愛してるだなんて、とんでもないこと。かたちにして現すなんてもっての外。
 口に出来る想いなんてそれこそ、そこまでの想いだ。

 この部屋のドアは無体を受けることには慣れている。日々蹴り開けられ体当たりされ、時には部屋から溢れ出しそうな大量の本を受け止め圧力を受けたりするが、今日もきちんと閉まっている。そしていつもの如く、怪力の子供の大胆な体当たりを受け、騒音を立てて開いた。デスクで珍しく真面目に書類に取り組んでいた天蓬はゆっくりと顔を上げ、ソファに沈んでいた捲簾はその音に驚いて跳ね起きた。何事だ、という目を向ける捲簾を軽く手でいなして、天蓬はゆっくりと椅子から立ち上がった。そしてふわりと華やぐような笑顔を浮かべる。女子供に向かう時の彼の笑顔は、愛想抜きでも天使のようである。その微笑みと変わり身の早さに呆気にとられ、捲簾は目を瞬かせながらもドアの方へと顔を向けた。
「いらっしゃい、悟空」
 戸口には息を切らした小さな少年が立っていた。その少年、悟空は両腕一杯に薄桃の花を抱いている。そして後ろから歩いてきた保護者はいつも通りの仏頂面である。取り扱いの難しいそちらはとりあえず置いておいて、天蓬はまず悟空の前で腰を屈めた。
「どうしたんですか、今日は。あれ、今日は忙しいのでは」
 前半を悟空に、後半は保護者に向けて言うと、むっすりとした顔をして腕組みしていた彼――金蝉は、悟空の方を指差して言った。
「どうしても今日中にそれをお前に渡したいと駄々を捏ねたから、少しだけ時間を作ってきた。今度は何を教えたんだ」
「え? 別に僕、何も……」
 天蓬は彼の責めるような視線に唇を尖らせたが、すぐに少し視線を緩めて今度は悟空と目を合わせる。彼はにこにこと天蓬を見上げ、両腕に抱いた花束……というよりも花畑から直接摘んで来たような沢山の花をいそいそと差し出して来た。
「前に天ちゃんが教えてくれただろ、あの、ば……ば……? あれ、何だっけ」
 混乱してしまったように困った顔をする悟空を見つめていると、後ろからソファから起き上がった捲簾が頭を掻きながら近付いて来た。そして興味深げに、顔を覆い隠すほど大量の花を抱えた悟空を眺め、次に天蓬に向かって肩を竦めてみせた。
「どうしたんだこれ……」
「ああ!」
 事の経緯を訪ねようとして声を掛けた捲簾の言葉を遮り、天蓬は急に身体を起こして手を打った。そしてにこにこと悟空に微笑み掛け、そして嬉しそうに感謝を告げてその花束を受け取る。嬉しそうな、ほっとした顔をする悟空にそのまま待つよう言い置いて、天蓬はその花を抱えたまま部屋の奥へと歩いていった。そして、壁際に据え置かれた棚のあちこちを探し、その中から一つの箱を探し出して戻って来る。それは淡いグリーンの包装紙に白いベルベットのリボンが掛けられたものだった。先日掃除をした際にはあんなものはなかった、と訝る捲簾をよそに、天蓬は少し身体を屈めてその箱を悟空に差し出した。悟空は何が何だか分からないというように天蓬の顔と差し出された箱を交互に見つめる。
「はい、こちらは僕からです」
「え…………あ、天ちゃん、これって」
 嬉しさを隠し切れない表情で訊ねる悟空の頭を撫でて、その彼の前に膝を抱えてしゃがみ込む。
「覚えてないと思ってました? ちゃんと用意してたんですよ」
「う、うん! びっくりした! でもありがとう!」
 箱を両腕に、身体全体で感謝を表す悟空に天蓬は微笑ましげに笑った。その後ろで訳が分からず首を捻る二人にはお構いなしである。しかし二人に余りに無視され放置されて苛立った金蝉が天蓬の肩を叩いたことで、その二人の間に漂っていたふわふわした空気はふっと途切れた。金蝉に強く睨みつけられた天蓬は親に窘められた子供のように軽く肩を竦めて笑った。
「そろそろ行かないとならないんだが」
「そうですね……すみません、お引き止めして」
 天蓬が立ち上がると、金蝉はすぐに踵を返した。最後まで少し名残惜しげな顔をしていた悟空も、金蝉が部屋から出ていく段になると諦めたように部屋に背を向けた。そして戸口で一度振り返り、天蓬に向かって手を振って出ていった。一気に人が減り、静かになった部屋の中で暫く花束を抱えたまま立ち尽くしていた天蓬は、小さく溜息を吐いて漸く歩き出した。そしてドアを閉めて部屋の中へと戻ってくる。そして腕の中の花束を見て困ったように首を傾げた。
