「おいで」
 そう囁くと、伸びやかな白い姿態はぴくりと動いて、強い光を据えた榛の眸が自分を映した。差し伸べた手に白い頬が摺り寄せ、そろりそろりと差し出された紅い舌がちろりと男の掌を舐める。そして伏し目だった眸が男の様子を窺うようにちらりと上げられる。濃いカラメルの色をした目が、何を求めているのかよく分からない眸で男を見上げてくる。男はそれを見て、伸ばしたままだった手をそっとその頭に乗せて、優しく撫でてやった。柔らかい、眸によく似た色の毛は男の指に逆らわずにさらりと流れる。大人しく暫くそれを受け入れていたが、頬にその毛が触れてくすぐったかったのか、猫はその頬を男の掌に擦りつけてきた。
 男は毎朝、手ずからペットに餌を与える。小さくパンを千切っては与え、大ぶりなスプーンにスープを掬っては零さないように口に近付けた。床に大人しく座ったペットはそれを素直に口にして、最後にぺろりと男の掌を舐めた。それを見て、男は静かにその額に口付ける。くすぐったそうに榛の眸を細めてから、ペットはそっと微笑んだ。そして男はその頭を撫でてやる。心地良さそうに吐息を一つ、ペットはゆったりと男の膝に凭れた。黒い毛並みをそっと撫でればそのまま眠りに入るようにその目は伏せられた。
 男が家を出る時、ペットは大人しく後ろについて来る。そして、ドアが閉まるそのほんの僅かな瞬間、小さく手を振るのである。そして夜、男が仕事から帰ってくると、お気に入りのソファに寝そべったまま半身を起こし、嬉しそうにほわりと頬を緩めるのだった。



 八戒は非常に困惑していた。同僚が本を貸してくれるというので会社帰りに初めてその家を訪れたらば、リビングのソファには風呂上がりと思しき綺麗な顔をした青年が薄着のままでくったりと寝そべっていた。そのどこか無邪気な目が何か楽しいものを見つけた猫のようにきらめいて、八戒を見上げたのである。紹介を待ってか、その熱い目はじっとその家の主である同僚に向けられた。しかし彼はその青年の頭をよしよしと撫でただけで、何も言わずにネクタイを外しながら奥の部屋(恐らく自室だろう)に入っていってしまった。途端に青年はつまらなさそうに頬を膨れさせ、少し傷付いたような目で八戒を見つめた。更に困惑した。何も話すことも出来ないまま、同僚が部屋に戻るのを待つ。その間、その一対の眸は八戒に向けられたままである。
「あの、捲簾」
「ん? ……あー、あった。これだろ」
 八戒の戸惑いには気付いているだろうに、ネクタイや上着を脱いでから戻ってきた彼は素っ気ない返事をした。そして約束していた本をマガジンラックから無造作に抜き出して八戒の方に突き出す。確かにそれは八戒が読みたかったそれで、帰ってくる道中に約束していた通り、夕飯をご馳走になりながらでも少し目を通したいと思っていた。しかし今、目の前には予想だにしなかった光景が広がっている。ワイシャツのボタンを上から二つ開け、テーブルに丸めて置かれていたバスタオルを大きく広げた。
「あの……お友達ですか?」
 恐る恐る八戒が訊ねると、こちらに顔も向けないままで彼は緩く首を振った。
「いいや」
 捲簾は濡れたままの青年の頭に手にしていたタオルを被せながら否定した。青年は大人しく彼に頭を拭かれながら、その感触に心地良さげに目を細めている。否定するだけで答えを言わないのはずるいと思った。皆までこちらに言わせる気なのか。しかしほぼ答えは見えていた。こんな光景でいておかしくない答えは二つ。家族か、恋人かだ。しかし家族にしては似なさ過ぎる。そして彼の態度がどうも素っ気なさ過ぎる。それに、本当にそうならば隠す理由が見当たらないではないか。今まで自分は、彼が極普通のストレートの男だと思っていた。しかし自分はただの同僚であって、きっと彼には自分の知らない面がいくつもあるだろう。たとえば彼の性癖が特殊なものであるだとか。勿論大きな驚きではあった。しかしそれが、答えではないだろうか。八戒は抗いがたい興味と危機感の間で揺れていたが、思い切ってその躊躇いを振り切り、口を開いた。
「ええと……それじゃあもしかして」
「ペット」
「は」
「拾ったんだよ」
 そして青年の頭からタオルが取り払われた。艶のある黒髪の下から、無邪気な濃茶の眸が覗く。それはまさにペットのそれだった。
 静かに微笑んだ目が、主人に褒めてもらいたがるペットのように捲簾を見上げた。捲簾の手が優しく青年の頭を撫でる。
 本を持った手が汗ばんでいた。それは異常な光景だった。今まで会社で接していて、極普通の強く優しく正義感の強い、少々女癖の悪い男だと思っていたから尚更その混乱は悪化した。あまりに倒錯的だ。夢を見ている気がした。青年は確かに綺麗だった。その美しさは人形のようであり、しかしその無邪気な目や表情はころころと主人の周りを駆け回るペットのそれ、そのものだ。
 捲簾は青年の頭を撫でながら、笑って顔を上げた。それは、会社で見る快活な笑顔と何一つ変わりはなかった。
「どうした」
「ちょ……ちょっと!」
 八戒はもう黙ってはいられなくて、とりあえず捲簾をその青年から引き剥がして、その腕を引きキッチンへと入った。そしてあの純粋な視線から逃れられる場所にまで行ってから八戒は視線を強くした。すると彼は何故そんな目で見られるのかというように目を瞬かせた。
「あ、あなた、よく考えて下さい! その辺から捨てられた猫を拾ってくるのと勝手に人を家に連れてくるのは話が違うんです! 分かりますか、あなたがやっていることは誘拐で、拉致監禁だって!」
 強い語調で責め立てる八戒に、捲簾は驚いたように目を見開いた。しかし暫くしてその口元には笑みがじわりじわりと広がり始めた。そして腕を組んだ彼が笑い出すと、先程まで優位だった八戒は急に圧され、形勢はすっかり逆転していた。にやにやと浮かべられた笑みがどうにもきまり悪くて、軽く肩を窄める。言いたいことがあるなら早く言え、と顎をしゃくってみせると、彼は更に笑った。
「あのなぁ……大の大人が鎖で繋がれてるわけでもないのに何で逃げられないんだ。無理矢理に拉致監禁されてる奴がゆったり風呂に入って、その犯人に黙って頭を拭かせるのか?」
 八戒は言葉に詰まる。確かにそうだ。無理矢理に連れて来られて監禁されているような人間が、あんな目で加害者を見るわけがない。今この時間だって捲簾は八戒と共にいなくなっているのだから彼が逃げ出す時間は十分にある。それでも、そっとリビングにいる彼の様子を窺ってみると、彼はソファの上で膝を抱えながら小さく欠伸をしているだけだった。そして眠いのか、目を手の甲で擦っている。再び捲簾に向き直った八戒は、不思議な気分を持て余していた。それでは、彼は本当にペットだというのか。
「……働いているんですか、彼」
「さあな。だけど確実に日中は外出してるだろうな。俺が帰るまでには家に戻ってるけど」
 青年は自由に外出が出来る。それでも夜になるとこの家に帰ってくるのだ。そして八戒の頭には一つの疑問が生まれた。
「それって、ただの同居ではないんですか?」
「違うな。あいつは家の主じゃない。俺に飼われてるだけだ」
 人間に対して『飼う』と、あっさり言ってのけた捲簾に、八戒は無意識に狂気を探った。しかしその表情も声も穏やかで普段とまるで変わりはない。その異常なまでの冷静さが逆に狂気を滲ませているように思えた。一瞬怯えを覚えると、それを察したのか彼は困ったように笑い、頭を掻いた。その表情にも仕草にも悪びれる様子は全くない。段々と八戒にもその行為が悪なのかどうかが分からなくなってくる。
「まあ何か作るから本でも読んでろよ」
 そうして八戒はリビングに戻される。背後からは水の音や戸棚を開ける音が聞こえてくる。ソファで小さくなっていた青年は、八戒が戻ってきたことに気付いて顔を上げた。その目はやはり、遊び相手を見つけたペットのようである。最早疑う余地はなかった。

