「お……すげえな」
 ひらりと馬から飛び降りた黒い軍靴が、少し柔らかい湿った土に沈み込む。深く足跡が残るのを避けて次の一歩を踏み出した捲簾は、すぐにその足を止めた。そして後ろからやってきた男の声が耳を擽る。
「ああ、コスモスですね」
 すぐ後ろについて来ていた男は、捲簾に同じく馬から軽い動作で飛び降りて付近にあった切り株の上に小さな、コツンという音を立てて着地する。ひらりと服の黒い裾が風に翻った。その男に、捲簾は怪訝な顔をして訊き返した。
「コスモ……」
「コ・ス・モ・ス、です。此処よりずっと西の方の国の言葉で、“美しい”という意味だそうですよ」
「へえ、そりゃ、名前負けしなくてよかったなあ」
 通じるはずないというのにそう、花に向けて言うと、それに応じるように花の群れは風で一斉に揺れた。
「秋の桜、と書いたりもするようです。常春で季節のない天界には有り得ない植物ですね」
 いつもながら流暢に流れ出る知識に耳を傾けながら、捲簾は自分の前に広がる光景を眺める。その子供のような動作に男は少しだけ笑った。その後ろでは二頭の馬が、風に鬣を揺らしながら静かに立ち尽くしていた。
「しかしこりゃすげえわ」
「ええ、これだけ群生していると圧倒されますね……見事です」
 その妙に綺麗な顔をした男はその桜色の花曇に目を細めた。風が吹く度にその連なった細い茎が逆らうことなくゆらゆらと揺れる。二人と二頭の前に広がる草原には見渡す限り一杯に、コスモスの花が咲き誇っていた。濃桃、薄桃や白、そして緑の波に捲簾は目を細めた。全くと言っていいほど下の土は見えず、緑の毛足の長い絨毯の上に花がころころ転がっているようだ。
「風情があるねえ」
「はは、あなたにそんなものが分かるとは思いませんでした」
「お前な」
 背後で腕組みして面白そうに自分を見つめる無二の副官――――天蓬に、捲簾は引き攣った顔を向ける。すると天蓬は後ろで花や草木に鼻を寄せたりしている二頭の馬を振り返り、ゆっくりと歩み寄った。そして二頭を交互に撫でて大人しくしているよう言い置いてから、再び引き返してくる。そして捲簾を追い抜きざまに、その鳶色の目にからかうような色を浮かべて微笑んだ。
「冗談ですって。あなたは十分過ぎるほど情緒に溢れてますよ」
「何か俺がウェットだって言われた気がするんだが」
「心当たりがあるからそういう被害妄想を起こすのでは」
「ひでえ」
 捲簾から少し離れたところで、腰を屈めて指先でコスモスを揺らして弄んでいた天蓬は、少し拗ねたような傷付いたような声を出す男にクスリと小さな笑い声を立てた。それもざわりと揺れる大群のコスモスに掻き消されていく。
「まあ、多少ウェットなところもあなたの魅力ってことにしておきましょう」
「しておくって……お前、俺のこと嫌いだろう」
 少し冗談混じりでそう言うのに、天蓬は花を突付く指を止めないまま、表情も少しも変えないままで返事をした。
「愛してますよ」
「……」
「無視ですか」
「……お前はもう」
 返事がないことにむっとした天蓬が少し膨れて身体を起こすと、花の群れの中に黒く広い背中が見える。ゆっくりと花を踏みつけないように彼の背後に近づいて、後ろから顔を覗き込んだ天蓬は、少し背けられた捲簾の浅黒い顔が赤く染まっているのを見て、満足そうに笑った。そしてどんと彼の背中に額をぶつける。
「もっと」
 背中から彼に引っ付いていると、横から伸びてきた腕に両腕を取られ、彼の腹部に回される。これは結構恥ずかしい状態ではないだろうかと一瞬考えた天蓬だが、結局いるのは自分と彼と、馬二頭だ、と思い直して反抗するのを止めた。無駄な体力は使わない主義なのだ。捲簾の腕を振り払おうと込めた力を抜き、逆に悪乗りして彼の身体にしがみ付いてみる。すると思いの外嬉しそうな顔をされて、少し落胆する辺りが天蓬の天蓬たる所以である。ぼんやりと赤くなった捲簾の耳を暫く後ろから見ていた天蓬は、そんなに変わりはないもののそれでも自分より少々背の高い彼の肩に、少し踵を浮かせて背伸びして顎を乗せた。