「ええと、花瓶ありましたっけ」
 草臥れた白衣とワイシャツというだらしのない井出達であっても、花は花だ。天の花の腕(かいな)に抱かれた薄桃の花々は歓ぶようにふわりと揺れて、甘く芳しい香りを漂わせる。花が似会う男など有り得ないと思うのに、やはり彼の場合だけは例外だった。意識を逸らそうとするのにその姿は自分の目を惹いて止まない。呆れたものだと自分自身に舌打ちをして、無理矢理に彼の姿から目を引き剥がす。そして顔を逸らしながら頭を掻いた。
「そこにあるだろ、白いの」
 そう言ったものの、どこにあるのか分からずにきょろきょろするばかりの天蓬を見兼ねて、捲簾は諦めたように天蓬に歩み寄って彼から花束を取り上げた。そして部屋の隅で本の影に隠れていた花瓶を引っ張り出す。表面には美しい細工がなされていて、天蓬にしてはまともな趣味だと感心した覚えがある。それにしても、いつどこからこんなものを手に入れてくるのだろう。
「水入れてくるわ。お前は仕事してろ、仕事」
「あ、すみませんねぇ。お願いします」
 にこにこと笑う天蓬をさっさと仕事に追い返して、捲簾は部屋を出た。少し進んだところにある給湯室に入り、シンクの中で適当に花瓶を洗って花を差す。つい先程摘んだばかりと思しき花は瑞々しく、薄桃色の花弁は水滴を弾いてきらきらと光っている。金蝉がついていたのだから恐らくはまずい場所で摘んだものではないだろうが、一体これだけの花をどこから摘んで来たのだろうか。そんなことを考えつつも最も気になるのは、何故、ということだった。何か天蓬が祝われるような出来事でもあったのだろうか。しかしそれならあの部屋は贈物で溢れて大変なことになっているはずで、来客がないはずがない。それに天蓬の方からも悟空に何かを渡していた。交換する約束でもしていたのだろうか。そう悶々と考え込みつつも、濡れた花瓶の表面を布巾で拭い、布巾を片付けて給湯室を出た。考えても無駄なことは本人に問うほかないのだ。
 静かにドアを開けると、来客がある前と同じようにデスクについて書類に目を通している彼がいた。邪魔をしないようにと再び静かにドアを閉め、デスクの脇にそっと花瓶を置いた。そこでやっと捲簾の存在に気付いたのか、弾かれたように顔を上げた天蓬は捲簾の姿を認めてほっと顔を緩めた。そして視線を花瓶に生けられた花へと向けて、目を細める。
「綺麗ですね」
 すっと瑞々しい甘い香りがする。煙草を取り出し掛けた手はその香りに止められ、行き場を失って握り締められた。
「で、一体何の花なの」
「さあて、何でしょう。ガーベラとか」
「そうじゃねえよ、何か祝い事でもあったわけ」
 しゃんと上を向いた花々の中、一本だけ元気なさげに首を垂れた花の花弁を指先で突付きながら訊ねた。すると、彼は書類に滑らせようとしていた羽根ペンをぴたりと止めて捲簾の顔を訝しげに凝視し始めた。ペン先からインクが垂れそうになっているのを慌てて指摘すると、彼も慌ててペン先をインク瓶へと戻した。その大袈裟な反応が気に掛かって、少し不機嫌を装って訊ねてみる。
「何だその反応は……」
「いえ、あなたは知ってるかなと思っていたので。イベント事好きそうだし」
「何?」
「バレンタインですよ。少し前に悟空に教えたんです。まあ、残酷なことは抜きにして現在の慣習をね」
 下界における冬のある日には大好きな人にチョコレートや花を贈るのだと、そう教えたと話した天蓬は、まさか覚えていると思いませんでしたと言って、嬉しそうに薄桃の花弁を指先で揺らした。悟空にチョコレートが用意出来るとは思えない。だからこそのこの大量の花なのだろう。朝早くから金蝉を叩き起こして花を摘むのに付き合わせただろうことは想像するに易い。あの不機嫌振りも仕方あるまい。
