願えば、叶う。それは、言葉で言うほどに簡単で前向きな話ではなかった。いつからこんな能力を身に着けたかなど覚えてはいない。人差し指と中指を交差させて、願う。ただそれだけで何故か自分の願いは叶うのである。理由も何も知りはしない。気付いたら自分がこの能力を持っていることを知っていた。それだけだ。自分以外誰もいない執務室の中、窓辺に置かれた本が開かれたまま、ページを風に攫われてばさばさと音を立てている。また彼が読みっ放しで置いていったのだろう。仕方のない奴だと思いながらも立ち上がることはせず、頬杖をついたまま、つい、と自らの人差し指と中指を絡ませ、すっとその本に向かって指を伸ばした。
( と じ る )
 百科事典のような厚さのハードカバーの本だ。その表紙が花弁を揺らすそよ風如きで持ち上がることなど有り得ない。しかしその本の表紙はゆっくりと持ち上がり、ぱすん、と音を立てて閉じた。それを見て、伸ばした腕をそのまま下ろす。そして自らの交差させた指をじっと見下ろした。これは、皆が思う以上に恐ろしい力だ。願えば何でも叶う力と言えば誰もが渇望しそうなものだが、捲簾は失うことが出来るのであれば一刻も早く、この力を失くしたかった。もし一時の気の迷いで人の不幸を願ってしまったらどうする。人の心すら操ることの出来るこの力を、自分が一番恐れていた。だから捲簾は常に自制し続ける日々を送っていた。そんな言葉を聞いたら鼻で哂う奴等が大勢いるだろう。しかし捲簾が自制しなければならなかったのは、女だとか酒だとか、そんな簡単なものではない。
 身体能力も、地位も、部下も上司も何も望まなかった。成るがままに任せて過ごしてきた。普通の者はそうだろう。しかし捲簾はそれを捻じ曲げることが出来る「おまじない」を持っていた。力を持ちながらそれを封印することの苦悩はきっと他の者には分からない。変えられる力を持ちながら、変えないよう自分を戒めること。それは存外、狂おしい。只の忍耐力では済まないのだ。身の丈に合わない能力を持ってしまった。だからこんなにも苦しい。全能の力を持ちながらも自身を戒めることの出来る釈迦のような存在には、こんな苦悩は有り得ないだろう。
 風の吹き込んでくる窓を閉めて、閉じた本を本棚に押し込める。そして誰もいない部屋に背を向けてドアを開けた。
 しかし今捲簾には、この能力を失うわけにはいかない大きな理由があった。それは、以前からずっと胸の中で蟠り続けていた疑念によるものだった。もしかしたら、はっきりと形にして願わなくても心の中で少しでも望めば、ひょっとしたらこの力で願いは叶ってしまうのではないかと。だとしたら、今捲簾はこの力を失ったとすると、同時に失ってしまう大事なものがあるのである。
 もしそれを手に入れられたことが、この力によるものだとしたら。
 何かに急き立てられるように回廊を小走りに進むと、渡り廊下の向こうで話をしている二人の男が見えた。片方は以前見覚えがある、東方軍の大佐だ。そしてもう一人は自分の懐刀である部下。彼等が特に親しいという話は聞いたことがない。しかし彼が自分の利益にならない相手と無駄に親しくはしないということは十分承知していたので、きっと何か狙いがあるのだろうとは思う。しかしその穏やかな笑みを彼方此方に無闇に振り撒いて苦労させられるのはこちらだ。白衣は昨日新調したばかりなので綺麗だ。しかし辛うじて締められているネクタイは緩く、釦も上まで掛けられていないせいで首元がだらしない。彼のことだから相手を見て態とそうしているとも考えられなくはない、しかし全く何も物を考えていない場合もままある。そんな姿でふらふらと歩いていて、おかしな気を起こす者がどれだけ現れたか彼は知っていながらまだ懲りない。腹が立つ。相変わらず助平たらしい顔をした東方軍の大佐は身振り手振りで何か楽しそうに話をして、わが部下はそれを実に美しい微笑で以って受け答えしている。ふと、男が何かに気付いたようにわが部下に手を伸ばそうとした。それを見て捲簾は咄嗟に手を伸ばす。
