□ひらがなをおぼえよう□

「あ●ぱん●んの『ん』はこんぜんの『ん』ですよー」
「あ、そんで天ちゃんの『ん』だ!」
「正解〜」
 いつもの如く執務室から漏れ出て来る賑やかな声に肩を落とす。仕事をしろ、と思いつつ、会話のないように少し興味を引かれて、ドアの隙間からそっと中の様子を窺った。声はソファの方からする。少しドアを開き気味にして中を覗き込むと、ソファから大小二つの茶色い頭が顔を出していた。時折小さな方が元気にぴょこぴょこと動いて、大きな方が笑う度に少しだけ揺れる。
「んー……『ん』、あんぱんの『ん』、まんじゅうの『ん』、めろんの『ん』、さくらんぼの『ん』、ぷりんの『ん』、キャンディーの『ん』……」
「『ん』が書けるようになったら金蝉にいっぱいおねだり出来ますねぇ」
 どうやら字を書く練習をしているらしい。漸く話を飲み込んだ捲簾は、ドアを引いて中へと足を踏み入れた。その音にまず大きな方――天蓬が振り返って目を瞬かせる。そして少しだけ咎めるように目を細めてみせた。
「おや捲簾、ノックしなさいこの馬鹿」
「あ、ケン兄ちゃん! ……あ、ケン兄ちゃんの『ん』! 金蝉も天ちゃんもケン兄ちゃんも『ん』がいっぱいだ!」
 追って振り返った小さな方の悟空は、自分の発見に目を輝かせて天蓬に報告している。それをにこにこして褒めた天蓬は再び捲簾の方へ顔を向けた。そしてテーブルの上に大量に散乱している紙を指差した。
「ひらがなの練習をしてるんですよ」
「何でわざわざ『ん』からやってんの?」
「使用頻度が高いものからにしようかと思って……最初に『こ』をやって、今『ん』をやってるんです」
「……こんぜん、って書かせようとしてるわけ?」
「それでお手紙書いたら、金蝉感動して泣くと思いません?」
「思いません」
 目をキラキラさせてそう言う天蓬にあっさりそう返すと、彼ははつまらなそうに唇を尖らせた。そんな、あの男が泣くなんて気持ち悪いこと考えたくもない、という意図だったのだが、天蓬は自分の楽しい計画にケチをつけられたと思ったらしい。
「……捲簾冷たい……」
「あーっ! ケン兄ちゃん、天ちゃんいじめた!」
「いじめてねぇよ今は。それで、どれ? 悟空が書いた『ん』っつうのは」
 さり気なく付け足された「今は」という言葉に一瞬悟空は違和感を感じたものの、あまりのさり気なさにすぐに忘れてしまった。そして、ソファ越しにテーブルに散乱した紙の一枚を取り上げた捲簾は、その紙に書かれた謎の暗号のような文字に眉をきゅっと寄せた。
「……何だこのミミズののたくったような字は」
「あ、それはペンの使い方を練習した時のですよ。『ん』はこっち」
 そう言って渡された紙にはローマ字の『n』をしくじったような微妙な『ん』がいくつも並べられていた。解読出来なくはないが、上手くない。
「……手本が微妙なんじゃねぇの……」
「何か仰いました?」
 天蓬の字も下手ではない。寧ろ意志の強さを感じさせる強くきっぱりとした筆跡だ。しかし少々癖がある。まるで文字が体を現しているようでもある……。と、そこまで考えた瞬間、天蓬のひんやり冷たい視線が捲簾を真っ直ぐ射抜いた。
「……今すごく失礼なこと考えたでしょう」
「いやいや気のせいだって。ほら悟空、ペン貸してみ」
 捲簾の言葉に、悟空は素直に持っていたペンを手渡した。そして捲簾は手にしていた紙の空白に、『ん』を書いてみせる。それを真剣に見つめていた悟空は、捲簾から再びペンを受け取り、自らもまた字の練習を始めた。やはりそう簡単には上手くならない。唸りながらも何度も『ん』の練習をする悟空を静かに見つめていた天蓬は、ちらりと捲簾へ顔を向けた。
「筆跡が体を現すなら、あなたももう少し真面目で品行方正だったでしょうに」
「あ、褒めてる?」
「嫌味ですよ馬鹿」