 と、そんなことはどうでもいい。不要な記憶はさっさと頭から叩き出してしまう天蓬が、そんな随分前のことを覚えていてしかもきちんと見える場所にチョコレートを保管しておいたというのが謎だった。重要な書類でも会議でもさっさと都合の悪いものは忘れるくせに、だ。そしてそれが、悟空一人のみへと宛てられていることが、何とも。
「もしかして、この間行方不明になったのって」
「ええ、お買い物です。下も賑わってましたよ、何となく恥ずかしかったので他のものと一緒に買ってさっさと帰って来ましたけど」
 一緒に過ごす約束をしていたわけでもないのだから、彼がどこへ行こうが勝手だった。しかし唐突にふらふらどこかへ出掛ける放浪癖はどうにかして欲しいと常々思っていたことも重なり、何とも面白くない。彼にとっては計画的な行動であったのだろうと思うと尚更だ。
「ほお、わざわざ、ねぇ」
「あれ、やきもちですか? 悟空の分しか買ってないんですよねぇ」
 この男に期待などしていないが、悟空に与えられたものがどうして自分に与えられないのだろうという幼稚な嫉妬が顔を出す。天蓬も他の人間と悟空を区分けしているわけではない。悟空だけを特別大事にしていてどうのこうのというわけでもない。……と自分に言い聞かせて説得を試みる。微妙な表情をしている捲簾に気付いてか気付かずか、天蓬はデスクの上で両手を組んでその上に顎を載せ、微笑みながら言い放つ。
「まあ、僕らはそういうんじゃないかなあと思いまして」
「そういうのって」
「嬉し恥ずかしでチョコ渡すのにもじもじしてみたりとか、そういう柄じゃないでしょう。いい歳ですし、お互い」
「……そーね」
 こういう時に、実は自分はかなりのロマンチシストなのではないかと思ってしまう。彼が時折見せる冷たくすら思えるリアリストぶりがそう思わせるのだろう。自分は極めて普通だ、と思いたいのかもしれない。いい歳なのも事実で、そんないい歳をした自分たちのドキドキもじもじしたチョコのやり取りが気色悪いのもまあ、事実である。すると、彼の言葉が腑に落ちないということが表情に出ていたのか、天蓬は不思議そうに目を瞬かせた。そして小さく首を傾げて真意を探るように捲簾を見上げてくる。
「何か」
「……いや、何でもない」
 頭を振って笑い、少しだけ頭を掻いた。曖昧に笑う捲簾を暫く不思議そうに眺めていた天蓬は、真相を探るのを諦めたように再びペンを動かそうとして、また唐突に手を止めた。今度は止める間もなくペン先からぽたりと黒いインクが白い上質な紙の上に落ち、丸い染みを作ってしまった。そして目を見開いて顔を上げた天蓬は、突然のことに驚く捲簾にも構わず口を開いた。
「あれ、もしかして欲しかったですか? ひょっとして金蝉も欲しかったかなあ」
 まるで重大なことに気付いたかのように驚き納得する天蓬を、暫く呆気に取られて見ていた捲簾は、漸く我に返ってデスクに両手を付き溜息を吐いた。そして戸惑ったように瞬きを繰り返す天蓬に向かってもう一度溜息を吐く。
「何ですかそれは。僕は見てがっかりするような顔ですか」
「いえいえ、非常ーに麗しいですよ」
 取って付けたようなお世辞を、と天蓬は腹立たしげに顔を顰めた。今まで何も分からないというようにきょとんとしていた彼が表情を動かしたことに何となくほっとして笑ってしまうと、彼はますます不満げに唇を曲げた。こんな幼稚なことで悶々と考え込んでいた自分は何だったのだろうと笑えてしまう。照れを隠すように髪に指を突っ込んで小さく笑う。
「まあな。悟空は好きなくせに俺と金蝉は嫌いなわけ、となるわけよ」
「別に……あなたも金蝉もチョコを貰って喜びそうにはないと思ったから買わなかったんですけど」
 こいつはこういう奴だった、と思ったら少しだけ冷静になった。じっ、とこちらを見上げてくる目を暫く見つめ返していた捲簾は、右手を伸ばしてぐりぐりと彼の頭を撫でる。黒髪はさらりと指先から逃げて白い頬に落ちた。天蓬は言い逃れを許さないというように強い目で捲簾を見上げてくる。その強さに時々、惑う。
「何がしたいんですか、もう。……あなたの分を用意しなかったのは申し訳なかったですけど」
「じゃあもっといいものくれるってことで」
