目の覚めるような緋色に淡い月の色、栗の色にくすんだ葉の色。下界の秋は実に多彩である。清んで冷たい空気が鼻を刺すようだ。軍靴でそれらを踏み分けながら、どこへ向かうでもなく森の道を静かに歩いていた。僅かに距離を置いて、隣を歩く男はのんびりと煙草を吹かしている。並んでいるといってもその存在を近くに感じるわけではない、しかし手を伸ばせばすぐに届く距離にいる。その悠々とした姿を横目に見て、小さく欠伸をした。人に縛られる環境にない自由な獣の姿は実にのんびりとしたものである。漸く檻から出された猛獣のように、彼はその広い空の下の世界を謳歌しているようだった。暫くそうやって時折煙を吐き出しながらのんびりと空を見上げていた彼は、煙草を一本吸い終えると、きょろきょろと辺りを見渡して正面を向いたままの天蓬に声を掛けてきた。
「なー、あんたどこまで行く気」
「別にどこだっていいじゃありませんか、あなたが勝手について来たんでしょう」
 下界での簡単な任務を終えて部下に帰還を促した後、こっそりと部隊を抜け出したつもりが、仕事の後の一服をしようと煙草とライターを取り出した瞬間、背後から何事もなかったかのように声がしたのである。いつもの如く火を求めるその声が。火の点いていない煙草を咥えたまま胡散臭げに顔を歪める天蓬を見て、その声の主は驚いたように眉を上げて目を瞬かせてみせた。そしてさっさと天蓬の手からライターを抜き取り、先に自分の煙草に火を点ける。そしてついでに天蓬が咥えた煙草の先にも火を点けて、そのライターを天蓬の手に戻す。目の先でちりちりと燃えていく煙草を見つめながら、その気配に気付けなかった自分を激しく叱咤した。そして内心舌打ちをしながらその飄々とした食えない男の読めない横顔を見た。この男は何を考えているのか分からない。複雑怪奇と呼ばれる自分にすら分からないその、二層にも三層にもなった精神構造は、まるで複雑とは思わせない異常な複雑さで天蓬を翻弄した。なるべくならば関わりたくないとすら思うのに、その底の見えない男は自分の知的好奇心を次々に刺激するのである。それと同時に、なるべく近寄らないようにしようと思っているのに、自分が気付かぬうちに何故か近くにいるのだ。その気配を自分はなかなか察知出来ずにいる。気が付けば息がかかるほど傍にいて、何もかも見透かしたような笑みを浮かべて自分を見ているのだった。普通なら気味悪く、不快に思うその存在を嫌に思ったことはない。そんな自分の警戒心の無さが嫌になるのだ。彼がもし誰かに送り込まれた刺客だとしたら自分はとっくに死んでいるのではないか。
 この男が怖い。殺されるのではないかと思うから怖いのではない。自分に理解の出来ない存在が恐ろしいのだ。
「なー、無視すんなって、それにしても……随分慣れた感じで歩くんだな。よく来んのか」
「どうだっていいでしょう。さっさとお帰りになって下さい」
「いいじゃん、少し話そうぜ。まだあんたのことよく分かってないし」
 嘘を言え、と思った。分からないはずがない。この男は絶対に自分のことを何もかも見透かしている、と確信があった。そうでなければ、どうしてそんな風に笑って自分を見るのだ。馬鹿にしているのだろうか。挑発には乗らないように心がけてその問い掛けを無視する。しかし彼は機嫌を損ねるでもなくただ一度小さく嘆息をしただけだった。そしてまた、そのいつもの嫌な笑みを浮かべるのである。嫌いだ。彼自身も、その笑みも。
「テンポーさーん、こっち向いてー」
「煩いですよ」
「天蓬、マジな話、俺のこと嫌いだろ」
「嫌い」
「俺は好き」
「そうですか。……は」
 うっかり立ち止まり振り返ってしまった天蓬に向けられたのは憎たらしいまでの満面の笑みであった。その笑顔をじっと見つめていると妙に頭の中が冷めてきて、天蓬は腹の底から溜息を吐いた。そして勘違いで過剰な反応をしてしまった自分を恥じて再び前を向き、歩き出した。吸殻を灰皿に押し込んで、新しい煙草を取り出す。火を点けながら横目に男の姿を窺い、溜息交じりに返した。
「成程、あなたはそんなに自分が大好きなんですね……あなたがナルシシストであろうと別に僕の知ったことではありませんから、鏡の前でうっとりしようが自分の肉体美に見惚れようがご自由に。なるべく僕のいない場所でお願いしたいですが」
「おいおい曲解されちゃ困るな、俺が気に入ってんのはあんた」
 表層は笑っている。しかしその下、そのまた下はどんな表情を浮かべているか分からない。嘲笑っているか、天蓬の反応を窺っているか。どちらにしてもあからさまな反応をしない方が得策であろう。顔の筋肉をなるべく動かさぬように努めて、横目に男の表情を窺った。彼の余裕ぶった笑みは揺らぐことがない。
「何故、と訊ねるべきでしょうか」
「まあまず、美人は好きだね。それでも馬鹿は駄目だ。頭の回転が速いのがいい」
「観世音菩薩のことでしょうか?」