「足りないですか」
「愛情不足で倒れそう」
「愛情飢餓って感じですね、僕一人では満足出来ないんじゃないですか」
 悪戯っぽい微笑を浮かべて、天蓬は指で捲簾の背中を突付いた。
「元帥のがいいんだけどな」
「贅沢だなあ」
「そしてかなり幸運な男だな、こんなに愛されちゃってよ」
「馬鹿な人ですねぇ」
「馬鹿でもいいぜ」
「今更じゃないですか、そんなこと」
 不意に相手の力が抜けたのを感じて、天蓬はひらりと彼の背中から離れた。彼の身体から受けていた体温が冷め、頬が少し冷たくなった。もう一度戻って体温を貰ってこようかとも考えたが、今近寄るのは得策ではないだろう。
「……おい! 今の“今更”って、俺が馬鹿、っていうところにかかるんじゃないよな」
「さあどうでしょう」
「おーい」
 くだらない話題の最中だというのに妙に真剣な顔で訊いて来る彼が可笑しくて、少しだけ笑ってとぼけてみると、捲簾は打ちひしがれた犬のようにしゅんとした。その図体で、と思わないでもないが、ここは何とかの弱みらしい。笑って放っておくのも何だか可哀想な気もして、天蓬は風に煽られる髪を押さえながら言った。
「どっちも、かもしれませんよ」
「……」
「デレデレした顔しないで下さい。……いつも真面目にしていればカッコいいんですが」
「……やっぱ俺すげぇ幸せかも」
「喜ばないで下さいよ、あなた自分が馬鹿だって言われてるんですよ」
「相殺してもプラスになるからいい」
 馬鹿だと言われて凹む分より愛されている事実で跳ね上がる分の方が多いらしい。なんと単純な、と溜息を吐くと、さっきとは反対に後ろから抱きつかれる。少しだけ上向きに首を後ろに向けると、呆れるほどに全開の笑顔がそこにあって、一瞬どう反応していいか分からなくなってしまった。そしてその後、言葉に詰まってしまった自分に腹が立ち、背後の男に向かって愛想のない目を向けた。
「盛った犬みたいに年中発情しないで下さい」
「おい」
 最前の言葉での気分の浮上と、納得出来るところもないとは言えない……という負い目で暫く黙っていたが、流石にあまりな言い分に、捲簾はかぷ、と天蓬の耳殻に噛み付いた。噛むといっても甘噛み程度だったが、天蓬の機嫌を急降下させるには十分だった。
「躾がなってないみたいですね。また懲罰房に入れさせますよ」
「その間の書類、お前が全部一人でやるなら入れてオッケーよ。でもまあ、躾なら是非ベッドの上でお願いしたい」
「ああ、性的衝動を我慢する訓練ですか。いいですね、今夜やりましょう」
 不機嫌になったかと思えば目を煌かせてそんなことを口にする天蓬に、捲簾は顔を引き攣らせた。
「結果は見えてるからいい」
「残念です」
「第一そんなの時間が勿体ない」
 だらだらと実のない話を続ける。さわさわと秋桜の波が足元を撫でた。
 捲簾のことを本気で疑っているつもりはないし、捲簾とて本気で疑われているなんて思っていないだろう。だからこんな風にして軽口として口に出せるのだ。本当に天蓬が疑い始めたらそれは疑念ではなく真実にほぼイコールとなる。天蓬は根拠のない疑念は抱かない。天蓬が疑う、ということは、本当に捲簾が他の女と通じているということだ。そして、本当にそうなってしまったら天蓬はすぐにでも捲簾と切れるつもりでいるのだから。自分に疑念を抱かせるほどに彼との距離が広がってしまったら、繋がる意味は皆無だからだ。
 これほどまでに誰かに執着する自分に驚き、嘆いた。そして少々気持ち悪くも思う。今の自分は本当に自分なのか。
(……きもちがわるい)
