彼の一日はバスケットの中で始まる。お歳暮だったかお中元だったか結婚式の引き出物だったか忘れたが、貰い物の洋菓子が入っていた可愛いバスケットだ。用途が無くて放置されていたそれに小さなタオルを引いたもの、それが彼のベッド代わりになっている。枕はピンクッション、掛布団はハンカチというファンシーな状態の中で毎朝彼は目を覚ます。欠伸を二回、目を擦り擦り、そしてもう一度寝に入る……ところをいつも捲簾に引っ張り起こされるのだ。
「いやーまだねるんですー!」
「駄目だ遅刻する! どうせお前会社に行ったら引き出しの中で寝るだろうが!」
 会社、捲簾のデスクの一番下の大きな引き出しには物が余りない。よって今は二、三冊の書類ファイルの上にタオルが置かれていて、彼はいつも職務中はそのタオルに包まって眠っているのだ。どうも暇らしい。時折抜け出して会社内を徘徊しているようだが。ただ他には見えないのをいいことに部長の頭に乗っかって遊んだりするのは止めて欲しい。頭から滑り落ちそうになって社長の余命短い髪の毛を掴んだりするのも捲簾の胃に優しくない。
 彼が現れてから変わったことと言えば、長い信号に引っ掛からなくなったり、人と人の面倒ごとに巻き込まれることがなくなったりということで、然程大層なものではない。しかし生まれて今までそんな小さな不幸にばかり見舞われてきた捲簾にとっては大きなことだった。いつもぐうぐう寝ているか何か悪戯しているかのどちらかである彼も、影では捲簾を不幸から守っているのだと思うと不思議な気分になる。
「いただきます」
 テーブルの上にちょこんと正座して礼儀正しく両手を合わせる。目の前には小皿に、彼サイズの小さいおにぎりが一つ置かれている。そして彼がそれにかぶりつくのを確認してから、捲簾も箸に手を付けるのだった。実際彼の主食は米ではないらしい。じゃあ何だと訊ねれば“甘いもの”だという。如何にも妖精らしいファンタジーな答えに、捲簾は生返事をすることしか出来なかった。ちなみに彼の好物はチョコレートである。値段に拘りはないらしく、百円以下の板チョコで満足してくれるので燃費がいい。
 しかし朝から甘いものばかり食べているのを見るのは胃がもたれるので、朝は自分と同じく米かパンにさせることにしているのだった。
「おいしいです、めんたいこー」
 貰い物の明太子がお気に召したらしい。甘いものが好きかと思えば隙を見て捲簾の酒を勝手に舐めていたりするし、辛いものも結構好きらしい。基本的には雑食なのだろう。その後、食事の終わった彼に顔と手を洗わせながら着替えをする。スーツに腕を通し、最後に鏡を覗き込んでから家の鍵を手にして彼を呼ぶ。
「……てんぽう! そろそろ行くぞ!」
 会社で指環をしているわけにもいかないので、普段はキーホルダーに引っ掛けて家の鍵と一緒にしてある。そうすれば流石になくしはしないだろう。彼は指環から離れられないとはいえ、半径二百メートルほどの範囲内なら自由に動けるらしい。だからこそ普段ふわふわと社内をほっつき回っているわけだが。
 彼が自分の前に現れて、一ヶ月が経った。彼の事情も何となく分かってきた。彼が家にいるという違和感ももう殆どない。……というより、そもそも傍にいる違和感なんてそんなに最初からなかったのだが。
 電車に乗って今日も押し寿司状態になる。そんな状況にもかかわらず彼は呑気に捲簾の肩の上で鼻歌を歌っている。有名なチョコレートのCMの曲だ。これは催促だろうか、と頭の片隅で考えながら、捲簾は仕事帰りに買って帰るもののリストを思い浮かべた。視線の端で彼の寝癖のついた髪がふよふよ揺れている。
 何も変わらない日常が、少し変わった日常へと変化し始めた朝。


++++


「ミルクチョコですよ、ミルクチョコ」
(はいはい、分かってるっつーの)
 この前高濃度カカオのチョコレートを食べさせられたのを根に持っているのだ。ほんの冗談のつもりだったのだが、あの時は拗ねて丸三日間指環から出て来ようとしなかった。彼の好物は甘いものであってお菓子自体ではない。よって、甘くなければお菓子でもチョコレートでも意味がないらしい。
(疲労にいいらしいぞ、あのチョコ)
「あんなのチョコじゃないですよ」
(チョコだよ)
 むくれる彼に小さく笑って、買い物カゴの中に甘い普通のミルクチョコレートを二枚、投げ入れた。
 茶色くて甘い物体を食べるのが生き甲斐で、甘いものと本があれば満足な彼は、かなりの読書家である。指環の中にあるという居住空間には本がぎっしり入っているらしい。そして時折指環の中に篭って読書に励んでいる。で、その間は食事はおろか風呂にも入らない。どうにも、やりたいことだけやっていたいタイプらしい。とても楽しそうな毎日を過ごしている。
 そして今、晩酌を楽しみつつ、その茶色い物体に噛り付く小さなものを眺めていた。
「……美味い?」
「はいっ」
 胸焼けしそうな光景である。板チョコの一欠片……と言っても彼にとっては顔の半分くらいの大きさだ。それを嬉しそうに頬張るのが分からない。ちなみに何度か会ったことのある、彼の“同僚”である別の精霊も甘いものが好きだった。しかしそちらの場合はチョコレートではなくアンコだったが。しかしまあ、小さいものがもぐもぐと何か食べている姿は可愛いものだ。酒を舐めつつ、テーブルに座るその小さな姿を見つめた。
「分かんねぇなぁ」
「わかりなさい」
「命令かよ」
 笑いながら、茶色い汚れの付いた彼の頬を指先で拭ってやる。そしてくしょん、と小さくくしゃみをしたその頭を小さく突付いてやった。


