捲簾と天蓬はその数刻後、再び観世音のいる蓮池の間にいた。二人並んで、観世音の座る向かい側のソファに腰を落ち着けている。何故かその二人の間には、小さな少年。観世音は湧き上がる笑いを堪えられないというようにぶるぶると肩を震わせている。
「……で、どうしたんだ」
 言葉尻を笑いで震わせながら訊ねてくる観世音に、にこにこと微笑みを絶やさずに天蓬は口を開いた。
「捲簾大将が、是非この子供を作成した過程を伺いたいと仰るものですから」
 捲簾には笑顔の欠片もない。ついでに言えば隣の子供もそっくりな不機嫌顔で座っている。悪戯がどうやら成功したようだ、とこっそりほくそえむ観世音の内心を悟ったかのように、捲簾の片眉が跳ね上がった。
「さあ、秀外恵中の天蓬元帥は、どう思う」
「それは、期待を裏切ることになり誠に申し訳ありませんが」
「分からないか」
「重ねて申し上げるとするなら、理解したくありませんね」
 微笑みを変えることもなく、天蓬はばっさりと切り捨てた。それには流石の捲簾も拙いのでは、と顔を引き攣らせたが、観世音はそんな天蓬の不敵な態度をも楽しそうに眺めている。そしてケラケラと笑いながら視線を捲簾に向け、ニヤリと笑う。
「豪くじゃじゃ馬な女房を捕まえたもんだな」
「は、はあ……」
 一体この人はどこまでを承知しているんだ、と視線を天蓬に流すも、彼は諦めたように首を振るだけだった。
「一度相手をして貰いたいもんだ」
 捲簾はその言葉に顔を引き攣らせ、天蓬と観世音を交互に見る。観世音はゲラゲラ相変わらず笑っていて、天蓬の表情は逆にひんやりと冷えていっている。一体先程二人の間にどんなことがあったのかが解らない捲簾はそんな二人を見て首を捻るばかりだ。
「冗談はそこそこにしてもうどうにか説明をして下さい」
 形式張った敬語を使う気も失せたのか、天蓬は面倒臭そうにそう言って顔を顰めた。
「説明つってもなぁ……何が訊きたい」
「その……この子供が、一体何で出来ているのか。これは、俺の複製、に当たるわけでしょう」
 そうつっかえつっかえに訊ねる捲簾に、観世音は目を見開いた。そして少しだけ視線を天蓬にずらして、口元だけで笑う。
「天蓬、お前はそう思うか?」
「それ以外に考えられません。他に可能性といったら過去から連れて来るしか……」
 そう言った瞬間、天蓬の唇はそのまま空回りをした。観世音の眸がそれを面白がるように細められた。
「あなたという人は……!」
 天蓬の頬が引き攣るのを見て、捲簾は答えを求めるように視線を観世音に送る。彼女は、視線を天蓬から外さないまま、言った。
「そうだ。それは過去から連れて来た、正真正銘、幼い頃の捲簾大将だ。三晩月の光を浴びたら、元の次元に戻してやらにゃならん」
「……お、俺……?」
 捲簾が思わず情けない声を漏らす。二人の間にちょこんと座っていた少年は、大きな目を更に大きく見開いて、隣で引き攣った顔している男を信じられないというような目で見上げた。

