観世音の前には、一人の男が立っていた。黒く艶やかな髪が半端に長く、やけに綺麗な顔をしている男。白すぎて青みすら帯びている真っ白な面だ。男らしいとも言い難いが、女々しいわけではない。よく出来た人間も居たものだ、と小さく笑う。すると荒んだ表情をしていたその男はゆっくりと顔を上げ、その両の鳶色の眸が観世音を映し出した。男は乱れた格好をしていたが、元々は整った身形をしていたことが窺える。ダークカラーのスーツに黒いコート姿。フレームの少し変形してしまった眼鏡が辛うじて掛かっている。そして右手が、既に黒ずんでいるものの明らかに血に塗れていた。黒い色で目立たないが、コートにも血の染みや砂の汚れが残っているのが見える。
「ようこそ、美人さん」
 そうからかいを込めて言うと、彼の目が僅かに険しさを帯びる。それに笑って、観世音は足を組み替えた。
「……ここはどこです」
「残念ながらお前の行きたい地獄ではないようだな。しかし天国でもない。地上と天国の間くらいだ」
 そう言うと、男は失望したように目を伏せた。
「……何でまた、そんな半端な場所に?」
「お前は本来なら地獄に落ちたはずだ。お前自身に責めのあった最期だしな。それは分かるな?」
「……はい」
 男は一瞬沈黙したものの、諦めたように頷いた。そして真っ直ぐに観世音を見上げる。その強い視線を受けて強気に笑う。
「しかしあの死に方は死に切れんだろ。あぁ痛そうだな、肝臓に到達してるな」
 観世音は椅子から立ち上がり、ピンヒールを鳴らしてゆっくりと男へと歩み寄った。コートに付いた血の汚れを辿って彼の背中側に回る。背中の腰近くには、一際赤黒く染みの付いている場所がある。それがこの男が死に至った傷口だった。
「……だから、地獄じゃなくここに連れてこられたわけですか」
「そういうことだ。残念だったな。可哀想だが俺じゃお前を地獄に落とすことは出来ねぇんでな」
「下っ端なんですね」
「……俺だって神の端くれなんだがな」
「端くれ。つまり下っ端なんでしょう」
 さっきまで死人のような顔をしていたくせに(実際死人なのだが)俄かに力を取り戻している。なかなか可愛くない口だ。しかしその可愛くない口が可愛く思えるのが、観世音の観世音たる所以だった。
「まあ好きに言えばいい。お前は当分、天国にも地獄にも行けない。この世に“心”を残したからな」
「……どういうことですか? 僕はこんな世界に未練なんてありません」
「さぁな。上の命令でね、お前がこの世に生を受けたことを幸せだと感じるまでは天国には行けないことになっている。それまでは――――他の地上で暮らす人間の幸せを増やす手伝いをしてもらうことになるな。嫌だと言っても、これはきまりなんだよ」
 男は、信じられないというように目を瞠った。尤もだ。死んだはずの自分が何故他人の幸せのために齷齪働かなければならないというのか、という気持ちもよく分かる。
「恨むなら、お前の大好きな先輩を恨むんだな」
 その言葉に男の視線が鋭くなり、身を射抜くような強い視線が向けられる。それに思わず観世音も目を瞠った。男は怒りを露わにして、握った拳を震わせている。しかし殴り掛かることも出来ないのか、苦しそうに顔を顰めるだけだった。それに、流石の観世音もからかい過ぎたかとほんの少しばかり反省をする。そして再び椅子へと戻り、ゆっくり腰を下ろした。そしてぽつんと立ち尽くす男を見上げる。
「あの女は、死んだよ。塀の中でな」
 観世音の口にした、それだけの言葉に、彼の表情は一瞬にして凍り付いた。血の気の引いた唇が戦慄いた。
「そんな……」
 男の絶望を前に、目を伏せる。
 死して尚、働かせるのは酷である。しかしそれが彼の犯した罪の報いだった。










天蓬(人間)の死んだ直後のお話。これから妖精化。最早宗教もボーダーレス。      2007/03/28