だらしなく座敷に投げ出された白い足が小さく身じろいで、くっと爪先までぴんと伸ばされる。敖潤の膝に頭を預けたままのんびりと伸びをしたその男は、だらしなくも横になったまま猪口に残った酒を舌先でちろりと味を確かめるように舐めた。それが気に召さなかったのかそれとも逆なのか、ころりと寝返りを打って仰向けになった彼は、その猪口を敖潤の鼻先に突き出した。一瞬面食らったものの、彼の突飛な行動には流石に慣れていた。彼の手からその猪口を受け取り、くしゃりとその艶やかな黒髪を撫でた。そうすると彼はいつものように心地よさげに目を細めて、差し出された白い手に頬を擦り寄せてくる。
 その気紛れな猫と週に一度の逢瀬を重ねるようになってからもうどのくらい経つのだろう。そう考えたのは何度目だろうか、と重ねて疑問が浮かび上がったが、自分に構えと言わんばかりに伸ばされてくる手にその思考はあっさりと断ち切られた。そう、確か前回こうして考えた時にも彼の手に遮られたのだった、と思い出す。硝子越しの深い珈琲色をした眸が蟲惑の光を宿して敖潤を見上げる。その目に見つめられると、面倒な考えなどどうでも良いような気分にさせられるのだった。すぐにその目を悪戯っぽく輝かせた彼は、態とらしく眉根を寄せて哀しげな顔をしてみせる。演技だと分かっているのに、彼の眸からは本当に今にも泣き出すのではないだろうかという痛切な悲哀が零れ落ちていく。何も零れてはいないその目元を拭うように指先で擽ると、彼はぱちんとその目を閉じた。
「嫌ですね。心此処に在らずですか。あなたの頭の中を占めるそれが憎いです」
「いいや。お前のことだけ考えていた」
 お口がお上手、ところころ笑って彼は敖潤の顎先を指で突付いた。その指先を掌の中に捕らえて、指を絡ませると、一瞬驚いたように目を見開いた彼はすぐに嬉しそうに、ふふ、と笑って大人しくなった。彼と自分とを遮るその硝子一枚が何だか急に邪魔に思えて、彼の顔からそっと眼鏡を取り外した。ぱちぱちと瞬きをしたものの彼はそれを止めるでもなく、眼鏡の行く先を目で辿っている。畳んだ眼鏡はそのまま踏んでしまわないように酒が運ばれてきた時の盆の上に載せた。眼鏡を外してしまっても、このくらいの距離であれば見えているだろう。今夜は、彼が自分の顔が見えなくなってしまうほど離れることはないのだから。
「お前が、いつからこうして私の元にやってくるようになったのかと考えていただけだ」
「そんな、考えるだけ無駄なこと。あなたらしくない」
 考えているだけで幸福なのだ、と正直に答えたらきっと彼はこのまま腹を抱えて座敷中笑い転げるだろうから、口を閉ざす。襖は閉ざされ、庭に向かって一方だけが解放された広い座敷の中には二人しかいない。敖潤は、心を華やかにさせるような女を侍らせることは一度もなかった。遊びに興じることも、酌をさせることもない。
 いつも、週に一度敖潤はこの茶屋を訪れた。その後を追って、気紛れに彼がやって来るのである。そのことを心得ている女中たちはいつも真っ直ぐに彼を敖潤の休むこの座敷に通す。格式高いこの茶屋には、客の噂話をするような下劣な女は存在しなかった。淡い微笑を浮かべながら、彼女らは仕事だけを全うしている。仕事中に見たもの全ては彼女ら一人一人の胸の中に沈むだけである。その働きこそがこの茶屋の品格を守っていた。そんな場所でもなければ、自分と彼のような立場の人間が簡単に外で会うことが出来るはずがなかった。特に彼は、ただでも始終噂の絶えない男である。彼がよくからかうように、事実堅物であるという自覚のある自分の耳にもそれらの色めいた噂は届いていた。他の者のようにそれを愉快に聴くことは出来なかったが。
 彼がその上官と、妻夫関係にある。その噂は満更比喩でもなさそうだ、という噂である。常日頃から自分と折り合いの悪い相手と彼との艶聞に、初めて耳にした時には頭の芯からさっと体温が冷えていくような感覚を覚えたものであるが、今はもうそれにも慣れた。それが事実であれ真っ赤な嘘であれ、自分にはどうしようもないことだ。彼は自分のものにはならないし、しかしこうした関係が続いている以上、あの男だけのものにもならないのだ。