「じゃあ、過去から今捲簾が消えてるってことじゃありませんか!」
「心配するな。そこのところはうまくやって、消えると言っても便所に行って帰ってくるまでの時間くらいのもんだ」
 捲簾は眩暈がした。では、今この時点で自分は過去に神隠しに遭ったことになっているということか。この場合、“神隠し”とは言い得て妙だ。実際“神”に“隠”されているのだから。見てみれば、隣の天蓬もくらくらする頭を押さえているようだった。……すぐ下の子供は、目を見開いたままじっと捲簾を見ている。確かに、急に引っ張り出されてこれがお前の未来の姿だと言われたらこうなるのもおかしくない。しかしその視線は本当に居心地が悪いものだった。これは自分の“複製”ではなく、確かに“自分”なのだ。自分に自分が見つめられるなんて気持ち悪いことこの上ない。
「……記憶は、どうなっているんですか」
 やっと落ち着いてきたのか、天蓬は少年を見下ろしながら、ぽつりとそう呟いた。
「何も知らないだろう、この子供は」
「ええ」
「現時点では、生まれてこの歳までに覚えたことは全て忘れているが、あちらに戻ればその記憶も戻る。その代わり、こちらでの三日間で得た記憶も知識も、全て消えてしまうがな」
 そう言い、膝の上で両手を組んだ観世音は、目を細めて少年を見つめた。少年は相変わらず、捲簾をじっと見上げている。同じく、静かに少年を見つめていた天蓬は、何かを振り切るようにふるふると首を振った。
「……同じ時空間に、同一人物の過去と未来が同居することが可能なんですか」
「お前の理屈でいけば、どうなる?」
「二人とも、消し飛ぶはずです」
 しん、と室内が静まる。捲簾は息を呑んだ。少年はその言葉の意味が解らないのか、ぱちぱちと目を瞬かせている。観世音が静かに息を吐く。その広間に、ふわりと優しく、それでも強い風が吹き抜けていった。
「その通りだ。普通ならな。しかし、そこのところはうまくやっていると言っただろう」
「その期限が、三晩だと」
「ご名答」
 頷きながらぱちり、と瞬きをして観世音はそう言った。天蓬も諦めたように溜息を吐く。しかし、“消し飛ぶ”などと言われた捲簾は生きた心地がしない。恐ろしいものでも見るような目で子供を見下ろして、小さく肩を震わせた。
「心配するな。一、二週間一緒にいない限りおかしくなるこたねぇよ」
「本当ですか?」
「本当本当」
 いまいち信憑性に欠ける返事だったが、天蓬がそれ以上反論しないところを見るときっと平気なのだろう、という気分になった。
「三日間、せいぜい可愛がるんだな」
 天蓬が疲れた顔をしている。捲簾は文字通り、頭を抱えたくなった。そんな自分を、馬鹿を見るような目で過去の自分が見ているのが何とも言えなく異常な光景だ。次第に気持ち悪がるように少年は捲簾から離れ、天蓬の方へ近づいていく。そしてきゅ、と天蓬の軍服の裾を掴んだ。それにやっと顔を上げた天蓬は、呆れたような目を捲簾に向ける。
「……あなた、過去の自分を虐めるなんてマゾですか」
「は!? 虐めてねえよ!」
 天蓬に庇うように抱き寄せられながら、少年――天蓬の言うところの“けんれん”は、顔を顰めて捲簾を見上げた。
「……しょうらいあんなふうになるなんて、ぜってーやだ」
 途端に観世音が、ゲラゲラ笑い出したのは言うまでもない。



***



「お帰りなさい、たいしょ……」
 せっせと書類に精を出していた劉惟は、目の前を横切る黒い影に顔を上げてそう言い掛けたが、すぐに声を止めた。その表情が余りにも深刻で、声を掛けることが躊躇われたのだ。立ち上がりながら、ふらふらとそのまま自分の席へと歩いていく彼を呆然と見送っていると、続いて少し遅れて天蓬の声が廊下から聞こえてきた。そして姿を現した彼に声を掛ける。
「あ、お帰りなさい……」
「ただいまです」
 にこにこと、こちらは捲簾とは対照的にご機嫌の様子だ。見ればしっかりと彼の右手には小さな左手が握られている。少し大きい彼の手を、その小さな手はそれでもしっかり握り返している。
「あの、大将はどうされたんですか」
「ああ……ちょっと衝撃的な事実を受けて、現実逃避に走ってるんです。そのうち直りますよ」
 はあ、と生返事をする劉惟は、ふと、じっとどこかから見つめられているような気がしてきょろきょろと周りを見渡した。そして至ったのは天蓬の足元。黒く強い光を宿した子供の双眸がしっかりと自分を捉えている。何故かその強さに目を逸らすことが出来なかった。そんな強い目に劉惟はよく分からない既視感に襲われて、それを誤魔化すように笑って言った。
「本当に、そっくりですよね。まるで本人みたい……」
「本人なんですよ」
 けろりと言い放つ天蓬に、劉惟は首を傾げた。彼流の笑えないジョークだと思ったのだ。
「え?」
「“けんれん”が成長すると、“捲簾”になるんですよ」
 口で言ったとしても分かるはずのない違いだが、劉惟には、その前者が“この子供”で、後者が自分の上官である“大将”だということがすぐに分かってしまった。そしてそれが決してジョークなどではないということも。天蓬は相変わらず、そのままの表情で微笑んでいる。それを見つめて、顔を引き攣らせた。笑おうとしても頬が動かない。
「……何で?」
 思わず敬語を使うことも忘れてそう訊ねると、天蓬はくすくす笑って、少年を見下ろしながら言った。
「神の悪戯ですよ。ね」
 そう、これはあの性悪の神の、ほんのちっぽけな悪戯に過ぎないのだ。

