「よお、天蓬元帥」
 天蓬の執務室。ふてぶてしいまでの口調で声を掛けられて、本の世界に沈み込んでいた天蓬は眉を顰めてゆっくりと顔を上げた。一面に散らかった本の上に立っていたのは、堂々たる風格の美女、に見える、上級神だった。一対一で話をするのは初めてだ。面倒だが敬意を払わなければならない相手だ、と瞬時に判断して、天蓬は栞を挟んで本を閉じ、その場に片膝を突いた。小面倒臭い言葉で挨拶をしようとすると、彼女は手を振ってそれを制した。
「んな面倒な口上はいいんだよ。今暇か?」
「畏れ多くも、観世音菩薩様。この状況で暇に見えるのであれば御殿医にご相談された方が宜しいかと」
 立ち上がり膝を払いながらそう言う。しまった、いつもの調子で返事をしてしまった、と思っていると、彼女はその言葉に一瞬目を見開き、次の瞬間大笑いを始めた。どうでもいいがその超人的な力で両肩を思いきり叩くのはやめて欲しい。
「噂通りの面白い男だな。それにとびきりの美人だ」
「ところで、観世音菩薩が一体この一軍人めに何用で」
 腕を組みながら自分を見下ろしてくる(積み重なった本の上に立っているため、彼女の方が視線が上だ)彼女を見上げて訊ねる。すると彼女はその艶やかな唇を歪めて微笑み、その指を天蓬に向かって伸ばした。一瞬妙な気配を感じてそれを払いたくなったものの、それは不敬罪に当たってしまう。ぐっとその嫌な予感を堪えて黙っていると、その指がするりと天蓬の顎を捉える。
「一戦交えてみないか、天蓬元帥」
「……それは如何な意味で」
「そのままの意味だ。兵はこちらで用意してある。命令に背くことなどない、従順な駒たちをな」
 妖艶に微笑むそれは、美しいだけではない。明らかにそこら中に棘がある。目の奥には、誘いを撥ね付ければこちらの首を刎ねると言わんばかりの物騒な光が灯っている。とんだ神もいたものだ。
「私が負けたら、どうなるのでしょう」
「そうだな。今夜一晩、夜伽をして貰うとするか。お前が勝ったなら、こちらから褒美をやろう」
 負ければ食われる。しかし危機的状況とも言えるそんな中でも、天蓬はその瞳の奥を覗き込んで、ゆるりと挑戦的に微笑んでみせた。彼女もまたそれを楽しそうに見下ろしている。天蓬が乗らないはずがない、と確信しているかのようだ。そしてその通りに、天蓬は口角を上げて、酷く艶やかに微笑んだ。
「……いいでしょう。負ける気がしませんね」



***



「王手」
「……待った」
「なしです」
 いつも観世音が下界を覗き込んでいるという蓮池のある広間に招かれた天蓬は、一応着替えてきた軍服のまま、彼女と向かい合わせに座っていた。二人の間には、将棋盤。観世音は片眉を上げて唸りながら盤を見下ろしている。天蓬はそれとは対照的に椅子に深くゆったりと腰掛けて、両手を組んで観世音の動向を微笑んで見つめていた。
「……お前な、情けってもんがないのか」
 顔を顰めて不平を漏らす観世音に、にっこりと微笑み天蓬は静かに口を開いた。
「観世音菩薩。……戦場に“待った”などないのですよ」
 しゃあしゃあと言ってのける天蓬は、“幕僚”の顔をしていた。それに呆気に取られたような顔をしていた観世音は、次第に面白くなさそうに唇を歪めて椅子に座り直した。……その時、足先が明らかに態と、将棋盤に引っ掛かる。駒たちがカラカラと音を立ててテーブルから床に落ちてゆく。しかしそれに慌てることもなく、天蓬はゆっくりと椅子から立ち上がって駒を拾い集め出した。負けが近くなるとやけになって盤上の駒を引っ掻きまわすようなタイプの相手がよくいるものだ。
「俺の負けだ、天蓬」
「ありがとうございました」