「あれはどう考えても好みの範疇にない、関わりたくないね。それに両性具有には興味がない」
「まあそれは確かに。しかし色白で聡明な美人でしたら、百戦錬磨のあなたならば幾らでも手に入るのでは」
 それは勿論、と笑う笑顔は快活で、裏表などなさそうに見える。確かに裏はなかろう。しかし下に何層も様々な顔を持っているのだ。一番目にはいつも浮かべる子供のような笑顔を。二番目には酷薄なまでの残虐な笑顔を。そのまた下は、想像するのも恐ろしい。その無邪気な笑顔の下に何がある。どうしてこの男は自分に興味を持つのだろう。
「その他大勢の美人には興味がない。俺が興味を持ってるのは他でもないあんただ」
 こう言い切ってしまえるところが憎らしい。“その他大勢”の美人ならば簡単に手に入れられると言ったも同然だ。今まで浮名を流してきた女仙がそうなのだろう。それらの中には天下界を含めた中で五本の指に入る美人も勿論いる。彼の守備範囲は実に手広いのだ。子供、老婆以外ならばどんな女にでも手を出す。それでも一定の基準において、一度きりの関係であったり何年も続く付き合いであったりするようだ。それは見た目ではない、彼にとって付き合いやすいかどうかなのだ。今までにどれだけ、彼を自分だけのものにしたいと願った女がいたか知れない。しかし束縛を疎み、誰か一人のものになることを頑なに拒否する彼はそういった女と次々に手を切っていったという。自分が求めるままに貪り、要らなくなれば捨てる。しかしそれを彼は残酷とは思わせない卓越した話術と社交術を持っていた。質の悪い男である。
 だとしたら、もし気を許せば自分も彼の求めるがままに貪られて、惨めに打ち捨てられるのだろうか。
「……僕はそんなに魅力的な研究対象でしょうか」
「ああ。色々とね。あんたの頭の中に興味がある。心の中も。身体もね」
 最後にさり気なく付け足された言葉が信じられなかった。幾ら暴れん坊とは言え相手は女性に限るという話ではなかったのか。その動揺を悟られぬよう正面を向いたまま、声が揺れないようにしながら問い返した。喉元で鼓動が大きく脈打っている。
「男にも興味が」
「いいや。それが実は初めてなんだけどよ」
 確かに純粋な興味だ。どうやら彼も自分に対して今まで知らなかった未知のものを見ているらしい。しかし彼にとってのそれは恐怖ではなく楽しいものであるようだ。もしも彼の研究対象となればどんな目に遭わされるかは想像に易い。どんな暴力や痛みにも耐えられる。しかし女扱いされることだけは耐え難い屈辱だった。そんな目で見られ、屈辱的な行為を強いられた過去があるからこそ、こうして今の“近寄り難い変人像”を作り上げてきたのだ。それを、この男は呆気なく壊して素顔を覗き込んでこようとする。その奔放な残酷さが、恐ろしい。
「規律に厳しい西方軍に配属されて、女に不自由しましたか。可哀想に」
「馬鹿な」
 地面の枯葉を蹴り上げて彼はおかしそうに笑った。火の消えてしまった煙草を暫く咥えたまま上下させていた彼はそれを摘まんで天蓬の方に差し出してくる。その仕種の指す意味に気付いて尚、暫く見て見ぬふりしていたものの彼がそれを止めないのを見遣り、諦めて自分の携帯灰皿を差し出した。
「規律は厳しいけど夜はかなり自由だし、好き放題させて貰う予定だったんだけど、もっとイイもの見つけたからさ」
 如何にも楽しそうに、歌うように言いながら彼は自分の煙草を天蓬の灰皿に押し込んだ。容量ももうそろそろ限界だ。
「ですから、わざわざ男である僕に手を出そうとする理由が分からないんですが」
「あんたに興味があるから……では、不足か」
「あなたは少し興味を持ったというだけで相手に手を出そうとするんですね。成程、行く先々で波風を立てて回るわけだ」
「刹那主義なんだ」
「あの天界で刹那主義だと。馬鹿らしい」
 死までの期限などまるで見えぬあの腐り切った世界で、刹那を生き抜くことに意味などあるのだろうか。
 ゆっくりと歩いていくうち、秋の小道は段々と開けていく。木々の狭間から見えていた空は広く高い。向かう先には広大な草原があった。先程まで無駄口を叩いていた隣の男も黙りこくり、辺りを見渡している。拍子抜けしているのだろう。この男が、自分がどこに行こうとしているのか興味を持っていたのは確かだ。きっと彼の頭の中では周囲で噂される天蓬の“変人像”に違わぬ、何か面白おかしく奇妙な想像を膨らませていたのだろうことは想像に難くない。少し後ろで立ち止まった彼を振り返り、解れて落ちてきた横髪を耳に掛けた。後れ毛が風に煽られて首筋を擽る。
「あなたが何を勘繰っていたか分かりませんが、僕は単にここに昼寝をしに来ただけです……がっかりしましたか」
「やあ……がっかりと言うより、あんぐり」
「僕、睡眠欲は溜め込むタイプなんですよ。そして纏めて睡眠を取るんです。上質な睡眠をね」
