□みみかきしてもらおう□

「……ちょ、動かない!」
「って!」
 いつものようにドアを開けようとした悟空は、突然響いた二人の声に驚いて手を止めた。そして再びそろそろとドアを開けて部屋の中に身体を滑り込ませる。そして静かにドアを閉めた。それでも部屋の住人は気付いたのか、窓辺の方から声が掛かった。
「悟空?」
 天蓬の声だ。声のする方へと足を進めた悟空は珍しい光景に目を瞬かせ、興味津々といった眸でそれを眺めた。
 天蓬が床に座り込み、その膝の上に捲簾が頭を乗せて寝そべっている。そして天蓬は、手に持った細い棒を捲簾の耳の穴に差し込もうとしているところだった。悟空にとってはその光景も珍しく、その棒も初めて見たものだった。
「天ちゃんたち、何してるの?」
「これはね、耳掻きしてるんですよ」
「みみかきって?」
「こういう細い棒で、耳の穴の中からごみを取り除くんです」
 その天蓬の解説に悟空は仰天した。そして慌てて二人の元へと走り寄って、天蓬と同じように捲簾の顔を覗き込んだ。
「ケン兄ちゃん、耳の中にごみがあるの!?」
 慌てて顔を青くしている悟空をきょとんとして見つめていた天蓬は、堪え切れなくなったように噴き出した。何故笑われているのか分からない様子で目を瞬かせる悟空に、捲簾は横になったまま少し気の毒そうに天蓬を窘めた。
「おい天蓬……」
「あ、はいはい、すみません……あのね、悟空。耳の中にごみがあるのは捲簾だけじゃなく、僕や悟空もなんですよ。誰でも、黙っていても自然に溜まっていくものなんです」
「俺も?」
「ええ、でもそのごみが溜まったままだと音が聞こえにくくなったり痒くなったりするでしょう?だからこうやって耳掻きをしてごみを取るんです」
「へえ〜!」
 素直に感嘆の声を漏らす悟空ににこにこしていた天蓬は、膝の上でもぞりと身動ぎした捲簾に目敏く反応し、ガッとその頭を手で押さえ付けた。捲簾が喉の奥から鈍いうめき声を漏らす。そしてもがくように手を伸ばして、自分の頭を押さえ付ける天蓬の手を掴んだ。
「……もう動かないから、離せ……頭蓋骨がずれる……」
「絶対ですね」
「ああ……」
 そうしてやっと天蓬が手を離すと、今度は捲簾はぴくりとも動かなくなった。しかし誰も気遣ってくれる人などこの室内にはいない。漸く大人しくなった捲簾を満足げに見下ろした天蓬は、再びそっと耳の穴を覗き込んで耳掻きを再開した。その一挙一動を悟空は興味津々に見つめている。顔を近づけたり、目を眇めたり。そうしてやっと納得いくだけ耳掻きをし終えたのか、天蓬は身体を起こして小さく首の骨を鳴らした。そして再び捲簾の耳元に顔を寄せた。
「……っ、止めろっての」
「何それ何それ!」
 見たことのない行動に目を輝かせた悟空に、天蓬は殊更楽しそうににっこりと笑った。そして僅かに赤く染まった捲簾の耳を指先でつんつんと突付く。慌ててその手を撥ね退ける捲簾に楽しげに微笑んでから、悟空を見上げた。
「取り終わったごみを飛ばすためにこうやってふーってするんですよ」
 そう言ってから再び天蓬はいたずらに捲簾の耳に息を吹きかける。その度に暴れる彼の脚が近くの本の山を蹴り倒しそうだと悟空は一瞬ひやりとした。しかしとうとう我慢の限界か、がばっと上体を起こした捲簾に驚いて再び顔を前に戻した。顔を赤くした捲簾が耳を押さえて天蓬を睨み付けている。それに対して天蓬は本当に何も分かっていないかのようにきょとんとした目をして、そんな捲簾を見つめ返していた。それが演技なのか、それとも本当に何故捲簾が怒っているのか分かっていないのか、悟空は計り兼ねた。
「あー、お前にやらせたのが間違いだった!」
「そんな……こんなにごっそり取れたじゃないですかー、あ」
 そう言い訳してから、ふと黙り込んだ天蓬は、至極真面目な顔で捲簾を見つめた。
「感じちゃったとか?」
「かんじ……?」
 無意識に悟空が復唱する中、そのまま固まっていた捲簾は次第にぶるぶると肩を震わせ始めた。何事だろうと悟空も見守る中、天蓬は少しだけ身体を屈めて捲簾の顔を覗き込んだ。その瞬間、背中を背後の壁に押し付けられた天蓬は驚いて目を瞬かせた。悟空も思わず息を呑む。喧嘩が始まるのではないかと思ったのだ。はらはらしながら彼らの様子を窺っているとどうも、二人の間に喧嘩とは違った、しかし妙に切迫した雰囲気が漂っているのを感じ取った。
「もしそうだったら処理のお手伝いでもしてくれるのか? 天蓬元帥は」
「やめなさい、あなた自称良識派でしょう、子供のいる前で教育上良くないことは……」
 握り合わされた二人の手。しかしそれは色っぽいものではない。力一杯押し返し合っているせいで二人とも手には血管が浮かび、ぶるぶると震えている。視線を下にずらすと、何故か天蓬の両脚の間には捲簾の片膝が押し込まれており、天蓬はそれを何とか懸命に押し出そうとしていた。
(……何してるんだろ……)
 プロレスごっこだろうか。だったら混ぜて欲しいななどと思いながら、暫く悟空は取っ組み合う二人を静かに眺めていたのだった。