 集めた駒を箱にしまい、意外と素直に負けを認めた観世音に天蓬は少し驚きながらも微笑んだ。しかし、その顔はすぐにも引き攣ることになる。
「観世音、菩薩……それは」
「勝者にはご褒美をやらにゃあならんと思ってな」
 観世音は不敵に笑って、“それ”に手招きした。“それ”は少し面倒臭そうな仕草で、ちょこちょこと観世音の椅子へ近づいて行く。それから天蓬は目を離せずにいた。目を奪われたというわけではない。寧ろ危険を回避するため今すぐ逃げ出したかった。しかしそれを防ぐためかドアの前には次郎神がいて、天蓬と目が合うと恐縮したように何度も何度も頭を下げてくる。
(はめられた)
 あの時感じた嫌な予感は、的中した。
「お前のために作ってみた」
「……これを私に押し付けるために、この勝負を吹っかけてきましたね?」
「ばれたか。いや、勝負をしてみたかったのも事実だ、ただ、勝負をするだけというのはつまらんからな」
「もし勝ってしまったらどうするおつもりで」
「勝つことはないだろうとは思ってたさ。もしそうだったとしても残念賞にするまでだ。ほら、プレゼント」
 語尾にハートの付きそうな口調で言い、彼女は“それ”の背中をそっと押して天蓬の方に追いやった。“それ”の目が天蓬を捉える。
「俺や次郎神には全く懐かねぇんだが、お前ならどうにか出来るだろう」
「何かをすれば消えるような仕掛けになっているんでしょう、教えて下さい。どうすれば消えるんです」
「何かしても消えねぇよ。月の光を、三晩浴びれば消える」
「……」
 眩暈がした。リアルに地面が揺れているような感覚に襲われて、天蓬は頭を押さえる。すると、じっと天蓬を見ていた“それ”は、天蓬の傍に近付いてきて、心配そうに顔を覗き込んできた。二の腕が粟立つ。“それ”は、天蓬の恋人に、よく……よく似た子供だった。
「……奴がどこかの女に産ませたわけじゃないんですね」
「そうだったとしたら面白いがな。ただ、とりあえずそれは違う」
 隠し子の一人や二人いてもおかしくない男だけに信頼出来ない。その子供をじっと見つめると、子供もまたじっと自分を見つめてくる。確かに、よく似ている。というか、非常に精巧に複製されているというのが正しいのだろう。不可能などない、とでも言いそうな彼女のすることだから仕方がないのか。ふと、その子供ががしっと天蓬の腰に抱きついてくる。それを観世音はおかしそうに笑って見ている。次郎神がほのぼのしているのが何だか無性に腹立たしい。反対に天蓬は、泣きたい気分だった。しかし見下ろせば、どこか不安げな顔をする子供と目が合って、どうしていいのか分からなくなり、微笑むしかなくなってしまう。
「旦那、それ連れて帰ったら引っくり返って驚くだろうなぁ」
「私は産めません」
「お前なら踏ん張れば産めそうだろうが」
 どういう意味だ、と突っかかりたかったが、そんな気力も出なくて、ひたすらぎゅうぎゅうと抱きついてくるチビを見下ろした。背丈は悟空よりも少し大きいくらいと思われる。今でこそあんな図体だが、黒目のくりくりした可愛い少年だ。
(まあ……実際あの男の子供の頃なんて、女の尻ばっかり追いかけてただろうけど)
「ちゃんと認知してもらえよー」
「……はぁい」
 そんな冗談を否定する元気も出なくて、天蓬は消え入るような声でそう返すことしか出来なかった。とりあえず、微笑ましいとでも言いたげな視線で自分を見つめてくる次郎神を殴りたい気分だった。
「今度こそ抱いてやるからな〜」
 背中に浴びせられたとんでもない言葉にも、反応を返すことが出来ないまま天蓬はその部屋を離れた。子供の手を引いて。