「その上質なベッドは下界の大地かい。……流石は天の花ってか」
 頭の後ろで手を組んで、おかしそうにけらけらと笑った彼は天蓬を置いてゆっくりと草原へ向かって歩いていった。風に倣って一方向に流れる丈の長い草は、毛足の長い緑色の絨毯のようでもある。ふと、その草むらの中で立ち止まった彼の姿は、ふっと消えた。ゆっくりと瞬きをし、その姿の消えた方へとゆっくり足を運んだ。草を踏み分け向かった先には、大の字になって寝転ぶ大きな男の姿があった。その姿を見下ろして小さく嘆息する。やはり彼は分からない。子供なのか、それともそう装っただけの悪い男なのか。どちらにしても無条件で信頼出来る相手ではない。なのに、切れないのは何故なのだろう。ガキ、とでも言って詰ってやろうと口を開きかけた瞬間、伏せられていた瞼はゆっくりと持ち上がった。その漆黒の強い光は天蓬を真っ直ぐに見つめた。
「大地と混じり合ってるみてえ」
「……子供ですか」
「少年の心は忘れずに少し残しておくのが、モテる男の条件だぜ? 俺があんたに教えられることはこのくらいだけど」
「それはそれは非常に有り難い知識を賜りましたね。明日には忘れますけど」
「変なことは憶えてるくせにな……あんたも寝たらいいのに」
 自分の影が、彼の顔に光が当たるのを遮っていた。うんと伸びをして寝の姿勢に入る彼を見ていると、折角の昼寝の気分も削がれてしまう。頭をがりがり掻きながらその場にどさりと腰を下ろした。風がざわりと頭を垂れた草を撫でて揺らしていく。男の黒い眸は何かを探るようにじっと天蓬を見上げていた。この男は本当に東方軍から送り込まれたスパイか暗殺者なのではないのだろうか。そうでなければどうしてこんな風に自分を探るような目で見るのだろう。そして何故気配を殺して背後に忍び寄る。そうまでして一体自分の何が知りたいのだろう。殺すつもりか、取り入ってほだして、機密情報でも聞き出すつもりなのか。不気味だ。気配が見えない、男の素顔が見えない。
「あなたは、気味の悪い人ですね」
「……あんたさ、ちょっと言葉の選び方考えたら。半端なく傷付いたけど」
「どうして」
「あまりにあまりな言葉だぜ、それ」
 不満気に眉根を寄せた彼はゆっくりと上体を起こして天蓬と向き合った。髪に細長い草の葉が絡んでいるのに気付いたが、手を伸ばすことはしなかった。伸ばした手を絡め取られてどうなるかも分からない。迂闊に手を伸ばすのは得策とは思えなかった。風に揺らされた彼の短い黒髪から、はらりと草が抜け落ちるのを黙って見つめていた天蓬は、自分の最前の言葉を反芻しながら、抜け落ちた草を目で追った。気味が悪い、とは流石に過ぎた言葉だっただろうか。しかし自分の気持ちを表現するのに最も適切な言葉のように思えたのである。気配もなくするりと器用に背後に忍び寄る、まるで影のような静けさと不安感を与える男。不気味以外の何物でもないだろう。
「言葉が悪かったのは謝りましょう。でも、僕があなたに対して持っている感情はそれだと理解して下さい」
「不気味だと」
「ええ。僕はあなたを不気味だと思っています。複雑怪奇なのは、僕よりむしろあなたの方ではないですか?」
「よく単純な奴だって言われるけどなあ……」
「それが狙いなのでは」
 鎌を掛けるつもりでそう口にした。刹那、普通ならば見逃すような瞬間、彼の口許が釣り上がったのを見逃さなかった。それが幸運だったのか不幸だったのかは分からない。瞬きしたその後には彼の表情はいつもの悪戯小僧のようなそれに戻ってしまっていた。それにほっとしたのか、それとも残念に思ったのか、自分自身計り兼ねていた。結局、先程のあれは見間違いだったのだと自分に言い聞かせ、ふっと俯く。しかしその瞬間、頭の上から浴びせ掛けられた言葉に、頭から血の気が降りた。
「流石は天蓬元帥、噂通り“目がいい”らしい。完全に欺くのは無理があったな」
 そういつもの口調で言って、再びごろりと横になった。手を頭の後ろで組んで、悪戯っぽい目で天蓬を見上げる。その目の強さに抗えず、天蓬は膝の上で拳を握り締めた。
「……僕を欺けるとでも思っていたわけですか」
「多少あんたを見縊ってたらしいな。済まなかった」
 わざとらしくしおらしく謝ってみせるその態度が憎たらしい。そもそも自分が彼の違和感に気付いたのは自らの観察眼のおかげではない。その笑顔の中の、僅かな居心地の悪さに気付くほどに“いつも”“見ていた”からだ。そのことを自覚した途端酷く情けなく、そして深く落ち込んだ。本当に不気味なのは、他でもない自分なのではないのかと。
「尚更あなたの研究対象になるわけにはいかないですね」
「何でよ」
 不満気に天蓬を見上げた男は、気まぐれにその手を天蓬の膝へと伸ばしてくる。確かな意思を感じ取った天蓬はその手を払って、男を一瞥した。この期に及んで何を望む気なのだろう。部下として、上官として、一人の男として徹底的に暴かねばならない。この男が何を考え自分に接近し、その目的は一体何なのか。