 こうして月夜の晩だけこの腕に抱かれて、日の出る頃には“旦那”の元へと帰ってゆく。憎くは思わない。それは、始まる前から決まっていたことだ。それ以上のことは望まない。自分の元にだけいろだなんて、そんなことは言わない。彼には居場所があるのだ。此処――敖潤の傍を心地良いと思ってくれるから、こうして此処にいるだけである。そして満足したら元の居場所に帰ってゆくだけのこと。
「僕だって、覚えちゃいませんよ。そんなこと。気が付いたら、あなたの傍が一番心地良いと思ってたんです」
「……それは、有り難いことだな」
 一番、という言葉に胸が大きく鳴った。丁度、彼の一番になんてなれないと思っていたところだった。その真意を確かめたかった。少し浮かれていたのかも知れない。だから、いつもなら言わないような踏み込んだ言葉がつい口を突いてしまった。
「お前の一番心地の良い場所は、旦那の傍ではないのか」
 それまで機嫌が良さそうに敖潤の左手を玩具のように弄んでいた彼は、その言葉にはたと手を止めた。そしてその眸でじっと敖潤を見上げてくる。その眸の色の深さに、無感情さにぞくりとする。庭から吹き込んできた風で灯りがゆらりと揺れて、ジジ、と音を立てた。ぽい、と興味が失せたように敖潤の手を投げ捨て、ぞんざいに上体を起こした彼は、がりがりと頭を掻き毟りながら背を向けた。その背中に浮かぶのは明らかな拒絶で、声を掛けようと開き掛けた唇はそのまま凍った。長い髪が左右に流れて、白い項が露わになっている。状況も読まずにじわりと上がる熱を逃がそうと大きく息を吐くと、それをどう取ったのか、背を向けて拒絶を示していた彼はそろりと肩越しに振り返った。その目は拗ねた子供のような、恨みがましげな色が浮かんでいる。
「閣下とも在ろうお方が、李塔天如きと同等の下劣な発言をなさるとはがっかりです」
 咄嗟にその言葉の指す発言とは何か、と考えてしまったがそれは最前の自分の発言に他ならない。つんと尖らせた唇につい笑みを誘われる。眼鏡を掛けていないだけで彼の表情はいつもよりもぐんと幼く見えた。そんな表情で彼がぽつんとしているのが何だか淋しげで、畳に手を付いて座ったまま彼との距離を埋めた。彼は逃げることはない。それが触れてもいい時の合図だった。「済まなかった」と一言告げてから手を伸ばし、寸前で一瞬躊躇いが出た。しかしこちらをじっと見つめる一対の眸が早くと続きを急かすので、そのまま躊躇いを振り切ってその頭に触れた。丹念にそっと髪を梳いていると、拗ねた風な表情も消えてゆき、次第に肩越しに振り返っているのも辛くなったのか、膝の前に拳をついてくるりと身体を反転させた。しかしまだ機嫌は直っていないらしい。まだ不服げな顔で俯いている彼をどうしたものかと眉根を寄せた。
「どうしたらいい。私がこういったことが得意でないことくらい、知ったことだろう」
「……もう少し困った顔を見ていたかったんですが」
 ちろ、と上目で敖潤の顔を窺う様子には既に険は見られない。どうやらからかわれていたようだ。大仰に頭に手を当てて溜息をついて見せるものの、大して怒りも湧いているわけではない。ただ黙って笑って許してしまうのも釈然としないので、少しだけ困った振りをして見せるようにしているのである。叱られるかどうか、とちらちらこちらを窺っている彼の白い額を指先で軽く突き、そのきょとんとした顔で許してやることにする。
 すっかり元の様子に戻った彼は、再びころんと畳に転がり、同じように敖潤の膝に頭を預けた。全く気侭な猫と変わりない。ゆらゆらとその腰から黒く長い尾が覗いていても違和感を覚えないであろう。白いアンダーシャツに包まれた肩を撫でてやりながら言葉遊びのような会話を始める。彼から真剣な回答が得られるなどとは思っていない。
「ところで、いつ、李塔天からそんなことを」
「まあ、いいじゃありませんか。僕としても思い出して愉快な話ではないんです」