 自分の手の平を見下ろす。今日の討伐で傷だらけになっている指先には、捲簾によって丁寧に絆創膏が巻かれている。自分の指に傷が残ったところでそんなに気にしたりはしないのに。同じく傷だらけになった彼の指先を思い出す。怪我ばかりする男だから、身体中傷だらけなのだ。指も怪我が治った痕が硬くなってがさがさになっている。だけど、そんながさがさの指で頬を撫でられるのが好きだった。
 気付かれないようにそっと彼を振り返る。風を顔に受けながら伸びをしている。短くて黒い髪と真っ黒な軍服が漆黒の毛を持つ獣を髣髴させた。深い黒の猫目は、見据えられれば動きが取れなくなるほどに強い。時々、この男はなんて綺麗な人だろうと思う時がある。全てが自然のままの、何にも流されない自由であるからこその輝きがそこにあった。自分には到底手の届かないものだ。
 しかし、肩を回したりしながら空を見上げる目は本当に優しい。優しくて優しくて、困ってしまうほど優しい男だ。そんな困った男だけれど、そんな彼でなければ、わざわざ階級が上の自分が下に付こうとなんて思わなかった。
 自分になくて、いっそ嫉妬してしまうほどのものばかり持っていながら、それでもどこか自分に似た男。
(あなたの優しさは、痛い)
 天蓬は右手で顔を覆う。太陽の光が眩しくて痛い。
 今日は運良く、大きな怪我はしなかった。軍への損害も殆どない。しかし、こんな風に終わることは滅多にない。大概彼は何かしか問題を起こすか誰かを庇うかして大怪我をして帰ることになる。その彼を担ぐ羽目になるのは自分だし、彼が足に怪我を追って歩けなくなった場合全ての後処理を一人でこなすことになる。今までなら普通にやっていたことだ。全て背負い込んで自分一人でやっていたことなのに。怪我をするなと言って彼がしなかったことはない。それくらいの命令は、聞いてくれてもいいのにと思ってしまう。
 何に替えても失いたくないものがあるということが、こんなにも重いなんて今まで少しも知らなかった。


「……花言葉」
「――――え?」
 考えに沈み込んでいた天蓬は、唐突に背後で呟かれた言葉にぴく、と顔を上げた。振り返って軽く聞き返すように首を傾げてみせると、彼は視線だけを天蓬に向けた。
「とか、あんの。この花」
 そう捲簾が言うと、どこか胡散臭げな顔をした天蓬は今度は呆れたような顔をして腕組みをした。
「今度は対女性のピロートークのための知識集めですか。セックスのためには事欠かないんですね、随分と御大将は御勉学に熱心でいらっしゃる」
「あのな、俺だって純粋に何かが気になることもあんの……っていうか、それ」
「は」
「その、他人行儀な敬語は止せ」
「……」
「他人みたいで、気持ち悪いだろうが」
「他人じゃないですか」
「あーも、確かにそうだけど!」
 そう投げ遣りに言って捲簾はどっかりとその場に座り込んだ。それでもなるべく花のないところを狙っている辺りが捲簾らしくて、天蓬は立ったまま彼を見下ろして少しだけ声を殺して笑った。すると拗ねた子どもような顔でじろりと見上げてくるものだから今度こそ笑い声が抑えられずに口から漏れてしまう。
「……天蓬」
「すみません、つい」
 そう自分の名前を呼ぶ声すら子供っぽくて、ついつい笑いが止まらない。何とか笑いを止めた天蓬が眼鏡を外して涙を拭う頃にはすっかりむくれた捲簾はそっぽを向いて寝転がっていた。天蓬がいくら全力でからかったとしてもこんな風に拗ねるのは珍しい。何が彼の機嫌を損ねたのかは分からなかったし、ご機窺いをするつもりもない天蓬は眼鏡を掛け直して、流れてくる優しい風に目を細めた。


「乙女の真心」
 突然呟かれた、今の状態に全く関連のない言葉に、捲簾は寝転がったまま視線を天蓬に向けた。穏やかな笑顔で微笑まれて、捲簾は寝転がったまま彼を見上げて、何度か目を瞬かせた。
「は?」
「だから、あなたの知りたがっていた知識です。この花の花言葉。あと、乙女の純真、調和、美麗、それから……少女の純潔なんていうのもありますが」
