「笑って下さい、捲簾」
 何故そんなことを突然言い出したのかは自分でもよく分からない。何せ、そう自分が言い放った瞬間すら彼は“笑って”いたのだから、おかしな話だ。いつもにへらにへらと笑っている相手に笑えというのは一体どういうことか。それが他の相手なら彼も訝しく思っただろうが、今の相手は他ならぬ自分である。今更少しおかしなことを言ったところで彼が心配するはずもない。丁度日の高く昇った昼下がり。執務机の前に座り、興味の湧かない書面の文字を一字一字なぞりながら、部下の笑い話をしつつ本の片付けをしている彼をぼんやりと眺めていたところである。
 腕に本の束を抱え、きょとんと目を瞬かせながら振り返った彼は、ひょいと首を傾げて天蓬の顔を覗き込むような仕草をしながらこちらに向かって歩いてきた。途中で本の束を足元の山の上に降ろし、その両手をポケットに突っ込みながらひょこひょこ歩いてくる。彼の顔と濃密な気配が近付いてくるのをぼんやりした頭で感じながら、それでも目は逸らさずにじっと彼を見上げていた。執務机の前に立った彼は不躾にもずいと顔を近付けてくる。避けるということも頭になかった天蓬は、段々と近付いてくる彼の顔をそれでもじっと見つめていた。張り倒すでも押し戻すでもなく、微動だにせず自分を見返してくる天蓬に、流石に違和感を感じたのか、身体を起こした彼はその形の良い眉をぴくりと持ち上げた。
「トリップしてるわけじゃねえんだな……ということは純粋に俺の素敵な笑顔が見たいってことでいいわけ」
「まあ……」
 うまい切り返しが思い付かずつい口篭り、その時初めて視線を彼から外した。落とした視線の先に山積みの書類が映った。自業自得だと分かってはいるが憂鬱になる。面倒な雑事が権力と地位に付き物なのは分かっている。自由を得るために地位を求め、その見返りにこうして机に縛られている。こんなことだから、机上の空論ばかり振り翳す愚か者だと揶揄されるのだ。“捲簾大将とは違って”。彼は肝心なことに限っては多くを語らない。しかしいつも彼の起こす行動は、言葉なくとも彼の全てを物語っていた。
 自分よりも余程出来る男なのだ。自分がいなかろうとも、その空いた軍師の席を埋めて余り有るほどの才能を秘めた男に、覚えた二つの相対した感情はほぼ同時に襲い来た。身を焼くような嫉妬と、狂おしいほどの憧憬。敗北を認めるのは癪であった。しかし才能、人望、人柄、どれをとっても勝ち目があるとも思えない勝負に、天蓬は早々に白旗を上げた。意地を張り続けることも出来た。しかしそうすることによって惨めになるのを避けたのである。勝ち目のない勝負にしがみ付いて駄々を捏ねれば、優しい彼はきっと負けた振りをしてくれるだろう。そんな事態に自分自身の心が耐えられないだろうと踏んだのだ。情けないことである。敵前逃亡をしたのだ。
「……何でしょう、何だかおかしなことを言いましたね」
 何を期待している?
 いつからかその笑みの意味が分からなくなった。余程憎い相手でなければ彼は微笑むのだ。つまり笑顔を向けられているということは、自分が彼の中で好きと嫌いに二分されたうちの好きの方に入っているという、ただそれだけのことなのである。特別なことなど何もない。彼にとっては窓の外を掛ける野良猫と自分が同等として分類されているのだ。今まで浮名を流した指折りの女仙とてその野良猫と同じなのだと思えば滑稽でもあるが、言い知れない不快感が纏わり付いた。「どちらかと言えば好き」というだけで彼はそうして優しくする。
 それ以上を期待してはならない。







拍手お礼(〜09/03/03)