 いやしかし。こんな子供を連れて軍棟に帰ったらとんでもないことになる。<子供の手を引いて観世音の部屋から避難した天蓬は、廊下を歩きながらはっとした。ぴたりと立ち止まった天蓬を、少年――小さい捲簾が見上げてくる。これは、三日間自分の部屋に匿って三晩分の月光を浴びさせる、というのが一番いい。いやしかしそろそろ捲簾が部屋を掃除に来る時期だ。匿っているのがばれたらもっと面倒になる。説明して納得してもらう方がいいのかもしれない。
 回廊を抜けて、宮殿の庭に出る。色とりどりの花が咲き誇る中で、天蓬は頭を抱えた。ほとほと困り果てていると、ぎゅう、と軍服の裾が後ろへ引っ張られる感覚がした。木にでも引っ掛けただろうかと振り返ると、少年が軍服の裾を引き、心配そうに天蓬を見上げていた。あの男によく似た黒の双眸が天蓬を捉えて逸らすことを許さない。
「どこかいたいのか」
 何だか、あの男の幼少期にしては感情が薄い感じがする。しかし、そんな少しぶっきら棒な言葉に緊張を解かれたように、天蓬は頬を緩めて彼の前にしゃがみ込んだ。ぱちぱちと瞬きしながら彼は天蓬を見上げてくる。
「あなたのお名前は、何ですか」
「……けんれん」
 やっぱりそう出来てるんだ、と天蓬は笑う。
「おまえは」
 彼はそう訊ねた。
「天蓬、です。三日間、よろしくお願いします、けんれん」
「てん、ぽう」
 頷いてやると、少年は嬉しそうに笑って、天蓬の名前を口の中で転がすように、何度か呟いた。三日経てば消えるのだ、情が移ってしまうのはよくない。そうは思ったものの、純粋に自分に懐いてくるそれを無下にすることなど出来なくて、手を伸ばして彼の髪を撫でる。少しくすぐったかったのか、笑った顔はあの男の笑顔、そのままだった。
「……やっぱり、素直に話しましょうか」
 隠しておくなんて可哀想だ。たとえ実体のない、観世音に作られた幻影だとしても、ここには三日しかいられないのだから。

「てんぽうてんぽう、あれは」
「あれは桜の木ですよ、綺麗でしょう。上に昇ると、景色がもっと綺麗なんです」
「うん、きれいだ。のぼってみたい」
「じゃあ、また後で来ましょうね」
 少し彼の方も緊張していたのだろう。緊張が解れると、彼はよく天蓬に物を訊ねた。花の名前から色のこと、吹いてくる風に至るまで。ここにある何もかもが初めてなのだから。あの男とは違う小さな手を握って、天蓬と小さいけんれんは軍棟を目指した。観世音の言う通り、引っくり返って驚くだろうか、と思えば何だかおかしくて笑いが漏れる。下から「なにかたのしいのか」と訊かれて、笑いながらも「何でもないですよ」と返した。彼は不思議そうに天蓬を見上げている。
 桜の花弁の舞う中で二人歩くと、何だか不思議な気分だった。無邪気に自分を見上げてくる少年の手を握り返して、彼の歩調に合わせて、桜の花弁を踏み締めて一歩ずつ歩いていった。



***



 そんな楽しげな二人をよそに、旦那は今にも脳卒中でも起こしそうな顔をしてふるふると震えていた。顔色がかなり危ない。
 “天蓬元帥が、小さな子供を連れて楽しそうに歩いていた”という。悟空か、と最初は思った。しかし話を聴けば、段々と悟空との矛盾点が出てくる。黒髪の短髪だったという。悟空は茶色気味の長髪だ。鎖がついていたかと訊けば、そんなものは付いていなかったと言う。しかもそれが“親子のようで微笑ましかった”と付け足されたものだから、気が気ではなくなってきた。