「ふーん、随分とお美しいねぇ」
「花言葉なんてそんなものですよ。大概、美しいか可愛らしいか、哀しいか、です」
 沈黙して花畑と自分を交互に見つめる捲簾に苦笑して、天蓬が髪を結わえていた紐を無造作に引いて解く。癖のないその黒い絹糸は跡がつくこともなく、紐が解けると同時にさらりと梳けて軍服の肩に落ちた。光に透けてキャメルに淡く輝く髪を見つめる。
 彼のその髪は、それ以上ないほどに讃えられ蝶よ花よと愛でられる天界のどんな美姫のそれよりもずっと美しい。彼を妬む女たちがいるのも知っている。そして彼女たちが男に対して妬みを持っている自分たちを苦々しく思っているのを。だからこそ毎日ちゃんと洗えと口酸っぱく言いたくもなるのだ。まあ、天蓬がいくら洗わずにいても、三日に一度は捲簾が無理矢理風呂場にかついでいって湯船に落とすから、結局最近は綺麗にしていることになる。
 天蓬の動きに同調するように、さわり、とコスモスがウェーブを描くように風にならって揺れる。
 これでも軍人だから決して華奢ではないが、骨太、筋肉質とはとても言えないすらりとした身体が、黒いぴったりとした軍服で尚細く目に映った。腰の細さがよく分かるデザインにこういうときに感謝する。いつもの彼の白衣では殆ど体型など窺えないからだ。この男の容姿は十分観賞するに値すると思う。
 横になったまま、真っ直ぐに立って腕を組んでいる天蓬を見上げる。遠くを窺うように、少し逸らされた喉から顎にかけてのラインが扇情的である。その白い喉に噛み付きたい衝動を抑えて、捲簾は青空に向かって大きく息を吐いた。それでは普通に獣と変わりない。その首に下を這わせて、隠せないぐらいに身体中に跡を残して。快感の涙を一杯に溜めたその琥珀に自分だけを映したい。
(なんつって)
 俺はSか、と呟く。しかし、彼といればいるほど自分の凶悪な面が剥き出しになっていくのを誤魔化すことは出来なかった。破壊したいという欲求はそもそも誰しも持っているものだと思うのだ。ただ、それを引き出す相手に、出会えるか、出会えないかの差だろう。
(出会っちまったし)
 自分にない才能ばかりを持ち合わせた美しい傑士は、全く正反対のように見えて他の誰より自分に似ていた。
 同じく戦場に立つ相棒なのだから、自分と同じだけ怪我をするのは当然だ。けれど彼が怪我をするのは自分が怪我をするのの何倍も痛々しい。そんな風に思っていることが知れたら「僕を何だと思っているんですか」と言って叱られてしまいそうだが。
 共にゆく唯一無二の相棒の存在は心強くあり、掛け替えない。しかしそれと同時に失う怖さが、じわりじわりと心を侵蝕しつつあった。

「ああ、こんなのもありました、コスモスの花言葉」
 ぼんやりと彼の姿を見上げていた捲簾は、彼が突然言葉を発したことでやっと、自分が一切の動きを止めていたことに気付いた。
「……何」
「“野性美”です」
 ごろり、と捲簾は寝返りを打った。腕を頭の下にして仰向けになると、ゆっくりと捲簾の頭の上まで歩いてきた天蓬の影が掛かって目の前が暗くなる。立ったまま下を向いて、仰向けのままの捲簾の顔を見下ろしてくる。
「そう考えると、あなたに似合う花なのかもしれません」
 そんな風に言って笑う顔が、造りものなのか本物なのか、計り兼ねて、捲簾はぼんやりと彼の目を見上げた。
「どっちかっつうと、お前じゃねえの」
 天蓬はその言葉に一瞬目を瞠ったようだった。そして、そのまま捲簾の頭の上の方にしゃがみ込んだ天蓬は捲簾の顔を見下ろし、そしてどこから持ってきたのか、薄桃色のコスモスを一本取り出した。
「摘んだのか」
 少し咎めるような口調になってしまって捲簾が顔を顰めると、天蓬は目を見開いた。そして面白そうに花畑のほうを指差す。
「ここの花精にお願いして頂いたので大丈夫です。……ほら、あそこ」