( さ わ る な )
 男の手が部下の肩に触れた瞬間、小さな光が発され、弾かれた様にその手は引かれた。二人とも驚いたような顔をして、男はへこりと頭を下げた。静電気でも走ったのだろうか。それが機になったようで、わが部下はその男に二言三言残して別れを告げたようだった。未練もなく手をひらりと振って背を向ける彼を名残惜しげに見つめていた男は、ふと回廊に佇む自分に気付いて瞠目し、慌てて背を向けて走っていった。その背を睨めつけながら、こちらに向かって歩いてくる部下を待つ。彼はまだ自分に気付いていないようである。彼の興味は歩きながらでもその腕の中にある書物に向けられているようだった。顔を上げれば気付く距離にいるのに自分の存在にに気付こうともしない彼に少し苛立ち、つい、と腕を持ち上げる。
( こ っ ち を み る )
 す、と捲簾が腕を下ろしたのと、彼が書物から顔を上げたのはほぼ同時だった。きょとんとしたその表情に喜色が溢れ、本を閉じて足早にこちらに向かって歩いてくる。それを見て思わず口元が綻んだ。何だかんだと口は悪いが、本当のところは可愛くて仕方がない。
 彼は捲簾のことが好きだ。それは周囲も認める事実である。何のかんの言って彼は一番に捲簾を優先させる。たまに素っ気無く、可愛げのないことを言うこともあるがそれでも確かに自分が彼から愛されていることを自覚していた。時折向けられる甘さと僅かの寂寥の混じった視線がそれを痛い程に伝えてくる。それを受け止めながらいつしかその気持ちの種類に戸惑うようになっていた。
 彼にその思いを伝えられる少し前から、自分は彼を求め始めていた。決して願ったわけではない。そのはずだ。しかし今ではその記憶もはっきりしない。本当は欲望に負けて願ったのではないだろうか。彼が自分を好くように、愛すように、そしてその思いを自分に伝えるようにと。だとしたら、今この瞬間この「おまじない」が効力を失ったら。彼は表情を失くし、まるで他人を見るような目をして自分の横を通り過ぎるのだろうか。もしこの力で以って「もとにもどれ」と願ったなら、彼は自分のことを好きだったことなど綺麗に忘れてしまうのだろうか。

「捲簾、帰ってたんですか」
「ああ、たった今。ちゃんと飯食ってたか」
 頷く彼の頭を撫でると心地よさげに目を細める。この行動一つも自分が望んだからなのだろうか。捲簾に触れられて嬉しそうに目を細めるのも。口付けをせがむのも、淋しがって背中に擦り寄って来るのも。全て自分が内心望んでしまったからなのではないだろうかと疑ってしまう。そんな風に嬉しそうに微笑んでこちらを見上げるのは、そう自分が望んだからなのか? 彼に問い質してしまいたい衝動が今日も襲い来る。彼が自分に向ける好意一つ一つが偽物に見えてきて、そんな自分を嫌悪する。
「でも、やっぱりあなたが作ったご飯の方がいいです」
 そんな、自分の望む通りに造り上げられた幻想ならいらない。だから、偽物じゃないと信じさせてくれる何かが欲しい。
「今夜、部屋に行く」
 そう一言だけ告げて、彼の頭を軽く叩いてその横を通り抜ける。その呆気なさに、彼がきょとんとして振り返り自分の背中を見つめているのが分かった。しかし振り返ることはしなかった。そんな素っ気無い態度を取られたら、いつもの彼ならば追いかけて来たかもしれない。しかし今、自分は追いかけてきて欲しくないと願った。
(ほら、やっぱり来ない)
 暫くして振り返ってみれば、彼はこちらに背を向けて歩き出していた。
 確かめる方法を知っている。ただ一つ。簡単なことだ。(てんぽうはおれをきらいになる)と願えばいい。もしそれでも変わらなければ愛は本物、それで嫌われれば今までの彼の行動も言動も全てこの力による偽物だったということだ。それが出来ずに尻込みしている。こんなはっきりしないのは、らしくない。試してみればいい、もし偽物だったとしたら力を使わず一からやり直せばいい。
 それが出来ないのはやはり恐怖からだった。