 そう冗談めかして言うと、途端に天蓬は呆れ返った顔になった。そしてどこか嫌そうな顔で捲簾を見上げる。彼が何を考えてそんな顔をしているのが透けて見えるようで、思わず笑ってしまいそうになる。からかいたくなってしまう。いじめたいわけではないのだけれど、時折その冷静な鉄壁を乱したいと思うのだ。
「……明日ハードスケジュールなので、駄目です」
「俺何も言ってねぇだろ、大概スケベだなお前」
 明らかにからかい口調の捲簾に、瞬時に表情を凍てつかせた天蓬は、一度強く捲簾を睨み付けてから再び羽根ペンを手に取った。そして捲簾の存在を意図的に無視するように再び書類へと取り掛かり始める。怒らせてしまったことは明らかだった。狙ってやったことなので仕方ないが、暫く冷たく接されるであろうことも同時に覚悟しなければならない。彼はこういうからかいに関しては割と根に持つ。
「おい無視か……おーい」
 天蓬はさっぱり無視を決め込んでいるようで耳を貸しもしない。仕事が進むのはいいことだが今日ばかりは困ったものだ。冷ややかな表情で書面に目を通し、手際良くさらさらと文字を書き込んでいく様子は普段とは別人のようで、確かに上級軍人らしい。清潔で、崇高な上官。どこまでいけば、彼を全て手に入れたことになるのかと時折考える。少し前までは、もう完全に手に入れたものと考えていた。しかし、毎日出会うたびに少しずつ違う彼を見つけ、徐々に昨日まで手の内にあったはずの物が綺麗に消えてしまったような感覚に陥るようになった。結局のところ彼を完全に手に入れることなど不可能で、それを可能だと思えていたのは錯覚だということだ。
 彼は誰のものにもならない。そう納得すれば終わる話に、どうしても、どうにかして彼を独占してしまいたいと思う感情がセーブをかける。自分はそっくりそのまま彼に奪われてしまっているのに、彼は決して自分のものにはならないのだと、そう認めてしまうのが嫌だった。この件に関しては完全なる敗北を喫している。どこまでいっても勝てる気がしないのだ。自分ともあろう男が。過去の、負けなど知らなかった頃の自分が嘲っている。
 風の通り抜ける空間で、彼の吸う煙草の香りと花の香りが綯い交ぜになる。頭がくらりとした。
「天蓬ー……」
「うるさい」
 ガタン、と音がして、彼が立ち上がったのが分かった。ぼうっとしていた捲簾がその音を受けて何事かと慌てた瞬間、唐突に軍服の胸倉を掴まれて前に引き寄せられた。前のめりになって倒れそうになるのを、デスクに手をついて堪える。突然の行動に相手を責めようと顔を上げたその時、突然唇に柔らかいものが押し当てられて目を瞠った。男の癖にやけに柔らかい彼の唇だった。唇を食まれて間からぬるりと舌が滑り込んでくる感触にぎゅっと心臓の辺が苦しいような感覚に襲われる。キスという行為の最中であるのに天蓬は目を閉じない。目を閉じることも忘れた捲簾の目に、底の見えない深い琥珀の眸が映った。柔らかな唇の感触に目眩がしそうだった。そうして暫く、目眩がするほど好きに人の唇を蹂躪してくれた彼は、口付けた時と同じく唐突に唇を離し、捲簾の服から手を放した。
 呆然とする捲簾の目の前で、口付けで赤く濡れた唇をちろりと舐めた天蓬はそのまま何事もなかったかのように椅子を引いて座り直した。赤らんで濡れた唇を更に赤い舌が滑る様が扇情的で背筋に寒気に似たものが走る。疲れたように溜息を吐いた彼は再びペンを取り、そしてデスクの前に立ち尽くしたままの捲簾を目だけで見上げて言った。
「これが終わったら構ってあげますから、少し黙っていなさい」
(これはなしだろ)
 かっと頬が火照った気がして、咄嗟に袖で頬を擦る。天蓬は表情もぴくりとも動かさずに書面にペンを滑らせている。その冷静さを憎く思いつつも、取り合えず彼の仕事が終わるまで安静にしていよう、このまま立っているのはまずい、とソファの方へと向かった。ソファの近くのテーブルに灰皿を引き寄せ、ソファに仰向けに寝そべる。鼓動が無駄に高鳴っている。こうなったら不貞寝するしかない。熱が退かない。彼と同じ空間に居ることをこんなにも意識するのは初めてだった。