「自分を欺こうとしているような不審な男に対して気を許せるはずがないでしょう。目的は何ですか」
 回りくどいことをする気にもなれず、率直にそう訊ねた。怯むでもなく、むしろ面白がるような目で固い表情をした天蓬を見上げていた彼は、ややあって小さく唸り声を漏らした。それを見つめて身動きも取れない自分がまるで怯えているようで情けなくて悔しくなる。そんな自分に歯噛みしながら、彼の次の動きを焦れたように待った。まるで宣告を待つ罪人のようですらある。彼の指が何か思案するように唇の上を滑りその唇はゆっくりと質の悪い笑みを形作る。そして小さな唸り声を上げながら緩慢な仕種で身体を起こした彼は、小さく笑い声を漏らした。
「そうだな……あんたの……ココ」
 再びゆっくりと伸ばされた手を、今度は払うことが出来なかった。真っ直ぐ伸びたその指は、軍服の上から天蓬の左胸をトン、と叩いた。指一本で軽く押されただけなのに、よろめいてしまいそうな強い衝撃を感じたような気分になった。それほどまでに心に与えられた衝撃が大きかったのである。ふらつきそうになる身体と心を精一杯に保って、その男の目を正面から見つめ返した。
「心臓……ですか」
 震えそうになる声を何とか真っ直ぐに保ち、たったそれだけをやっと口にする。すると彼はしてやったりとでも言うようににやりと笑い、その手をゆっくりと降ろした。そしてそのままその手で頭をがりがりと無造作に掻く。
「あんたは一体俺を何だと思ってるんだかな……東方軍から送り込まれた刺客か何かだと思ってるのか?」
「違うという確証もない今、あなたを信用するのは得策ではありません。何か不穏な動きがあればすぐに上に報告し、異動の通達を出していただきます。いざとなれば正当防衛も辞しません」
「無殺生の原則は」
「知ったこと。……ここは下界です。この場であなたを殺して埋めて、血の匂いが消える頃合いを見計らって上へ戻ることも出来なくはない。あなたが突然どこかに消えることなど珍しいことではないそうですね、ならば誰も気にも留めないでしょう」
 それは怖い、と彼はまるで恐怖など感じていないようなのんびりとした様子で言った。自分が彼を殺そうとしても、きっと自分は彼に殺されるだろう。未来の話だとしても、それは予感ではなく事実だった。自分は確かにいつか彼に殺されるだろう。それが本当に身近に感じられるのに、いつもは人一倍危険に敏感な自分がそれを避けようとしない今の状態が不思議で、それこそ不気味だった。ひょっとして自分の勘が鈍ったのだろうかと考えればそれも恐ろしい。彼が特別、気配を隠すのが得意なのならまだいい。今まで生きてきて唯一身に付けた自らの身を守る為の防御本能が機能しなくなってしまえば、自分がどうなってしまうのか分からない。そんな自分を面白がるように眺めていた彼は肘枕でごろりと寝返りを打ち、強張った顔をする天蓬を面白がるように見上げ、笑いながら言った。
「あんた怖いのか、俺が」
 その鋭い目が全てを射抜く。怖いだなんて。本当の恐怖だなんて、今の今まで自分は知らなかったのだ。
 怖いだなんて。

「まさか」
「そう? ならいいんだけどさ。でももしそうなら、そんな怯えた目をしない方がいいな」
 誰が、と言い返したかった。しかし唇が凍り付いたように動かない。如何にも楽しそうに目を細める男から目を離すことも出来ずにその表情を凝視する。そんな天蓬を見て、彼はしようのない子供を見るように小さく笑って、再び手を伸ばしてきた。それを避けるだとか払うだとかそういったことは既に頭の中にはなく、その手が近付いてくるのをぼんやりと見つめているほかなかったのである。そのかさついた指先が頬の柔らかい表面を撫でる感触に全身が総毛立つ。
「殺したくなる」
 その手を振り払ってしまいたいのに身体が硬直したように動かない。その視線に縛られたようだった。その一瞬の隙を突き、捕まえられた腕を簡単に捻り上げられ草叢の中に沈められる。一瞬で逆転した視界に、咄嗟に反応することが出来なかった自分に呆然とした。視界一杯の青空に、彼の顔が重なる。今もしも自分が冷静だったなら、どんなに口汚い言葉で彼を詰っただろう。しかしその一欠けですら頭に思い浮かぶことはなかった。何か声を出したいのに何を言いたいのか頭に思い浮かばない。鼻の先を草の青臭さが通り過ぎていった。覆い被さっている男の毅い眸が身体を縛って、息すら苦しくなる。どうしてこういう時に限って、いつもの飄々とした笑顔を浮かべていないのだろう。調子が狂う。それが切り札のつもりなのか。
「俺もあんたがよく分からない」
「え?」
「気味が悪いとか、信じられないとか言うくせに、いつもこんなに隙だらけでいるのはどうしてだ? 罠でも仕掛けているつもりか」