□いちばんすきなのだーれ?□

「天ちゃんがいちばん好きなのって誰?」
「やだなぁ、勿論悟空ですよー」
「……何かケン兄ちゃんが怒ってるよ」
「うふふ、放って置いてくださーい」
「じゃあ、ケン兄ちゃんがいちばん好きなのは誰?」
「はっはっは、勿論悟空に決まってるだろ」
「……天ちゃん、笑顔が怖いよぉ」



□しんぱいしないで□

「最近、やけに悟空がこの部屋でうろついてねぇか?」
 そう呟く捲簾に、執務机についていた天蓬は一瞬だけ視線をちらりと上げて、小さく溜息を吐いた。手元には判子待ちの書類の山。それも、ただ判子を捺せばいいだけのものではない。一通り目を通して、元帥という立場を踏まえて判断しなければならないことばかりだ。しかも一応機密書類である。そうでなければ判子捺しだけでも捲簾に押し付けてしまいたい気分だろうが、部下に易々と見せられるものではない。天蓬は手にしていたペンを放り出し、椅子に座ったまま伸びをした。
「金蝉も忙しいらしいですよ、判子捺しで。忙しいのは同じだっていうのに……」
 そう小さく愚痴を呟いて、天蓬は再びペンを執った。金蝉も天蓬も忙しいのが分かっているのか、悟空はいつも大人しく部屋で本を読んだり寝転んだりしている。こういう時に自分が遊んでやれればいいのだが、如何せん勤務中である。金蝉がどれだけの忙しさで天蓬に悟空を押し付けているのかは知らないが、この状況では悟空も居心地が悪いに違いない。
「……ちょっと休憩したら? コーヒー淹れてやるから」
「すみません、ありがとうございます」
 珍しく素直に感謝の言葉を口にする天蓬に、その疲労の濃さを感じて、捲簾は一度だけ天蓬の頭を撫でてからコーヒーを淹れに部屋を出た。そして簡易のキッチンに向かい、豆の袋を取り出した。
 そしてコーヒーを淹れ、カップを手にして部屋に戻ろうとすると、天蓬が何やら部屋の奥の方を向いているのが見えた。誰かと話をしている。悟空だ。別に身を隠す必要はないのに何だか今自分が踏み込んではならない気がして、捲簾は再びキッチンへと戻り、ひっそりとそこから部屋の様子を窺った。手にしていたカップが邪魔だったので、熱いうちに自分で飲んでしまおうと啜りながら、悪いと思いながらも二人の会話に耳を傾けた。
「金蝉は気が短いですからね、今は忙しくて気が立っているんです。もう暫くして、仕事が済んだらまた遊んでくれると思いますよ」
「本当? でも、最近いつも俺のこと邪魔だっていって追い出すんだ。……天ちゃんだって、忙しくて疲れてるのにさ」
 聡い子供だ。自分の置かれた状況がやはり分かっていたのだろう。暫しの沈黙の後、天蓬が小さく笑った気配がした。
「……分かっちゃってましたか」
「分かるよ! 俺がいると、しゅーちゅーできないだろ?」
「金蝉が言ったんですか?」
「うん、うるさいから、仕事にしゅーちゅーできないってさ」
「そうですねぇ。悟空が部屋にいると、今何してるのかなって気になって、時々手が止まることはあるかもしれないですね」
「じゃあやっぱり俺……」
「でも、悟空が元気で遊んでいるのを見ると、すごく明るい気分になりますよ」
(嘘吐きめ)
 近頃、悟空の元気に遊ぶ姿を見つめては苦しげに顔を顰める姿を何度も見ている。その表情の裏で一体何を愁えているのか、何となく分かっていた。悟空の姿を見る度その不安が頭を過ぎって手が進まないことなど誰より分かっていた。しかし何も知らない悟空に今突きつけるべき問題ではない。黙っていても、そのうち伝わってしまうだろう。
「だから、悟空は何も心配しなくていいんですよ」
 悟空が笑ったような気がした。天蓬もそれに笑い返しただろう。
(……阿呆か)
 コーヒーを一口啜った。苦い味が口中に広がって捲簾は顔を顰める。一人で格好付けて、全て背負い込むのが偉いとでも思っているのか。その荷物の一欠けすら自分に分けてはくれないくせに。