□おてがみをかこう□

 上手下手は別として、何とかひらがなの読み書きをマスターした悟空は、天蓬からもらった画用紙を目の前に腕を組んで何か悩んでいた。手には水性のマジックペン。淹れて来たコーヒーを天蓬に渡した捲簾は、その小さな後ろ姿を 指差して天蓬に訊ねた。
「……何やってんの? あれ」
「金蝉にお手紙を書くんだそうですよ。小さいと書き辛いだろうと思って、画用紙とマジックにしましたけど」
 テーブルには他にクレヨンも置かれている。絵も描くつもりなのだろうか。
「飼い主に餌の量を増やしてくれって要求するのか」
「そんな賃上げの要求みたいに言わないで下さいよ。感謝の手紙に決まってるじゃないですか」
「感謝ぁ? 猿にそんな感情あんのか」
「……」
「冗談だっての……」
 本気で軽蔑した目をしてみせる天蓬に笑って訂正してから、やっと何か書き始めた悟空の背後からそっと紙を覗き込んでみた。すると即座にその気配を察したのか、悟空はばっと振り返り、見られないように腕で周りを囲ってから再び書き始めた。いつも開けっぴろげな悟空にしては警戒心が強い。そのことに驚いて天蓬を振り返ると、彼もまたそんな様子に少し驚いたように目を瞬かせていた。
 そうして暫く二人が本を読んだり書類に勤しんだりしている間に、せっせと手紙を書いていた悟空は何時の間にか静かになっていた。というか、テーブルにぐったりと伏せている。最後の書類に目を通して判子を押し終えた天蓬が、それを提出しに行こうと立ち上がった瞬間それに気付いた。そして悟空の元に歩き始めた足音に、床に座って本に目を通していた捲簾もまた顔を上げた。
「……どうした?」
「……寝ちゃったみたいですね。すみません、ブランケット取ってもらえますか」
「はいはい」
 よっこらしょ、と立ち上がって、部屋の隅に積まれたブランケットを広げつつソファへ近づく。そして天蓬が抱き起こしてソファに仰向けに寝かせた悟空の上に、広げたそれを掛けてやった。その時、ふと今まで悟空の寝そべっていたところにあった画用紙が目に入る。悟空が誰にも見られぬように死守していたそれが、今なら簡単に見られる。というか、黙っていれば目に入ってしまう。見ていいものか、と視線を天蓬に送る。すると彼も同じように良心と興味の狭間で迷っているようだった。
「……ちらーっとなら、いいと思わねぇ?」
「……ちらーっとですよ?」
「了解」
 頷き合い、そろそろと顔をテーブルの方へと近づける。大きな画用紙には黄色のクレヨンをめいっぱい使って書かれた人物と思しき絵。中央に紫の点が二つあるところを見るとどうやらそれは金蝉らしい。そしてその横にマジックで書かれた「こんぜんへ」の文字。その下には、一際大きな字で書かれたメッセージ。
「……悟空、『あ』の字間違ってやんの」
「いいんですよ、あれで」
 大きな文字で書かれた、「いつもありがとう」の言葉に、天蓬が小さくくすりと笑う。捲簾はそんな天蓬の表情を暫く見つめてから、再び画用紙に目をやる。そしてソファの上で、すっかり夢の中にいる悟空の頭をそっと撫でてやった。
「そうだな」