 彼が生粋のゲイではなくて、女も抱くことが出来るのは知っている。だから、どこかの女の産ませていて、こっそりどこかに所帯を持っていたとしても、おかしくない。本の中に埋もれて出てこない振りをして、窓から抜け出し家族の元に帰っているということも、考えられなくもない。そんなことの出来る器用なタイプではない、と切り捨てられればいいのだが、生憎彼はそういうことを最も得意とする非常に器用なタイプだった。考えれば考えるだけ疑いが深まっていってどうしようもなくなる。周りの部下たちが、彼の周りに漂う不穏すぎるオーラに引いて、周りを避けて歩いて行く。川の中の大きい石状態だ。
「……大将、どうでもいいからサインをして下さい」
 そんな中、全く怯むことなく真顔でサインを求めて書類とペンを手渡したのは、黎峰だった。捲簾は視線は遠くにしたまま、ペンを持ち書類の下部にサインを書き込んでいく。それが終わると、何事もなかったかのように捲簾の手からペンを抜き取って黎峰は彼に背を向けた。しかし、低い声で呼び止められて、思わず足を止めてしまったのが間違いだった。
「噂の子供、誰だと思う」
「……さあ、どうでしょう。大将に愛想が尽きて、どこかで所帯を持たれたのでしょうか」
 にこにこ笑いながら黎峰が言うと、そのまま捲簾は机に撃沈した。これでまた暫く使いものにならない。
「お、おい黎峰! 傷口に塩塗りこんでどうするんだ!」
 劉惟の尤もな突っ込みに、他の将校たちもうんうんと頷く。さっきからただでさえサインがスムーズに貰えなくて困っているというのに。ちなみに、噂を持ってきた張本人、明珂はというと、皆からねちねちと責められ雑用を押し付けられて部屋の隅で半泣きになっている。
「とりあえず、元帥本人に質してみるほかないだろう」
「あの人が素直に話すだろうか」
「いや、無理だろうな」
「おま、黎峰……」
 実は黎峰は捲簾と天蓬の仲を良く思っていないのではないだろうか、と劉惟は内心思ったが、言うのも怖いので黙っておいた。
「それにしても、何か面倒を持ち帰らないと良いんだが」
 窓辺に座っていた愀禮は、仲間たちがそう言って笑い合っているのを横目に、窓の外をひとり眺めていた。
(……いや)
 そうひとりで呟き、小さく笑って、仲睦まじく歩いてくる上官と小さな子供を見つめる。微笑ましい姿だった。確かにあれは、明珂の言う通り“親子”に見えなくもない。
(しかし、あれは)
 愀禮は視力に自信が有った。この距離でも顔を見間違えることはないだろう。しかし、あの少年の顔は……。
 顔を上げて、部下たちに囲まれている上官の顔を見つめる。そしてもう一度、窓の外を歩く少年の顔を見つめた。不謹慎ながら、自分の口元に笑みが浮かぶのが分かった。これは、何だか楽しくなりそうだ。

 部下(というか野次馬たち)を背後にしたがえた捲簾。それに向かい合うは珍しく討伐でもないのに軍服なんて着ている(いや、それが普通なのだが)天蓬。間に立ったら感電して死にそうなほど両者の間には火花が散っているようだった。というか、むきになっているのは捲簾の方だけだったりもする。
「天蓬」
「はい」
「その、背後のちっこいのは、何なんだ」
 腕組みをしながら威圧的に睨まれても、天蓬は全く怯むことなくへろへろと笑っている。
「いやそれがちょっとね」
「ちょっとって何だ」
 天蓬の返事如何ではこのまま暴れ出しそうな捲簾に、背後の部下たちの間に緊張が走った。暴走を始めた彼を自分たちで食い止められる、はずがない。しかしここには天蓬がいる。彼ならきっとどうにか……して、くれるかも、しれない。
 そんな空気が広まる中、ふにゃ、と気の抜けるような笑顔を浮かべた天蓬は、捲簾ににっこり微笑みかけて、口を開いた。
「認知して下さい」
 空気が固まった。その場の全員の心が一つになった。
(……産んだのか……!)