++++


 前項の通り彼には仲間がいる。とはいえ自分が見たことがあるのは彼ともう一人だけ。てんぽうの後輩である、“はっかい”という精霊の主人が取引先の会社の男だったのだ。てんぽうはその相手が苦手らしく、極力接触を避けようといつも逃げ回っている。てんぽうが言うには、彼はどうにもこうにも潔癖とも言えるほどの綺麗好きらしく、以前てんぽうが大事にしていた本を片付けの時に誤って捨ててしまったのだとか。しかし彼の方はそんな気も知らずにてんぽうを慕って近付いてくるのだ。しかも毎度それに付き合わされて、彼の主人もまた捲簾の家を訪問してくる。非常に面倒臭そうな顔をして、それでもはっかいに逆らえずにいつも言いなりになっている。
「てんぽう、おーい」
「……かえりましたか? はっかいは」
「おう、帰った帰った。だから出てこい」
 そう言ってツンツンと指環の石を突付いてやると、訝しげな顔をして彼がふわふわと石の中から出てきた。そしてきょろきょろと辺りを見渡し、彼がいないことを確認して大きく息を吐いた。そんな様子のてんぽうを眺めて捲簾は笑って、その頭を突付く。
「そんなに生きるか死ぬかみたいな話じゃねぇだろ」
「……やつにつかまったらさいごですから」
「何?」
 妙に真剣な顔で言う彼に、思わず吹き出しそうになりながらも訊ねてみる。
「むりやりおふろにしずめられて、へやはかってにかたづけられてだいすきなほんをすてられて、さいあくです」
「……お前が真面目に風呂に入って部屋も綺麗に片付けてればいいじゃねぇか」
「うるさい、ぼくのへやなんだからいいじゃないですか」
 ふん、と顔を背けて彼は拗ねたように唇を尖らせた。しかし放っておけば風呂にも入らず黙々と本ばかり読んでいる彼のことだから、はっかいが文句を言いたくなるのもまあ、多少致し方ない。そんなことを言ったらまた彼が拗ねてしまうだろうが。


++++


「ちょっとおひまをいただきます」
 そうてんぽうがいつものようにテーブルに正座して真顔で言った。それに、箸で塩辛を摘み上げていた捲簾はそのままのポーズで固まる。冗談かと思ったのだ。しかし彼は何の反応もしない。それどころか訝しげな顔で首を傾げられて反応に困った。
「……暇?」
「はいっ」
 暇を貰う、というのはつまりその、仕事を辞めるということで?
「……え? マジで?」
「はい、みっかかん」
「……あ?」
「ちょっとうえの煩型によばれちゃったんですよ」
 あの万年中間管理職、と可愛い顔に似合わず小憎たらしいことを言う。しかしやっと彼の言おうとしたことの意味を正しく理解して、捲簾は大きく息を吐いた。それを見ててんぽうは腕組みをして神妙な顔をした。
「ぼくがいなくてさみしいかもしれませんけど、ちょっとだけがまんしてくださいね」
「誰がだ、誰が」
「みっつねたら、かえってきますからねー」
「俺はガキか! ……ったく、お前がいないからってどうってことねぇよ」
 そう言うと彼は拗ねたように唇を尖らせてから、目を見開き傷ついたような顔でくたりと横座りになった。
「……ひどいです。あなたはもっとぼくのことたいせつにおもってくれてるってしんじてたのに」
「おいおい……」
 拗ねてそっぽを向いてしまった彼の頭をツンツンと突付く。するとそれをさらっと無視した彼は早々に態度を切り替え、ティッシュペーパーを二、三枚を取り出して重ねた。そしてその中に皿に置いてあった四欠片のチョコレートを包み込み始める。どうも弁当代わりらしい。
「そっちにはチョコないのか?」
「ありますけど、こっちだとただじゃないですか」
「……」
 成程、あっちでは自分で買わなければならないから、こっちから持っていくということらしい。そしてその重ねたティッシュペーパーを風呂敷のように包んだ彼は、その包みを抱えて立ち上がった。
「じゃ、いってきますね」
「あ? もう行くのか」
「はい、おそくなるとうるさいので。ゆびわだしてください、ゆびわ」
 彼に促されるままにキーホルダーに引っ掛けられた指環をポケットから取り出し、テーブルに置いた。そのまま彼は指環の方へ近付こうとして何か思い出したように顔を上げる。
「あ、しばらくまたさえないひびにもどるとおもいますけど、めげないでくださいね」
「だから冴えないって言うな」
「あさはいっぱいしんごうにひっかかってもいいように、はやめにいえをでるんですよー」
 そう言い捨てると彼はそのまま、抱えた包みごと指輪の石の中へと吸い込まれるように消えていった。途端に部屋の中が静かになる。そして自分は、久しぶりに一人ぼっちになったのだということに考え至った。しんと静まり返った部屋の中で手持ち無沙汰に箸を弄び、すっかり失せてしまった食欲に溜息を吐いて箸を置いた。

 翌朝目が覚めた。何と言うかお約束で、目覚まし時計の電池が切れて止まっていた。勿論実際は遅刻すれすれの時刻だった。慌ててテーブルの脚に足の小指をぶつけ、通勤途中も何度も信号に引っ掛かり何とか会社にすれすれで滑り込んだ。以前の生活に戻った気分で何だか無駄に懐かしい。ちなみにパソコンは二度固まった。この小さな“ついてなさ”は久しぶりだ。左肩が軽い。無意識の内にポケットを探り、家の鍵と一緒にしてある指環を見つめた。
 帰り道、いつものスーパーに足を踏み入れる。カゴを持って店の中を歩き、いつもの癖で菓子類の並ぶ列に入ってしまう。あと三晩彼は返ってこないのだ。買い溜めておく必要もない。一瞬立ち止まったものの、すぐに踵を返してその列から出た。何だかモヤモヤした気分だった。その気分に名前を付けるのは容易だったが、名前を付けると逆に虚しいようで、それ以上考えるのを止めた。
 スーパーを出て、夜空を見上げる。ちらちら光る星に、溜息を吐いた。

「もう、早くしてくれませんか」
 指環の中へ帰った天蓬は、椅子にふんぞり返って座っていた。サイズは、一般の人間サイズに戻っている。上司の前だというのにその長い脚をゆったりと組んで、暇そうな顔でそっぽを向いている。その上司はというとにやにやした顔のまま、そんなつまらなさそうな顔をしているてんぽうを眺めていた。姿形は女のようにも見える。しかし女かどうかはよく分からない。そもそも人間ではないので性別があるかどうかも分からない。
「いいじゃねぇか、久しぶりなんだし。なぁ天蓬」
 本来は数分間程度で終わる報告だ。それをわざわざ三日間と言って帰って来たのは、絶対にこの人に引き止められると分かっていたからだ。非常に面倒なことに。
「……帰りたいんですけどね」
「ふぅん? そんなに今の主人が気に入ってんのか?」
「別に。あなたにお話する必要はないでしょう、普段から勝手に見てるでしょうから」
「まあな。でも、毎回毎回一ヶ月と持たないのにな、お前は」
 にやついた顔で眺め回されて、天蓬はむっすりと口をへの字にした。この人が何を言いたいのかは分かる。だからこそ余計なことを悟られてはならない、と天蓬はもう何も言わないことに決めた。
「おーい、無視すんな」
「……」
「お前ああいうの好みだったか?」
「……」
「如何にも女好きそうで軽そうな」
「少し黙りませんか」
「嫌だ」
「じゃ、帰りますよ。報告は済みましたからね」
 痺れを切らした天蓬は音を立てて椅子から立ち上がり、丁寧に礼をした。そして颯爽と身を翻し、長廊下を真っ直ぐに歩いていく。それを止めることもなく艶やかに笑った女は、もう振り返らない天蓬に向かって手を振った。
「じゃあまたなー、……喧嘩すんなよ」
 その言葉に歩いていた天蓬はぴたりと立ち止まる。そして静かに振り返った。その目には、酷薄な色が浮かんでいて真っ直ぐに女を睨めつけている。
「……うるさい」
「はいはい、また次な」
 しかしその目にも臆することなく女はにやにや笑ったままぱたぱた手を振った。それを暫く見つめた後、天蓬は再び、女に背を向けて歩き出す。彼の靴音だけが廊下に響き、椅子の手摺りに頬杖をついたまま女は笑った。

