□おふろにはいろう□

「あーっ!」
 そう悟空が叫んだのに続き、ガチャンと割れ物が床に落ちるような音を聞いて、慌てて振り返ると、頭の上から真っ黒な悟空と、白衣の胸から下を真っ黒にした天蓬がいた。机に出来ていた書類タワーがバランスを崩して崩壊し、置いてあったインク壷を倒してしまったらしい。顔を擦って目を開けようとする悟空を慌てて止め、立ち上がっていいのかどうしていいのか戸惑っている様子の天蓬を見て倒れたままの瓶を戻してやる。
「あー、悟空、いいから風呂に入ってこい。ちゃんと顔洗って、目も綺麗な水で洗うんだぞ」
「はーい」
 目を瞑ったまま手を上げてそう返事をし、よろよろとどこかへ向かって歩き出そうとする悟空を、天蓬が慌てて腕を引いて止めた。
「あ、待って待って。悟空、一緒に入りましょう」
「え?」
 思わず声を漏らしたのは悟空ではなく捲簾だ。悟空は驚いたように目を瞑ったまま顔を上げる。そして「いいの?」とでもいうように首を傾げる。目の見えない悟空に了承の意を伝えるように頭を撫でてやる。手が真っ黒になってしまったものの、すぐに洗い落とせるのだからまあいいかと考えて天蓬は悟空の小さな手を取った。そして捲簾にひらひら手を振って、悟空が本の山に躓かないようにゆっくりとバスルームへ向かって歩いていった。
「捲簾、着替えをよろしくお願いしますね〜」
 そう言い残した天蓬は暫くしてバタン、とドアが閉まる。一人だだっ広い部屋に残された捲簾は、崩れた書類の山と、床に豪快に零れた黒いインクを見下ろして大きく溜息を吐いた。とりあえず書類を汚れないように片付け、零れたインクを掃除しなければならない。そして天蓬の着替えを引っ張り出して、金蝉に頭を下げて悟空の着替えを借りてこなければならない。
(……災厄だ)

 脱衣所に入った天蓬は、とりあえず目の開けられない悟空の上着を引っぺがす。そして自分で下を脱ぎ始めるのを見計らって、自分も黒く汚れてしまった白衣からそっと腕を抜いた。昨日卸したばかりだったのだが元の白さに戻るだろうか、と少しがっかりする。しかし捲簾の染み抜きの腕は主婦並みなのでそれに期待することにして、盥に水を溜めてそれに浸しておく。
「天ちゃーん、脱いだよー」
「あ、はいはい」
 まだ白衣しか脱いでいなかったが、悟空をそのままにしておくわけにもいかなかったので先にバスルームに入ってシャワーを出しながらバスタブに湯を溜め始める。シャワーが水から湯へと変わったのを確かめてから、脱衣所に立っている悟空を呼んだ。
「先にシャワーで頭と顔を洗ってて下さいね」
「んー」
 悟空にシャワーヘッドを受け取らせてから浴室のドアを閉めた。そしてやっと自分のワイシャツを脱ぎ始める。それを洗濯籠に放り込み、ベルトに手を掛けた。淡色のパンツも、白衣に遮られていた部分から下がべったりとインクで汚れてしまっている。こちらも捲簾に何とかしてもらうことにして、さっさと脱ぎ捨ててしまった。そして最後に眼鏡を外して棚に置き、水音のする浴室へと足を踏み入れた。
「ちゃんと洗えてますか?」
「ううん、よく分かんない……」
 並んだボトルのどれがシャンプーかも分からないようだ。手当たり次第に手を伸ばしてみている悟空に小さく笑って、彼を椅子に座らせた。そしてシャンプーのボトルを何度か押して、手に取ったそれを泡立てながら濡れた小さな頭に付けて洗い始めた。茶色の少し硬質な髪を地肌から揉むようにして洗っていると、顔を洗い終えた悟空がぱっと顔を上げた。
「きれいになった?」
 髪を洗っていた天蓬は、突然振り返った悟空に驚き、そして思わず笑った。狸のように目の周りだけが黒いままだったからだ。それを指摘すると慌てて悟空は前を向き、ばしゃばしゃと顔を洗い始めた。
「石鹸を使うといいですよ」
 悟空は念入りに何度も何度も石鹸で顔を洗っていた。それを微笑ましく見つめながら髪を洗っていた天蓬は、すっかり泡が灰色なことに気付く。一旦泡を流すことにして、シャワーヘッドを手に取った。そして悟空に一言断ってから、コックを捻る。一気に噴き出した湯で、泡だらけの髪を一本一本愛おしむように丁寧に流す。そしてすっかり綺麗になると、悟空はいそいそと天蓬の後ろに回って今度は天蓬を椅子に座らせた。されるがままになっていた天蓬は、一体何を企んでいるのだろうと笑いながら悟空を振り返った。
「どうしたんですか? 悟空」
「今度は俺が洗う!」
 そう言って悟空は張り切った様子でシャンプーを取った。何だか思い切りごしごし洗われそうな気がして恐ろしくなる。金蝉が以前束単位で髪を抜かれたという話を聞かされていたから、尚更。金蝉は兎も角、自分が禿になるのは嫌だ。
「……優しくお願いしますね〜」
「うん! まかして!」
 しかし、悟空は存外優しく髪を洗ってくれた。人に髪を洗ってもらう心地良さに目を細めていると、ふと突然彼の手が止まったのに気付いた。不思議に思って少し振り返ってみると、子供のくりくりした眸がじっと自分を見つめている。
「どうしたんですか?」
「……天ちゃんって、肌すべすべしてるなー。すごく白いし」
「は? え、ああ……ありがとうございます」
 軍人ということもあり、常に露出する腕や顔などはそれなりに焼けているものの、普段あまり表に出さない背中などは白いままだ。自分から見えない背中のことを何故知っているかと言うと、毎度毎度あの馬鹿が実況で解説してくれるおかげである。そのせいで知らずともいいことまで知ることになってしまったのだ。しかしそれを悟空に純粋に指摘されると何と答えていいのか分からない。
「何かちょっと赤くなってて、おいしそーな色ー」
「はっ!?」
 突然大きな声を上げた天蓬に、悟空は驚いたように目を見開いた。その顔を見て冷静さを取り戻し、天蓬は誤魔化すように笑って俯いた。過剰な反応をすることはない、悟空はただ単純に美味しそうな色だと思っただけなのだ。そう、単純に、純粋に。断じて、あのエロガッパのような、性的な意味で言ったのではなく。
(〜〜〜〜〜っ!)
「て、天ちゃーん?」
 羞恥と怒りに震えながら更に赤味を帯びた天蓬の顔を後ろから見て、悟空は困ったように首を傾げた。