 天蓬がいくら綺麗な顔をしていても、男だ。身体が産める仕組みになっているはずがない。いやしかしこの人なら……という可能性が拭い切れずに、部下たちは天蓬、そして彼の後ろにひっついたまま顔を見せない小さな子供に視線を注いだ。とはいえ部下たちは部外者であり、当事者である捲簾はそれどころの騒ぎではない。瞬きも呼吸も忘れたようにじっと天蓬を見ている。その天蓬はにこにこと微笑んだまま捲簾の返事を待っているようだ。
「……う、うん?」
「だから、認知」
「何を」
「この子を」
 そのうちワタシニホンゴワカリマセン、とでも言い出しそうな捲簾を咎めて、彼の背中を劉惟が突付く。しかしそれすら気付いていないようだ。しかし次第に状況が呑み込めてきたのか、はたまた余計に解らなくなってきたのか、捲簾は顔を引き攣らせた。
「お前男だろ!」
「人間じゃないですから不可能はありませんよ。っていうか子供が出来るほどガツガツヤリまくるあなたに原因が」
 あるんですよ、と微笑んで、天蓬は小首を傾げてみせた。捲簾の額に面白いほど汗の粒が滲んでいる。固唾を呑んで見守る部下たちにも同じような緊張が伝わってきて、集団の中にぴりぴりしたものが溢れ出してきた。その中央でにこにこしているのは天蓬だけ。捲簾は食い入るように天蓬を見つめ、天蓬もまたにこにこと捲簾を見上げる。一触即発の雰囲気の中、捲簾がゆっくりと目を瞑った。
「―――――……分かった」
 ぱちん、と音がしそうなほど大きく天蓬が瞬きをする。弾かれたように部下たちも顔を上げた。
「捲簾……」
 天蓬は感極まったように捲簾を見上げている。僅かに白い頬が紅潮しているのがその感情の昂ぶりを表しているようだ。
 部下たちの間に“大将、よくやった”という安堵の空気が流れ始めた中、嬉しそうに微笑んだ天蓬は、そっと口を開いた。
「まあ、冗談なんですけどね」
「は?」
 突然呟かれた爆弾発言に、その場にいた全員が目を剥く。特に一世一代の決断を今この場でした捲簾は殴りかかる勢いで天蓬の両肩を掴んで迫った。その衝撃で天蓬は背後の壁に背中を打つ。
「どういうことだオイ!」
 その余りの迫力に天蓬もどう対応していいものか、と顔を引き攣らせた瞬間、捲簾はピタリと動きを止めた。がつ、と鈍い音がしたのだ。見れば、さっきまで天蓬の後ろに隠れていた子供が、がつがつと捲簾の脛を蹴っている。ブーツを履いているため然程痛くはないのだが、何でまた自分をそんなに蹴るんだ、と捲簾は少し屈んでその子供の顔を覗き込もうとした。その瞬間、子供がぱっと顔を上げた。
「てんぽうにらんぼうすんな!」
 その言葉に捲簾は思わず咽た。天蓬はといえば、そんな少年の行動に感動したかのように頬に手を当ててきゅんとしている。
「けんれんったら……」
「は?」
「あ、いやだからこっちが“けんれん”で、あなたが“捲簾”」
「同じじゃねーか!」
 その間も、少年はギンギンと捲簾を睨み上げている。チビのくせにやたらとその眼光が鋭いのだ。何だか居心地が悪くてその視線から顔を逸らすようにしていると後ろから覗き込んできた黎峰は、興味深そうに溜息を吐いた。
「大将……本当に大将の子なんじゃないですか」
「何」
「似すぎです」
 黎峰にそう言われ、まだまともに少年の顔を見ていなかった捲簾はしゃがみ込んでその子供の顔を覗き込み、数秒間静止した。
「可愛いでしょう」