「ここ、いいですか」
 すっかり捲簾は料理を始めてしまった。キッチンとリビングの間で立ち尽くしていた八戒は、いつまでもこうしているわけにはいかないとリビングへと入っていった。そして彼の座っているソファの向かい側を指差して言うと、青年はにっこりと微笑んで頷いた。手にしていた本をテーブルに置き、ソファに腰掛ける。ソファの上でじっと膝を抱えていた彼は足を床に下ろし、静かに微笑みながら何も言わず八戒を見つめている。訊ねてみたいことは沢山あった。しかしどこまで訊いていいのか分からなくて、口を一つ開くのにも戸惑ってしまう。そうして八戒がつい視線を泳がせていると、彼は徐々に不安そうに表情を悲しげにして首を傾げた。ついその仕草に昔飼っていた猫のことを思い出してしまい、慌てて八戒はそれを頭から掻き消した。
「あの、お名前は、何て仰るんですか」
 彼は目を瞬かせ、悲しげだった表情を少し緩めた。そして自分の名前を『テンポウ』だと言った。澄んだ、穏やかな声だった。
「……それって、捲簾も知ってるんですよね?」
「知らないと思います、教えてませんから。僕も、あの人の名前をさっき初めて知りました」
 さっき、というのは先程八戒が彼の名前を呼んだ時のことだろう。しかも口頭だから彼が名前を聞き間違えている可能性もある。
 彼の眸はきらきらと輝いて、八戒の方をじっと見つめている。こちらに興味津々なのがよく分かるその視線が少しくすぐったくて堪らなくなって、笑って誤魔化すしかなくなった。八戒が笑うと、テンポウは静かに笑って目を細める。つい手を伸ばしたくなった。彼の頭を撫でたくなる、捲簾の気持ちが少しだけ分かった気がした。
「お仕事なさってるんですか?」
 そう訊ねると、一瞬彼は目を瞠り、すぐに悪戯っぽい表情になった。そして内緒の話をするように口元に人差し指を立ててみせた。
「ええ。一応彼が先に出るのを見送ってから家を出て、仕事が終わったら帰ってきます」
「……」
 どうして帰ってくるんですか。そう訊こうとして、流石にデリカシーがないと八戒はその疑問を飲み込んだ。踏み込める場所ではない。容易に、踏み込んではならない気がしたのだ。今日まで名前も知らなかった相手の家にあんなにもリラックスした状態でいる。その状態はとてもではないが普通とは思えなかった。それなのに当事者は二人とも穏やかすぎるほどに穏やかなのだ。まるで慌てている自分の方がおかしいかのようである。頭が混乱してきた。何か良くないものに染まってしまいそうで怖くなる。
「帰巣本能が、あるんですよ。ペットですからね」
 テンポウは、八戒の心を読んだかのようにそう言ってにっこりと微笑んだ。八戒は返す言葉もなく、ただ黙っていることしか出来なかった。
 テンポウの行動は、本当に猫のようだった。欠伸をして伸びをして、手の甲で顔を擦る。そうして少し涙の浮かんだ目で八戒を見た。濡れて艶を持った榛色が妙に蠱惑的である。捲簾もこれに惹かれて、彼を連れ帰って(彼の言葉を借りるならば『拾って』)きたのではないだろうか。それは分かっても、そこに至った要因は全く想像することが出来なかった。そのままぼんやりと彼の様子を眺めていると、徐々に彼はそわそわし始めた。何かこれから楽しいことでも待ち構えているかのようだ。
「僕も何か訊いてもいいですか?」
「え? ああ、何でもどうぞ」
 八戒がそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。そして仕事のこと、趣味のこと、果ては今日あった出来事のことまで何でも興味深げに訊いてきた。その都度丁寧に八戒が答えてやると、彼はじっと話に聞き入っていた。不思議だった。まるで彼が外界のことなど何も知らないかのような錯覚に陥るのだ。まるで、本当に家の中だけで飼われ、一度も外に出してもらったことのない猫のような。
「……そういえば、テンポウさんは捲簾の前で何も話しませんよね」
 話題を逸らすために咄嗟に口にしたはずの疑問だったが、口にしてしまってからよく考えるとそれも本当に不思議だった。彼は捲簾の前では頷いたり表情で訴えたりするばかりで一切口を利こうとしなかったのだ。それがますます、捲簾の話す『ペット』の話の信憑性を高めていたといっても過言ではない。八戒の問い掛けに暫く目を瞬かせていた彼は、ゆるりと視線を室内に巡らせてから小さく嘆息した。
「初めての夜に約束したんです。必要以上に口を利かないと」
「そんな、それじゃまるで……」
 咄嗟に言いかけた言葉が、自分が信じられなくて八戒は口を噤んだ。テンポウはそれを見つめながら静かに微笑んでいる。
 ペットなのだ。彼は、紛う方ない、捲簾のペットだった。




「おいで」
 眠たそうな目でソファに横たわっていた彼は、その呼びかけにもぞもぞと立ち上がった。そして捲簾の座るソファの前にぺたりと座り込み、じっとその脚の間から捲簾の顔を見上げる。柔らかい髪を撫でるとその眠そうな目はますます細まり、我慢し切れなくなったように頭を捲簾の膝に凭れ掛けさせた。彼の顔の横に手を添えて、眼鏡を外す。黒縁の、飾りっ気のないそれをテーブルに畳んで置き、そっとそのままその手を彼の頭の上に載せた。可愛くて従順な飼い猫。初めの頃なら、そのことに違和感など感じようもなかった。

「っ、ん……!」
 優しくその頬を掌で撫でる。そして口元を押さえて懸命に声を堪えている手を引き剥がしてソファに押し付ける。薄く涙を浮かべた目は頼りなさげに捲簾を見上げ、時折少し苦しげに細められた。押さえ込んでいる手の下から僅かな抵抗を感じて顔を顰める。自分から逃げようとするその行為に自然と苦い思いが胸に広がる。
「縛られたいのか」
 押さえ込む手に力を込めて彼の手首を更に締め付けると、痛みに彼は顔を歪めた。このまま力を込め続ければ骨折とはいかずとも捻挫してしまうだろう。そのことにやっと思い至って、我に返り慌てて手を離す。白い彼の手首には薄っすらと赤い手跡が残っており、眺めているとそれはじわじわと赤味を増していった。その痛々しい赤色に興奮していることが信じられなくて、しかし否定することも出来なかった。彼の下肢の間に飲み込ませた陰茎を緩く抜き出し、突き入れる。くぷりと濡れた音と共に怯えたようにその身体は震え、その唇からは高い艶声が上がった。普段、彼の声を聴くことはない。口を利いたのは彼を連れて来た日、もとい彼と初めて会話をした日、それだけだ。静かで、涼やかな声をしていた。しかし自分が普段口を利かないことを約束させたため、それをまともに聴いた試しはない。耳にするとすればこの甘い声くらいのものだった。
 何故彼の口を封じたのだっただろうか。一目見て、彼の聡明さを感じた。初めてその目が自分を見上げた時、全てを見抜かれそうでぞっとしたのを覚えている。だから彼が何か発言するのが怖かった。自分の真意を突く言葉を口にされるのが嫌だったのだ。愚かなことである。そのせいで、それだけの理由で彼の声を聴くことは叶わない。
「っ……ァあ、ぁ、あああ! う…………ん、はぅ」
 自らの体液で下腹部をしっとりと濡らして彼は果て、ふるふると身体を震わせながら呼吸を整えている。仰け反り、露わになっていた喉元に噛み付くと、慌てたように彼は顔を上げた。再び腰を揺らし始めると、その顔は快感と怯えの綯い交ぜになった感情でまるで泣き出す寸前のような表情になる。よくないと分かっていた。こんなことを続けてはならないと分かっていた。しかし手に入れた野良猫は非常に巧みに自分を惹き付けた。毎夜こんな風に鳴いては泣かされる癖に彼は逃げようとしない。逃げてくれれば、自分の追うことの出来ない場所まで逃げてくれればいいのにと相手に全てを依存している。自分から突き放すことが出来ないからだ。そもそも突き放す気がないのだ、本当ならばこの場に鎖で繋ぎ止めておきたいとすら考えている。外の世界を知らない家猫のようにずっとここにいればいい。
 そうして名前も知らないこの人間にこんなにも固執している。不可思議なことだった。