 罠とは何のことだ。彼の言葉がすぐには飲み込めなくて、瞬きも忘れて彼の顔を見つめ返す。何より“隙だらけ”と思われていたことが大きな衝撃だった。自分では、警戒心を張り巡らせていたつもりだったのだ。周りを必要以上に寄せ付けないのと同じように、寧ろそれ以上に彼に対しては壁を作っているつもりでいた。それなのに、どうして。所詮独り善がりだったということなのだろうか。それに“罠”とはどういうつもりで彼は口にしたのだろう。罠とは何かを誘い込んで陥れる為のものであるはずだ。一体彼が自分の何に惹かれて誘い込まれるというのだろう。自分は何も持っていない。特に軍の機密に関わっているわけでもなければ、嫌われ者の自分では人質にする価値すらないというのに。
「あなたは……本当は何が欲しいんですか。どうして僕の命を狙うんです」
「俺如きに殺されちまうようなあんたにゃ興味はねえよ。そもそも、あんたの命なんて狙っちゃいない」
「僕の此処にあるのは、心臓だけです。即ち、命のことではないのですか」
 そう訊ねる天蓬に、彼は安直だと笑った。そして、その大きな掌を天蓬の左胸の上に重ねた。厚い布越しでも感じるその温度に逃げられなくなる。そもそも逃げる気があるのかと言われれば躊躇ってしまうというのに、それを認めるのだけは癪だった。視界を占める黒い影に、目も逸らせなければ避けることも出来ない。自分は彼を疑っていて信じてなどいないのに、どうしてこんな状態を許しているのか分からない。先程だってどうしてあんなにも呆気なく捻じ伏せられたのだ。それは自分の心に出来た小さな躊躇いゆえだった。それに躊躇いと名付けてしまうことにも抵抗があった。躊躇いなのか、油断なのか、自分でもそれをはっきりと判断することが出来なかったからだ。その、名も知れぬ鎖に縛られ動けずにいる中、彼は小さく嘆息してゆっくりと目を開いた。その濃厚な密度を持つ視線に、喉が凍り付いたようだった。長い草の縁が頬に触れ、痛痒さを残していく。噎せ返るような青臭さと彼の匂いに、息も出来ない。左胸の上に載せられた彼の手が、まるで自分の心臓を鷲掴んでいるようだった。
「欲しいのは命じゃない。あんたの全てだ」
「僕の持ち得る全ての権限と情報、ですか」
 声が震えてしまいそうになるのがみっともない、と歯噛みした。命は取らず、生かしておいて、自分が思うが侭に動かすつもりなのか。このままでは彼の操り人形になるのだろうか。もしも彼の思う侭に傀儡となるのならば黙ってこんな微温湯に浸っているつもりはなかった。特に惜しくもないこの命である。しかし紛れもなく他の誰のものでもない自分のものだった。他の人間に奪われるくらいならば自分でその末路を決めるつもりでいた。産まれてから死ぬまで、自分の命は自分だけのものだ。
「あなたには絶対に渡しません。僕の全ては産まれた時からずっと僕だけのものだ」
 目の前の男が心底憎かった。どうしてそんな顔をして僕を見る。

 暫く口を噤んだままでいた。時間がどれだけ流れたのかも分からない。ただ二人の沈黙の中を、風に撫でられる草の音が通り過ぎていく。痛そうな顔をする彼に掛ける言葉など見つからない。元から自分は優しい言葉が苦手だった。冷たい言葉や相手を傷付ける言葉ならば幾らでも頭に思い浮かぶのに、そんな顔をする彼に掛ける言葉は一つも出てこなかった。そもそも傷付けたところでどうなるというのだ。職務に支障が出るのは困るが、彼は公私混同をするような稚拙な真似はしないであろう。ならば彼が自分をどう思おうと知ったことではない。嫌われたからどうだというのだ。いっそ近付かれぬほどに嫌われた方が余程良い。
「……俺はあんたが心底憎たらしい」
「――――ありがとうございます、気が楽になりましたよ」
 覆い被さっている男の痛ましげな顔が正視に堪えない。顔をそっと横に背けて目を伏せ、風の音に耳を澄ます。時が過ぎ去るのを必死に待った。しかし流れる風も、揺れる草の音も無情なほどに緩やかで優しい。嵐のように強引に、全てを吹き飛ばして消してしまってくれればいいのにと願った。永遠とも思われるような長い沈黙の後、自分に覆い被さって包み込んでくる温度に身体を震わせた。咄嗟にそれを押し退けようとするのに自分の力ではびくともしない。押し退けようとする腕はそのうち力を失って、そのままぱたりと草の上に落ちた。
「……憎い男を抱く趣味がおありですか」
 声は震えなかっただろうか。みっともなくなかっただろうか。幾ら彼の力が強いからといって、自分とてただ本を読んで堕落した生活を送っているわけではない。少し力を込めれば跳ね除けることなど造作ないはずなのだ。しかし躊躇ってしまうのは何故なのか。その温度から逃れられなかった。香る煙草と香水に頭が浮遊感を覚えた。ぐらぐらと地面が揺れるようで、心許なくて男の腕に爪を立ててしがみ付いた。
「あんたを、このまま殺せたらどれだけいいか」