 はぐらかされた。しかしそれ以上深追いすることはしない。一度訊いて答えなければ、二度訊いても何度訊いても答えは出ぬままなのだから無駄なのだ。そのまま話を別な方向へと持っていこうとしたその瞬間、思わぬ言葉が放たれた。
「あなたは、どう思っていますか。僕と、彼の噂を」
「どう、とは」
「その、真偽を」
 その眸ははぐらかすことを許さない。そして嘘を吐くことも。真っ直ぐな視線を真正面から受け止めながら、迷いなく言葉を紡ぐ。
「私は、当然のように真実だと思っていた」
「正直な人」
「お前の前で取り繕うことなど出来ないと知っているからだ」
 また機嫌を損ねただろうか、と思いながらじっとしていたが、彼は起き上がるでも手を払うでもなく、じっと敖潤を見上げている。そのただの硝子玉のように感情を窺わせない眸に見つめられながら、いつも審判を待つ罪人のような苦さを味わっていた。そうして漸くぱちんと瞬きをして光を取り戻したその眸に安堵の溜息を漏らすのである。しかし決してそれは無罪の審判ではない。ただ最後の審判までの猶予が出来たというだけのこと。
 人に散々訊いておきながら彼は答えを口にしない。その噂の真偽を彼の口は語ろうとしない。どうでもいいと思った。彼があの男と関係を持っていようと、どうもしない。そうは思いつつも、元来反りの合わないあの男への反感が募るのは抑えられない。言葉にもついつい棘が混じる。
「彼の素行がどうであろうと、特別問題行動でなければ私の関知する問題ではない」
「いつもそうですね」
「何」
「僕と話していても、結局関心があるのはあっちなんだ」
 独り言を言うように呟かれた、予想もしなかったような言葉に驚いて下を見れば、彼はまた拗ねたように唇を歪めていた。しかし今回ばかりは演技ではなさそうに思える。しかし敖潤から距離を取るでもなく、しかし触れてくる手を嫌がるように身を捩った。
「手の掛かる方が可愛く思える――ですか」
「おい」
「ご希望とあらば今度彼を此方へ呼びますよ。僕が席を外しても構いませんがね」
「いい加減にしろ。やきもちならもう少し分かりやすく焼け」
 まさか敖潤の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったのだろう、驚いたように一瞬目を瞠った彼は、徐々にその言葉の意味を飲み込んだように顔を赤くしていった。それが最高潮に達したところで勢い良く上体を起こした。もう少しで顎に強烈な頭突きを被るところだったのを寸ででかわし、真っ赤な顔でこちらを睨みつける彼の頭を撫でた。それを振り払うことも忘れたように唇を戦慄かせた彼は、彼らしくもなく冷静さを欠いて噛み付いてきた。
「誰が、何で、誰にやきもちを焼くんですか!」
「本当に分からなくて訊いているのなら答えてやろう。そうでないのなら面倒なので割愛させてもらう」
 口から生まれたに違いないという彼のことである。今までに彼を言葉で言い包めることが出来たことなど仕事外では有り得なかった。それが達成された今、妙な充実感と優越感が胸に込み上げてくる。正面からじっと見つめてくる眸は興奮のためか僅かに滲んでいた。宥めるように頭を撫で、その滲んだ目元に軽く唇を落とす。珍しく反論出来ずに口篭って俯いている姿は可愛らしいといえば可愛らしいのだが、多少やり過ぎたかと罪悪感も感じてしまう。
「拗ねるな」
「拗ねてません」
 じろりと睨まれて軽く肩を竦めると、ぐいと腕を引っ張られた。何だと目で問い掛けても彼は知らぬ振りで腕を引き続ける。何が何だか分からないまま腰を浮かせると、そのまま腕を引かれて、座敷に引かれた布団の上に座らされた。そしてそのまま肩を後ろに押しやられ、倒される。されるがままに彼の動きを見守っていると、もぞもぞと彼もまたそのまま布団の上に転がり、敖潤にぴたりと身を寄せてきた。
「これ以上面白がってからかったら、殺します」