 行為の後、彼はすっかり大人しくなる。くったりと横になっている身体を抱え上げてバスルームへ向かう。そして自分はパンツの裾を膝まで捲り上げた姿で入り、バスタブに溜めたたっぷりの湯に彼を浸からせるのだ。それが毎日の習慣だった。彼の少し長い髪を丁寧に泡立てて洗う。一体何のために、と思わなくもない。しかし飼い主の義務だった。洗われたその頭に湯を掛けて流すと濡れた黒は更に艶を増す。軽くマッサージするように洗ってから、顔にへばりついていた髪を上に掻き上げてやる。すると彼は静かに顔を上げて、ぷるぷると首を左右に振った。水飛沫が顔に掛かって反射的に捲簾が顔を顰めると、僅かに彼は表情をきまり悪げにして肩を窄めた。それを見て笑うと、彼もまた安堵したように表情を緩めるのだ。
 いつからこんな生活を続けていただろう。始まりの日が思い出せない。始まりの日は、彼を初めて見た日ではなかった。
 始まりの日の、半月程前。駅からの帰り道には、寂れた小さな喫茶店があった。その喫茶店の営業は不定期で、昼間だというのに閉めていたり夜中でも普通に開いていたりする。そんな喫茶店の窓辺の席に、一人の男を見かけるようになったのだ。本を読んでいたり、ノートパソコンを開いていたり、頬杖をついたまま眠っていることもあった。いつからか毎日その前を通る時にはその姿を探すようになった。なるべくその店の前を通る帰り道を選ぶようになった。その店が閉まっていたり、窓辺のいつもの席にその姿が見つからない日には僅かに落胆する自分に気付くようになった。名前も素性も知らぬ、ただの一人の、綺麗な顔をした男のために。
 始まりの日は、雨だった。静かにしとしとと降り頻る雨を黒い傘で受けて、家路を急いでいた。それでも視線は無意識にいつもの喫茶店に向かう。喫茶店の窓は暗闇を映していた。今日は閉まっているのだ。そう思いながらその喫茶店の前を通り過ぎようとした。その瞬間、目の端を黒い塊が掠めた。反射的に足が止まる。そして暗闇に目を凝らした。
 雨の中、身を隠すようにして縮こまった捨て猫だった。喫茶店の軒先に小さくなってしゃがみ込み、顔を俯けている。間違いなかった。暫く、立ち尽くしてその姿を見つめていた。そしてふと、視界に入った白いものに意識を引き戻される。目に入ったのは、喫茶店のドアに張られた白い紙だった。それは一見して分かる、閉店の知らせだった。それを見てから再びしゃがみ込んだ男を見下ろすと、それはまるで帰る家を失った飼い猫のように思えた。
 暫くして、漸く自分の前に立ち尽くす存在に気付いたのか、男は顔を上げた。見間違うはずもない、あの男だった。綺麗な顔に、不釣り合いな地味な黒縁の眼鏡。いつからここでこうしていたのだろう。顔は薄っすらと青白いように見えた。街灯のせいだろうか。
「あんた、いつもここにいるな」
 何も考えずに話しかけてしまってから、ふとまずかっただろうかと口を噤んだ。自分が彼を見ていたのは一方的なことだ。彼は自分が見ていたことを知らない。不審に思われても仕方のないことだった。しかし、彼は静かに二度瞬きをした後俯いて、呟いた。それは雨音に掻き消されてしまいそうな声量で、それでも雑音を裂くように澄んだ声だった。
「居場所だったんです」
「家は。あるんだろ」
「家は嫌です」
 そう小さく呟いて、彼は首を横に振った。この様子では結婚をしているようでも、子供がいるようでもない。家が誰にとっても寛げる場所というわけではないのは分かっている。一人であれ家族と一緒であれ、彼にとっては家という場所が寛げる、安息の場所でないことは確かだった。彼には帰る場所がない。地面に小さくなって座り込んだまま、彼は再び口を噤んでしまった。物憂げに伏せられた瞼には影が掛かって、更にその陰鬱さを増している。傘を持った手が震えているような気がした。寒いせいではない。過ぎた興奮と僅かな恐怖のせいだった。縮こまったその塊に向かって一歩踏み出すと、それはしゃがみ込んだまま一瞬怯えたように肩を震わせた。磨かれた革靴の上で、一際大きな雨粒が弾けた。
「……うちに来るか」
 ゆっくりと上げられた眸が夢でも見ているようにゆっくりと瞬いて、突然瞠られた。そしてその目は戸惑ったように、訝るように捲簾を見上 げた。 その目に向かって、左手を差し出す。男の眸は、捲簾の顔と手とを交互に見つめ、再び困ったように顔を見上げてきた。その目一杯に自分が映っていることに言い知れない満足感を得る。そんな風に怯えたように小さくならなくてもいい場所を、自分はきっと与えられるはずだった。
「拾ってやる」
 驚きに見開かれた眸は、暫くじっと捲簾の掌を見つめていた。それはどれくらいの長さだっただろう。自分が諦めかけるほどの長さだったことには違いない。諦め、手を引こうとした瞬間、その目は縋るように捲簾を見上げた。それに思わず引きかけた手を止めると、おずおずと伸ばされたその手は、そっと捲簾の掌に載せられた。冷たい手だった。一体いつからこうしていたのだろう。こんなに、冷たくなって凍えてしまうまで。そのすらりとした手を握る。一瞬その指先は驚いたように跳ね、しかし徐々に弛緩していった。その手を引いて立ち上がらせる。そして地面に落ちていた鞄を拾わせて、自分の差す傘の下へと引き入れた。立ち上がった彼は思った以上に上背があった。しかし自分より視線が少し下だ。俯いた視線は長い睫毛に縁取られ、下に向けられたまま上げられることはない。収まりきらなかった彼の左肩に降り頻る雨が叩きつける。それを見るのが嫌で、捲簾は傘を手放した。そしてその傘を、彼の掌に握り込ませる。不思議そうに自分を見上げる眸に、顎をしゃくってみせて前に進むように促した。戸惑ったように暫く捲簾を見つめていた目は、ゆっくりと伏せられる。そして彼はゆっくりと歩き始めた。捲簾の肩が濡れていくのを、時折彼は気遣うように振り返る。しかし捲簾は、目を合わせないままでいた。
 誰が聞いても顔を顰めるような始まりだったということは否定出来ない。出来ることならばもっと真っ当な始まり方をしたかった。しかしそれは既に遅いのだ。一度始まってしまったものは加速を続け、二度とやりなおすことは出来ない。行くところまで行き、壊れてしまうだけだ。そしてその妙な始まり方は、もうおかしな方向へと向かってしまった。真っ当な道を外れ、どんどんおかしな道へ入っていく。そしていずれ、壊れて終わってしまうのだ。その終わりは案外早そうだと不安に思うのは、決して今に始まったことではない。
 いつか終わることだ。こんなおかしな関係が続いてなるものか。彼がもっといい“家”を見つけたら、彼はきっとふらりと出ていってしまう。

 彼の身体を洗い終え、脱衣所でタオルで身体を拭かせてから服を着せる。そして彼が先に一人でリビングへ向かうのを見送ってから自分のシャツを脱ぎ捨てた。バスタブの湯を抜いて、シャワーを浴びる。バスタブに入った人間の髪を洗うのは容易ではない。いつもバスタブにシャンプーの泡が入り込んでしまい、入れるような状態では残らないのである。髪を洗い、身体を洗ってから軽くバスタブの中を洗い、カランを閉めてバスルームを出た。外の空気は濡れた肌に僅かに冷たい。手早く着替えを終えて脱衣所を出た捲簾は、そのままリビングへ向かおうとした。しかしその途中、目に付いた寝室のドアが閉まり切っておらず、中から光が漏れていることに気付く。確か、風呂に入る前には閉まっていた。それに電気を点けた覚えもない。一瞬訝しく思い、しかしすぐに合点が行った。リビングへ向かうのを止めてそのまま足を寝室へと向ける。僅かに開いていたドアを静かに開け、中を覗き込む。部屋の床にはバスタオルが一枚落ちていて、その奥にあるベッドは、毛布の中央が人一人分ぽっこりと膨らんでいた。それが、誰かが部屋に入ってきたのに気付いたのか小さく動く。そして毛布の端から黒い頭がひょっこりと現れた。
「もう眠いのか?」
 そう問い掛ければ、その目はぱちりと一度瞬いて、そうだと告げてくる。それに溜息を吐くと、彼は叱られると思ったか僅かに身構えたようだった。そんな様子に少し笑い、寝室に一旦背を向ける。そしてリビングに戻り、電気を落としてから再び寝室に戻った。じっとそのままの格好でいた彼は、不思議そうに静かに捲簾を見つめている。ドアを閉め、ベッドの方へと向かってくる捲簾に身を固くしている。それを安心させるように頭を一度撫で、毛布を捲り上げた。その隙間から身体を滑りこませ、彼の横へ身体を落ち着けた。もぞもぞと暫く身動ぎしていた彼もまた、枕に頭を寄せてからやっと安心したように動くのを止めた。そして一枚布越しにある温度を抱き寄せて、その頭に頬を寄せる。自分と同じ、石鹸の匂いがした。
 手探りでサイドテーブルのリモコンを取り、部屋の電気をオフにする。緩やかに部屋の明かりが暗くなっていくのを確認して、リモコンを元の場所に戻した。そして再び腕を布団の中に入れ、丸められた彼の背中に載せた。彼の身体は呼吸をするたびに小さく上下している。
 思えば、手に入れたのは虚しさだけだった。この温かさもいつか思い出せばただの終わってしまった過去に過ぎない。どうしていつか消えてしまうようなものを手に入れてしまったのだろう。いつまでも、ずっと傍にあってくれるのならばもっと優しく出来たのに。
 まだ僅かに濡れたままの彼の髪を梳いた。まだ起きているだろうか。もう眠ってしまっているだろうか。俄かに心臓の鼓動が速くなった。言わなければならなくて、しかし言いたくなかった言葉だった。言わなければならないのは彼のため、言いたくないのは自分の都合。しかしこれからもずっと、自分の都合ばかり考えて彼を縛りつけていくわけにはいかなかった。
「明日、お前を捨てるから」
 彼の呼吸は乱れない。きっともう眠っているのだ。自分の馬鹿な独り言など、もう聞いてはいないはずだ。そう思うとふと呼吸が楽になった気がした。
「だからもう……明日から、帰ってこなくて、いい」
 最後の音まで発音し終えて、唇を噛んだ。彼は全く反応をしない。暫くその様子を息を殺しながら見つめていた。どうか聴いていないようにと願いを込めて。暫くそのまま、彼の寝顔を見下ろしていた。それでも、彼の反応はない。ぷつりと緊張の糸が切れたように、身体から力が抜ける。きっともう眠っている。きっと楽しい夢を見ているのだ。そう思って、自らも眠りに身を任せようと目を閉じようとした。その瞬間、目の前の彼の瞼がゆっくりと押し上げられた。息を呑む。静かなその目は何を思っているのか全く分からない。しかしその彼の顔は、ゆっくりと二度瞬きをした後、静かに一度上下をした。そして『分かった』とでも言うように再び二度瞬きをして、その瞼は再び閉ざされた。ひょっとしたらあの榛色をした眸を見ることが出来るのは、今が最後だったのかもしれない。しかし部屋は暗くて、もうその色は判別出来なかった。彼はすっかり眠ってしまったように目を閉ざし、身体は呼吸の度に静かに動いていた。
 彼は主人の最後の命令を聞いていた。そしてそれを承諾して、頷いた。可愛くて従順な飼い猫。決して命令に逆らうことはしないだろう。もう、明日から彼は帰って来ない。二度とリビングのソファの上で出迎えてくれるようなことはない。もう二度と。