「ただいまかえりましたよー」
 ひょこりと指環から顔を出したてんぽうは、指環の近くに誰もいないことを確認して少し膨れる。そして遠くから、醤油の焦げるような香ばしい匂いがするのに目を瞬かせる。キッチンの方へ顔を向けると、まさにその瞬間、フライパンを持った男が顔を覗かせたところだった。
「お、おかえり」
 ちょっとコンビニでも言ってきた相手にでも言うような挨拶に少々膨れながらも、てんぽうは彼の元へと飛んでいき、腰に手を当ててふんぞり返った。
「すこしはやめてかえってきてあげたのになんですか、そのたいど。もうちょっとさびしがりなさい」
 そう言って眉根を寄せるてんぽうに、彼は笑いながらフライパンをコンロに戻して火を止め、布巾で手を拭きながら戻ってくる。そしてその手をてんぽうへ伸ばした。一瞬呆気に取られたものの逃げずにいると、そのまま彼に引き寄せられ、首元に抱き寄せられた。
「はいはい、淋しかった淋しかった」
 そう言う軽い口調はいつも通りなのに、何だかあまりにも愛しげに抱き締めてくる彼に、どうしていいのか分からなくなっててんぽうは小さな声で「うそつき」と返すことしか出来なかった。


++++


 彼女いない歴の最長記録を更新しつつある。家に帰っても女っけはない。いるのは今日も今日とて本を読みながらごろごろしているチビだけだ。どうも彼は自分の肩ほどまでもある人間サイズの文庫本を読むのに慣れたらしく、捲簾の家にある本を片っ端から読み始めたのだった。目で辿るだけでも大変だろうによくやるものだと思う。話が逸れた、彼女いない歴の話だ。
「けんれんはかのじょつくらないんですか? じつはもてないんですか?」
 とは、実に無邪気な彼の発言だ。いや、実際無邪気か邪気満載かは分からないが、見た目は実に無邪気だ。
「モテなくねぇよ」
「じゃ、ぼくがいるせいですか?」
「え?」
 一瞬どきりとして、彼を凝視する。しかしそれが自分の危惧した意味とは違うことに気付いて小さく嘆息した。どうも踊らされている感が否めない。そんな捲簾を、大きな眼鏡越しの目をぱちぱちさせててんぽうが見上げている。
「どうしたんですかー? もてなさすぎてかなしいんですか?」
「……失礼な奴だな。っていうか! そうじゃねぇ、作れないんじゃなく作らないんだ!」
「わぁ、できないひとのてんけいてきないいわけですよそれって」
「……あのなぁ」
 作らない、というより作ろうという気になれないというのが事実だったりする。女の方から声が掛からないわけでもないのだ、しかしそれも気乗りしなくて断っている。以前なら告白されれば来るもの拒まずだったのだが。
「ぼくのせいにされるのはヤなので、つくるならつくってくださいね、つくれるなら」
「……」
 ああ、何て小憎たらしい妖精だ。人の気も知らないで。


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 てんぽうが以前一度だけ漏らしたことがある、“せいぜん”という言葉。前後の文脈から見て、“生前”のことだろう。つまり彼が、人間として生きていた頃があるということか。だとしたらはっかいも。
「なぁ、てんぽう」
「はい?」
「お前、人間だった頃があるのか?」
 テーブルに文庫本を置き、その上に寝転ぶようにして字を目で追っていた彼は、不意に顔を上げた。その顔は完全な無表情で、初めて見たその表情に捲簾は不意に言葉に詰まってしまう。しかし彼はすぐにまたいつものよく分からない笑顔に全てを包み隠してしまった。
「ないしょです」
「……あ、そう……」
 それ以上追及することなど出来ず、捲簾は曖昧に笑ってその話題を終わらせる。てんぽうはまた本へ視線を落とした。もう何も語るつもりはなさそうだ。暫く捲簾はてんぽうに話し掛けることが出来なかった。あの顔を見るのが何だか怖かったからだ。

「なぁ、はっかい」
 今日も主人を引き連れててんぽうの世話を焼きにやって来たはっかいは、テーブルの上できちきちと洗濯をした彼の白衣を畳んでいる。捲簾が話し掛けると彼は片眼鏡に覆われた目を瞬かせて顔を上げた。ちなみにてんぽうはというと、ソファの方ではっかいの主人と何やら戯れているようだ。
「はい?」
「……お前たちみたいな妖精って、元は何なんだ?」
「……なに、というと?」
「それはその……元は」
「にんげんだっていうことですか?」
 はっかいは案外簡単にそう言った。あんまりにも呆気なく言うものだから、捲簾は一瞬言葉に詰まってしまった。しかし彼は白衣を畳む手を止めない。僅かに口元に笑みすら浮かべながら。
「おおかた、てんぽうにきいてことわられたんですね」
「……」
 無駄に頭の良い妖精だ。小憎たらしいのはあれと全く変わりない。彼は表情一つ変えずに、白衣を畳み終えてテーブルの端に置いた。そして正座したまま捲簾に向き合う。
「いやがったということは、てんぽうはあなたにそのことをはなしたくないんです。わかってあげてくださいね」
 こんなチビに諭されているということが何とも情けない。
「でもあなたがおもっているとおり、たしかにぼくたちはむかし、にんげんでした」
「……」
「みんな、あまりしあわせとはいえないしにかたをしています。もちろんぼくも。ぼくはむかしてんぽうからちょくせつききました。だけどきっとてんぽうは、もうおもいだしたくないんです」
 何だか、えらいことを聞いてしまった気がする。
「……悪い」
「あやまるならさいしょからきかなきゃいいとおもいますよー」
「……」
 こちらはてんぽうとはまた一風違ったイヤミっぽさだ。憮然とした顔をする捲簾に笑って、はっかいは「ごめんなさい」と言った。
「じょうだんですよー。べつにぼくははなすのがつらいとかないですし」
「……そうなの?」
「ぼく、にんげんだったときじさつしたんですよね、あとおいじさつ」
「……」
 そんな風に明るく言うことではない。表情を硬くする捲簾に、はっかいは薄く笑った。
「ぼくはよくても、きくほうはきぶんのいいはなしじゃないですね」
「いや、そういうわけじゃない。……だけど、そんな風に軽く言えることなのか?」
「もうぼくはわりきれちゃいましたから。それがてんぽうはまだできてないんです」
 そう言って彼は少し目を伏せて、ちらりと遠くのてんぽうの方へ顔を向けた。今の彼は笑っている。だけど、一体心のどこまで整理出来ているのだろう。
「ぼくは、たいせつだったひとをなくして、じさつをしました。だけどてんぽうはしにたくてしんだわけじゃないんです」
 捲簾もまた、遠くで笑う天蓬を見つめる。いつもの彼の笑顔を思い出して、それはどこまで本物なのだろうかと、考えた。