 縋り付く手を強く払い、天蓬の身体に馬乗りになった男はそのグローブに包まれた手で襟の上から天蓬の首にするりと両手を回した。首筋を這うように、ぬめるように纏わりついてくる。その手が両手で呆気なく一周してしまうような己の首が今程頼りなく思ったことはない。徐々に圧迫感を増していくその拘束に、酸素濃度が薄まった頭がぼんやりとしてくる。抵抗することに頭が巡らなかったわけではない。しかし身体が鉛のように重く、この場で死ぬのも悪くないかと思ってしまった。あんな腐臭のする天界で死ぬよりずっと良いだろう。己の愛する場所で、眠るように死に行くのならばそれも悪くなかろう。どちらが本当に痛いのか分からなくなるような顔をした男を見ていられずそっと目を伏せる。こめかみが大きく脈打ち、頚部に更に加えられていく圧力に眼球がぐんと迫り出すような感覚を覚え、激しい嘔気が迫り上がってくるのに喉が痙攣を繰り返す。喉からはゴボゴボと濁った音ばかりが漏れた。血液がうっ滞して顔が膨張し、じわりじわりと熱が溜まっていく。赤く血走った視界の中で混濁した意識はぼんやりと浮遊していった。彼の声が遠い。
 これは決して彼への同情ではない。自分への諦めだった。ここまで来て、結局自分の生への執着はこの程度のものだったのだと実感したのである。

「あんた馬鹿か。このまま逃げなければ……死ぬんだぞ」
 遠い場所へと流されていた意識に語り掛けるように、遠くからぼんやりとした声が聴こえた。瞼が異常なほどに重くて眼球が膨張したような気分になる。瞼を少し持ち上げるのすら億劫だったが、薄らと開いた瞼の間からは霞がかった景色が見えた。その中には大きな黒い影が見え、血の回っていないため動きの鈍った頭ではそれが何なのか思い付くまでに数秒無駄な時間を食った。その数秒で一体どれだけの脳細胞が死滅し、死に何歩近付いただろう。どちらにしろ死ねば霧散してしまい、腐敗しこの草原の肥やしにすらならない自分がどうなろうと誰も何とも思わないだろうが。所詮下級の神が一体死んだとて何も変わりはしないのだ。腐った楽園はあのまま腐臭を撒き散らすばかりである。いっそあの世界にいるものたちが全て作り物、散っても散っても葉が生まれ花が落ちることのない桜が紛い物だとするのなら納得も出来ように。
「ころしたい……ん、でしょう……?」
 血液が溜まり重たくなった唇を何とか動かせば、思ったよりは鮮明な声が出た。躊躇う必要などないのだ。いっそ一息に首の骨を捻じ折ってしまえばいい。自分の骨の折れる鈍い音は彼の心を高揚させるだろうか。それなのにどうしてこんな、醜い死に顔を晒そうとするのだ。じりじりと甚振るような殺し方は、彼らしくもない――――彼が誰かを殺すところを見たわけではないが。こんな指の先から少しずつ肉を削ぎ落とし骨を斬り落としていくような残酷さが、普段の彼の明朗な笑顔に重ならなかった。しかし今のこの、彼の方が痛め付けられているような顔はどうしたことだろう。確かに自分には痛みなど殆どない。ぎりぎりと頚部の血管が狭められて頭の奥から血の気が引き、潮が引くように熱が冷めていく。意識に霧が掛かったように遠くなっていった。意識がふっと遠ざかりかけて無意識に頭がガクンと仰け反った。後頭部に僅かに地面がぶつかったが感覚も鈍くなっており痛みは全くない。無防備に男の前に喉元を晒すことに抵抗が一瞬過ぎったが、一瞬で何もかもどうでもよくなってしまった。どうか零れた血の雫が彼の手を汚し血生臭い臭いを纏わり付かせぬよう。

 暫く、意識の狭間をゆらゆらと流されていた。こうしてゆるゆると嬲り殺していくのが彼の好みか、と何だか少しだけ笑いたくなった。彼の表情を先程自分は泣きそうな、痛そうな表情だと思った。しかしそれは自分の希望がそう思わせたのかも知れない。本当は堪え切れぬような強烈な高揚感を堪えている表情だったのではなかろうか。憎い男を自らの手で静かに絞め殺していく快感に酔ったのか。瞼の裏に妙に強烈に焼き付いた先程の彼を思い出して笑いたくなった。しかし笑みを作ろうとしたとて、唇は少しも動かない。情けない。見っとも無い。死んでしまいたい。ならばこの状況はこの上なく好都合だ。馬鹿らしいほどおかしい。泣きたいのか笑いたいのか分からなくて一瞬眉根を寄せた。それを、彼は見ていたのだろうか。

 ゆっくりと頚部への絞め付けは緩んでいき、急に血液の回り始めた顔の血管は悲鳴を上げてピリピリと小さな痺れが走り始めた。こめかみの血管が大きく脈打ち始め、膨張したように腫れぼったく動かすのが億劫だった瞼や唇も、段々と元の調子に戻っていく。突然多量の酸素を取り入れたせいか頭の奥がズンと痛み、気管は突然の空気に驚いたようにひくついて思わず噎せ込んだ。暫く激しく咳き込んでいる天蓬を、馬乗りのまま静かに見つめていた彼はそっと天蓬の上から離れ、両腕で正面から天蓬を抱き起こした。噎せ込み、息を荒くする天蓬の身体を自分の身体に凭せ掛けながら背をゆっくりと擦る。意識はまるで生への執着がないというのに、身体自身はこんなにも生を求めていたのだとここまで来て漸く実感する。酸素を求め、血液を求めて必死に呼吸し、脈打つ臓器が何だか妙に惨めだった。こんなにも惨めたらしく生への執着を見せつけておきながら彼のことを根性なしと詰ってしまいそうになった。出来もしなかったくせに、何のつもりだ。どうしてこの男は自分をこんなにも惨めな男にしたがるのだろう。