 朝目が覚めると、ベッドの右半分が空いていた。布団は捲れることもなく、きちんと捲簾の身体に掛けてある。手探りで、隣の開いた部分の温度を確かめる。その布団はすっかり冷え、何かがそこにあった証拠を残してはいない。ベッドを出てリビングに向かう。テーブルの上には、ここにいる間彼に貸していた衣類一式が、きちんと畳まれて置かれていた。一番上に置かれたシャツを持ち上げて鼻を近づける。彼の身体はいつも、消しきれない甘い煙草の匂いがしていた。それがシャツにも染み込んでいたのだ。いつもなら毎朝それを躊躇いなく無造作に洗濯機へ投げ入れていくのに、今日はそれが出来なかった。温度はさっさと消えてしまった。匂いまでも消えてしまったら、もうこの家のどこにも彼がいた証明は残らない気がしたからだ。
 いつも捲簾が家の鍵を掛けているホワイトボードのフックからは鍵が消えていて、玄関のドアには鍵が掛かっていた。その鍵はそのまま新聞受けから家の中に投げ入れられていて、鍵につけられているカラータグと共に床に転がっていた。その鍵を拾い上げた途端言い様のない孤独感に襲われて、鍵を掌に握り込んだままずるずると玄関にしゃがみ込んだ。いつもなら笑顔でするする近付いてくる彼がいない。食事も今日からは一人、寝るのも一人だ。今までならそんなことは当たり前のことだった。
 リビングの端にいつも存在していた、彼と外界を繋いでいた革の鞄もなくなっていた。あれを手にした瞬間、彼はペットではなくただ一人の男となる。そして今日もいつもと同じように、始まりの日と同じスーツを身に付けて一人でひっそり家を出て行ったのだろう。
 名前も知らない一人の男。一体どんな顔で出ていったのだろう。何か言いたいことはなかったのだろうか。
 一人で朝食を摂り、誰も見送る者のない家を出て出社する。ドアを閉める瞬間、いつもなら笑って手を振る彼の顔が見えるのに。
 朝にロビーで会った女子社員に疲れているのかと問われた。どうやら相当疲弊しているように見えるらしい。疲弊なんてとんでもない。彼がいなくなって却って負担がなくなったくらいだというのに、どうして疲れるようなことがあるのだ。笑って彼女をはぐらかすと、彼女もまたあっさりとその笑顔に騙されてくれた。いつもと同じく、しかしいつもよりはゆっくりと仕事を進める。今日からは必ずしも定時に帰らなくてもいいのだ。もう待つ者はいない。以前のような、多少不健全な生活を送っても構わないのだ。夜通し飲もうと、一晩だけの相手を引っ掛けて連れ帰ろうと、咎める者はないのだから。今までの二倍の洗濯や食事作りも、家で待つ者を思い浮かべては急いで仕事を進めることも、今考えれば楽しいことのように思えた。

「お昼に行かないんですか? 捲簾」
「……あ?」
 上の空でぼんやりとパソコンのディスプレイを眺めていた捲簾は、背後から突然声を掛けられて急に現実に引き戻された。聴覚が戻ってきて、耳からはざわざわと騒がしい音が次々に入ってくる。機械音や人の話し声、足音、電話のコール音、どれもこれも無機質で耳障りだ。腕を上げて時計に目をやれば、もういつもなら昼食を摂る時間だ。顔を顰めてこめかみを押し揉みながら振り返ると、自分を呼び戻した張本人、同僚の八戒が仁王立ちしていた。決して悪い男ではない、しかしその本物か偽物か計りかねる笑顔が胡散臭くて、時折不快でもある。今のように体調が万全でない時であれば尚更その笑顔が気に障った。なるべく彼と目を合わせないようにしながら立ち上がり、一度大きく伸びをする。そして彼と連れ立って社食へ向かって歩き出した。早足で歩く捲簾を追って、八戒は半歩後ろを話しながらついてくる。
「お前は何でまだここにいるんだ」
「いえ、捲簾と話がしたいと思って。テンポウさんのことですよ」
 聞き覚えのない名前に、半歩前を歩いていた捲簾は眉根を寄せて八戒を振り返る。取引先かどこかの担当者名だっただろうか。
「……誰だっけ、どこの会社の人?」
 そう訊ねると、一瞬目を見開いた彼は次の瞬間笑い出した。笑われる理由の思い当たらない捲簾はますます不快になる。いちいち人の神経を逆撫でするのが好きな男だ。しかし明らかに捲簾が不機嫌になったことに気付いたのかその笑いを収め、困ったように首を傾げる。そしてそのまま何か重大なことに思い至ったかのように目を瞠った。
「あ……」
「何だ」
「え、いえ、何でも」
「そっちから話振ってきて煮え切らねえ反応するんじゃねえよ」
 あからさまに刺々しい捲簾の返事に、八戒もまた少しムッとしたように顔を顰めた。そして不満げに唇を曲げて、それでも口を開いた。
「僕が言っちゃったって内緒ですよ。……あなたの『ペット』の彼の名前です」
 一瞬言葉に詰まる。何と返せばいいのか迷ったのだ。今の口振りでは、八戒は自分が彼の名前を知らなかったことを知っているのだ。ならば意地を張る必要はない。しかし自分の知らぬことを、一度しか顔を合わせたことのないはずの八戒が知っていたということが苦かった。しかも、もう彼が自分の手の内を離れてしまってから、知る羽目になるだなんて何たる皮肉だろう。隣を歩く八戒は、捲簾の苦悩も知らずに一人楽しそうに話を続けている。最初はあんなにも動転していたのに、今ではもう彼を『ペット』と呼ぶことにもそう躊躇いを持っていないらしい八戒は、割と順応能力が高いようだ。会話の内容が明らかにおかしいことに、気付いていないのだろうか。
「彼ってあの家では殆ど話さないですけど、本当は結構頭良さそうですよね。案外、外では結構しっかりした役職についてたりして」
「かもな」
 外での彼のことなど一切知らない。
「元気ですか? 彼」
 笑って、無邪気にそう言う八戒をちらりと横目に見て、苦く笑った。
「さあな」
「え?」
「あいつはもう帰って来ない」
「……どうして」
「俺が捨てたから」
 言葉にすれば何と身勝手なことだ。自分の都合で拾って、『彼のため』という言い訳の元に自分の都合で彼を捨てた。彼は今夜どこで夜を明かすのだろう。一人ぼっちの家に帰るのだろうか。それともあの日のように、誰かに拾われていくだろうか。どちらにしても、自分の手を離れてしまった以上、もうどうこう言っても意味はない。手放したくなかったというのが、本音だ。しかしそれを彼自身が望むかどうかを訊けなくて、結果一方的に突き放す形になってしまった。なのに手放してしまってからこんなにも後悔している。それでも、あの夜に始まってしまった過ちに終止符を打つことに成功した。もっと巧いやりようがあっただろうに、どうしてあんな短絡的な方法を選んだのだろう。
 本当はあのままでいるのが辛かったのだ。手に入れたと言ってはみても、自分の知っている彼はほんの一部。黙って主人の言うことだけを聞く従順な飼い猫。きっと彼にはもっと他の生活がある。自分が仕事でいない間、彼もまた外で自分の知らない誰かと全く別の生活を営んでいるのだ。そこでの彼はどんな表情をするのか、どんな話し方をするのか。自分はそれを何ひとつ知らない。今までの生活を続けていたら、きっといつまでもそれを知ることは出来ないままだ。彼との接点を切ったら再びやり直せるわけではなかったけれど、いつまでも狂ったままの歯車を回し続けることは困難だった。
 隣を歩く八戒は暫く沈黙していた。しかし、それでも言葉を選ぶようにしながら小さな声を出した。
「よかったんですか」
 本当に、この男は頭が良過ぎて嫌になる。一体あの一度きりの面会でどこまで察したのだろうか。自分の彼への執着も、どろどろした感情も全て彼は見透かしているのではないかと思えてしまう。気恥ずかしいと思う反面、ならば気を遣う必要もないと思えてしまう。
「……いいわけねえだろ」
 もしかしたら今日帰っても、彼はまた家にいるのではないかと思ってしまう愚かな期待も、思い返すこれまでの生活も、何もかもが苦くて堪らない。一度も手に入れられなかったものならばこんなに悔しくもならない。なのに、一旦手に落ちたはずのものを失った痛みはそれを上回った。しかも、それが自分の責任だというのだから、その痛みは自己嫌悪を纏って倍増した。
 求めるものが増えすぎたせいだ。最初は、その存在を傍に置くだけで満足していたのに、すぐにそれでは足りなくなってしまった。
 暫くして、八戒がぽつりと「馬鹿ですね」と呟いた。「全くだ」と返すと、彼はそれを批難するように少しだけ唇を尖らせた。
 テンポウ。
 今の今まで知らぬままだったその名は、彼によく似合っているように思えた。