++++


 捲簾はモテる。というのは本人の談だ。確かに見た目モテそうだとは思うが、てんぽうが彼の家に来て以来、一度も女が家に足を踏み入れたのを見たことがない。
「てんぽー」
 後ろから声を掛けられて、窓辺に座ってうとうとしていたてんぽうは肩を揺らす。その一瞬の間に逃げようか諦めようかの葛藤が頭の中で巻き起こったが、結局諦めて小さく溜息を吐いた。そしてゆっくりと振り返ると、そこにはにこにこと笑顔を絶やさぬ自分の後輩がいた。
「……またさんぞうひっぱってきたんですか?」
「はいっ」
「ぼくがさんぞうにイヤミいわれるんですよ」
「じゃあちゃんとしかっておきますから」
「そうじゃなくて……」
 どちらが主人だか分からないような状態にてんぽうは再び溜息を吐く。しかしそんなことも気にならないようで、後輩……はっかいは嬉しそうに近付いて来た。一瞬退きそうになって、しかし無駄だと思い直しててんぽうは踏みとどまった。昼の日差しが眩しい。きっとリビングでは自分の主人と彼の主人が会話もなくただひたすらに煙草を吹かしているに違いない。換気をしているだろうか。
 ちょこん、とてんぽうの隣に座った彼もまた、日差しに少し目を細めた。
「ねぇてんぽう」
「なんですか?」
「けんれんさんに、むかしのこときかれたでしょう」
「……あなたにもきいたんですか、あのひと」
 眉を顰めるてんぽうに、はっかいは少し笑って頷いた。
「よっぽどてんぽうのことがきになるんですね」
「ほうっておいてほしいのに」
 少し不機嫌そうにそう言うてんぽうを盗み見て、八戒は少しだけ俯いた。そして視線を巡らせ、言葉を選ぶように口を開いた。
「……もしかしてまだ、きにしてるんですか」
 はっかいの問いかけに、てんぽうは視線を少しだけ動かして溜息を吐いた。見上げた空は青く高いのに何だか心は湿っぽい。
「……だって、にてるんです」
「けんれんさんが?」
 こく、と頷くてんぽうに、少し痛ましげな顔をしたはっかいはおずおずとその手を伸ばしててんぽうの頭を撫でた。てんぽうも逃げずにそれを受け入れ、俯いたままでいる。
「みんなにやさしくて、かっこよくてモテておんなのひとがだいすきでえっちでせがたかくて」
「……」
 珍しく饒舌なてんぽうに、はっかいは目を瞬かせた。そして小さく声を漏らした。
「けんれんさんといると、つらいですか?」
「……わかりません」
 それきり、てんぽうは口を噤む。はっかいもまた声を掛けることはしなかった。


++++


 てんぽうがいるからといっていつも不運がないわけではない。それはつまり、自分のミスによって起きた不運だからだ。彼だって万能ではないのだから彼を責めるのはおかしい。ソファに座り、テーブルの上にノートパソコンを広げつつ捲簾は書類を眺めながら目を細めていた。
「……けんれんー」
 顔を上げて、ふよふよと飛んで来たてんぽうを見た。目を擦り擦り欠伸混じりの声の彼に、小さく笑った。
「寝てていいぞ」
 妖精というのも、主人を守るのにかなり体力を使うらしい。毎晩どんなに煩い中でもぐうぐう寝ているのも、そのせいらしい。しかし彼はそのまま引き返さず、ノートパソコンの隣に降り立ち、その場に座り込んだ。
「へいきです」
「……無理するなよ」
 最近は、ただでも彼はすこしおかしいのだから。それもこれも、自分が余計なことを訊いたせいだ。その負い目が自分を少し優しくさせていて、そんな自分が何だか酷く悪い人間のような気がした。
 てんぽうはひたすら、その黒い瞳で捲簾を見上げている。何だか心の奥まで全部見られているような気がしてならなくて、捲簾は曖昧に笑うことしか出来ずに俯いた。
「けんれん、ごめんなさい」
「……何が……?」
「あなたには、まだはなせません」
「……それは、“俺には”っていう限定なわけ?」
「……そう、です」
 捲簾の問いかけに、一瞬詰まったようだった彼はそれでも小さく頷いた。何故だ、と問い詰めるのは簡単だったけれど、そこまで非情にはなれなかったし何より彼との間に今以上距離を広げたくなかった。
「いつか、ならいいのか?」
「……どりょくします」
「無理はしなくていいけど」
「なんでぼくがあなたのためにむりをするんですか」
「……そうですね」
 ぷく、と膨れた彼はそのままいつものように捲簾の肩へと飛び移った。そして急かすようにその肩をたんたんと叩く。
「はやくおわらせて、ねましょう」
「先に寝てていいのに」
「ようせいのこけんにかかわります」
「何だそりゃ」
 何だかよく分からないが、彼なりに何だか気を遣ってくれている気がしてくすぐったくなり、小さく笑う。
 何か認めたくないけど、お前といるのが一番だよ、てんぽう。