□ほっとけーきつくろう□

「……おい、大丈夫なのか」
「ホットケーキくらい楽勝ですよ。酷く焦げさえしなければ味は変わらないんですから」
「お前、なるべく綺麗に焼こうとかは思わないわけ」
 いつもの白衣を脱いで、代わりにブラウンのエプロンを付けた天蓬が腕まくりをしている。髪も後ろで一つに束ねてある。その隣ではどこから持って来たのか子供用のオレンジ色のエプロンをした悟空が踏み台の上に立って同じように腕まくりする仕草をしていた。目の前には既に合わせられた粉類の入ったボウル。そして卵と牛乳。それらはまず、この天界にあってはならないものだったりする。しかしそんなことを気にするはずもない天蓬は、あっさりと卵を割って菜箸で溶き始めた。その隣で悟空は、言いつけられた分の牛乳をカップで量っている。捲簾はどうやらお目付け役に呼ばれたようだ。スツールに腰掛けて静かに彼らを眺めていると、仲の良い親子のようにも見えてくる。
 溶いた卵と牛乳を混ぜ、粉をふるって混ぜる。単純な作業だが、手際は悪くない。
「……お前、料理なんてしたことねぇんじゃねぇの?」
「あれ、いつそんなこといいましたっけ」
 確かに言ってはいない。自分が勝手なイメージで決め付けていただけだ。勝手に抱いていたイメージとの違いに、何だか釈然としない思いを抱えつつ、捲簾は腕を組んでその手並みをじっと見守っていた。熱したパンを布巾の上で冷まし、生地をその上に丸く流し込む。再び弱火にかけて数分。
「あ、天ちゃん! 何かぷつぷつしてきた」
「こうやってぷつぷつってなったら、これで裏返すんですよ」
 フライ返しを悟空に見せてから、それで器用に生地を裏返す。程よい茶色の綺麗な焼き目が現れた。そして悟空が顔をぱあっと輝かせている前で、天蓬は両面綺麗に焼き上がったホットケーキを白い皿の上に乗せた。
「先に食べてますか? 悟空」
「うん! あ……でも、おれもやってみたいな、さっきの」
 そんな悟空の言葉に驚いたような顔をした天蓬はすぐに表情を緩める。そして悟空の頭を撫でてから、焼き上がったそれを捲簾の前まで持ってきた。上にバターを乗せてメープルシロップの瓶を横に置く。その意図が汲み取れず見上げた捲簾に、天蓬はにっこり微笑んだ。
「……何?」
「温かいうちにお先にどうぞ」
 天蓬の作ったものを食べるという、一生に何度あるか分からぬ事態に一瞬戸惑ったものの、拒否したら碌なことにはなるまいと捲簾は大人しく添えられたフォークを手にした。そして小さく手を合わせる。
「いただきます」
「どうぞ」
 そう言って天蓬は再び悟空の元へ戻っていく。そして今度は悟空が焼くのに挑戦するようだった。瓶からメープルシロップを掬ってケーキの上に垂らしながらその危なげな姿を見つめていた。その手付きが危な過ぎて一段落するまでケーキも喉を通らなかった。そして何とか焼き上げたのを見届けてからケーキに手をつける。既に殆ど冷めた後だった。
 そして、踏み台から下りた悟空はエプロンを外し、意気揚々と部屋を出ていった。切り分けた一切れを口に運んでいた捲簾は、水を飲もうと立ち上がる。そして天蓬はまた生地を焼き始めている。今度は悟空の分だろう。
「どうしたんだ、あいつ」
「自分が焼いたのを金蝉に食べてもらいたいんだそうですよ。今呼びに行きました」
「ほおー、健気なこった」
 ボトルからグラスに水を注いでいると、天蓬はその背後でくすりと笑った。
「可愛いじゃないですか。大好きな人のために一生懸命作ったんですから」
「それじゃあ、お前も可愛いってことになるのかね?」
 じっとパンに視線を落としていた天蓬はふと顔を上げ、静かに振り返った。その目には少し悪戯っぽい微笑みが浮かんでいる。
「お味は如何でした?」