 彼のいない日々は案外穏やかに過ぎていった。大きな変化があるわけではない。ただ作る食事の量が減ることだけ。寝て起きて食事をして仕事をして、時折遊んではめを外す。何ら変わりない生活だ。時々ふと広いベッドの左半分が空いていることに気付いて、酷い虚脱感に襲われることはあった。毎夜隣にあった体温が、急に恋しくて堪らなくなる。そしてそれを、女に求めるようになった。度を越えた女遊びは昔からのことで、自分としてはおかしなことではない。彼を得ていた期間だけ途切れていたその性癖が戻ってきただけだ。抱いた女の身体は柔らかくて温かいのに、心のどこかはそれを否定して拒絶する。彼にしていたように、隣に眠る身体を抱きしめてみるのに、その温度も柔らかさもまるで違う。あれでなければもう満足出来ないことに気付きながら、気付いてしまったらもう自分は一人ではいられないような気がして、意図的に目を逸らし続けていた。
 欲しくても手に入らないものならいっそなくなってしまえばいいなんて、子供の思考だと思っていたのに。






 もし彼が自分を拒絶したら、与えられた熱を抱いて、風のように消えるつもりでいた。いつか終わりが来ることは既に予測済みで、幾らでもイメージトレーニングをする時間はあったのだった。どんな言葉で、どんな表情で決別を言い渡されたとしても取り乱さぬように、自分に言い聞かせる時間があった。その甲斐あって、彼の前では冷静な姿を保つことが出来た。しかし次の日目覚めて、太陽の下でまた彼と顔を合わせるのが苦痛で、挨拶もすることなく家を出た。きっとそれが一番いい別れだったのだ。彼は自分が口を利くことを望まなかった。常に従順であることを求めた。ならば、あれでよかったのだ。何も言わず、ふらりと家を後にする。きっと彼も自分ともう顔を合わせずに済んで安堵したに違いないのだから。取り乱して彼に縋ってしまうくらいなら、これが最も良い形だったのである。
 少しの間、自分を受け入れてくれる場所は幾らでもあった。でもそのどれもが、いつかは自分を突き放した。いつまでも自分を愛してくれる存在は有り得ないのだと、いつからかそんな気付きたくないことに気付いてしまった。いつも一時的に強烈に求められて、自分が落ちてしまえば相手は飽きる。それがいつものパターンだった。もし無理なら、それが永遠でなくてもいいからひとときだけでも、と妥協してしまう自分にも原因はある。安息が得られるのならば、それが一晩でも構わない。それだけだった。
 そのつもりで、あの晩も彼の手を取った。なのに日増しに終わりを意識するたびにその気配に怯えるようになり、結局疎まれたのか自分は早々と追い出されてしまった。今こんなにも虚無感を感じるのはきっと、愛されていると錯覚してしまったせいだ。元から愛されてなどいないと正しく理解していたら、こんなに悲しく淋しい思いを感じることはなかっただろう。いい年をして愛を欲して怯えて情けない。無償の愛が欲しかった。それは、自分が何か差し出さなくても、静かに穏やかに、注がれ続ける愛である。それを親から得られなかった経験が自分の心に深く重い影を落としていた。今までは、相手は男でも女でも構わなかった。与えられる愛ならばどんな種類でも。だけど今はたった一つの愛が欲しい。

「……ええ、すみません。今夜は……はい、また都合が付き次第」
 電話の相手は「待っている」と一言、静かに通話を切った。機械的な電子音が耳に届いて、天蓬はぼんやりと目を閉じて通話を切り、携帯電話を畳んだ。相手は自分よりもうんと年上の男だった。天蓬は相手が誰でもいいのだということを知って尚、自分を求めて我儘を聞いてくれる。あの人の家に住み付くようになってからは全く連絡をとっていなかったが、天蓬が一人ぼっちでいることを見透かしたように誘いの電話を掛けてきてくれた。いつもなら悩む間もなく決めていたそれを、今日初めて断った。ただでも我儘な自分が更に低俗な人間になったような気がして苦い思いが広がる。
 あの人はもう自分を求めない。彼はとても優しい人だったから、冷たい雨の晩に惨めに道端に座り込んでいた自分を放っておけなかっただけなのだ。抱き締めてくれたのは、余程自分が物欲しそうな顔をしていたからだろう。短い間だったけれど同じ石鹸の匂いを共有して、同じ温度で眠りに就いた。贅沢な時間だった。無意識の内に、それがいつまでも続くものだと思っていた。
(ケンレン)
 彼の同僚が口にした名前。初めて彼の名前を知ったのは、自分が捨てられる僅か一週間前のことだった。さぞかし、女性に人気があるのだろう。きっと自分がずっと家にいたせいで女性を連れてくることも出来ずに困っていただろう。
 彼はまた新しい『ペット』を拾っているだろうか。華奢で柔らかな身体をきらびやかな服で包んだ、甘い香りのする可愛らしいペットを。
 窓から見た闇夜からはぽつぽつと冷たい雫が盛んに降り落ちている。今日も雨の中、一人だ。帰る場所もない今日は、流石に家に戻らなければならないだろう。ワンルームのアパートメントの一室は、寝るためだけの場所にしては上等だった。さっさと帰ってベッドに潜ってしまおう。何も見えない、やわらかな布団の中ならばきっと少しは淋しさを忘れられる。
 煙草を吸おうと腕を上げると、ふと鼻の近くを掠めた袖口からふわりと匂いがした。スーツに残った、僅かな彼の家の匂い。その匂いだけで苦しくなって、衝動的に天蓬はその上着を乱暴に脱ぎ捨てた。明日にはクリーニングに出してしまわなければ。こんな、彼の気配の残るものを傍に置いてはおけない。その上着を自分の椅子の背凭れに掛けて、煙草の先に火をつけた。自分の周囲をその煙の匂いだけが取り巻き、やっと息を吐く。周りの匂いを感じさせなくしてしまう、その強く甘い香りが好きだった。あの人の匂いなど、この匂いで掻き消されてしまえばいいと思いながら、煙を大きく吐いた。刺激の強い香りが鼻を突く。
 あの人も悪い。愛してもいない相手を、あんなに大切そうに扱うから。
 優しさと同情は違う。ならば彼は優しい人間なんかではないということだ。だとしたら彼は最も質が悪い男。きっとそれのせいで、今までも幾多の女性が涙を零してきたのだろう。そして、自分も。泣きたくなるような優しさなら必要ない。それでも、今の自分はそれをひたすらに求めていた。自分自身男の身だというのに、悪い男の手に堕ちた。
 こうして彼を悪と決め付けてどうなるものでもないのに、心の中で彼を責める。いっそ冷たい言葉で突き放してくれれば、こんな風に未練たらしく苦悩することなどなかったのに。惨めだった。得られる愛ならどんな形でも、誰からでも構わなかった頃に戻りたかった。
 のんびりと会社を出て、駅へ向かう。好きなだけのんびりと残業を行ったため、駅前にいる人もまばらだ。本来なら帰りたくないくらいだったので、なるべくゆっくりをした歩調で街灯に照らされた歩道を歩く。終電を逃してしまうのならそれでも良いくらいだった。足が重い。泊まれるものなら会社に居ついてしまいたい。しかし用もないのに連日会社に詰めているわけにもいかない。家に帰っても、着替えてシャワーを浴び、寝てまた出勤するだけだ。ならば家は何のためにある。寝るためならば他にも幾らでもある。物を置くためならば貸し倉庫がある。ならば住所を得るためだろうか。住所、というのは居場所という意味ではない。社会で生きていくならば絶対に必要な記号だ。
 欲しい「居場所」は特定の場所ではないのだ。
 人も疎らなコンコースをゆっくりと歩く。いっそ歩いて帰ってしまおうか。疲れて帰れば、きっとすぐに眠ることが出来るだろう。すれ違う人間は皆、浮かれているか疲れているかだ。酔っ払いが近付いてこようとするのを器用に避けて、駅を出ることにした。のんびり歩いて家まで帰って、シャワーを浴びてすぐに寝る。それで構わないだろう。酔っ払ってふらふらしたまま天蓬を追いかけていた酔っ払いは、その途中でこれまた酔っ払いの集団にぶつかって何だか楽しそうにしている。それを放って、天蓬はそのまま駅から出ようとした。その速度は一対の影を目に映した途端失速する。ぼんやりしていた影が段々と鮮明になってゆき、その表情すら見て取れるようになったところで天蓬の足は完全に止まった。漆黒の髪に同色の眸を持つ、強烈な存在感を放つ男。その傍らに立つのは、ベージュのジャケットにふわふわと揺れるシフォンのスカートを纏った、ふわふわした髪をした愛らしい女性。女性らしい、女性だ。柔らかく甘い香りのする新しいペット。男の視線は愛しげにそのペットを見下ろし、ペットは甘えるように男の腕にじゃれ付いて、男を見上げる。
 ぎしぎし、身体のどこかが軋みを上げて、咄嗟に天蓬は身を翻した。その瞬間、ふと顔を上げた男の眸が自分を捉えた気がした。