「……このことは、誰にも黙っておきなさい――――僕にとってはいい迷惑ですから。やはりあの天蓬元帥にまともな部下が近付くはずがないと、嘲笑われ肴にされ、助平親父共の寝物語に語られるのは僕です。そんな情けない笑い話を作られるのはご免です」
 密着した彼の身体を押し退けたいのに腕は重くて持ち上がらない。暫く努力してみたものの全身がだるく、諦めた天蓬はそのまま彼の肩に頭を凭せ掛けたまま深く息をした。今更繕ったところで先程の惨めな自分の姿ははっきり彼の目に映し出されていたのだ。ならば見栄を張る必要もない。口では大層なことを言いながら、結局自分は生を望んだのだ。死ねなかった。死のうとしていなかったのだ。
「どうしてやってしまわなかったんですか」
 彼ほどの力があれば自分の首の骨を捻じ折ることだって出来ただろう。憎いのならばどうして躊躇った。躊躇うくらいなら何故首に手を掛けた。思い付く限りの理由で彼を責め立てようとするが何一つ声には出ずに、胸の中で燻って澱のように溜まっていく。
「端から、殺す気なんてない。時々……殺したいとは思うがな」
「それがどうしてイコールにならないのか、理解しかねますが」
「殺すっていうのは物理的な問題で、俺があんたを殺したいと思うのは情緒的な問題だ」
「情緒的に人を殺したいというのが、ますます解せないですね」
 そう言うと、暫く俯いたまま口を閉ざしていた彼が、ゆるりと首を擡げて冴え冴えと冷え切った眸を天蓬に向けた。どれほど詰られても怒鳴られても向けられることのなかったその目に、胸の奥から凍えるようなぞっとした感覚を覚えた。いつも自分には熱すぎるほどの熱を帯びた眸が、凍てつくような冷気を齎す。闇を宿した冷たい眸に ざわりと背筋が冷たくなる。
「……その減らず口を封じてえってことだ」
 突然のことに、伸びてきた手を避け損ねた。後頭部をその手に捕らえられ、引き寄せられて唇に噛み付かれる。これは口付けではない、と思った。そしてこのまま本当に自分の唇を封じたままでいたいのではないかと思ってしまう。このまま全てを食らい尽くされても今の自分は逃げられない。男の噎せ返るような煙草と香水に、唇から滲み出してくる熱に、脳が焼ける。目も閉じられぬまま、冷たい眸を真正面から見つめ返す。思えば、その眸は冷たいのではなく蒼く燃え盛っているのではないか。紅蓮の炎よりずっと熱い、骨まで焼き尽くすような逃れられない熱だ。唇伝いに届いたのか、何だか酷く苦しい痛みが胸に届いた。

 漸く唇を解放されてから、彼の思惑通りになったのだと理解した。唇が熱い。放つ言葉が、見つからない。見事に彼は願いを叶えてみせた。未だ天蓬は草原に座り込みながら、彼が願った通り言葉を封じられたままだ。どんな顔をしていいのかも分からずに天蓬は自分の膝頭を見つめて唇を噛んだ。熱を持った自分の唇がぽってりと腫れたように熱い。
「あんたはおかしい。……どうしてそう、生き急ぐ?」
 ぼんやりとした頭ではその言葉に即座に反応出来ない。考えが纏まらなくて返事をすることを放棄すると、天蓬はそのまま背後にぱたりと倒れた。背中にはごわごわした草や石ころがぶつかって少し痛む。その痛みが、先程までさ迷っていた生死の境から脱したのだということを実感させた。見上げた空は赤らみ始め、澄んだ蒼色からバイオレットへと溶けるように交じり合っている。
「死のうだなんて……まさか。積極的に生きようとしていないだけです」
 死ぬということ自体日常に有り得ない環境にある。しかし世を儚み、世擦れを気取るほど幼くもなかった。折角生きているというのならわざわざその命を絶つ必要もないと思っていた。しかし彼のように刹那主義ではいられないのだ。一日を有意義に過ごそうとは思えない。限りない時間が残されていると思えばそれは当たり前のことだろう。未だかつて、生きたい、と心から願ったことはなかった。生死の境をさ迷ったことがないわけではない。しかし目を覚ました時には既に状態は安定しており、それからの回復は天界人故に素早いものだった。自ら生きたまま、意識のあるまま身体の肉を少しずつ削ぎ落とされていけば、少しは『生きたい』と願えるのかもしれない。現に、先程の自分は無意識下に身体自身が『生きたい』と願ったに違いないのだから。もし願わなければもう自分は二度と痛みを感じることも出来なくなっていた。