 そんな悪戯に振り回されたあの男と、この子には悪いけれど。落ち込む捲簾には悪いが、天蓬は少々安心していた。彼が“消える”と思えば哀しいが、元の場所に“帰る”のだと思えば平気だ。三日間、擬似親子を体験してみるのも悪くない。
「というわけで、これから暫く僕が預かりますから」
「はあ」
 出陣がないといいですねぇ、などと言いながら、天蓬は足元の少年を見下ろした。そして両腕を差し伸べて、その少年を抱き上げた。
「多少最初は違和感があると思いますけど、見慣れると可愛いですよー」
 そう言いながら天蓬は少年、けんれんをきゅう、とぬいぐるみでも抱くように抱き締めた。けんれんは一瞬目を見開いて、少し恥ずかしそうに顔を赤くしたが次第に抵抗することもなく、すっぽりと天蓬の両腕に収まった。それを見ながら、違和感があるどころかなさすぎて何だか逆に不思議な心地がする、と劉惟は思った。しかしどう言葉で表現していいか分からなかったので、とりあえず笑って頷いておいた。
「けんれん、彼は劉惟といいます」
「りゅーい」
 けんれんは天蓬の言う通りに名前を復唱する。それがどうも子供発音なことに笑いながら、「よろしく」と手を差し伸べる。するとけんれんは一瞬戸惑ったようだったが、おずおずと小さな手を伸ばして、劉惟の手を握った。

 あちこちをけんれんを抱っこしたままうろつく天蓬の周りには次第に、最初少し遠巻きに眺めていた部下たちが集まるようになった。何だかんだで皆構ってみたかったらしい。近寄ってもこないのは、捲簾だけだ。時折不満げに天蓬を見つめては来たが、どう対応したものか苦慮し、結局どうすることもなく結果無視することとなってしまっていた。多分後で散々文句を言われるだろう。
 兄貴肌で慕われている捲簾だが、こんな風に幼く素直な、捻くれる前の時期があったのだと部下たちは笑っていた。さあ面白くないのは張本人である捲簾だ。会話から弾かれ、散々笑われ、部屋の隅で拗ねたようにひたすら煙草を吸っている。部下たちと話をしていた天蓬はその姿を目の端に捉え、少し会話から外れて、けんれんを抱っこしたまま彼の方へと歩を進めた。
「……何」
「拗ねなくてもいいじゃないですか」
「誰がだ、誰が。あーも、俺なんか構わないでそのガキ連れてどっか行け」
 しっしっ、と手を振った捲簾は、再び新しい煙草へと手を伸ばす。
「どうして自分と仲良く出来ないんですかあなた。内部抗争?」
「出来るか! ……それに、そのガキの視線には挑戦めいたものを感じる」
「は、挑戦?」
 何を言っているんだ、と言わんばかりの視線に、捲簾は舌打ちをして顔を逸らした。それに天蓬はむっと唇を尖らせる。
「仲良くしましょうよー、三日間だけでも家族ごっことか」
「二人でやれ」
「……夫に捨てられ母子家庭になった家族ごっこですか。シュールな」
 酷いですねぇ、と天蓬は酷く傷付いたような顔をする。それが演技なのだと解っていても、自分が悪いことをしたようで気分が悪い。少しだけ視線を送ってみれば、彼は切なげに目を伏せてぎゅう、と子供を抱く手に力を込めた。ふるふると瞼から流れる睫毛が震えている。……いやいやいや、これは演技だ。何度これに騙されたと思っている。視線を彼から引き剥がし、窓から見える遠くの景色へと意識を追いやった。そのまま、子供を抱いたままじっとしていた天蓬は、暫くすると項垂れたままゆっくりと捲簾に背を向ける。とぼとぼとそのまま去って行こうとする背中を、黙って見ていられないのがやはり捲簾で。
「〜〜〜っちょっと待て!」
 くる、と振り返った天蓬はやはり輝かんばかりの笑顔で、騙されたことは解っていたけれど(それでもいいか)と思ってしまうのだった。手にしていた煙草を揉み消してから、一歩近付いて、その憎らしくて愛しい恋人の頭を拳で小突いた。