++++


 こいつが人間だったら、相当面倒でズボラな男だろう。妖精だからまだ、風呂に入りたくないとごねても摘み上げて無理矢理入れさせるということも出来る。しかし人間だったらそうはいかないだろう。一体彼はどんな人間だったのだろう。そしてどんないきさつで、どんな風に死んでしまったのか。今は彼が進んで話してくれるのを待つほかない。
 どんな風な容姿だったのだろう。背は高かっただろうか。声はどんな風で、性格は今のままだろうか。恋人はいたのだろうか。
 そんな風に色々と考えて、これじゃあ恋焦がれている状態のようだ、と自分にげんなりした。
 ああ、最近の自分も少々おかしいようだ。頭が痛い。


++++


 家庭の医学にも載ってない。医者に訊いても分からない。妖精が熱を出したら。どうしたらいいかなんて一体誰が知るというのだ。
「平気か……? てんぽう」
「うう……」
 小さなてんぽうは熱を出していた。さっきから身体が熱いと言って冷たいテーブルにへばりついて頬を押し当てている。恐る恐る触れた身体は熱い。そういえば少し前からくしゃみを繰り返していたのを思い出した。タオルでぐるぐる巻きにして温かくしてはいるものの、人間用の薬を与えるわけにもいかないしお粥を食べて元気になるわけでもない。人形でもないから取扱説明書などない。一体どうしていいのかほとほと困り果ててしまって、苦しみながらテーブルに倒れ伏す彼を腕組みして見つめていることしか出来なかった。とりあえず何かを食べさせなければならない。苦しい時に食べるとしたらやっぱり好物か。しかし固形物を食べる元気はないだろう。しかしこうして黙って座っていても事態は好転しない。捲簾は苦しむてんぽうを前に立ち上がり、指環をテーブルに置いた。てんぽうは僅かに赤らんだ顔を上げ、不思議そうに捲簾を見上げる。
「……けんれん……?」
「ちょっと買い物行ってくるから。静かに寝てろよ」
「じゃ、ぼくも……」
「いいから。すぐそこのコンビニまでだ、たまにはゆっくり休め」
 起き上がろうとする彼の頭を指で押し戻してそう言うと、彼は熱でぼうっとした目を上げて少しだけ淋しそうな顔をした。

 買って帰ってきた物をテーブルに並べつつ、苦しそうに唸っているてんぽうを見下ろす。季節の変わり目で急に寒くなったせいだろうか。それとも色々考え込んでいたせいか。今までは底抜けに明るかった彼が、最近は時折何か考え込むように突然黙り込むようになったことに気付かなかったわけではない。しかしそれは自分の蒔いた種であり、理由は訊ねるまでもなかった。
(畜生)
 自己嫌悪に陥りながらも、買ってきたそれを温め直してカップに注いだ。そして彼にも飲める温かさになるまで手の平の中で冷ましてから、テーブルに置いた。するとその音と微かな甘い匂いに彼はのろのろと顔を上げる。
「……なんですか?」
「ココアだけど、少しでも飲めるか」
 そう言うと、彼はタオルを身体に巻き付けたままもそもそと起き上がって、湯気を立てるカップを見上げた。カップの中身をスプーンで掬ってみせると彼は素直に口を開く。そしてそっと流し込んでやるとそれをこくんと飲み込んだ。三口四口飲むと、彼はふるふると首を振った。
「もう無理か?」
「はい……」
「ちょっと横になるといい」
 畳んだバスタオルの上に横になり、上からもタオルを掛けててんぽうは目を瞑った。眼鏡はちょこんとタオルの横に置いてある。静かに寝させてやろう、と捲簾は、その額に畳んで濡らしたティッシュを置いてからテーブルを離れた。
 捲簾は考えた。目の前には電話。腕組みしてじっとその電話と睨めっこをする。嫌だが、てんぽうのためにはこれしかない。捲簾はその受話器を持ち上げ、一瞬躊躇ったもののメモした電話番号をゆっくりと一つ一つ押した。

「て……てんぽうがかぜっ?!」
 電話の向こう側で、電話相手である三蔵から聞かされた言葉にはっかいは言葉を失っていた。自分の肩の上に立ち、口を開いたまま固まっているそれに、三蔵は半分呆れながら咳払いをした。しかし何も知らない捲簾は三蔵に向かって訊ねる。
『で、はっかいに、妖精が熱出した時はどうすりゃいいのか訊いてくんない?』
「……はっかい、妖精が熱出した時はどうすればいいんだ」
「てんぽうはぶじなんですか! いますぐそっちにいきたいです!」
「無理言うな!」
『何で?』
 普段は邪魔物扱いをしているものの、今回ばかりは本当に来て欲しいと思っていた捲簾は電話の向こうで首を傾げる。しかし三蔵だって鬼ではない。てんぽうが熱を出したと言うなら、今でなかったら重い腰を上げて捲簾の家へ向かっただろう。だが。
「……今大阪なんだよ」
「とうきょうにかえりたいです!」
 実は三蔵とはっかいは出張で大阪にいたのだ。今もホテルの一室である。その言葉に電話の向こうの捲簾も「あー……」と声を漏らす。こればかりは仕方がないのだ。物理的距離は越えられない。
 わんわんと電話とは逆の耳元で大騒ぎするはっかいを右手で制しつつ、左耳に押し当てた携帯電話に声を掛ける。
「東京に帰るのは明日の夜中になる」
『そうか……もうどうしていいんだか分かんねぇんだ』
 本当に困り果てたような声を出す捲簾に、三蔵も少しだけ同情する。はっかいが熱を出したら自分とて例外ではないのだ。
「さんぞう、さんぞう」  その時、ぐいぐいと指を引っ張られて顔を上げる。
「どうした」
「けんれんさんと、ちょくせつはなしたいです」
 そう言って八戒は携帯電話を指差した。そしてはっかいと携帯電話を交互に見た三蔵は、とりあえずその携帯電話をテーブルに置いた。するとはっかいはそのテーブルの上に降り立ち、大声でそれに向かって話し掛け始めた。
「けんれんさーん、きこえますかー」
『ああ、聞こえるー』
 通話口に話し掛けては受話口に耳を寄せて返事を聞いている。体長がリンゴ二個分しかない彼ら妖精にとってはかなりハードである。しかしはっかいにとっては大事なてんぽうのためのことなのでそれくらい苦でもないようだ。
「えっとですね、ようせいがねつをだしたときはー」
 そしてはっかいは延々と看病の方法について語り始めた。その長々としたものを捲簾は全てメモしたらしい。三蔵はその必死さに呆れつつ、その後ろで酒を舐めつつその小さな姿を眺めていた。
 そして二日後、心配した三蔵とはっかいが捲簾の家を訪れた時には、すっかり元気になったてんぽうがけろりとして、捲簾の頭の上にちょこんと乗っかっていた。