 甘えるように胸に頬を寄せながら言われてもまるで迫力がないが、この距離にあるからこそ緊迫感がある言葉かも知れない。この距離であれば、彼は自分を殺すことなど容易いだろう。精々殺されぬように口を閉ざすしかなかった。口を閉ざし、その黒髪を丁寧に指で梳く。胸元で彼がゆうるりと弱い息を吐く。胸元に熱が篭ってくすぐったくなったが身を捩ることはしなかった。
「僕は、他の猫を撫でた汚い手で触れられたくはないんですよ」
 彼は匂いに敏感だった。他者の気配という匂いである。たとえば自分が他の誰かと関係を持ったら、きっと彼は此処に現れなくなるだろう。気紛れにやってきて人の心を掻き乱すだけ掻き乱していく男のために操を立てるなど馬鹿らしいと、そう思えなくもない。そんなものは簡単に放棄してしまうことも出来る。しかし、それで彼に触れる機会を永遠に逃してしまうのならば、他の誰も欲しくはなかった。こうして腕の中にある温もりだけが、何物にも代え難い対価だ。
「私は誰も欲しくはない。お前以外は」
「――――本当に、お上手」
 その凛々しさと有能さ、そして従順さにまず心惹かれたはずだった。なのに今となっては、そのまるで人のことなど意に介さないその態度すら愛おしく思えてくるのだから不思議だった。いつの間にか勝手に作り上げた彼の虚像を愛していた。しかし今、腕の中にいるそれは紛れもなく、仮面も鎧も何もない、ただの男だった。殺しても死ななさそうな表側と、突付くだけで泣き出してしまいそうな裏側。彼を構成している一つ一つのピースを掌に集めていくうちに、作り上げた虚像は薄くなり、薄くなり、消えていった。それは決して幻滅ではない。厚い硝子板を挟んで見ていた彼は、確かに完全無欠の素晴らしい軍人に見えていたのだ。そして今見えている彼はそうではない。それは完全たる不完全であった。欠けていて、これでいいと思えるのである。
 片付けは出来ない。自己管理は出来ない。手の付けられない短気である。(手の掛かる方が可愛く思える)だとか何とか彼が言っていたようだが、それが自分に当てはまるとは思っていないのだろうか。お前ほどに手の掛け甲斐のある男はいないというのに。
 彼の表情を隠す前髪を掻き上げ、露わになる白い額に唇を寄せた。くすぐったそうに肩を竦める彼は、どうしてか少しだけ淋しげな目をしてぼんやりと自分の手の辺りをぼんやりと見つめていた。
「あなたに求められる僕は、果報者ですね」
 そんな顔で言われても嬉しさなど感じようもない。彼らしくもなくお愛想を言ったつもりなのだろうか。
「そんな言葉は必要ない」
「ならば何と」
「この晩だけでも、私を求めてくれればそれでいい」
 そう言うと、彼はふっと我に返ったようにぴくりと身体を揺らし、そろりと上目で敖潤の様子を窺ってくる。その叱られることを恐れる子供のような目にふっと心が和らいだ。猫をじゃらすように、顎の下をそろそろと撫でると彼は猫のそれのように目を細めて心地よさげに溜息を吐いた。この関係の不可解さなど自分が一番よく分かっている。だから、無理に型に嵌めたくはないし、体裁を取り繕うようなことばも要らなかった。本当に欲しいのは誓いだった。この日々が途切れることがないという誓い。しかしそれはきっと彼を縛ることになるだろう。束縛を疎んだ猫はきっと来なくなる。
 どこまで彼に望んでいいのか。そもそも望むことが正しいことなのか分からない。
「いつだって、欲しいです」
 あなたのことが、と掠れた吐息混じりの声で囁かれる。柔らかい息が首筋を撫でて、熱を身体中に移していく。そうやって、誰にでも囁いてみせるのか。枯渇しきった彼の身体と心は、満ち足りることを知らない。愛を知らなかった彼が新しく覚えた熱に夢中になっているのが分かる。それを教えたのが誰なのか、見当も付いている。しかし、だからといってどうして自分のところにやってきたのか。どうして自分でなければならなかったのか。他の誰にも彼に与えられないものを、自分だけは与えられるのだと、少しだけ自惚れてもいいのだろうか。自惚れるのは自由だ、しかし傷付くのも自分である。
 与えられるものなら何だって。自分は、彼がそこにいるだけで全てを受け取っている。