□だれにもないしょでちゅーしよう□

「……キスだけ」
「だーめーです。悟空がそれ見て、男同士でキスするのが普通なんだ〜って思い込んで金蝉にキスでもしたらどうなると思います? 顔を真っ赤にして怒鳴り込んできた金蝉に長々とお説教される羽目になるでしょう。面倒臭い」
 最近金蝉は、朝早くに悟空を天蓬の部屋に預け、そして日が暮れた頃に迎えに来るということを繰り返していた。天蓬の部屋を保育所か何かと間違えているのではなかろうか。それは確かに、子供一人に対して保育士が二人もいれば安心というものだろうが。預けられている側としては安心も何もない。仕事に加え、子供の動向の確認。そして二人の時間を奪われたことによる、諸々の欲求不満。
「……あの男、俺たちに突然仕事が入ったらとか考えねえのか」
「そうなったら、この部屋に鍵をかけて悟空を置いていくほかないですね」
 どちらにしても危ないことには違いない。しかし、悟空が可哀想なのは分かるが今の自分の状態もかなり可哀想だと思う。毎日齷齪働かされて、やっと金蝉が悟空を迎えに来たかと思えば、天蓬は疲れたと言ってさっさと寝てしまう。まあはっきり言うと、色々なものが溜まっている。ストレス、性欲など、積もり積もって許容範囲を越えつつある。
「今日あなた手が空いてるでしょう、悟空と遊んであげて下さいね」
 休日に子供の相手を任された父親の気分になりながら、それでも口答えすることはなく捲簾は悟空が床で絵本を読んでいる方へととぼとぼ歩いていった。そしてそんな後ろ姿を静かに見つめていた天蓬は、ペンを手にとって小さく微笑んだ。