□てんちゃんのへやにおとまりしよう□

 今日は珍しく金蝉が不在だ。観世音菩薩に連れられて、花の宴に出席しているのである。観世音の顔を立てる意味合いでも重要であるらしく、渋々彼は悟空を天蓬の元に預けて陰を背負いながら帰っていった。飼い主の意に反して悟空は初めてのお泊りに先程からはしゃぎ回っている。反対に、不機嫌丸出しなのは悟空を泊めるために部屋を掃除している捲簾である。とりあえずベッドが空かなくては天蓬と悟空が揃って狭いソファで寝ることになる。そして二つあるソファのうち片方は雪崩で滅茶苦茶だ。つまり、二人掛けソファに二人がぎゅうぎゅうで寝ることになるのである。それは断固阻止だ。
(それより)
 彼がいることによって、今夜の予定が丸潰れなのだった。捲簾だって悟空が可愛い。しかし、何ともタイミングの悪い。二週間だ。何の期間かは推して知るべし。そしてやっとの解禁日が、こうして潰れた。
(俺は何か悪いことでもしたんだろうか……)
 自ら神と呼ばれる立場であるが、その更に上の神にそう問い掛けてみる。そもそもは気まぐれで花の宴などを催した上級神共の仕業である。そうでなければ観世音が金蝉を引っ張っていくことなどなかったし、延いては金蝉が悟空をここに置いていくこともなかった。責任を辿って恨み辛みをぶつけ、溜飲を下げつつ捲簾は腕に抱えた本を棚に収納していく。その間にもせっせと悟空が本を抱えて走って来る。こうして見ていると本当に仔犬のようで愛らしいもので、少年に対して苛立ちをぶつけることは出来なかった。
「……あんまり走ると、躓くぞー」
「うんっ!」
 それでも悟空は持ち前の瞬発力で足元の本も器用に避けて走って来る。そしてそれを捲簾の足元に置くと、再び走って天蓬の方へと戻っていった。それを見送った捲簾は再び作業に戻る。暫く背後で天蓬と話していた悟空は、それからどこかへふらりと出ていってしまった。不思議に思って振り返ると、天蓬が一人で床の掃除をしていた。
「悟空はどうした?」
「ゴミ袋をもらいに行ってくれました。……それにしても、どうしてそんなに悶々とした顔をしてるんです」
 推して知るべし……とは言ったものの、推す気もない彼には全く関係ないことらしい。二週間という期間は彼も同じはずなのだが。
「……お前にとっちゃどうでもいいわけね」
 何だか虚しさだけが残った胸中に、溜息混じりの声を漏らして、捲簾は作業を再開した。劣情を持て余しているのが自分だけと思うと、腹立たしさと落胆が綯い交ぜになって酷く気分が落ち込んだ。苛立ちをぶつけるように少し乱雑に本を棚に押し込んでいると、ふと背後に気配を感じた。そして振り向く間もなくぎゅっと温かいものが後ろから抱き付いてきた。他に誰がいるはずもない。
「天蓬」
「怒りましたか?」
 珍しく下手に出た言葉に首を巡らせて後ろを向くと、大人に伺いを立てる子供のようにじっと上目で捲簾の顔を窺っている天蓬がいた。捲簾の腹部に回された手に、少し力が篭っている。
「少し困ったことになったなとは思いましたけど、悟空の手前がっかりした顔するわけにはいかないのは分かるでしょう」
「……別に、拒否して欲しかったわけじゃない。ただ少しは残念がる素振りを見せてもいいんじゃねぇの?」
 そう、言葉を選ぶように言うと、天蓬は驚いたように目を瞬かせた。純粋に、そんなことを考え付かなかったという様子だ。
「それは、すみませんでした」
「で、どうなの?」
「……少しは残念ですけど。だけど少しほっとしました」
「あ?」
「だって、ちょっと間が開くとあなた、際限が無いじゃないですか」
 捲簾の背中に顔を埋めて、くぐもった声が響く。そんな珍しく少し幼い仕草に笑って、腕に抱えていた最後の一冊を棚に押し込んだ。そして空いた手で、腹部に回された天蓬の手を宥めるようにぽんぽんと叩く。
「今日我慢させたら、ますます明日燃えるけどな」
「……勘弁して下さいよ」
 呆れたように呟く天蓬にますます笑みを深くして、捲簾は低く笑った。そして遠くから近付いて来る子供の足跡に、天蓬の腕はあっさりと捲簾から離れていく。ここからは自分の知る『天蓬』ではなく、物分かりが良くて優しい『天ちゃん』の顔だ。
「天ちゃん! もらってきたよ」
「ありがとうございます、場所ちゃんと分かりましたか?」
 一瞬で表情も纏う空気もがらりと変えてしまった天蓬と、それに懐く悟空を遠目に見つめて捲簾はくすぐったい気分になった。