++++


「さむいですねぇ……」
(そうだな、平気か?)
「へいきです」
 捲簾が首に巻いたマフラーに身体ごと一緒に包まりながら、小さく息を吐いた。それが白い気体となって暗い辺りにほわりと浮かぶ。そしてそれを、捲簾のより大きい白い息がかき消していった。凍てつく空気が頬に冷たい。空に浮かぶ星は、澄んだ空気に一際鋭い光を放っていた。
「ゆきはまだですか?」
(うーん……ちょっとは降るかも知れねぇけど、ここはあんまり降らないだろ)
 それはもう何度聞いたか分からない彼の質問だった。雪はいつ降るんでしょうか、とひとりごちるのも何度か聞いた。どうしてそんなに雪を心待ちにするのだろう。何か楽しい思い出でも詰まっているのだろうか。しかしまたそれは訊いてはならないことに繋がりそうで、捲簾は冷えた唇を噛んで質問を噛み殺した。
「……けんれんは、ふゆすきですか?」
(冬? ……そうだな、嫌いじゃねぇけど。俺は春が好きかな)
「似合いませんねぇ、夏とか似合いそうなのに」
(どういう意味よ、それ)
 周りに人はいなかったので、小さく笑っててんぽうの方を見る。すると彼はマフラーの中で小さく肩を竦めて目を逸らした。
(……お前は、冬が好きなのか?)
「だいきらいです」
(え?)
「だいきらいだけど、まちどおしいんです」
 大嫌いだけど待ち遠しい、というその感覚に捲簾は覚えがなくて首を捻る。ツン、と顔を反らした彼は空を見上げて洟を啜った。
「ふゆなんて、さむいしさびしいし、いたいし、さいていです」
(……今も、寒いし淋しいし痛い?)
 一体何を訊いているのだろうと自分自身に苦笑する。ぱちぱちと音がしそうなほど大きく瞬きをしたてんぽうは捲簾を見上げ、少しだけ俯いた後、ごそごそとマフラーの中に身体を埋めた。
「……いまは、あったかいです」
(そりゃあよかった)
 マフラーに埋もれて自分の首元に身を寄せてくる彼をぽんぽんと叩いた。彼はじっとしている。
 雪の季節も近い。今年は雪が積もるだろうか。


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 こんな寒い日はシチューの日です。
 コトコト煮込まれているシチュー鍋を覗き込んでは、その湯気に顔を顰めるてんぽうを見て捲簾は笑った。しかし何度もてんぽうは鍋の中を覗き込みたがった。彼が玉杓子でかき回す度に甘い香りが立ち上る。橙色のニンジンと、緑色のブロッコリー、黄色いコーンがくるくる白いとろとろのシチューの中で飲み込まれ浮き上がっていく。それをひたすらてんぽうは物珍しげに見つめ続けた。
「おいしそうですねぇ……」
 湯気のせいか、てんぽうは僅かに頬を紅潮させてうっとりとそう言う。捲簾と帰り道に近所のパン屋さんでバゲットを買った。あれと一緒にこのシチューが今夜のごはんだ。
「腹減った?」
「まだへいきです……」
 しかしほかほかと美味しそうな湯気を立てる鍋を前にすると言葉も尻すぼみになってしまう。そんなてんぽうに捲簾は笑い、彼は鍋に釘付けのてんぽうの頭を杓子を持ったまま突付いた。
「待ってな。もうちょっとだから」
「まてますよ」
 ぷくりとむくれるてんぽうをよそに、彼は塩や胡椒を取り出し、少しずつ足しながら味見をしている。彼の手に掛かると何でもない食材がぱぱっと美味しそうなものに変わっていくのが興味深くて、その手元をじっと見つめていた。その手がどんなすごい力を使える人よりもずっとすごいもののように見えた。魔法みたいだなんて思ったのは、内緒だ。
 その直後、リビングから高い電子音が鳴り響き始めた。電話だ。捲簾はその音に一瞬慌てたように手元を見つめた。そして次にてんぽうの方を見た。
「やべっ……あ、てんぽう持ってて」
 そう言って彼は持っていた杓子をてんぽうの方へ渡し、そしてそのままぱたぱたとスリッパを鳴らしてリビングへと歩いていってしまった。しかし自分の方へ倒れ込んでくる杓子の取っ手にてんぽうは慌てたが、何とか両腕で抱えるようにしてそれをキャッチした。もっと重いかと思ったが身体全体で抱えると然程重くない。そしてそれを抱えたまま鍋の上へと移動した。立ち昇る湯気に顔を顰めながらも、鍋の上を旋回するようにしながら杓子で数回鍋の中身をかき混ぜると、ふわ、と甘い香りが鼻を擽る。それを何度か繰り返すものの、しかし捲簾は戻ってこない。リビングからはまだ彼の声が響いてくる。
「……ながでんわなんて……おとこのくせに……」
 杓子の重さと高温の湯気のせいで少々気が立っているてんぽうは、いつもより少し長い彼の電話にも腹が立つ。ぐるぐると鍋の中を掻き回しながら彼の悪口を呟き続けてみる。
「えろ、へんたい、おんなずき、しゅふ、……つりばかー」
 それを続けていると次第に、頭がぼうっとしてくる。回り過ぎか、熱過ぎるせいか。

「……大丈夫か?」
「……」
「いや……ごめんって」
 結局捲簾が電話を終えて戻ってくるまで十分間。キッチンに戻ってきた捲簾が見たのは、何故かシンクに転がっているてんぽうの姿だった。しかもその顔が妙に赤いものだから焦ってしまい、慌てて濡れタオルを被せて団扇で扇いでいたのだ。
「ひを……とめていけばいいじゃないですか」
「ご尤もです」
「おもかったんですよ」
「ごめん。……シチュー、食べる?」
「にどとたべたくありません」
 しかし結局次の日目覚めたてんぽうは昨日のことなどすっかり忘れて、小皿に満たされたそれを軽く平らげたのだった。