 天蓬の呑気な言葉が、頭の中に響いた。目の前には、“ガキの頃の自分がいる”。そして自分を、親の仇でも見るような目で睨みつけている。そういえばその目も、先程の声も、確かに幼い時の自分のものに酷似していた。
「誰……」
「あなたですよ」
「――――俺?」
 捲簾は失神してしまいたい、と思った。

「正確に言えば、あなたの幼少期の精巧な複製(レプリカ)でしょうか」
「あのババア……」
 ふるふると拳が震える。天蓬はその子供と仲睦まじく並んでソファに座っている。というか、その子供が天蓬から絶対に離れようとしないのだ。捲簾がまた天蓬に何か狼藉を働くのではないかと監視しているようでもある。そんな幼くも鋭い視線に晒されて、心労の重なった捲簾はがっくりと向かい側のソファに座る。
「ていうか、マジで驚かせんな……」
「認知云々のことですか」
「そうだよ」
「ふふ、でも嬉しかったですよ。あそこであなたが子連れの僕を突っぱねたら、ちょっとあなたとのことを考え直そうかと思いましたから」
 そう言われて、それじゃあ仕方ないかーと笑って流してしまえるところが捲簾の捲簾たる所以だ。それぐらいの図太さがなければ天蓬と対等に渡り合うなど不可能なのだ。
「……で、それ……どうなんの」
 三晩月の光を浴びれば消える。それを言おうとした天蓬は、隣から向けられる無垢な視線に言葉を詰まらせた。最初の頃なら、こんな風にはならなかった。しかし、徐々に情の移り始めた今では、本人の目の前で“消える”なんて、言うことは出来なかった。たとえ、彼に“消える”なんて言葉に意味が解らなかったとしても。捲簾には後で話すことにして、天蓬はこの場は笑って誤魔化すことにした。
「暫く僕がお預かりすることになりまして」
「……何でまた俺の複製なの……」
「僕のために作った、とか言ってましたけど、多分あの人は楽しみたいだけですから」
 そんな風に会話する上官たちの周りで、遠巻きに子供を眺めていた部下たちは揃って溜息を吐いた。これだけ似ていれば、“天蓬元帥が捲簾大将の子を産んだ”なんて噂が流れてもおかしくない。
「でも大将、よかったですね」
「何がですか?」
 劉惟が言うのに、捲簾は焦ったように顔を上げた。天蓬は不思議そうに劉惟に向かって首を傾げる。やばい、と劉惟は口を覆ったが、今度はそれに代わって黎峰が口を開いた。にこにこと、妙に嬉しそうに。
「大将は、元帥が子供と歩いていたっていう噂を聴いて元帥が実はどこかで所帯を持っているんじゃないかって心配してたんですよ」
 すう、と天蓬から表情が消えた。その場で微笑んでいるのは黎峰だけ。そして天蓬の顔に次に浮かべられたのは冷たい微笑みだった。首が急に自分の方に向けられて、捲簾はビクッと身体を揺らした。
「捲簾」
「は、はい」
「やっぱり、もう一度考え直しますね」
「ちょ、待て! 何で!」
 劉惟は、隣で優しげな微笑を浮かべている黎峰を見て、(……鬼だ……)と心の中で呟いた。
「この子のお世話に専念するので、当分夜は別々で」
「マジで?!」
 そして自分の上官を見下ろして、(……馬鹿だ……!)と頭を抱えた。










一日目だよ!(続くか解らないのに)あそこで認知しなかったら最低男かもよ。チビ天蓬だとベタかと思って、捲簾が犠牲になりました。
観世音×天蓬だっていいはずだよ、と心の中で思ったのです。         2006/08/25