 ごろりと草原で寝返りを打って、横向きになる。男の目が真っ直ぐに自分を見下ろしていた。そして、戯れに伸びてきたその手がそっと自分の髪を撫でて梳いていく。面倒臭くて少しだけ心地よくて、今更振り払う気にもならなかった。
「鬱陶しいって、言われたことありませんか」
「あるわけねえだろ。鬱陶しいなんて言われるほど付き纏ったことなんかねえよ……あんた以外には」
「おかしい」
「それはよく言われる」
 そう言ってけらけらと笑う顔は、いつものガキ大将そのままだった。結局彼の素顔を暴くことは出来なかった。それを暴けば、何故だか自分の、今まで知らなかった顔までもが見えてくるようで足が竦むのである。規則的なリズムで頭を撫でてくるその手の温度を甘受して、目に刺さる紅の光りを避けるようにそっと目を伏せる。何もかも見通すような目をしたかと思えば傷付いたような繊細な面を見せて、散々翻弄した後はあっさりといつもの笑顔を見せている。面倒で面倒で敵わない。見せる顔は瞬きする度変わっている。話す言葉は会う度に違う。
 どれがお前の本当の顔だ。
 天蓬には、顔のない男が、また別の新しい仮面を付けているようにしか思われないのである。

 認めるほかになかった。
「僕はあなたが怖いです。捲簾」
 楽しそうに揺れる草花の頭を指先で弄んでいた彼が、一瞬だけ口許を釣り上げたような気がした。見間違いかも知れない。そうであればいいと願った。赤黒い太陽の光が彼の顔を横から照らして、ぞっとするような奇妙さを醸し出す。気味が悪い。その精神構造の驚くほどの精密さや、それを単純に見せる技術の巧みさが恐ろしかった。簡単に欺かれてしまいそうで。今までも幾度となくその笑顔に誤魔化されてきたではないか。
「あなたが怖い」
 そう繰り返してから、初めて、自分が怯えているのだということに気が付いた。捲簾はゆったりと首を擡げて天蓬を静かに見つめた。彼は静かに、本当に優しく微笑んで、天蓬を子供の我侭を窘めるようにそっと目を細めた。その優しさによく分からない気分になって身が縮こまった。
「恐怖を受容出来るのは良い事だ、天蓬」
 彼の膝元で怯えて身体を縮こめている自分が情けなくて哀しくて、頭を撫でてくる大きな掌が恋しかった。先程草の頭を撫でて来た風が天蓬の頬を撫ぜ、通り過ぎていく。
「あなたが欲しいものを差し出せば、もう僕に触れないでくれますか」
「そんなわけないだろう。俺が欲しいものは、お前だ」
「――――……ッ」
 急に泣きたくなった。この手から逃れられないのだと思い知らされた瞬間、絶望の淵を覗き込んだような気分になった。命も身体も心も総て絡め取られて、どれもが自分のものではなくなってしまうのだ。目の前の男が、同胞ではなく自分の支配者に見える。潤んだ視界の中、紅い光を背負った男が、歪んだ微笑みを浮かべている。こんなにも心持ちで違って見えるものなのか。いつも明朗で陰など窺えぬ悪戯小僧のようだと思っていた笑みが、支配者であり一人の男の顔になる。
「……許して、ください」
「――――だーめ」
 緋の光を背に濃い影の生まれた笑顔は、狂喜だ。
 胎児のように身体を丸め、顔を手で覆って歯の隙間から震える息を吐いた。先程一瞬覚えた、死への恐怖とは比にならない。生きながらにして生を奪われる絶望感に意識せずに涙が零れた。喉がひくつく。息が苦しい。ぐうと喉が鳴った。捲簾の手が未だ首に絡み付いて呼吸を妨げているようである。それだのに背中を撫でてくる掌は本当に優しくて温かいのだった。石や草が頬に当たって小さな痛みを残していく。止め処もなく流れる涙と胸の苦しさに訳が分からなくなって両手で頭を庇うように抱えた。どうしてこんなことになった。
「泣くな。……楽しいのは、ここからだろう」
「もう…………っ!」
(ゆるして、ゆるして、ゆるして、もう)
 広大な草原で一度、勝ち誇ったように声を上げて笑った男は、再び天蓬の頭をそっと撫でた。触れられたと同時にびくんと震える天蓬の上に覆い被さるようにして耳元に唇を寄せる。そして声を潜め、風の音に掻き消されてしまいそうな低い声で囁いた。
「あんたが泣くには、早すぎる」
 息が止まった。これで終わりではない、ということだ。自分の痛みはこれでは終わらない。これがはじまりなのだ。彼に支配される、というはじまり。それを自覚したと同時に、急に呼吸が楽になった。
 一歩踏み出して深淵に落ちれば、怖がることは何もない。淵の向こうを見つめて怯える必要はなかった。髪に梳き入れられる硬い指に、一歩深淵へ足を踏み出す。そっと息を細く長く吐き、その手の温かさを受け入れた。目頭から零れた最後の雫が頬を伝って、ぽたりと地に落ち土に染み込む。ゆっくりゆっくり、水底へ沈み込むように深淵へと落ちて行く。光ある水面の上を見上げて少しだけの寂寥感が胸を通り過ぎたが、天蓬は気付かぬ振りをした。
 底は一体、どこにある。










2008/01/19