「いいお父さんしてますね、捲簾。あ、おじさんですか」
「あんだって?」
 それから一時間ほど経った後、白衣のポケットに両手を突っ込んだ天蓬がぷらぷらと歩いてきた。ちらりと視線をずらしてみれば、天蓬が溜めに溜めた書類の山を事務官が二人掛かりで運び出しているところだった。天蓬はその二人に労いの言葉を掛け、目一杯の愛嬌を振り撒いてからドアを閉めた。あれだけ色々やっても文句を言う部下がいないのは実力と人望のほか、あの“フォローの巧みさ”があるからだ。相変わらず巧い奴だと思いながら、膝の上で絵本の続きをねだってバタバタ暴れる悟空を窘めた。
 そして事務官達を見送ってから戻ってきた天蓬は、疲れたように溜息を吐いて伸びをした。そして豪快にこきこきと首を鳴らす。
「全部終わらせたのか」
「ええ……もう一生分くらい仕事した気分です」
「これからもまた同じようにぐうたら生活してたらすぐにあのくらい溜まるっつの」
「天ちゃんおつかれさまー、疲れた?」
 捲簾の膝の上でばたばた暴れるように手足をばたつかせながらそう言う悟空に、少しだけ天蓬は表情を緩めた。そして悟空の前にしゃがみ込み、その少し癖のある茶色い髪を撫でて微笑む。
「ありがとうございます、大丈夫ですよ」
「おーい、俺に労りの言葉はねぇの?」
 前にある悟空の髪の毛を突付きながらさり気なく言ってみると、天蓬は呆れたような顔をした。
「あなたは悟空と絵本読んでただけでしょうが」
 悟空の遊び相手を押し付けておいてその言い草はない。流石にむっとした捲簾は、その一瞬で何とか彼を一泡吹かせる方法を考えた。そしてそれを実行すべく左手で自分の膝の上に座っている悟空の視界を覆った。突然のことに悟空はきょとんとして固まっている。それを見て、流石というべきか一瞬で天蓬は身の危険を感じたように後退りしようとした。しかしそれを許さず腕を強く引くと、バランスを崩して彼はこちらに倒れ掛かってくる。そしてその慌てた顔を引き寄せ、文句を言おうと半開きになった唇に自分の唇を重ねた。天蓬が抵抗するのも無視し、拒む柔らかな唇に舌を差し入れて嬲っていると、捲簾に視界を塞がれていた悟空がやっともがき始めた。その声を聴いて我に返ったのか、天蓬は更に暴れ出す。流石に片腕ではその抵抗を止められなくなって、捲簾がぱっと手を離すと、怒りか羞恥か、顔を赤くした天蓬は口元を白衣の袖口で拭うようにしながら、座ったままじりじり後退りをした。その姿を見て少しだけ溜飲を下げていると、左腕で押さえ付けていた悟空の存在を思い出した。
 そしてやっと目を解放された悟空は、あまり状況が飲み込めないようにきょろきょろと捲簾や天蓬を見渡して、最終的に混乱したように目を瞬かせた。そして不思議そうにじっと天蓬の顔を見つめる。
「天ちゃん、何か食べたの?」
「え? え、どうして……」
「唇がなんか赤いから……」
 捲簾のささやかな復讐は成功に終わった。



□てんちゃんのひみつ□

「天ちゃんは時々どこにでかけてるの?」
 このところ、ほぼ毎日部屋に入り浸っている悟空は、定期的に天蓬がどこかへぶらぶらと出掛ける法則に気付き始めたようだった。その純粋な質問に、捲簾は少しだけむっと顔を顰めた。天蓬は今日も先程出掛けたばかりである。いつも天蓬がぼけーっと腰掛けている椅子は、主をなくして窓の下で桜風に吹かれている。
「上官のところだよ、あの生っ白くていけすかねぇ仏頂面の男のところ」
 見たことあんだろ、と訊ねると悟空は少し考えた後に大きく頷いた。
「うん、あの髪が長くて目が赤ーい……でもどうして天ちゃんがあの人のところに行くの?」
「書類を届けないといけないから」
「書類……って、あの封筒?」
「そ」
 ふーん、と一旦納得したようだった悟空は、再び納得が行かないというように首を傾げてみせた。
「でも、あれを渡すだけなのにどうしていつも遅くなってから帰ってくるの?」
「……」
 それが、捲簾としても少し納得のいかないところだった。天蓬は一旦書類を提出しに出掛けると二時間は帰ってこない。その間敖潤の部屋でいったいなにをしているのかは不明である。一度問い質してみたことはあるが、上手く誤魔化された感がある。というより、捲簾が目先の餌につられて答えを求めるのを止めたからだが。しかし逆に考えると、天蓬はそこまでして捲簾の関心を逸らしたかったということでもある。それが何とも……何だか納得が行かない。ただ本を読んでいるならそれでもいいし、話をしているというならそれでもいい。それなのにわざわざ隠すというのは、話せないようなことでもしているのではないかと疑ってくれと言わんばかりの行為だ。
「何してるんだろう……おいしいものでも食べてるのかな?」
「やぁ……それはないだろ」
「じゃあ楽しい本読んでるのかな」
「うーん……」
「すごく楽しそうにでかけるからさ、どうしてなのかなーって思って天ちゃんに訊いてみたんだけど」
「……訊いた!?」
 あっさりと言った悟空に捲簾は目を瞠った。悟空は何でもないように目を瞬かせている。その純粋な顔つきを少し恐ろしいような思いでじろじろと見つめた。悟空は不思議そうに首を傾げている。
「な……何て?」
 そう捲簾が恐る恐る訊ねると、首を傾げながら目をくりくりとさせていた悟空は、にいっと笑って言った。
「だーいすきなひとに会いにいくからだってさ!」
「……」
 それは単に天蓬が悟空をからかっただけだったのだが、その晩天蓬はエラい(主に性的な)目に遭うことになる。しかし結局、天蓬がいつも出掛けた先で一体何をしているのかは、謎のままである。



