで」
 あら珍しい、とおばちゃんは笑って物凄い力で捲簾の肩を叩いた。思わずよろけそうになってそこは男の矜持で持ち堪え、曖昧に笑った。奥で旦那が申し訳なさそうに頭を下げている。典型的な田舎のお母さんといった感じだ。お節介だが、それが心地良い。
「何か困ったことがあったら何でも訊いてね、力になるから」
 頼もしげに豊かな胸を叩いたおばちゃんに、捲簾は力なく笑った。
「ありがと、おばちゃん」

 それから魚屋、酒屋、煙草屋へと立ち寄り、その度呼び止められ立ち話をした。そして結局神社に戻れたのは烏の鳴き始める時間だった。真っ赤に染まった空を見上げながら鳥居をくぐる。すると、境内に立つ小さな背中が見えた。目を瞠った。その周りには、何十羽もの烏が羽を休めている。それは異様な光景だった。ふと、その中の一羽が捲簾に気付き、首を擡げる。それを合図にしたように、烏の大群は一斉に大きな音を立てて飛び立った。一枚二枚、羽がはらりはらりと舞い落ちる中、きょとんとした目をしていた小さな彼は、捲簾に気付いて目を見開いた。
「どこか遠くにお出掛けでしたか」
 鈴を転がしたような声が、静寂に包まれた境内に響く。何だか不思議な気分を感じつつ、捲簾は持っていた袋を掲げてみせた。
「……いいや。そこの商店街まで、色々引き止められて遅くなった」
「そうですか……」
 そう言ってから、天蓬は着物の袖を払った。そして懐から布を取り出し、地面に落ちた烏の羽を拾ってその布に包んだ。それを再び懐に仕舞い、そのまま捲簾には目もくれずに奥の林へと向かって歩いて行こうとする。その小さな背中へ向かって、捲簾は咄嗟に声をかけた。特に何を言おうとしたわけでもなかったが、咄嗟に呼び止めてしまったのだった。彼は目を瞬かせ、訝るでもなく純粋に不思議そうに振り返った。鳶の眸に夕焼けが映り込み、まるで紅の眸のようだった。
「……何ですか?」
「あー……あの、お前はどこに住んでんの?」
「この町ですけど」
「……そうじゃなくてね、……その、寝る場所とか」
 そうしどろもどろで訊ねると、彼は大きな眸を一度ぱちりと瞬かせた。
「基本的には、森です」
「どうして。この社はお前のために建てられたんだろうが」
 こんな立派な建物があるのに、どうして寒く淋しい森の中で生活するのだ。理解出来ない、というように捲簾が眉根を寄せると、天蓬はその間にゆっくりとまた、瞬きをした。何を考えているのか、全く分からない。
「……この社は町人の拠り所であって、僕のものではないんです。僕のために建てられたのは、あの祠くらいのものです」
 そう言って天蓬は、真っ直ぐに鳥居の方を指差した。その先にあるのは、あの小さな祠だ。
「……じゃあ、社務所とか」
「社務所は、この神社で神事に尽くして下さるあなたがた、宮司のためのものです」
「お前はこの町のために頑張ってるんだろ、ならそのくらい構わないはずじゃ」
 納得行かない捲簾はそう言って顔を顰めた。そんな捲簾に、天蓬は困ったように唇を尖らせて俯いた。
「森以外に、居場所なんてありません」
 そう呟くように言って、天蓬はぱっと身を翻した。白い袖が翻り、飾りが揺れて音を立てる。そしてそのまま走り出した彼は、途中で溶けるようにして仔狐に姿を変え、そのまま木々の間へと姿を消していった。遠くから烏の鳴き声が聞こえてくる中、手に持っていた袋を逆の手に持ち替える。暫く仔狐が消えた場所を見つめていたが、徐にゆるゆると頭を振った。そして背を向けて社務所へ向かって歩いてゆく。
 全く、気難しくてよく分からない奴だ。










まだちょっと半端ですね。