 天蓬の指差す方を少し身体を起こして見ると、花畑の中央に小さな後ろ姿が見えた。その白い衣を纏った後ろ姿は、天蓬の視線を受けたようにゆっくりと振り返って、小さくはにかみ笑いをした。年の頃十歳ほどの少年だ。太陽の色を集めたような、透けるような金色の短い髪をなびかせている。肌も透けるような白……というより、向こう側が実際透けて見えているため、向こう側のコスモスの桃色で頬が僅かに紅潮して見えた。
 そして彼が少し恥ずかしそうに顔を背けると、一際大きな風が花を揺らし、そのうち、少年の姿は見えなくなっていた。勿論普通の少年ではない。姿が小さな少年を形どっているだけだ。年齢からすれば自分も天蓬も比にならないだろう。彼からすれば二人とも赤子以下に違いない。
「ちょっと分けて下さいってお願いしたんですよ。そしたら茎の途中のお花を落としてくれたんです」
「花の精を誑すな……」
 もう慣れたことなので一々文句を言いはしてもそれに怒気は混じらない。気の抜けたような捲簾の反応にくすりと笑った天蓬は、その花の茎を捲簾の耳の脇に差し込んだ。そして満足そうに笑う。
「……あの、天蓬」
「何ですか、可愛いですよ」
「あのなぁ」
 花を髪につけた自分などを見たら、部下たちは腹を抱えて笑うに違いない。むくりと身体を起こすと、隣にぺたん、と天蓬が座りこむ。ぺたりと座り、上目遣いで見上げながら小首を傾げて「可愛いですよ」なんて言われたって何が嬉しいと言うのか。むしろもっと別なことを、と思わなくもない。捲簾は自分の頭に咲いた秋桜を引っこ抜くと、横に座る男の耳の上に差してやった。
「似合う」
 冗談でも何でもなくそう告げると、花を頭に付けたままきょとんとしていた天蓬は、我に返ったようにむっとした顔をした。花も恥じらう、という言葉がある。しかし天蓬の髪に差し込まれた淡い桃色のコスモスは、必要以上の主張もせず、かといって霞むこともない。彼の静かな艶やかさにその花の清楚さがよく似合った。大方、さっきの花精がその辺一体で一番美しく開いた花を落としてくれたのだろう。下界の花精は必要以上の力を持たない。彼はこの広大な花畑そのものだ。花が枯れたら彼も消えてしまう。そんな彼が持ちうる、天の花に捧げられる最高の捧げ物はこの花たちしかない。
 彼と天蓬にどんな関係が有るのかは知らない。もしかしたら今日初めて出会ったというのが一番有力かも知れない。ただ、きっと彼が天蓬によく似合うだろうと思って、選びに選んだその花を捧げたのあろうということだけは分かった。天の花に花を捧ぐなど勇気のいることだっただろう。しかし他ならぬ彼自身が“見事だ”と讃えた花畑だ。もしかしたらそれが嬉しかったから、そのお返しだったのかも知れない。

「捲簾」
「あ?」
「コスモスは、風で押し倒されたりすると茎から根っこが出て根を張るんですよ。で、先端はまた真っ直ぐ上に伸びていくんです。嵐にあって根こそぎ持っていかれても、踏んづけられても毎年ちゃんと咲くんですって」
「ますますお前らしい」
「意地汚さは似てるかもしれませんね」
「そんで、俺っぽくもあるってか」
「……そう、ですね」
 そう冗談っぽい口調で言うと、一瞬押し黙って目を瞠った天蓬は珍しくころころと邪気のない笑顔を見せた。優しい秋風に煽られて、髪に差された薄桃の花弁が揺れた。ああ、これは夢じゃなかろうか。艶を含んだ笑みや、企みが垣間見える笑みならいつも見ている。いや、それもとても好きなのだが、こんな風に珍しく無邪気な顔を見ると煽られるのを止められない。彼がこんなに魅力的で誰もを惹き付けるのは彼の行動が全て計算で行われているわけではないからだ。ゆっくりと手を伸ばして、花が差してあるのと逆側の横髪に指を梳き入れた。少しも引っかかることなくさらりと指から逃げていく髪を指先で弄んでいると、天蓬は怪訝な顔をした。