 火照った白い頬を指先でなぞると、少しだけ甘えたような目で見上げられて、全てを放棄したくなった。欲しいものを何だって持っていけばいい。いつもは軍服の内側に隠れているぴたりとしたアンダーシャツ一枚だけで身を包んでいる様は、普段大きめの白衣に身を包んでいるだけに余計に身体を華奢に見せている。
 彼の肩を押し遣り、布団の上に仰向けに転がした。驚いたように、どこか呆気に取られたように目を瞬かせていた彼は、上に圧し掛かられる段になって漸く頬を緩めた。媚びる笑みではない。純粋に、遊んで貰えることを喜ぶ子供のようなあどけなさすら覗く純真な目だった。そうして彼は嬉しそうに敖潤の首に両手を回した。と、ちらりと彼の目が横に逸れた。その視線の先を辿って横を向く敖潤に、彼はちょいちょいと指先で示す。
「服、脱いで欲しいなあ。とげとげが痛いので」
 それに重そう、と呟きながら彼は指先でつんつんと敖潤の肩を突付く。着慣れているので慣れてはいるが、確かに重量はかなりあるであろう。自分が重たいのはどうでも良かったが、彼に当たって怪我をさせてしまってはそれは良くない。ぱちん、ぱちんと敖潤が身を包む装具を一つ一つ剥がしていくのを、彼は嬉しそうに見つめていた。裸になっていく。即ち彼と自分を隔てるものがなくなっていく。自分の身体は好きではなかったけれど、彼が触れて嬉しそうに笑うのなら、満更価値がないわけでもないらしいと少しだけ嬉しく思った。自分の紙のような白さと、彼の透き通るような肌の白さは違う。重ね合わせた掌を見ながらいつもそう感じるのだが、どこからかその二色が混ざり合っていくことを願ってしまう。
 空気に晒された上半身に、優しい夜風が吹いてくる。ぱさりと布団の横に落とされたシャツの音を合図に、そっと手を伸ばして敖潤の裸の肩に触れた彼は、ふふ、と嬉しそうに笑って頬を緩めた。首に回された両腕に引き寄せるような力が加えられたのを感じて、彼の両脇に肘を付いて距離を狭めた。
「月明かりで、すごく綺麗です。あなた」
 背にした月は、満月だ。庭の草木が微笑むようにさわさわと鳴いて、柔らかい風を運んでくる。吹く風が彼の前髪をそよそよと揺らして、火の灯りを揺らして、部屋中の影がざわめいた。彼の指の背がそっと敖潤の頬を撫でる。そして本当に嬉しそうに、あどけない子供のように微笑む。どうしてそんなに嬉しいのだろうか。彼の顔に手を伸ばし、指先で頬を撫でる。肌理の細かい滑らかな肌に指を這わせ、軽く爪を立ててくすぐると、彼は小さく吐息を漏らして笑った。柔らかな吐息が手の甲に掛かり、ぞわりとどこまでも熱を伝播させてゆく。このまま、彼と同じ温度に染め上げられていく。
「本当に、嬉しい」
「何が」
「僕を求めてくれる人が、いることが」
 お前を求める者など幾らでもいるのではないのか。口を突き掛けた言葉がそのまま放たれることなく胸の奥に落ちてくる。言う必要のないことなら言わなくていい。彼は敖潤が自分のことを求めてくれるのが嬉しいのではなく、誰でも良いから自分を求めてくれる人がいることが嬉しいと言った。自惚れてはならない。彼は、誰でもいいのである。元帥ではない、誰かの代わりでもない、唯一人、天蓬という男だけを欲する相手ならきっと誰にでも無邪気に喜んでしまうのだろう。それこそ、どんな手酷い行為を強いられようとも、先程までのように嬉しそうに微笑んでいるのだろう。現に、今彼は本当に幸せそうに微笑んでいるではないか。憐れで、憐れで、それ故に哀しい程に美しい男だった。
 彼のアンダーシャツを首までたくし上げ、露わになった胸元に顔を寄せる。外気に触れて固くなり始めた淡い色の突起に舌を這わせれば細い身体はびくんと小さく震えた。案外簡単にスイッチは切り替わるものだ。いつも清潔な顔をして人並の欲望など持ち合わせているのだろうかと些か不安になるような清廉な軍人は、至る箇所に仕掛けられたスイッチに因って、香り立つような色香と艶を持つ淫らな男へとシフトする。ちらりと彼の表情を窺ってみれば、引き出された官能に目を潤ませた彼が期待と僅かな不安に打ち震えながら敖潤を見つめていた。その潤んだ眸が次々にスイッチを切り替えてゆく。連鎖するように一気に陥落させられる。