□ねるまえにえほんをよもう□

「絵本を読んであげましょうか」
 そう天蓬が言ったのが始まりだった。天蓬、悟空、そして捲簾まで並んであまり窮屈に感じないやたらと大きなベッドの上で、天蓬はカラフルな絵柄の絵本を開いた。悟空は放っておいてもすぐ寝付いてしまいそうだったが、本を読み始めればすぐに眠ってしまうだろうと思っていた。しかし。
「……そして、ポチが見たものは!」
 臨場感たっぷりの読み聞かせに、ベッドの中央に転がっていた悟空はごくりと唾を呑んだ。既に眠気などは遥か彼方へと吹っ飛んでしまっていた。そして何故かその隣の捲簾までもがどきどきしつつ続きを待っている状態である。たっぷりと間を置いた天蓬は満足げな顔で、パタン、と本を閉じた。捲簾と悟空は呆気に取られる。
「二巻に続く!」
「えー!?」
「おま、そこで終わるのか!」
「……寝て下さいよ、二人とも。っていうか何で捲簾まで……」
 呆れたように言って頭をがりがりと掻いた天蓬は、読み終えた本をベッドサイドのテーブルに置いた。
「お前の読み聞かせが巧すぎるんだよ……」
「天ちゃん、続きが気になって寝られないよー」
 寝付かせるために本を読み始めたはずなのに余計目が冴えてしまったらしい悟空に、天蓬は困ったような顔をして、最終的に溜息を吐いた。そして、ベッドの下をごそごそ探って本を取り出した。目をきらめかせる悟空に曖昧に笑い、本の表紙を開く。
「……じゃあ、二巻までですよ」
 頼むからそれで寝て欲しい。と、思いつつも、そのシリーズが十巻以上続く長編であることを天蓬はすっかり忘れていたのだった。



□おとなのじかんをそししよう□

 結局、本は四巻まで読むことになった。そして何とか物語が一段落したところで悟空は安心したように眠りに就いた。手にしていた絵本を今まで読んだ分に重ねて置いて、天蓬はそっと悟空の顔の下まで布団を引き上げてやった。ちらりと視線を上げると、同じく寝こける悟空を見下ろしていた捲簾と目が合った。
「……ところで、あなたもこの部屋で寝る気ですか?」
「おう」
「じゃあ僕がソファで寝ましょうか」
「何で俺が猿と二人寝しなくちゃなんねーの」
「じゃああなた、ソファに行きます? それとも自分の部屋に帰ります?」
 何となく噛み合わぬ会話に二人で首を傾げる。そしていち早く違和感に気付いた天蓬は、嫌そうに顔を顰めた。
「まさかあなた、悟空のいる前で……」
「やろうってんじゃねぇよ。一緒に寝るくらい、タダだろが」
 狭いからベッドの定員は二名と考えている天蓬と、何となく天蓬と悟空二人にはしたくなくて悟空と二人で寝たくもない捲簾とのずれだった。思い違いに気付いた天蓬がばつの悪そうな顔をするのを見て悪戯心が顔を出したのか、捲簾は俄かに嬉しそうな顔になる。
「何、期待した?」
「……あなたね」
 墓穴を掘ったと顔を歪める天蓬に俄然やる気になった捲簾は、中央に寝ている悟空を起こさないようにそっと天蓬に手を伸ばした。
「……んが」
 何の声だ、と考え付く前に突然の衝撃を受けた捲簾は思わずベッドから落ちそうになって慌てて縁にしがみ付いて堪えた。見れば、確かに眠っているはずの悟空が何故かもそもそと両足を動かしている。そして先程の謎の衝撃は、その足に思い切り蹴りつけられたことによるものだったようである。
「な、何……?」
「……子供って、夢の中で走ってると現実でも足が動くことがあるらしいんですよね。それではおやすみなさい」
 冷静に答えた天蓬は、そのままぱたりと上体を倒して布団の中にもぞもぞと入っていく。完全にスイッチがオフだ。眼鏡を外して手探りでテーブルに置き、ぱちんと目を閉じる。それきり生きているのか死んでいるのか分からないほど動きが無くなった。
 そのままわちゃわちゃと足を動かしている悟空と、バッテリーの切れたロボットのように全く動かなくなった天蓬を横にして、捲簾は完全に置いてけぼりにされていた。そして
「……これはないだろ……」