 日が落ちて、家々に灯りがともる頃になっても、捲簾は部屋から出られずにいた。何であんなに気安く約束してしまったのだろうか。顔を合わせても話すことなんて何も思い浮かばない。いつもの自分は、この疑念を抱く前の自分はどのように振舞っていたか思い出せない。適当な軽口を叩いて、躊躇いもなくじゃれていたはずだ。一旦意識してしまうとその一つ一つの行動がやけに難しいことの様に思えてしまう。咥え煙草で窓辺から空を眺めながら、悶々とする頭の中を整理しようとしては余計に混乱させていた。まるであの男の部屋のようだ。何処に何が置いてあるのか全く分からない。なのに、彼にだけは分かる。
 このごちゃごちゃした頭の中を整理する何かを、彼だけが持っているはずだった。
 短くなった煙草を灰皿に押し付けて、伸びをする。そしてそのままベッドに仰向けに倒れた。彼には悪いが今日はこのまま寝てしまおう。そもそもあの時の約束だってこちらが一方的に押し付けただけで彼からの返答はなかったのだし。そう自分の行動を正当化しながら、窓を閉めるために上体を起こした。その時、静かな空間に波紋を広げるように控えめな扉を打つ音が聞こえた。こんな時間に部屋を訪ねてくる者はなかなかいない。捲簾は女は自室には入れないし、火急の用で部下がやってくるくらいである。そう訝しがりながら、上にシャツを羽織って扉に向かって声を掛けた。
「誰だ」
「僕です」
 その声を聞き間違うことはなかった。慌てて扉を開ければ、その向こうで不機嫌そうな顔で立っている天蓬の姿があった。身に纏っているのはいつもの白衣でも軍服でもなく、襟元のゆったりした黒いラグランシャツにジーンズとゆったりした部屋着だ。そんな彼は繁々と捲簾の下から上までを眺めた後、ぴくりと片眉を吊り上げてみせた。
「その様子だと忘れてたわけじゃないようですね」
 いい度胸です、と眉根を寄せた彼に慌てて言い訳を考えたがすぐにそれを諦めた。彼を納得させられる言い訳など今の状態で考えられるはずがない。とりあえず彼を部屋の中に入れ、扉を閉めながら言った。
「ワリ、ちょっと考え事しててぼうっとしてた」
 嘘は言っていない。彼は窓辺に置かれたこんもりと吸殻の溜まった灰皿を見遣って溜息を吐いた。
「嘘ではないんでしょうね、昼間からあなたおかしかった。……昼間と言わず、最近、何かありましたか」
 扉から部屋の中へと振り返ると、窓辺で灰皿の中の吸殻を弄りながら外を眺めていた彼がゆっくりと振り返った。その目が真っ直ぐに自分を見る。時々この目が苦手だった。まるで子供のように、酷く、不躾な程真っ直ぐに人の目を覗き込んでくるのだ。嘘偽りを許さないその眸の前で自分を偽ることの罪悪感にいつも身を焼かれていた。しかしそんな罪悪感をいつも重ねていたのは、真実を告げるよりはまだ平気だったからだ。もう限界が来ている。
「お前は俺を、好きじゃない」
 情けないことに声が震えた。指を交差させ、腕を伸ばす。突然のことに驚いて身構える彼の背後、開かれた窓に向かって。
( と じ る )
 風はない穏やかな夜だった。しかし両側の窓はキイ、と僅かな軋みの音を立てながらゆっくりと、ぴたりと閉じた。そしてガチン、と金属音と共に錠が下りる。目の前で起こったことに彼は何も言葉を発しなかった。しかしその眸がゆっくりとこちらを見据える、その目の色を見れば彼の気持ちが直ぐに分かる。その目の中に恐怖がないことだけが唯一の救いだった。腕を下ろすとその腕がやけに重く感じられた。閉ざされた窓の前で彼がその真っ直ぐな目で見つめている。こんな力がなければその目は他の人間だけのものだったかも知れない。その視線から逃れるように彼に背を向け、部屋の扉を開いた。締め切られた空間に二人、息が詰まる。風の流れもない、その室内でまだ火の消え切らなかった吸殻から真っ直ぐに天井に向かって細い煙がゆるゆると立ち昇ってゆく。
「お前が俺を好きなのは、そうなるように俺が願ったからだ。お前の意思じゃない」



「本当に好きじゃないのは、あなたの方なんじゃないですか」