 まずは慣れです、慣れ。その天蓬の言葉に、捲簾は先程から強制的にけんれんを抱っこさせられていた。正直触れるのも少々気味が悪いと思っているところにその仕打ちはないんじゃないかとも思ったが、言ったところでどうなるものでもない。抱っこしている方もされている方も最高に嫌そうな顔をしているのを見て、天蓬はおかしそうに笑った。当たり前だが、嫌がる顔までそっくりなのだ。
「てんぽう」
「何ですかー?」
「……やだ、これ」
「俺もやだ」
「はいはいおんなじ顔しておんなじこと言わない」
 生返事をしながら全く取り合ってくれない天蓬に、二人はげんなりと肩を落とした。
「あのなぁ、大体自分の小さい頃なんて可愛いはずがないだろうが」
「けんれんは可愛いですよ」
 一瞬自分が可愛いと言われたようでゾッとした捲簾は、片腕でけんれんを抱っこしながら、痛むこめかみを揉み解した。
「……あのね。お前の中でその二つにどういう違いをつけてるんだか知らねぇけど、発音すればどっちも同じなわけ」
「けんれんと捲簾がですか?」
 捲簾は全く解らん、と肩を竦めた。抱っこされたけんれんも同じくコクコクと頷いている。二人から責められて天蓬は一人むくれた。本人的には全く違うつもりでいるのだから。しかしそれも他の人に伝わらなければ意味がないのである。一瞬別の呼び名でもつけようか、と思ったが、捲簾1、捲簾2、くらいしか思い付かなかったので、天蓬はすぐに諦めた。
「察して下さい、フィーリングで」
 二人なら解ってくれるって信じてます、とにこやかに言われて、やっぱり言うことを聞いてしまうのが捲簾だった。それは生来のものなのか、けんれんもまたそれは同じだった。

「あ、それと捲簾」
「あ?」
 早々に何とか自分の名前を聞き分ける術を身につけ始めた捲簾は、名前を呼ばれてくるりと振り返った。そろそろ慣れてきたのか、抱っこされているけんれんもじっとしている。
「今晩から三晩、あなたのお部屋にお邪魔しますからね」
「……は?」
「僕の部屋、寝られる状態じゃないんですよねぇ」
 不束者ですが、と本気なのか冗談なのかそう言って笑う天蓬に、捲簾は、自分の部屋の状況を思い浮かべた。
「……ベッド一個しかねぇぞ」
「ええ、知ってます」
「こいつ寝せて、お前はどこに寝んの?」
「この子の沿い寝をします」
「俺は」
「ソファで一人淋しく寝るか、三人で仲良く川の字やるか、どちらかです」
 悲しい選択だった。横で過去の自分と恋人が仲良くすやすや寝るのを見ながら一人ソファで寝るのか、このチビを挟んで又隣に寝る恋人に手を出すことも出来ずに悶々と三晩過ごすのか。どっちもどっちと言えばそうなのだが。結局煙草一本分悩んだ捲簾は。
「……川の字で、お願いします……」
 とりあえず、孤独よりは悶々する方を選んだ。天蓬はそうですかーと笑いながら嬉しそうだ。やってみたかったらしい、川の字。
 そろそろ、終業時間が迫ってくる。今日は全く仕事にならなかった。



***



「じゃあお風呂に入ってきます」
「はあ。」
 職務が終わり、三人はやっと捲簾の部屋に到着した。その数分後、そう言ったのが天蓬だ。天蓬が自ら嬉しそうに風呂に入りに行くところなんてそうそう見られない。捲簾は部屋に落ちていた上着を拾い上げつつ呆然と返事をする。それを見てから、天蓬は捲簾に背を向けて浴室へと向かう。けんれんの手を引いて。
「……おい待て」
「はい?」
 天蓬が立ち止まり振り返ると、子供もまた同じように振り返る。こんな時に何だ、と言わんばかりに見上げてくる遠慮のない視線に辟易しつつ、捲簾はその子供を指差した。
「何でそれを連れていくんだ?」
「何でって、一緒に入るから」
「その歳なら一人で入れるわ!」
 悟空だって一人で風呂くらい入れるはずだ。そんな悟空よりも大きい時期の自分が一人で入れないわけがない。
「……じゃあ、一人だと淋しいから」
 じゃあって、と絶句する捲簾を放って、そのまま二人は仲良く浴室へと連れ立って行った。天蓬が途中で一度振り返り、「着替え持ってきてくださいー」と言ったのを聞いて、ますます肩を落とす。
(……子供服なんて、ねぇっての)
 適当に小さめのものを見繕って裾を折って着せるしかないだろう。後で箪笥をひっくり返すとして、とりあえず寝床を片付けることに決めた。大きめのものとはいえ、大人二人に子供一人、は大丈夫だろうか。蹴り出されるとしたら絶対に自分だ。自分と天蓬二人なら寝られた。その真ん中に子供が一人。とはいえ、“自分と一緒に寝る”というのはいい心地のするものではない。
 とりあえず諸々の行為も三日間お預けだ。子供が寝ている横で手を伸ばそうものなら腕を圧し折られかねない。大体、自分に見られながらするなんてとんでもない。……過去の自分を思うと、それも可哀想な気がするし。
「……報われねー」
 ベッドに引っくり返って、天井を見上げる。
 このまま三日間眠り続けたかった。











捲簾はいいパパになるはずだ、せっせとミルク作る後ろ姿とか想像できる(天蓬はその後ろで子供抱っこしたまま一緒に転寝)
しかしおまえら超仕事しろ。       2006/08/27