「何ですか」
「野性美ってのを、考えてた」
「厳密に言えば、“野性美”っていうのは黄色いコスモスの花言葉なんですけどね」
「黄色?」
「ええ。キバナコスモス、といいます。黄色、というか、オレンジというか」
 天蓬はぐるりと花畑を見渡した。キバナコスモスはこの草原にはないようだ。そして「ここにはないみたいですね」と天蓬が口にしようと口を開いた瞬間、捲簾は何か頭に当たったような感触を感じた。小さな、何か軽いものが頭に乗る感覚。
「……あ?」
「おや」
 その感触の正体を確かめようと、乱暴に手を頭に伸ばそうとした捲簾は天蓬の手に遮られた。そして頭に伸びた天蓬の華奢な指は、黄色い花弁の花を摘んでいた。
「どこから来たんだ、これ」
「さっき花精が運んできてくれたんですね……これがキバナコスモスです」
 天蓬の視線が上空を巡る。捲簾もそれに倣って空を見上げたが、何もいる気配はなかった。付近に黄色は見当たらないから風で飛んできたということも考え辛い。やはりここの花精から捧げられたのだろうか、と思って、少し面白くない気分になった。その直後、天蓬の呼びかけに応じるように、ざあっと秋桜の波が風に揺れて、鳴いた。
 天蓬の指先に咲いているのは、少々周りに生えている桃色や白のコスモスよりは小ぶりな、オレンジがかった黄色の花弁。暫くそれを愛おしそうに眺めていた天蓬は、突然何かいいことでも思いついたかように目を輝かせ、その花を捲簾の耳の上に差し込んだ。その再びの暴挙に捲簾は顔を引き攣らせる。が、彼はまたも満足そうに微笑んでいる。
「……おい」
「似合いますよ」
「俺、何か悪いことしたか」
 今日の討伐はきちんと天蓬の作戦に忠実に動いたし、そのおかげか殆ど怪我もない。怒られることはしていないはずだ。顔色を窺うようにそう訊ねてみると、彼は驚いたように目を瞬かせた。
「怒られることした覚えでも」
「ないです」
「ならいいじゃないですか。僕がやってみたかっただけです」
 実に変な“やりたいこと”だ。天界一の暴れん坊と悪名高い男に何をしたいかと言われて、髪に花を差してみたい、だなんて。
「いいじゃないですか、これで西方軍は仲良しだっていうことをアピール……」
「いや、とうとうイカレたかと思われるぜ」
 只でさえ最悪の左遷先だと他の小隊から白い目で見られているのだ。まともそうに見えて、第一小隊に属する士官に碌な経歴の持ち主はいなかったりする――――天蓬はそこのところ上手く乗り切って書類上は綺麗な経歴だ。あくまでも書類上は、だが。書類よりも記憶に残る所業を数々犯してきているので、とてもではないが綺麗な経歴だなんて言えはしないのだった。
 しかしそれも住めば都である。普段は階級の垣根が低くフレンドリーであるが締める時には締める。個々の能力は高いしいざとなれば天界軍一統率力が高いのではないかと捲簾は思っている。捲簾が来る前だって天蓬が全て自分で背負い込んでしまうことを除けばそう悪い隊ではなかったと古参の士官は言う。それも、部下たちが天蓬を心から信頼し慕っていたからだ。策士の彼は個々の才能を最大限に引き出すのが巧い。他の隊で上からの圧力で自らの力を出せなかった者たちにとっては、これ以上ない場所と言えるだろう。多少、その軍師が変わっているのを除けば。
「髪に花、を西方軍の標準装備に」
「馬鹿言え!」
 頭に浮かんだ部下の面々が普段と変わらない生活を送る姿が頭の中で巡る。……但し全員の頭に、色取り取りの花。
「……アホか!」
「あ、折角だから瑯と雛駿にもつけてあげましょう」
 いいことを思いついた、というように天蓬はうきうきと立ち上がって、二頭が休んでいる木陰へと歩いていった。その後ろをふわりと花が二輪、風に運ばれて飛んでゆく。その後ろ姿を暫く眺めていた捲簾は、溜息を吐いてゆっくりと立ち上がり、彼を追った。