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 はっかいの主人である三蔵は、そのはっかいが自分の身体の何倍もある自分の服を、一生懸命飛び回りながら畳む姿が可愛いのだという(妖精虐待だ)。立派な馬鹿主人だ。さて、我が家の妖精はといえば、チョコを食べるかテーブルにごろごろして人間サイズの文庫本を読むかそのまま本に挟まりながら寝ているか、洗い立ての洗濯物の中に埋もれて寝ているかいつのまにか捲簾のベッドの布団の中に埋もれて寝ているか……つまりは食う寝る遊ぶである。確かに幸せそうな寝顔で寝ている姿は可愛い。はっかいのようにせこせこ働くわけでもないが。
 だからそう、はっかいの自慢ばかりされても困る。はっかいに引っ張られて時折家を訪れる三蔵は、基本的に無口だ。しかし一旦口を開けばはっかいの話しかしない。正直はっかいの話を聞いたって楽しくはないし、全然面白くない。
「……いや、てんぽうだって可愛いぞ」
「は?」
 訝しげな顔をする三蔵をよそに、捲簾は窓辺でころりと転がっているてんぽうを呼び寄せた。そして眠たそうな目を擦り擦りやってくるてんぽうへ、棚から取り出したものを差し出した。途端に彼の目が輝き出す。
「ほれ」
「……いいんですかっ?」
 そそくさと近付いてきたてんぽうは、捲簾の手からそれを受け取り、両腕に抱えてテーブルの上に降り立った。己の肩ほどまでもある長さの細長いそれは、茶色い何かにコーティングされたようになっている。自分たちにとってはほんの細い棒に過ぎないが、彼にとったら鉄パイプのようなものだ。しかし彼は嬉しそうにその先端に齧り付く。ぽき、さくさく、と小さな音がして、彼はもぐもぐと小さな口を動かして咀嚼している。小さな彼がそうして何か食べている姿は栗鼠のようで可愛らしい。しかし、それをにやにやしながら眺めている彼の主人が気色悪くて、三蔵は舌打ちをして顔を逸らした。
「可愛くねぇ?」
「……」
 三蔵が、お前にだけは主人馬鹿だなんて言われたくねぇ、と心の中で叫んだ一日。

--ポッキー&プリッツの日/1111


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 寒い外からスーパーマーケットの中へ入って、肩に少し付いていた雪を払った。肩の上にいたてんぽうは白い息を吐きながら宙に浮かび上がり、頭の上に付いていた雪を払っている。そして開いた自動ドアを我先にとくぐっていった。捲簾が後を追って買い物カゴを手にして中に入っていくと、舞い戻ってきた彼は再び捲簾の肩にちょこんと乗った。そしてひょいひょいと放り込まれていく野菜たちをまじまじと眺めている。その小さな眸はいつも興味深げに捲簾の手の先を見つめているのだ。
「きょうはかれーですか?」
(カレーだよ。嫌?)
「だいすきですよー」
 じゃがいもににんじん、たまねぎ。品質をじっと眺めて見極めながらそれぞれカゴに入れて、野菜のコーナーを通り過ぎようとした。その時ふと捲簾は立ち止まった。既に意識は次の肉のコーナーへ向かっていたてんぽうは、突然止まった捲簾に訝しげな顔をする。
「どうしたんですか?」
(んー)
 立ち止まった捲簾は、何か考え込むようにしながら、目の前に積まれた黄色い物体を一つ手に取った。そしてちらりと視線をてんぽうへ向ける。その物体と捲簾を見比べて、てんぽうはぱちぱちと目を瞬かせた。
(これ、どうする?)
「?」
 暫く考え込み、ふとその意図に思い至ったてんぽうは、頷いてその積まれた棚の上に降り立った。柑橘類のすっとした芳香が気持ち良い。香りを吸い込むように一つ、大きく深呼吸してから捲簾を振り返った。
「こんやはゆずゆですね」
 嬉しそうに言うてんぽうに、捲簾は小さく笑ってから大きな柚を二つと、小振りな柚を一つ、それぞれ選び取り、買い物カゴに入れた。棚からカゴの中へと降りたてんぽうは、カゴの中の柚に触れてみる。ふわりと柑橘が薫って、目を細めた。


「うあー……」
 バスタブには大きめの柚が二つ、お湯の満たされた湯桶には小さな柚が一つ。濁点の付きそうな親父臭い溜息を吐くてんぽうに笑って、捲簾は前髪から滴ってくる水滴を拭い、似たような吐息を漏らした。バスタブの湯の上で揺れる湯桶の中で、彼は柚の上に頭を乗せて気持ち良さそうに声を漏らす。熱に煽られ香りが高くなり、特有の柚の芳香が立つ。普段は長風呂する質ではないが今日くらいはいいだろう。白い頬を薄っすら火照らせて何かよく分からない鼻歌を歌っているてんぽうを眺め、ゆっくりと息を吐いた。
「オッサン臭ぇな、お前」
「しつれいな、しんだのはまだ28のときですよ。まだぴちぴちなんですよー」
 そんなあけすけな返答に一瞬捲簾が言葉に詰まると、それを楽しそうに眺めていたてんぽうはけらけらと笑いながら、再び柚の上に頭を凭れ掛けた。その顔は段々赤らんできていて、そろそろ上せてきたようだった。だるい溜息を吐きながらも、てんぽうは再びちらりと捲簾の顔を窺う。
「やめてくださいよ、もう。そういうので、いちいちきをつかってそういうかおするの……ぼくがばかみたいじゃないですか」
 拗ねたような口調で言う彼に、却って困ってしまって更に口を噤む。唇を尖らせた彼はじとっとした視線を捲簾に向け、小さく息を吐いて緩く頭を振り、笑った。
「そろそろはなしたほうがいいのかなぁともおもってますし」
「……無理すんなよ」
「してない、って、まえもいったじゃないですかー」
 頬を膨れさせて拗ねた格好の彼は、柚にしがみ付くようにして捲簾を見上げている。その視線をどう受け止めていいのか分からずに天井を見上げている内に、あることに思い至った。彼が自分に話せないのではなく、自分が彼から話されることを受け止める、その準備が出来ていないのだと。
 顔をゆっくりと下ろして、真っ直ぐに自分を見上げている彼に視線を合わせた。その真っ直ぐさに少し心苦しくなった。