 久しぶりに同僚と呑みに出掛けた。そうしたら帰りがけになって突然、同じ課の女性が酔って駅まで歩けないと言う。だから偶然同じ駅から電車に乗る予定の自分が彼女を駅まで送り届けた。しかし彼女は酔って歩けないと言う割には、こちらに寄り掛かりつつもピンヒールでしっかりと歩いているのだった。自意識過剰な質ではないが、自分に好意を寄せる女の話位は自然と耳に入ってくる。そして、数ヶ月前までの自分ならすぐに手を伸ばしただろうことも事実である。彼女もきっとそんな自分のあまり宜しくない風評を耳にしているはずだ。もしかしたら簡単に落とせると思われているのかも知れない。しかし今欲しいのは甘い香りのする明るい色の髪でも、柔らかく豊満な身体でもない。自分が突き放した、孤独に怯える闇い色をした眸の男。自分の方へ身体を凭せ掛けてくる彼女の身体にあまり触れないように、軽くその肩を手で支えた。触れた肩は華奢で、きつく抱いたら折れてしまいそうでもある。あの男の肩も薄かったけれど、彼の場合は、抱き締めるのを止めたら逆に消えてしまいそうだと思っていた。それなのに自分は手を離した。しかし彼は消えてはいない。結局それだけ自分が彼に対して影響力を持っていると思いたかっただけなのだろう。傲慢なことだ。
 彼のことは、忘れるのが一番いい。二度と手の内に戻ることのないものに焦がれ続けても意味がない。人も疎らなコンコースの中で、事務的に彼女に微笑みかけながら雨の日のことを思い返していた。あの日の過ちが今もこうして自分の歯車を狂わせたままだ。これではまだリセットされたことにはならない。きっとそれは自分が彼のことを、すっかり忘れでもしない限り不可能なのだ。様々な後悔が一気に胸に押し寄せて、頭を掻き毟りたくなる。苦悩している間にも、女の細い腕がするりと自分の腕に巻き付いてくる。それを払い除けるのも面倒で、適当に笑みを浮かべた。彼女が身体を動かす度に、シャンプーか香水か、ふわりと甘い香りが鼻先に届く。
 彼の身体も、いつも消し切れない甘い煙草の香りが纏わり付いていた。自分が家に帰る頃には彼は既にシャワーを浴びていて、その香りはざっと流されていたけれど、抱き締めて髪に鼻を押し付ければいつもその香りがしていた。その香りが、無性に恋しくなった。
 その香りと面影に焦がれて、天を仰ぐ。その、顔を上げた瞬間、がらんとしたコンコースに立ち尽くす影が一つ、目を引いた。榛の眸が瞬きも忘れたようにこちらを見つめていた。すぐにその身体はこちらに背を向け早足で去る。しかしそれまでの一秒にも満たないような時間が、自分には永遠と思えるように長かった。彼の着ているスーツは自分が見たことのないものだった。バッグも、ネクタイも全く違うもの。しかし確かに、テンポウと呼ばれたあの青年だった。
 すぐさまそのスーツの裾は翻り、その身体は駅の奥へと足を運んでいく。彼の姿が小さくなっていく。あのまま行かせては、もう二度と見えることは叶わない気がした。反射的に、自分の腕から女の腕を引き剥がした。そして、驚き自分を見上げてくる、まるで酔っているようには思えない冷静な目に笑いかけた。
「悪い、ちょっと戻らなきゃ……忘れ物した」
 そうとだけ告げてすぐに走り出そうとする捲簾を、女は咄嗟に呼び止めた。振り返った捲簾が不思議そうな顔をするのへ、戸惑ったようにグロスで艶めく唇を空回らせる。何かを聞こうとして呼び止めたわけではなかったからだ。暫く視線を彷徨わせていた彼女は、漸く躊躇いがちに唇を動かした。
「……何を、忘れたの?」
 そう問い掛けられて捲簾は目を瞬かせた。何を。自分は一体何を忘れていたのだろうか。暫くゆっくりと思案を巡らせていた捲簾は、それよりも早く追いかけなければならないことを思い出して頭を回転させ、ふっと浮かんだ言葉を口にした。
「生活必需品、かな」

 彼の走り去っていった後を追って、プラットフォームを走る。どの電車に乗ったかなど分かりはしない。そもそも彼がどこに住んでいるのかも分からないのだ。しかし幸い、停車しているどの電車も乗客は少なく、窓から中の見通しがきく。窓から仲の乗客を確認しながら走るが、全ては把握し切れていないだろう。その間にもプラットフォームには発車の放送が鳴り響き始めた。このまま全てを逃してしまうのなら、ととにかく近くのドアへと足を踏み入れた。その数秒後にドアは閉ざされ、ゆっくりと動き始める。
 それから捲簾は、自分の乗り込んだ車両を見渡してみた。自分が乗り込んだのは第一車両だったようだ。彼の姿はない。乗客たちは皆、疲れた顔をして俯いて目を閉じている。車両の揺れに合わせて肩が揺れているところを見ると眠っているのだろう。とりあえず、最後尾の車両まで歩いてみることにした。この電車に彼がもし乗っていなかったら、縁がなかったということだ。今を逃したらもう二度と会うことが出来ない気がするという予感は、今でも間違っていないと思えた。
 一人一人、確認しながらゆっくりと車両を後ろへ向かって足を進めていく。暗闇の中に浮かぶネオンが窓の外でおもちゃのように輝いている。左右に揺れる電車内をゆっくりと歩きながら、焦る気持ちを抑えられなかった。残りの車両はもう少ない。進むのが惜しいようで、自然と歩く足は遅くなる。それでも少しずつ歩いていれば終わりは近づいてくるものだ。最後の車両のドアへ手を掛ける。
 最後の車両には、会社員と思しき男女が三人ほど座っていた。一人の女性は長椅子の端に座り、壁に凭れて眠っている。一人の中年の男性は身体を仰け反らせるような格好で足を広げて眠っている。もう一人の男は、膝の上で両手を組んで、押し黙ったまま俯いている。電車が揺れているせいだろうか、彼の薄い肩が細かく震えているように見えた。
 暫く揺れに任せてその場に立ち尽くしていた。しかし突然身体から力が抜けたように足が縺れて、立っていられなくなる。よろめくように、彼の座っている長椅子の反対側の端に腰を下ろした。軽く振動が伝わったのか彼は僅かに顔を上げた。その首がゆっくりと廻り、こちらを見つめた。レンズ越しにその濡れた艶を帯びた、カラメルの色をした眸が見開かれる。
 カタン、カタタン、と、規則的な音が響く。ネオンが窓の外を流れていくのが横目に見えた。先に目を離すことが何だか悔しくてそのまま彼の目を見つめていると、彼は少し苦しげに顔を歪めて、俯いた。彼は逃げたがっている。次の駅まで、もうすぐ。