 天蓬によって、二頭揃って耳の脇の頭絡のベルトに花を差し込まれた瑯と雛駿は、特に抗うこともなく、却ってどこか嬉しそうな表情で天蓬を見返していた。彼が珍しく、手放しで嬉しそうな表情を見せているのが嬉しいのだろう。元から二頭が天蓬に抗うはずがない。捲簾が後ろにいるのに気付いて、天蓬はくるりと振り返った。
「ほら、可愛いでしょう」
「ああ……そう、かな」
 曖昧な返答をする捲簾にも、今日の天蓬は牙を剥くことはなかった。瑯は濃い桃色、雛駿は中央から外側にかけて白からピンクへと変わっていく色の花を付けられている。捲簾が愛馬の瑯を見つめると、あんまり見るなと言わんばかりに瑯は顔をぷい、と背けた。瑯の黒い毛色に濃桃が映えて綺麗には綺麗なのだ。しかし、二頭とも勿論雄なので恥ずかしいには恥ずかしいらしい。
 天蓬はと言えば呑気に雛駿の首を撫でている。雛駿は幼い頃から付き合っていて天蓬の暴挙には慣れているようだ。むしろそれを暴挙とも思っていなさそうなぼんやりしていて天然な辺りが主人に似ている。天蓬が雛駿を可愛がっているように見えて、逆に天蓬が雛駿に見守られているのかもしれないと思うと思わず顔が緩んだ。

「じゃ、そろそろ帰るか」
「もう帰るんですか」
 そう言うと、まだ遊びたいとごねる子供のような口調で返されて、捲簾は苦笑した。
「あいつらが困るだろうが」
 そう言って空の上をしゃくって見せると、少しだけ残念そうにしていた天蓬は、仕方ない、というように溜息を吐いた。部下たちは先に帰らせてあるが、報告書や点検などは全て天蓬の仕事だ。ぐりぐりと頭を撫でてやると、少しムッとしたように顔を膨れさせてその手を振り払った。
「また来られるだろ」
「……」
 天蓬が名残惜しそうにするのは、またこの満開の花畑と相見えることが出来るか分からないからだ。昨今の下界は戦火が少しずつ広がりつつある。今日討伐で訪れたここの隣の街は荒廃し、染み付いた血飛沫はもうとっくに黒ずみ、あちらこちらに肉の腐る臭いが漂っていた。無表情でその街を見つめる天蓬の横顔が、多分光の加減か何かで、少し哀しそうに見えたものだから。
(だから連れて来たんだけど、逆効果だったか)
 いずれこの花畑も火に焼かれ、只の焼野原に変わってしまうかもしれない。そうしたら、先程の花精も消えてしまう。
「踏まれて、嵐に流されても咲き続けられるのに、人間の暴挙には、勝てないんですね」
「……」
「もうすぐ誰かの手によって散らされるのが分かっているのに、どうしてこんなに綺麗に咲けるんでしょう」
「……そりゃ、あれだろ」
「?」
「最期には最高を残したいんだろ」
 さわり、と細い茎が揺れる。
「消えるのが分かっていても」
「馬鹿、分かってるからこそだろうが。……どうせ死ぬなら、最高の姿でってことだろ」
 流れてくる風が秋桜の香りを運んできて、雛駿の鬣を撫でた。風で乱れたその鬣を梳きながら、天蓬は言葉を発さずに俯いている。今こうして彼の顔が沈んで見えるのも、辺りが暗くなってきたからだろうか。そうして俯いた姿が途方に暮れた子どものようで、自分にはありはしないはずの父性愛めいたものをくすぐられて、捲簾は彼の髪に手を伸ばした。風で絡んだ髪を指で梳いてやっていると、少しだけ篭った声で、「痛いです」と言葉が返ってきた。
「痛い? どこが……傷口か」
 今日負った怪我が悪化しただろうか、と慌てて訊き返すと、ふるふると首を振った天蓬は捲簾の腕を掴んだ。
「あなたの手、がさがさしてて、痛いんです」
「あ? ああ、悪い」
 撫でるのをやめろ、と遠回しに言っているのだろうと思って捲簾は自分の腕を引こうとする。しかしその腕を掴んだままの天蓬の手に阻まれてそれは出来なかった。
「……あの、天蓬さん?」
「止めたら嫌です」
「え」