□おふろあがりのおやくそく□

 二人は漸くほかほかと湯気を立てながら風呂から上がってきた。机の上の整理と床の掃除を済ませて、疲れてソファに寝転んでいた捲簾はドアの開く音に緩慢な仕草で身体を起こした。そして更に疲れたように溜息を吐いてから、低く唸った。
「二人とも髪を拭け!」
 髪からぱたぱたと水滴を垂らしっぱなしの二人は、何故怒られたのだろうというようにきょとんとして目を瞬かせ、顔を見合わせた。
「あー悟空、肩が濡れちゃってますよ」
「天ちゃんもだよ」
「呑気だなお前らはー……」
 そう言って頭を掻きながら二人に近付き、机の上に置いておいた乾いたタオルを二枚広げた。そしてそれを二人それぞれに被せ、ぐりぐりとタオルの上から二人の頭を押し付ける。
「いてててっ! 分かったよ、ちゃんと拭くよー!」
「いたたたたた……何するんです捲簾、もし僕がハゲたらあなたの髪の毛毟って植毛しますよ」
 よい子の返事と、可愛げの欠片もない返事に溜息を吐きつつ、捲簾は二人から手を離す。するとタオルの下から面白くなさげな表情が二つ、顔を出した。拗ねたような顔をしながらも素直にタオルで自分の髪を拭こうとする悟空に対して、天蓬はじとっとした目で捲簾を恨みがましげに見つめて来る。
「……何?」
「いいえ、別に……」
 つまらなさそうに言って、天蓬は視線を逸らした。そしてその先で乱暴に自分の頭をタオルで拭いている悟空を見て、その手からタオルを取った。不思議そうに振り返るその小さな頭を前向かせて、取ったタオルを再び被せる。
「そんな乱暴にしたら金蝉みたいにハゲちゃいますよ。僕が拭いてあげますから」
 さり気なく暴言を吐きつつ、天蓬はソファに悟空を座らせた。そして自分はその隣に座って、優しく水分を吸い取るように拭き始める。その天蓬の髪からはぱたぱたと水滴が零れ落ち、彼の卸し立てのシャツを濡らしていく。それをぼんやり見つめていた捲簾は、溜息を吐いてソファの背凭れに手を掛けた。
「……ったく、仕方ねえな」
 そう言って天蓬の首に掛かっていたタオルを抜き取り、広げて天蓬の頭に被せる。
「あれ?」
「黙って前向いてろ」
 突然タオルを取られて気になったのか、顔を上げようとする天蓬の頭を押し留めてそっと押し付けるように拭き始めた。手を止めていた天蓬は、暫くして再び手を動かし始めた。