□おはようのあいさつをしよう□

 翌朝、一番に目を覚ましたのは意外にも悟空だった。寝汚い天蓬は仕方がないが、捲簾が遅いのは珍しい。しかしそれは、夜中に寝相の悪い悟空に何度も蹴り起こされて全く熟睡出来なかったせいである。ふかふかの布団が恋しかったが何とか布団から顔を出して、ゆっくりと上体を起こす。そしてうんと伸びをした。そして欠伸を一つしてから、周りを見渡した。右隣に何故か苦しげな顔をした捲簾、左隣には非常に幸せそうな寝顔を晒す天蓬がいる。普段悟空は金蝉と同じ寝室だが、ベッドは別に用意されている。そういえば、誰かと一緒に眠るのは初めてだった、と気付く。自分以外の体温で温かい布団で眠るのは、何だか心までほんわりと温かくて、とても幸せな気分になった。
 起きようか、と思った。二人を起こそうか、と思った。だけど今だけはもう少し幸せに浸っていたくて、悟空はこっそり再び布団の中に潜り込んだ。そして先程起きたことはなかったことにして目を伏せる。金蝉が迎えに来るまで、もう少しだけ寝ていよう。



□おひるねをしよう□

 いつものようにどかどかと足音を立てて部屋に入ってきた捲簾に、天蓬はきゅっと眉を寄せて唇に人差し指を当ててみせた。ふと、足を止めて彼の周りの様子を窺う。すると執務机の陰、天蓬の左肩に凭れるようにして小さな身体が穏やかな寝息を立てているのが見えた。その姿は今ここにあるはずのないもので、思わず天蓬を凝視してしまった。
「いいのか、金蝉がカンカンになって探してたぞ」
「別に、僕は悟空を見つけ次第報告しろとは言われてませんよ。言われてたとしても報告するしないは僕の自由ですし」
 まあ正論だ。金蝉が聞いたら顔を真っ赤にして怒るだろうことをあっさり言ってのけて、天蓬は膝の上に乗せていた本のページを指でなぞった。匿っているという感覚はないらしい。第一、悟空が消えたら金蝉が真っ先にやってくるのがこの部屋だ。いずれ気付かれることは分かっているのだろう。もぞもぞと身動ぎする悟空の様子を少し窺って、目覚めていないことを確認してから、天蓬は肩を動かさないようにしながらこきこきと首の骨を鳴らした。
「動けないのはしんどいですね」
 例えば凭れて眠っているのが自分だったら、しんどくなった時点で突き倒して自由に姿勢を変えるだろうに。
 ふと思い付いた捲簾は、天蓬の横に座り込んだ。そしてそのまま倒れ込んで真っ直ぐ伸ばされた天蓬の腿に頭を預けた。彼は一瞬驚いたような顔をした後、小さく唇を尖らせてみせた。
「ますます動けないじゃありませんか」
「まあいいってことで」
「よくないですよ」
 膨れてそう毒づく天蓬に構いもせず、捲簾はそのまま目を閉じた。そしてそのまま寝の姿勢に入ってしまった捲簾を暫く困ったように見下ろしていた天蓬は、諦めたように溜息を一つ。再び本を開いて、一ページずつ繰り始めた。
 そしてすっかり眠りに落ちてしまった捲簾と、未だ夢の中の悟空の重みに天蓬は溜息を吐いて本を閉じ、足の脇に置いた。集中出来る環境ではない。伸びも出来ないこの状況では全身が凝り固まってしまいそうだ。悟空の頭がぶれないように気を使いながら首を回し、頭を背後の壁に預ける。思わず欠伸が漏れた。
(というか、何でこの人まで……)
 自分の膝の上に転がった男の顔を見下ろす。瞼を伏せて、悪戯っぽい眸を隠すだけでその精悍な顔立ちが際立つ。ふと悪戯心が顔を出して、指先でその頬の上をなぞってみる。そして額、顎、いつも達者に動く唇。きりりとしたラインの眉。暫くぼんやりと彼の顔を眺めていた天蓬は、ふと我に返った。
(……何してるんだ)
 まるでこれでは見惚れているようではないか。何だか急に恥ずかしい気分になって、彼から顔を逸らして首を振る。しかし、やはりまた気になってしまってちらりと目を下に向ける。もしや起きているのでは、と思いかけたが、相変わらず男は穏やかに寝息を立てていた。そうして一人七面相をしているうちに、息を切らした金蝉が部屋に駆け込んできたのだった。










捲兄と天ちゃんと悟空で擬似親子ごっこ。      2007/03/22