 そう言って以来、彼は無表情のまま口を閉ざした。しかし捲簾の腕を掴む手を離そうともしない。無言のまま促されるようにして再び彼の髪に指を梳き入れると、安心したように彼の手は腕から離された。何がしたいんだ何が、と言いたくなることもしばしばある。だけどその一つ一つが、滅多にない天蓬から捲簾への甘えなのだと思えば、なかなか懐かない猫が懐いてきた時のようで嬉しくもあるのだ。大人しく髪を撫でられながら俯く天蓬を少し上から見下ろすと、視線に気付いたようにちらりと目だけで上を見た。
「……馬鹿にしてませんか」
「してませんよ」
「してるじゃないですか」
 むす、と唇を曲げて不服そうにする彼を自分の胸に抱き寄せる。彼は抗わなかった。
「大丈夫だよ、ここの花精はそんなに柔じゃない」
「え?」
「もし焼かれても、種が一粒でも残れば……焼野原に咲く花になるかもな」
「……」
「ここは天界とは違うんだよ。終わりはあるけど、再生がある」
 そう言うと天蓬は目を瞬かせて、捲簾の胸の中でゆっくりと顔を上げた。その表情は笑っているようでもあり、どこか苦い。
「じゃあ、僕たちに似てるなんて言ったら、失礼ですね」
「え?」
「僕らより、ずっと強いじゃないですか。皆」
 花畑が、ざわざわと揺れた。目の前の天蓬の髪の毛も強い風に煽られるのを見て、思わず捲簾は花畑を振り返る。先程まで穏やかにさわさわと揺れていたコスモスは強い風で盛んに揺れている。
「……そんな顔すんなって、花が言ってるぜ」
「馬鹿な」
 訝しげな顔をして捲簾を見上げた天蓬の目は、大きく見開かれた。
「……あ?」
 彼の目は自分を通り越した背後を見つめていた。それを追うように振り返ってみると、視界はピンク色に染まった。
「げ!?」
 大量に頭の上に降り注いできた花弁に、思わず目を剥く。捲簾の腕の中にいた天蓬もまた目を大きく見開いて、頭の上から降ってきた花に驚いていた。
 花精のいたずらか、それとも。
 驚いたように花にまみれた捲簾と自分を見ていた天蓬に、捲簾は憮然とした顔を向けた。
「……ほら、奴もそんな顔をするなってさ」
 暫く呆然としていた天蓬は、ゆっくりと手を捲簾の頭に伸ばして、上に載っていた薄桃のコスモスを取り上げた。そしてそれをじっと見つめていた彼は緊張が解けたように顔を緩めた。
「馬鹿なところは、僕らに似てるかもしれませんね」
「お前……まあいいや」
「あ、待って下さい。折角くれたんですから、持って帰りましょう」
 既に元の調子を取り戻した様子の天蓬は、捲簾や自分の身体に幾つもついた花を取り始めた。
「持ち帰ってどうすんの」
「飾る以外にどうするんですか」
「花飾るくらいだから、部屋は綺麗にしろよな」
「あと余ったら悟空にあげましょう」
「今無視したな、都合の悪いところでそうやって綺麗に無視すんのは悪い癖……」
「拾うの手伝って下さいよ」
「……はいはい」
 自分たちについた花と足元に落ちた花を拾い終えると、天蓬が両腕で一抱えするほどの花束になった。
 それをどこか嬉しそうに眺める彼を見ながら捲簾は瑯に跨り、手綱を引く。一旦天蓬から花束を預かり、彼が雛駿に跨った後再び返す。走り出す前に一度振り返ると、ざわざわと相変わらず花畑は揺れていた。
 夕日を浴びた桃色の花たちは濃いオレンジ色に染まり、一層鮮やかだ。
「……行くぞ」
「ええ」
 一足先に捲簾は花畑に背を向ける。天蓬は暫く花畑を見つめていたようだったが、すぐに後ろから雛駿の足音が聞こえるようになった。




 そして天界に戻った二人。
 うっかり髪に差した花を取り忘れた捲簾と天蓬が、部下たちをそれぞれ別の意味で硬直させたのは当然の話。










お花をつけた大将と軍師(笑うとこです)。真面目な話をしながらそれでも頭に花があるのです。     2006/4/10
……by 「花言葉物語」 中山草司 -- 写真がとても綺麗です。