□“ぎゅー”しよう□

 天蓬に髪を拭いてもらった悟空は、風の吹き込んで来る窓辺で顔に風を受けてはしゃいでいる。その間、殊更丁寧に捲簾に髪を拭いてもらいながら天蓬はその様子を眺めていた。悟空のまだ少し濡れた髪に桜の花弁が張り付いたのをどうしようかと頭の片隅で考えながら、しつこいくらいに自分の髪を弄り続ける男に溜息を吐いた。
「自分の髪が惜しいからって、そんなに丁寧に拭かなくてもいいのに……」
「何の話?」
「え? さっき僕があなたの髪を毟るって言ったから怯えてるんじゃないかと思って」
 そう天蓬が言うと、驚いたように目を瞠り手を止めた捲簾は、次に瞬間小さく噴き出した。笑われる謂れはない、と天蓬が不機嫌そうな顔になるのを見て捲簾は慌てて笑いを収めた。そして再び手を動かし始めた。
「確かに自分の髪は惜しいけどな……」
「いざとなったら坊主にしたらいいですよ。きっと似合いますよ〜」
「俺はどんな髪型でも似合うから」
「でも長髪は止めた方がいいと思いますよ?」
 そう言ってしまってから、実際長髪である自分が言うのはどうかと一瞬思った。しかし、捲簾は小さく笑いながら「そうだな」と呟いた。
 そうして暫く黙って髪を拭かれていた天蓬は、背後から近付いて来る小さな足音に気付いて目を開いた。すると、先程まで窓辺で風と戯れていた悟空がにこにこしながら目の前に立っていた。そして「どうしたんですか」と訊ねようとした瞬間、胸に柔らかい衝撃を感じて目を瞬かせる。捲簾も驚いたように手を止めた。悟空が胸に飛びついてきたのだった。一体何がしたいのだろうと声を掛けあぐねていると、天蓬の胸に顔を埋めていた悟空が嬉しそうに笑って顔を上げた。
「えへへ、天ちゃんとおんなじ匂いだ」
 そう言って悟空は再び鼻をふんふん鳴らしながら天蓬の身体に顔を埋める。そんな様子を呆気に取られて見ていた天蓬は、漸く事態を飲み込んで微笑んだ。そして眼下でもぞもぞと動く茶色い頭をよしよしと撫でる。子を持った経験などないが、こうしているとそれもいいという気分になって来る。すると、突然背後からの重みを感じて咄嗟に後ろを振り向いた。その間、奇妙な沈黙を保っていた背後の男が急に抱き付いてきたのだ。不機嫌な様がありありと分かる表情で、恨みがましげに天蓬をじっと見つめて来る。
「……何をやってるんですか」
「んー、悟空の真似ー」
 茶化した口調で言いながらも、怒っている。というか、拗ねている?
「仲間外れにされて淋しかったんですか? そうならそうと……」
「違うわ!」
 可哀想なものを見るような目で両腕を広げてみせる天蓬に噛み付いて、捲簾は疲れたように大きな溜息を吐いた。そして顔を上げた悟空の発した言葉と、その言葉に対する天蓬の返事にますます打ちのめされることになる。
「天ちゃん、ケン兄ちゃんとはぎゅーってしないの?」
「この人の場合、ぎゅーってするだけじゃ済まないんですよ」
 そんなほのぼのとした親子の会話をしている二人をよそに、肩を震わせて机に凭れていた捲簾は、とうとう切れた。
「……お前らはー!」
「わー! ケン兄ちゃんが怒った!」
 前から怪力の子供に思い切りしがみ付かれ、後ろから巨体の男に圧し掛かられ、真ん中に挟まれた天蓬はげっそりと溜息を吐いた。