--the winter solstice(冬至)/1222


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「これ、やる」
 目の前に積まれた煌びやかな包装紙に、てんぽうは今までに見たことがないほどに目を輝かせた。てんぽうの燃料と化しているチョコレートの山だ。彼の喜びようも仕方がない。彼曰く“チョコレートの日”という、本日はバレンタインデーである。彼にとっては製菓会社の策略も何のそのだった。軽く紙袋に二つあるチョコレート。会社にはまだ幾らか残してきてある。それはてんぽうが机の引き出しに入っている時にでも少しずつ食べさせればいいと思い、荷物を減らすために置いてきたのだった。
 てんぽうは捲簾にその二つの紙袋をリビングのローテーブルに運ばせた。そしてその上に立ち、何やらふんふんと鼻を近づけたり手で触ってみたりしながら、何とチョコレートの選別をし始めた。基本的にどんなチョコレートでも食べるはずの彼が選り好みをする姿を見たことがない捲簾は、その姿をソファに腰掛けて暫く眺めていた。そして十分もすると、一袋分のチョコレートは大体半分に分けられた。そしててんぽうに言われた通りにその半分を袋に戻して退けた。一見しては、その二つのグループに分けられたチョコレートの違いは分からない。どちらかが安価でどちらかが高価というわけでもなさそうだ。二つ目の袋を選別し始めたてんぽうの姿を眺め、それが終わったら訊いてみよう、と退けられたチョコレートの袋を足元に置いた。
 そして十分ほど経った後、またもチョコレートは二つに分けられていた。そして先程と同じく片方のグループを袋に戻す。
「じゃあ、こっちのチョコレートはぜんぶいただきますね〜、ごちそうさまです」
 ご機嫌の様子で選び終えたチョコレートの包みを抱きしめるてんぽうを見ていた捲簾は、その頬を指先で突付きながら訊ねた。
「あのさ、お前が選んだそのチョコと、こっちの退けられたチョコには何の違いがあるわけ? こっちが不味そうだったのか?」
 そう訊ねると、一瞬彼は目をぱちぱちと瞬かせた。そしてその後、少し意地悪げな笑みを浮かべてみせた。彼は捲簾の肩の上に飛び乗り、足元に置かれた、退けられたチョコレートの袋を指差した。
「あなた、そのふくろのなかのチョコレートで、きにいってる子からもらったのあります?」
「え? いや、特には……」
「だったらすぐすてたほうがいいですよ」
「え?」
 彼が弾いたくらいだから余程不味いのだろうか。しかし、手作りならともかく普通に店で売っていたのを買ったものが多そうだ。そんなに不味そうなものを女性が態々選んでくるだろうか。首を傾げながら、肩の上のてんぽうを窺う。
「……どういうこと?」
 そう問うと、彼は小さく肩を竦めてテーブルに飛び降りた。そしてテーブルの下のチョコレートの袋を見下ろし、再び捲簾を見上げた。
「たべたら、おなかこわしそうですからね」
「……やっぱり不味いの?」
「そうじゃなくて、へんなおまじないがかかってるんですよ。おまじない」
「おまじない……?」
「“こいのおまじない”なんていうとかわいらしいですけど、呪(まじな)いは呪(のろ)いとおなじですから。がいがあるのはいっしょです」
 そう言ってから彼は、どこか冷たく笑ってその袋を見下ろした。
「よっぽどあなたのことがすきなひとも、いるみたいですねぇ。ぼくものろわれちゃいそうです」
「ちょ、ちょちょちょ、俺を守る立場のお前が呪われたら俺はどうなるんだ」
「……みちづれ、ですかねぇ……というか、いもづるしきにずるずると」
 てへ、と笑って見せる彼に、背中に冷たいものを感じた。
「勘弁してくれ……」
「もてもてですねー」
「……」
 先程までは何とも思わなかったチョコレートが急に恐ろしく思え、足元に置かれたチョコレートを恐る恐る見下ろしては、どう処理したものかと頭を悩ませていた。

--St. Valentine's Day(バレンタインデー)/0214


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「……う、あ、うごかないでください!」
「はいはい」
「しゃべらないでください、かおがうごくじゃないですか!」
(はいはい)
 そうは言われても、くすぐったさに思わず顔を払ってしまいたくなる。ソファに横向きで横になっている捲簾は、左頬付近と左耳のくすぐったさに笑ってしまいそうになっていた。
「……んん……くらくてよくみえないです」
「鼓膜破ってくれるなよ」
「しませんよそんなこと! ぼくのテクニックをばかにしないでください」
 始まりは、捲簾が耳掻きをしながらなかなかうまくいかないとぼやいたことからだった。そしてどうこうしているうちに捲簾は横にさせられ、左のこめかみ辺りにちょこんとてんぽうが正座している。そしてじっと耳の穴を覗き込みながら器用に耳掻きを動かしているのである。彼にとったら人間の耳の穴は自分の腕が入るか入らないかくらいの大きさのはずだ。自分からは見えないが、せっせと耳掻きをする姿を想像するとおかしいものである。
「……たまってますねぇ。からだによくないですよ」
「嫌な言い方するなよ」
 言われてみると先程より物の聞こえがよくなった気もする。なかなか自分では取り切れないものだ。そして漸く耳の中を探っていた棒が出ていくのが分かった。喋るなと怒られそうだったがとりあえずあまり動かないようにして問い掛ける。
「終わり?」
「つぎはふわふわです」
 続いて入ってきた耳掻きの上についている綿毛に少しくすぐったさを感じて肩を竦めた。くるくると二、三度回転させてからてんぽうは耳掻きを再び抜いた。耳元で達成感がありありと感じられる溜息が聞こえる。
「今度こそ終わり?」
「まだですよー」
 まだ何かあるのだろうか、と訝しげに思いながらもじっとしていた捲簾は、突然の不意打ちに跳ね起きる羽目になる。
「ふー」
「……ッ、わ!」
 突然のくすぐったさに堪え切れなくなって捲簾は慌てて跳ね起きた。そしてその衝撃で捲簾の頭の上に座っていたてんぽうはそのままソファに放り出されころころころころ転がっていき……クッションにぶつかって止まった。そのままぴくりとも動かない。投げ出された人形状態の彼にどう接していいのか逡巡したのち、とりあえず謝っておくことにした。
「あ……ワリ」
 暫くそのまま動かなかったてんぽうは、ややあってゆらりと起き上がった。勿論、目はぎんぎんに釣り上がっている。
「……けんれん」
「悪かったって……っていうか、突然息を吹きかけるのが悪いんだろ!」
「なんですって! ふつうみみかきしたらさいごにふーってするじゃないですか!」
 小さな身体で耳掻きの何たるかを熱弁したてんぽうは、再び捲簾のこめかみを蹴り飛ばして横たわらせた。こめかみを擦り擦り横になると、再びてんぽうは先程と同じように捲簾の頭の上に座った。そして。
「ふー」
「……」
「ふー」
「……もう、いいっつの」
「……ふー」
「あああもう悪かったから止めろー!!!」
「まだみぎみみがありますよ?」
「……」

--耳の日/0303








くたびれリーマンとふまじめフェアリー。軽いノリでちょろちょろ増えます。あまり深く考えないのが吉。       2006/10/15 〜