 ゆっくりと減速する電車の中、僅かに彼の身体は身構えるように固くなった。きっと、ドアが開いた途端に走り出すに違いない。揺れが大きくなり、速度はぐんぐん緩やかになっていく。そして勢い良くドアが開いた瞬間、彼は立ち上がり端走り出した。捲簾はそれに僅かに遅れて立ち上がり、彼を追った。駅の構内を逃げる男を走って追う。しかし精算に手間取ったのか、すぐにその距離は縮まった。駅舎を出て、駅前の街路へ出たところでやっと彼に手が届いた。後ろに振られた彼の手首を強く掴んで捻り上げる。痛みに僅かに声を漏らした彼は、苦々しげな顔をした。目を合わせようとはしない。
 こんなに頼りない表情をする男だっただろうか。
 暫く苦く歯を噛み締めていた彼は、泣く寸前の子供のように顔を歪めてからぽつりと呟いた。
「……どうして、追いかけてきたんですか」
 彼がこんな風にまともに口を利いたのは、あの雨の夜以来だった。声を聞いたのも久しぶりすぎて、酷く懐かしい気分になる。彼の目はあの日と同じ、荒んだ色をしている。街路灯に照らされて影の出来た表情は、はっきり窺い知ることが出来ない。
「やっぱり、止めだ」
「……何を」
 彼が顔を上げる。闇い眸に光はない。あの夜、店先にしゃがみ込んだまま自分を見上げた眸と、同じだ。それでいて、あの頃にはないほどに攻撃的な色を浮かべている。手負いの獣が、周りに警戒心を剥き出しにするように。
「帰るぞ」
「どこに!」
「家にだ」
 ここは最寄駅より二つ前だ。帰るにしても少し歩かなければならない。そこから動くことを渋るように抵抗を見せる彼の腕を引く。
「僕はもうあなたのものではありません、僕の家はあなたの家じゃない」
「他に帰る家があるなら諦めてやる」
 男の目が、驚いたように見開かれた。そしてどこか苦しげに、その顔は逸らされる。その逃げを許さず、捲簾は強く男の顎を掴んだ。そして無理矢理に顔を上向かせ、その目一杯に自分の顔を映すように顔を近付けた。
「テンポウ」
 声に出して名前を呼んだのは初めてだった。何だか慣れなくて、初めての発音に自分自身戸惑ってしまう。彼も名前を呼ばれて戸惑ったように眸を揺らした。頼りない表情を見せる彼に、逆の手を伸ばして頭を撫でてやる。あの頃、彼によくやったように。しかしあの頃のように彼の表情は安らぎはしない。却って怯えたように徐々に蒼褪めていく。
「うちに来るか」
 顎を掴んでいた手を離して、その手を彼に向かって差し伸べた。戸惑ったようにその手を見つめてくる目はあの日と同じだ。今日の彼はこの手を取るか、取らないか。男の手は胸の前で強く握り締められていて、僅かに震えている。選択を彼の方に全て委ねるのは優しさではない。彼に言い逃れをさせないための、防御線だ。彼自身が手を伸ばしてこの手を掴んだらもう言い訳はさせない。
 暫く警戒したように差し出された手を見つめていた彼は、それを視界に入れないようにするように顔を逸らした。彼にこの手を取る気がないのならばそこまでだ。潔くない真似はしたくはない。あと、五つ数えたらこの手を引いて、彼に背を向けると決めた。
 5。彼の唇が僅かに戦慄いているように見えた。4。走って行く車のライトで彼のあまり顔色の良くない横顔が照らされる。3。諦めが芽生えた。2。瞼を伏せる。1。低く息を吐いた。0、と心でカウントすると同時に口を開いた。
「……分かった」
 最後まで狡い男だ。手を引くのも、手を伸ばすのも、全てこちらの意思で行わせる気なのか。ならばそのようにするまでだ。
 差し出していた手を下ろし、彼に背を向ける。彼は微動だにしなかった。これが最後になりそうだと思うのは、予感ではない。紛れもない事実だった。人の波の中で知らぬ内にすれ違うことはあるかも知れない。しかし彼は気付いたとしても無視するだろうし、こちらも気付いたとてどうすることも出来ない。ただ人込みの中視線を通わせて、すぐに波に呑まれて離れていくだけだ。
「今まで、悪かった」
 最後に何か一言言わなければならないような強迫観念に駆られて、思わずそう口走る。そして何故謝ったのだろう、とすぐに疑問に思った。全ては、彼の意思に任せていたはずだ。あの夜自分の手を取ったのも彼自身の意思には違いないのに。
 始まりは一体何だっただろうかと考えた。全ての始まりは自分の差し出した手だ。成程、ならば悪いのは自分に違いない。
 そのまま、重い足を一歩ずつ前に運んだ。何故か思うように速く足が進まない。それでも、彼から少しずつ離れていくにつれてその足は段々軽くなっていく気がした。胸には苦々しい思いが溢れているのに、呪縛から逃れられる安堵感がそれを覆い隠す。これで全てが終わるのだと思った。

「けんれん」
 どこか慣れないような発音で呼ばれる名前に、軽くなっていた足はそのままアスファルトに縛りつけられたように動かなくなった。静かに振り返った先で、彼は顔を上げていた。車が横の通りを通過して、彼の青白い顔を一瞬だけ明るく照らす。その車が去り、再び訪れた闇と静けさの中、彼は静かに右手を動かした。ゆっくりと、掌を下にして持ち上げられる右手。それは、誰かに握られるのを待つような格好でもあった。その動きを瞬きも忘れたように見つめていた捲簾は、ゆっくりとその意図を呑み込んで、苦々しく顔を歪めた。
「……お前は、どこまで狡いんだ――――――」
 最後の最後まで、こちらに全て委ねる気なのだ。ただその闇い眸はこちらをじ、と見つめている。そして一瞬視線を落とし、再び視線を上げた。自信に溢れているようでいて、その目はこちらの反応を窺って揺れている。
「僕には、こういう方法しか思い付かないんです」
 静かに、囁くように告げられた言葉に目を瞠る。その行動によって、彼が一体何をしたいのか分からない。どうすればその頼りない目を止めてくれるのか、分からない。そんな目は見ていられなかった。じり、と歯噛みして、彼の顔を睨み付けるように見据えた。
「お前はどうしたい。……俺は、どうすればいいんだ」
 唸るような低い声で問われても、彼は何も口にすることなくゆっくりと瞬きを二回、繰り返しただけだった。答えも与えてくれない自ら行動も起こさないそして解放してもくれない。ただこちらの言葉と行動を待って、静かな目で見つめてくる。放っておかれたままの白くすらりとした手が、躊躇うように軽く握られた。その手を取るべきなのか、それとも背を向けて去っていくべきなのか分からない。どちらが彼にとって良いのだろう。どちらが自分にとって幸福だろうか。
 自分にとっての幸福は、迷う必要もない。
 人通りのない街路は、遠くから聞こえる車の音以外何も耳に入らない。ゆっくりとした足取りで自分に近付いてくる捲簾を、彼は視線を揺らしながら見つめていた。しかし、手首を強く掴まれても、痛むほどに力を入れられても、彼は振り払う素振りすら見せなかった。ただひたすらその目は静かに自分を見上げている。
 何を求めている? どうして欲しい?
「……連れて行って下さい。あなたが行くなら、どこでもいい」
 彼が初めて口にした希望だった。その瞬間他の選択肢は、消え去った。




 厳密に言えば違うが、周りから見れば男二人が仲良く手を繋いで歩いているように見えるだろう。すれ違った酔っ払いが冷やかすような視線を向けたが、二人ともそれに反応することはなかった。繋がれた掌がじんわり湿って気持ちが悪い。それは彼の方が尚更だろう、と口元を歪めた。彼の優しさに甘えて、なんて浅ましい真似をしたのだろう。導かれた彼の住まいは、あの頃と何ら変わりなかった。穏やかな時間が流れ、彼の匂いがする。家具の配置も同じ。がらんとしたリビングに大きなソファがある。何も変わらない。まるで今日までの空白の時間などなくて、あの日から一続きの日常が戻ってきたような気分になった。
 ぽつん、とリビングの入り口で立ち尽くしている天蓬を見て、男は笑った。し様のない子供を見るような慈愛の笑み。それが、居た堪れない天蓬に更に追い討ちを掛けるようだった。
「好きに過ごしていいんだぞ」
 分からない、と思った。ペットとしてならどう振舞うことも出来る。差し出す見返りがあるからだ。あの頃もそうだった。しかし今の彼は、居場所を提供する代わりに一体何を求めているのだろう。あの日までと同じく、この身を求めるだろうか。柔らかいわけでもなく、甘い香りがするでもない身体を? 本気で彼がそれを求めるのだとしたら彼は相当な悪食だ。何も差し出せるものなどない自分を哀れに思ったのかもしれない。ならばそんな回りくどいことをしてくれる必要はなかったのに。
「……代わりに何を渡せばいいんです。金ですか」
 何もなかった。こんな上等な居場所の変わりになるような大層なものなんて、何一つ持ち合わせてはいなかった。
 上着を脱ぎ、時計を外して、タイを緩めようとしていた男はその言葉に驚いたようだった。まるで何も見返りなど期待していなかったような顔に苛立ちが募る。 タイを抜きながらこちらに向かって歩いてきた男は天蓬の頭を撫で、何も言わぬままバスルームへと歩いていってしまった。それから静かにシャワーの音が聞こえてくるようになるまでじっとその場に立ち尽くしていた。が、俄かに足元が揺れるような感覚に襲われて壁に手を突く。
 ゆっくりと、部屋の中へと足を運ぶ。そしてあの頃と同じようにソファに腰を下ろした。ペットでもない今の状態で、どんな風に振舞えばいいのか分からない。この関係は一体何だ。自分にとっての彼が何者か分からない。しかし一番分からないのは、彼にとっての自分が何者として存在しているのかだった。そのまま横に倒れるようにしてソファに懐く。苦しくなるほどの感情が襲ってきて、そのままぎゅっと目を閉じる。これほどまでに求めていたなんて知らなかった。こんなにも何かに執着する力が自分の中にあったことに驚きが隠せない。このまま、柔らかい微温湯の中で揺蕩っていられればいいのにと願った。
 いつの間にかシャワーの音が止んだことにも気付かぬまま、静かに温かい闇の中に落ちていった。