□おしごとおつかれさま□

「あー……辛いですね、歳かなぁ」
 ソファに座って天蓬にもらった月餅を食べていた悟空は、辛そうな溜息と共に漏れた天蓬の呟きに顔を上げた。机についている天蓬の様子をこっそり窺ってみると、彼は痛そうな顔をして肩に手を当てていた。まさか怪我をしたのでは、と慌てて悟空はソファから立ち上がって机へと駆け寄った。
「天ちゃんどうしたの? 痛いの?」
 心配で心配で仕方がない風に悟空が訊ねると、天蓬は一瞬呆気に取られたようだったが次第に表情を緩めて笑った。
「平気ですよ、怪我じゃないですから。肩が凝っただけです」
「かたがこる? ……って、何?」
「うーん……たとえば、僕はいつもこうやって仕事をしながら同じような格好ばかりしてるでしょう? そうすると身体が固くなって、肩の筋肉が硬くなったみたいな感じになるんです」
 そうやって噛み砕いて説明してくれる天蓬をじっと見上げていた悟空は、やっと意を得たとばかりに手を叩いた。
「あ、分かった! 俺もじっとして本読んでると急に動いた時に何かからだがばりばりする」
「そんな感じです。だからちょっと肩が痛くって」
 そう言って笑う天蓬を見つめていた悟空は、突然思い付いたように彼の背後に回った。そして不思議そうに振り返る天蓬ににこにこと笑って、彼の両肩に手をかけた。
「まっさーじしてあげるね」
「え? ちょ……」
 戸惑う天蓬も意に介さず、悟空は両手で交互に天蓬の肩を揉み解し始めた。正直なところ彼の怪力では余計に痛くなってしまうのでは、と危惧していたのだが、思った以上に程良い力で揉み方も巧い。かちかちに固まっていた肩が弛緩していくようだった。何だかまるで一気に年を取ったような気分だが、今は黙ってその厚意を受け入れることにして目を瞑る。
「天ちゃん、きもちいい?」
「んー……もうちょっと下かなぁ」
「んー、じゃあここ?」
「あ、もう少し右」
「ここ?」
「ぁ、……」
 短く声を漏らした天蓬に、ひょっとして痛かっただろうかと反射的に悟空は手を止めた。すると彼は申し訳なさそうに振り返った。
「あ、痛かったんじゃないですよ」
「じゃあきもちよかった?」
「ええ、気持ち良いです」
「じゃあもっと頑張る!」
 その意志を表すように腕捲りをした悟空は、再び華奢な肩に両手をかけた。

「天ちゃん、ここきもちい?」
「ん……ぁ、はい、気持ちいいです」
「あ、やっぱりこっちかな?」
「っ……そこは、ちょっと痛い、です……」
「あ、ごめん! 優しくするから……」
 本棚から抜き出した本を再び乱暴に押し込み、靴の音を態と大きく立てて立てて、捲簾は振り返った。視線は鋭く、二人の方を睨み付けている。しかし二人とも捲簾のことなど全く気にしていない様子である。
「……流石にそんなんで誤解したりはしないけどなぁ、天蓬」
「ん……何、ですか……?」
 ふにゃふにゃに蕩けた表情をしていた天蓬は、捲簾の声にのろのろと顔を上げた。いつも白い滑らかな頬がうっとりと赤く染まっている様が欲を煽る、と同時に、今の状態では腹立たしいものでしかなかった。先程まで机のところで肩揉みをしていた悟空は更に進んで、今度はソファにうつ伏せになった天蓬の背中をマッサージしていた。飽きることなくせっせとマッサージに精を出している悟空を呆れたように見て、捲簾はこめかみを押さえながら本棚に寄り掛かった。
「悟空はともかく、お前はわざとだろ」
 わざとらしい台詞を選んでいることくらい分かっている、と言外に告げると、天蓬はうっとりした表情のまま小さく首を傾げた。そしてふと悟空が善い場所を押したのか、気持ち良さげに目を細めた。その表情に捲簾はますます焦れる。
「ん……だって、最近腰の痛くなる出来事が、多いんです……」
 耳の痛い捲簾は、流石にきまり悪くなって顔を逸らした。原因の一因である自分は何も言い返せなかったりする。
「……労ってやってるだろうが」
「ケン兄ちゃんもまっさーじしてあげてるの? 天ちゃんは肩が凝ってつらいんだって」
 天蓬の腰をマッサージしていた悟空が顔を上げてそう訊ねる。その言葉に捲簾は顔を上げて、暫く考え込んだ。
「……うん、まあマッサージはマッサージでも性感マッ」
「黙りなさい」
 大真面目に答えかけた捲簾に、天蓬の鋭く冷たい制止が入る。それきり口を噤まざるを得なくなった捲簾に、悟空は不思議そうに首を傾げた。続けて与えられる指圧に、捲簾が黙ったのを確認した天蓬は再びゆったりと目を細めた。