□“あい”をしろう□

「ねー、ケン兄ちゃん」
「あん?」
「“愛”って何?」
 どうせ下らない質問だろうとたかを括っていた捲簾は、唐突に告げられた哲学的な質問に思わず口に含んだコーヒーを噴き出しかけた。しかも質問相手はまさかの悟空である。噴き出しかけたコーヒーを零すまいと飲み込もうとして誤った場所に入りかけ、つまりは噎せた。暫くごほごほと咳込み、何とか呼吸が整ったところで恐る恐る隣の悟空を見た。もしかすると悟空の皮を被った別人なのではないかとまで思えてしまう。
「突然何だ、お前どこからそういうこと……って天蓬か! あいつはどうしてこう碌なことをしない……」
 奴はいつも悟空に碌な知識を付けないのだ。面倒を作った元凶を恨みながら、どう説明したものかと腕を組んで悩んでいると、ふと背後に冷たい気配を感じてそのままの格好で固まった。それに反して悟空は顔を輝かせてそれを見上げる。
「あ、天ちゃん!」
「いらっしゃい、悟空。……捲簾、そろそろ白黒きっぱりはっきり付けなければならないようですね」
「え、ちょ……違うの?」
「違いますよっ! 一体どういう話の流れで僕が悟空に愛なんて教えるって言うんです!」
 そう言われれば確かにそうだ。真顔で悟空に愛の何たるかを語る天蓬……というのも全く想像出来ないわけではないが。しかし、では悟空は一体誰からそんなことを聞いてきたというのだろう。まさか、金蝉だろうか。あの金蝉がどんな顔をして悟空に愛を語って聴かせたというのだ。笑い話にもならない。立派な怖い話である。
「……じゃあ、誰が?」
 捲簾に答えを求められた天蓬もまた首を傾げ、その視線の先を悟空へと向けた。大人二人がどうしてそんな顔をするのか分からない様子で、悟空もまた小さく首を傾げた。そして、戸惑ったような指先で部屋の隅を指差してみせる。その先に積まれていたのは。
「アン●ンマンですか?」
「何だ、アンパ●マンってのは、そんな哲学的な内容なのか」
「そんなはずないんですけど……」
「ア●パンマンのうたでね、“愛”がともだちだって言っててね」
 首を傾げる二人に必死に悟空が言い募るのを聴いていた天蓬は、暫く考えてからやっと合点が行ったというように手を叩いた。
「オープニングテーマのことですか、ああなるほど」
「歌に“愛”が出てくるってこと?」
 頷いた天蓬は、下から妙に爛々とした視線を感じて固まった。見ると、捲簾もそれ以上視線を下に向けることなくどこか微妙な表情をしている。答えを求めて期待に満ちた視線を向けてくる子供の視線が痛い。無言のまま、暫く教師役の譲り合いをしていた二人だったが、漸く根負けした捲簾が肩を落として溜息を吐いた。
「……悟空、それもしかして金蝉にも訊いたのか?」
「うん、そしたら天ちゃんとケン兄ちゃんの方が詳しいって」
(丸投げしやがったなあいつ……)
 そう思いながらちらりと天蓬へと目を向ける。静かな微笑みの中にも隠し切れない怒りが満ち満ちていて、捲簾は見てはならないものを見た、とすぐに顔を逸らした。そしてじっと自分の方を見上げてくる悟空に対して言った。
「愛ってのはな、大好きってことだ」
「大好き? ……じゃあ、愛は“しゅみ”ってこと?」
「は?」
 突然飛んだ話に捲簾が戸惑っていると、隣に立っていた天蓬が捲簾の肩を叩いて首を振った。
「この前、趣味って何って訊かれて、大好きなことって答えたんです」
「あー……」
 一瞬戸惑ったものの、再び少し考え直してから捲簾は悟空の前にしゃがみ込んだ。
「あのな、趣味っていうのは『大好きなこと』なんだ。たとえば悟空だったら……食べることとかな」
「ケン兄ちゃんは釣りすること?」
「そう。で、こいつは変なもの集めることとか……」
「何ですって」
「いえ何でもないです……で、愛するってのは『大好きなもの』とか『大好きな人』に対する感じかな」
「もの? じゃあ、あんぱんとかにくまんとか、絵本とか?」
「そうだな」
「金蝉も?」
 先に噴き出したのは隣に立っていた天蓬だった。顔を上げると、謝るように手を挙げてみせたが笑いは止まらないままだ。肩が小刻みに震えている。しかしそれをよそに、答えの未だ得られていない悟空は催促するように再び繰り返した。
「ねー、俺が金蝉をあいしてるってことー?」
 再び繰り返されたことによってとうとう捲簾も我慢しきれなくなって噴き出した。
「こりゃ傑作だな!」
「いいんじゃ、ないですか? 嘘は教えてませんし……」
「これでいいの?」
「いいのいいの」
「じゃあ、金蝉に言ってくる!」
 顔を明るくした悟空はそう言って、ぱたぱたと駆け出していった。面倒事は押し付けられたものの、これでささやかな仕返しにはなるというものだ。満面の笑みで手を振って悟空を見送っていた捲簾は、「あ!」という声の後に何故か悟空が足を止めたのに目を瞬かせた。天蓬もきょとんとして見つめている中、悟空はにこにこ笑って振り返った。
「天ちゃんとケン兄ちゃんもあいしてるよ」
 そう言い残して、悟空は部屋を出ていった。ドアは大きな音を立てて閉まる。そして子供の足音が遠くへ去っていくのを呆然と聞きながら、暫く捲簾と天蓬はそのまま固まっていた。足音がすっかり聞こえなくなった頃、ぽつりと天蓬が呟く。
「……育て方、間違った……?」








ラブラブ親子。ともすると暗くなりがちですが、悟空がいるだけでこんなに違う。      2007/03/28