 ふっと、意識が戻る。暖かい布地はソファのものではない。身動ぎをすれば跳ね返るその弾力はベッドだった。いつの間に、と思いながらぼんやりとした意識のまま瞼を押し上げた。暫く滲んでいた視界は、何度か瞬きをすることによって鮮明さを増していく。その視界に大写しになった男の顔に、思わず息を呑み、咄嗟に上体を起こした。そして慌ててベッドから出る。
 いつの間に、どうして。
 ばくばくと速くなる鼓動を押さえながら天蓬は男の顔を見下ろした。天蓬がベッドを降りたときの衝撃のせいか、彼は少しだけ顔を顰めた。そして布団が捲れて冷えたせいか布団を引き寄せるような仕草をした。布団を彼の身体に掛け直してやってから、天蓬は足音を立てないようにしながらベッドルームを後にした。リビングへと行ってみれば、カーテンの隙間から光が窺える。時刻はもうすぐ五時。ソファには自分の上着とタイが放られている。テーブルの上には眼鏡が置かれていた。それを見て、やっと昨晩の記憶が戻ってくる。どう振舞っていいか分からないなどと言いつつ、シャワーを浴びに行った彼を待つこともなくソファで眠ってしまったのだ。それを見て運んでくれたのは彼以外にはいない。人がいいにも程がある。
 眼鏡を掛けてから静かにバスルームへ向かい、電気を点けた。鏡の前に立って自分の酷い顔色を観察する。とりあえずは顔を水で洗い、様子を見る。冷たい水で顔を洗うと少しは顔色も戻ってきたように思えた。その時、ふと視界の中に見覚えのあるものがあった。プラスティックのコップと、ガラスのコップに立てられた歯ブラシが二つ。そのガラスのコップは他に相応しいコップがなかったために宛がわれたその場合わせのもの。
「……何で」
 どうして残しておいたのだろう。彼は、自分が戻ってくることを知っていたのだろうか。

 歯を磨き、顔を拭いてからそっとベッドルームに戻った。彼は相変わらず穏やかな寝息を立てている。自分が元いた場所に膝をついて、その顔をそっと覗き込んだ。そして身体を屈めて、頬に瞼に、触れるか触れないかというくらいのキスをする。もしも彼がこれで起きたら、訊いてみようかと思っていた。あの日どうして自分を拾ったのか。昨日どうして追いかけてきたのか。どうして必要のない歯ブラシが置かれたままになっていたのか。……どうしてここにいることを許してくれるのか。
 鼻先に口付けて、唇を啄む。唇に触れられたことで彼は小さく瞼を震わせた。そしてゆっくりと目がまだ寝惚けた様子で開かれる。
「……夜這いか?」
「もう、朝です」
 顔にかかる髪を耳に掛けて、再び唇にキスをする。軽く上唇を食んで離れると、彼は静かに笑って言った。
「……何か、すーすーする」
「歯磨きしたから」
 そう告げると、まだ少しぼんやりしていた彼の目が何かに思い至ったように見開かれた。
「どうしてそのまま、置いてあったんですか?」
 静かに自分を見上げたまま、彼は答えない。卑怯だ、と思った。
「どうしてあの日僕を拾ったりしたんですか。どうして昨日追いかけてきたんですか、どうして手を取ったんですか、どうして」
「テンポウ」
「どうしてこんなことをしても、怒らないんですか」
 跳ね除けて怒ればいい。どうしてそうしないのか、あまりにも彼が普通に受け入れるものだからおかしくて仕方がなかった。暫く何も言わず、静かに天蓬を見上げていた男は、小さく息を吐いた。彼の腕が少し動いて、次に彼が何をするのかと無意識の内に身構える。怯えのような恐怖に駆られて、彼から身体を離そうとする。そこを彼の腕に押さえつけられた。その臆することのない深い黒の眸が、怖い。
「まず一つめ。お前が手に入るならどんな形でも構わないと思ったから。二つめ、あのまま行かせたらもう二度と逢えないだろうと思ったから。三つめ、お前が連れて行って欲しいと言ったから」
 その身体を突き放してすぐにでも離れたいのに、掴まれた腕が熱くて動けない。
「四つめ、……嫌でもないことを怒る必要は、ないから」
 男の両腕が首の後ろに回って、優しく、それでも抗うことは許さない強さで天蓬の身体を引き寄せた。






 布団の中は暑いくらいだ。しかしこの時間を終わりにしてしまうのが何だか勿体無くて、抜け出られない。
「眼鏡は?」
「……洗面台に忘れてきました」
「不思議な感じ」
 ちょっと若く見えるな、と茶化すと、捲簾の身体の上に頭を載せていたテンポウは少しむっとしたような顔をした。ペットとして家にいた頃は彼は殆ど不の感情を示すことがなかった。だからこうして、拗ねたり怒ったりする顔を見るのが何だか楽しかった。つまらなさそうに寄せられた眉の間を伸ばすように指先で撫で、戯れにその長い睫毛の先を擽る。反射的に目を閉じた彼は、次の瞬間怒ったような目をして瞼を開いた。肩を竦めてその強い視線をいなし、頭を自分の胸に引き寄せて子供を宥めるように後頭部を優しく叩いた。
「ところで、お前の名前……」
「知ってるじゃないですか。……八戒さんから?」
「ああ、だけど」
 どう書く? と訊ねてみると、捲簾の胸の上にのんびりと顔を伏せていた彼はゆっくりと顔をあげて、空に指を伸ばした。細く長い指が空を滑って、文字を書いていく。白い指先が暗闇に軌跡を描くのを、何だか少しくすぐったい思いで見上げる。
「天下無双の『天』、に、蓬莱の『蓬』、です」
 飛び出たとんでもない例えに思わず軽く吹き出すと彼は何を笑われたと思ったのか、少しだけ拗ねたように唇を曲げた。
「似合わないでしょう」
「いいや」
 宙に浮いたままの彼の指先を掌に包み込んで、その先に唇を寄せた。冷たい指先が、ほんのりと熱を持つ。不思議そうに瞬いた黒い眸がじっと捲簾を映している。その深い闇の中に安息を見出した。その闇は孤独を意味するものではない。
「天蓬」
「何、ですか?」
「何でもない」
 ずっと居場所が欲しかったのは、他でもない自分の方かもしれなかった。
「……てんぽー」
「しつこいですよ」
 鬱陶しそうに天蓬は眉を潜め、「目の前にあったから」と言わんばかりに、かぷりと捲簾の手首に軽く噛み付いた。じわりと広がる鈍い痛みに、それでも笑みが生まれてしまう。「猫でもあるまいし」、とその額を指先で弾く。額を弾かれたことにか、またはその言葉にか、天蓬は不意を突かれたように目を瞬かせた。
「……違うんですか?」
「違うよ」
 不思議そうに自分を覗き込んでくる眸に笑って、その身体を抱き寄せる。顔を寄せると、シャワーで洗い流されていない彼の甘くて重い煙草の匂いがした。頭の芯がくわんと揺れたような気がした。



 突然何度も名前を呼んだり抱き寄せてきたりとおかしな様子の捲簾に、それでも暫く大人しく従っていた天蓬は、ふと思い付いたようにその身体に自ら腕を回して抱き締め返した。そうしてみると細く見える見た目以上にがっしりしている。しっかりした肩に掴まって、少々硬質な黒い髪に頬を寄せた。時間のことは気になったけれど、もう少しだけこの温かい微睡みの中にいたかった。  あと少しだけ、と自分に言い聞かせて瞼を下ろした。

(ほしかった場所、てにいれた)









匂いフェチは健在。いずれ続編で不足部分は補完します。
2007/08/02