□ひつじがいっぴき□

 今夜もまた窮屈で歪な川の字であった。今日は蹴り落とされないようにと捲簾は横にテーブルを配置し、念のためにその上に毛布を敷いていた。隅の壁際に転がった天蓬は悠々と本を読んでいる。そんなことをしてまた目を悪くするに違いないのだ。そう思って溜息を吐きつつ、捲簾はベッドの反対側から布団の中に身体を滑りこませた。そしてそのまま三人とも静かに眠りに落ちていくのだろうと思っていた。しかし、暫くして突然二人の間で頭の上まで布団に潜り込んで小さくなっていた悟空がひょこっと顔を出したのである。
「天ちゃん、ケン兄ちゃん、眠れないー……」
 昼間に沢山遊んで興奮しているせいか、夜になって布団に入っても眠気が訪れないらしい。しかしだからといって今の状態で前のように本の読み聴かせをしたりしたらますます眠れなくなるに違いない。本を閉じ、枕元に置いた天蓬は困ったように唸った。
「うーん……困りましたね、どうしましょう? お風呂は入ったし、ホットミルクは試したし」
 どちらも不眠には良いとされるものだ。しかしどちらも悟空には効果がなかったのである。
「そうは言ってもなあ……羊でも数えるとか?」
 どこかで聞いたことのあるその提案をしたのは気まぐれだった。しかし彼はそれを名案だと褒め讃え、早速悟空と共に実践し始めたのである。二人とも勿論真面目である。その横に居心地悪く寝そべりながら、とりあえず二人を様子を見ていようと黙っておくことにした。
「ねえ、どうしてヒツジを数えるの?」
「さあ……こう、何て言うか、ふわふわもふもふしてていい感じに気持ち良さそうだからじゃないですかね」
 これで真剣だというのだから嘘みたいな話だと思う。それから二人のきりのない羊生産計画は始まった。
「ヒツジが3629匹……3628匹……3626匹」
「こらこら悟空、羊が逃げていってますよお、ちゃんと囲わないと……3630匹……3642匹……3654匹」
「天蓬、一ダースずつ増えてる」
「ラム肉一ダースですか……それは何ポンドですか? 丸焼きにして食べても構いませんか」
「いや、もう何言ってんのか全く分からんし」
「ラム肉が3638グラム……3639グラム……3640グラムぅ」
「おいおいおい悟空なんか変わってるし!」
「お腹、空いたなああ」
 辺りに激しい轟音……もとい悟空の腹の音が響く。僅かに布団の中が振動したようにすら思える、まさに轟音だった。
「ヒツジ、たべたいなぁ」
 まさかこんな時間から食事をさせなければならないのだろうかと捲簾は慌てて身体を起こした。そして悟空の顔を覗き込む。
「……寝言かよ」
 悟空は実に健やかな寝顔で眠っていた。どうやら羊を数える方法は功を奏したらしい。
「おい天蓬、やっと寝た……って」
 天蓬も眠っていた。どうやら天蓬の方も寝言だったらしい。実にリアルな寝言だった。ぐっすりと眠りに就いた二人の横で、ふと捲簾は我に返る。しんと静かな室内で、二人の寝息だけが聞こえていた。
「……俺が眠れないんですけど」










とりあえず1〜3で出るネタは出し尽くした感です。ネタ提供もありがとうございました。     2007/03/31
5月27日、最後に一つ追加。二人の中の人の出したCDの話を聞いたのでつい。