 明日会議があろうと何だろうと知ったことではない。あの仕事が終わったら絶対に彼を乱してやろうと決めていた。これしきのことでこんなにも動揺してしまった自分が情けなくて、それを誤魔化してしまいたかった。余程欲求不満なのだろうか。まだ柔らかな感触の残る唇を一度袖口で擦って、目を伏せた。目が覚めた時、この動揺が消えているようにと願いながら。


「……眠ったんですか、捲簾」
 目を通し終えた書類の束を手にした天蓬は、それを提出しに行こうと椅子から立ち上がった。そしてドアに向かう途中に、ソファの横を通りかかる。その時にツンツンとした黒髪が見えているのに気付いた。
 上から彼の端正な顔を見下ろす。悪戯っぽい目を伏せるだけで一層男臭さが漂う。暫くその顔を見つめていた天蓬は、徐に書類の束をテーブルに置いてソファの前にしゃがみ込んだ。彼の顔を横から見つめて、寝息を立てる度に上下する胸元に少し触れてみた。
(失敗した、かなぁ)
 本当は悟空にあげるチョコレートを買う時に迷ったのだ。しかし結局止めた。もしかしたら彼がこの下界の風習を知らないかもしれないし、そう滅多に彼に物を贈ることのない自分だから、唐突に贈物などをしたら訝られることは間違いない。瞬時にそう判断して、結局悟空の分だけを買って帰ったのである。何より、彼ならきっと心を物で表すことなど愚かだというだろうと思っていたから。自分がロマンチシストで、夢を見過ぎているのだろうか。思うより彼はリアリストだ。時折、冷水を浴びせ掛けられたように唐突に冷静にさせられることがある。
 つんつんと男の頬を突付いてみる。柔らかさは殆どないが、張りのある強い肌だ。彼は、身体もこれに似た強く手触りのいい肌をしている。行為の後、子供のように彼の肌に頬を摺り寄せるのが好きだった。先程自らの唇で触れた、少しかさ付いた唇にも指を伸ばしたが、触れたら彼を起こしてしまいそうで、指を手の平に握り込んで引っ込める。どうしても今触れたくて仕方がなかった。こんな子供のような衝動が自分の中に隠れていたことを今まで全く知らなかった。触れたい。もっと言うなら、触れて欲しい。しかしいざという時言葉を上手く扱えない自分には、それを自ら求めることが出来なかった。
 少しだけ腰を浮かせて、彼の身体に覆い被さるようにして一度だけそっと唇を合わせた。そして彼の呼吸を邪魔しないよう、すぐに離れる。すうすうと穏やかな寝息を立てる彼の横顔を見つめて、小さく溜息を吐いた。唇が僅かに熱を持っているような気がした。恥ずかしいことをした、と目を伏せて唇を手の甲で擦った。これほどに飢えているのだろうか、と思ったらどうしようもなく情けなくなった。
 想いは、言葉に込めるのも物に込めるのも難しいものだ。自分自身言葉足らずなところがあるのも自覚している。彼以外の前では無駄なほど達者に口が回るのに、彼の前では上手く言葉が扱えない。だからといって物に込めるとなれば却って照れ臭くて、結局そんなことも出来はしない。自分の中は溢れんばかりの彼へ向かう感情で満ちているのに、何一つかたちにして表に出すことが出来ないまま、内側に積もりゆくばかりである。日々心の底に少しずつ降り積もった恋情が、段々と天蓬の心を重くしていった。今なら“恋に落ちる”という言葉の意味が分かる。一旦落ちたら自力で這い上がることは不可能なのだ。底などない。落ちることを回避することも出来なかった。予兆など全くなかったのだから。
(愛してるなんて言いません)
 少しでも口にしたが最後、箍が外れてしまうことは想像するに易い。長い間に降り積もった感情がすべて溢れ出るまで止まらないだろう。だから言わない。言葉にもしない、物も贈らない、それでも気持ちは分かって欲しいだなんて大した我儘だと分かっている。穏やかな寝息の横、冷たい床に座り込んで膝を抱える。そして自分の膝に頬を寄せ、胸の苦しさに耐えた。
 積もった想いが、胸の奥でじんと痛んだ。
 冷たくて、堪えられない。










おっさんな捲天のばれんたいん(リリカルなおっさんども)。バレンタインなので二人とも精神的乙女度二割増。    2007/02/14
--Linkin Park [numb]