 静かな室内に零れた言葉に身を強張らせ、そっと肩越しに振り返る。常に揺るぎないその眸の奥の光が揺れていた。噛み締められた唇が白から紅へのグラデーションを描く。そんな目をしても、彼は目を逸らさない。負けず嫌いの子供みたいだ、と思った。
「僕だって色々と考えて、軽蔑されるかも知れないだとか拒否されるかも知れないだとか、同僚としても上手くやっていけなくなるかも知れないだとか散々悩んだ上で結論を出して、一大決心をしてのことだったのにそれまで偽物だって仰るんでしょう。僕のことなんて欠片も考えてないじゃないですか」
「僕の意思は一体何処にあるんですか。あなたの心の中にそれはありませんか」
「嫌いになるように、僕があなたを心底憎むように、願ってみて下さいよ。じゃないと、いつまで経っても僕を信じられないんでしょう」
 そこまで胸の奥の澱を吐き出す様にに言い切って、彼は大きく息を吐いた。珍しく興奮したように、目元が赤らんでいるのが分かった。嫌だと思い、顔が思わず歪む。じりじり喉の奥が熱い。そんな顔をさせたいわけではない。どうして分かってくれない。そんな顔をするな。そんな顔をされたら俺はお前を突き放してしまうかもしれない。
(いつだって俺はお前のことを考えて、――――)
「そうやってあなたはいつも僕を蔑ろにする。気遣ってるつもりですか」
 そう言い残して、彼は真っ直ぐに部屋を横切り、捲簾の横を通り抜けていった。その瞬間の僅かな甘い匂いが、風のない篭った部屋の中にいつまでも残る気がした。しかしその香はあっさりと自分の煙草の煙に掻き消されていく。静かな廊下を独特の硬い足音が去っていくのを反射的に追いかけてしまいそうなのを、ドアノブを強く握ることで堪えた。フェイドアウトしていく足音と対照的に異常な速さの鼓動が喉元までせり上がる。喉が詰まったように呼吸が苦しい。
 いつだって、彼にとっての最良を考えていたつもりだった。彼の意思を無視しないように、だから今も、彼に対して忠告をしたつもりだった。彼の意思に沿わない方向へと、間違った道を彼が歩まないようにと、そう、思って。
「保護者気取りはもう沢山です」
 去っていく足音に重なって声がした。少し遅れて頭が音声を漸く読み込んだようである。彼の残した言葉が頭の中で延々とリピートされて、妙にエコーが掛かったように頭蓋の中で反響する。酔いそうだ。頭がくらくらする。高い高い場所から見下ろす谷底のように。その谷底の奥底で、彼が蹲って泣いている。それに手を差し伸べることはおろか、見下ろすことも出来ずに顔を背けた自分。

 目を逸らすんじゃない、気遣っているだけだ。プライドの高い彼は弱い部分を見せたくないはずだから、見ないようにしてやっているだけだ。そう、だろう。そう己に言い聞かせ、自らの掌を見つめながら、微かに震えた指先をぎゅっと拳の中に握り込む。しかしそうではないことを、彼はずっと前から知っていたのだ。自分が彼との間に一枚置いた透明な壁。
 万能のはずのこの力が、彼にはうまく使えない。笑って欲しいと、そんな顔をしないで欲しいと、願ったところで彼に伝わりようがない。ただ手を伸ばすことに臆病になって、そんな自分を、格好悪く、惨めに思ったものだから尚更そんな自分を覆い隠そうと彼との間に距離を置いた。指は硬く掌の中に隠して、愛を疑ったまま。本当はずっと分かっていたのだ。
 指は願うための道具ではない。掴むものだ。本当に欲しいものだけを。
 肝心な時に役に立たない自らの指を拳にしてドアに叩きつけ、弾みを付けて部屋から駆け出す。どんな言葉を尽くそう、部屋に閉じ篭もってしまったであろう彼をこの手に捕らえる為には上っ面の言葉では足らない。届かない。硬く握られた掌の中で脈打つ指先が、考えるよりも先に彼を求めている。
 手を伸ばし、掴む。それは願うよりも簡単で、早い。










大好きな漫画を見ていて「クロスマイフィンガー」ってのを思い出したので。特殊能力って…いいですよね。サトラレとか、サイコメトラーとか。
2009/07/18