 この男は狂っている。しかし、その狂宴にこうして酔っている自分こそ、真に狂っているのではないだろうか。
 正常に戻るつもりなどなかった。彼と共に落ちるのならばそれも良かろうと思ったのだ。こうして褥で絹も纏わず重なり合っている時点で、所詮彼も自分もただの獣に過ぎない。ならばこのまま全て捨てて、朝日が我等の理性を連れて、彼を連れ戻しに来るまで。








 鳥の鳴き声が聞こえる。もうすぐ日の出だった。昨晩、彼が眠りに就くまで散々抱き潰した。しかし、日の出と共に彼は身支度を整えて茶屋を出てゆく。彼はここを敖潤と共に出たことはなかった。いつも先、それも日の出切ってしまう前に、眩しい朝日から隠れるようにして帰ってゆくのである。敖潤が眠っていることを注意深く確認して、暫くその寝顔を見つめた後に、ゆっくりと足音を立てないようにして座敷を出る。それまで敖潤は寝ていたことはなかった。彼が出ていく様子を神経を張り巡らせて具に感じ取っていた。今日もそろそろ眠った振りをしていなければならない。彼のことだから寝た振りにも気が付いているだろうけれど。それもいい。
 布団に身を横たえ、目を伏せる。烏の鳴き声を聴きながらゆっくりと時の経つのを待った。そのうちゆっくりと眠りの波が打ち寄せて微睡み始めた頃、自分の横にあった温度が小さく身動ぎをしたのに一気に意識を引き戻された。それでも瞼は伏せたまま、そっと隣の温度の動きを探る。暫く布団の中で身動ぎをしていた彼は、ゆっくりと身を起こして小さく息を漏らした。そして布団を出てそそくさと辺りに散らばった衣服を身に付けていく。捲られたままになっていた布団の端は元に戻され、彼の残した温度と香りが閉じ込められた。着替えを早々に済ませた彼は、ぱんと膝を払って立ち上がった。ああ、去ってしまう。そう思った瞬間、僅かな衣擦れと軍服に付いた金具がぶつかる微かな音がして、顔の辺りが影に包まれた。そして、先程まで横にあった温度によく似たそれが近付いてくるのが分かった。右の瞼の上に落とされた柔らかな濡れた温度に、無意識にぴくりと瞼が震えた。それをどう思ったかは分からない。彼が小さく笑ったのが分かった。それに続いて彼が立ち上がる音が聞こえ、キシ、と畳が撓んだ。僅かな振動と共に覚えのある温度が離れてゆく。すうと襖が開かれ、僅かな間を置いた後に同じようにゆうるりと閉じられた。トン、というその音に思わず深く息を吐いた。しかしまだ瞼は開けずにいた。まだ僅かに残った、彼の温度を感じていたかった。
 やがて、布団に残された温度は消え、手を伸ばして触れてみても、そこにあるのは自分の温度だけだった。その激しい喪失感を太陽は突き付けてくる。ゆっくりと瞼を開けた。閉じられた障子の向こうには今正に輝かんとする太陽の姿があるだろう。敖潤は身を起こして、座敷に脱ぎ捨てられたシャツに腕を通した。キシ、キシ、と微かな音を立てながら障子に向かい合い、その縁に両手を掛けた。すう、と両に開けば、産まれ来たばかりの太陽が敖潤の紅い目を射た。反射的に目を細めると、自然睨み付ける格好になる。
 今の今まで、理由もなく、太陽とは全ての源、希望の象徴だと思い込ませられてきた。しかし、何だ。この、伸ばした手が虚空を掻くような言葉に尽くせない喪失感は。太陽から与えられたそれはあまりにも残酷だった。
 今頃、あの本に埋め尽くされた部屋へと帰っていっているであろう彼のことを思った。太陽の残酷な光を背に、彼はどんな表情をしているだろう。全てを覆い隠した、いつもの温和で清潔な微笑みは既に完成させられているだろうか。彼がいつもの、窓辺の椅子に腰掛けた時、元帥としてのスイッチに切り替わる。昨晩に見せた痴態などまるで感じさせないその気高さを、最初は愛したはずだった。しかしそれは太陽から与えられた彼の仮面でしかなかった。太陽は彼に与えた。地位と、理性と、あらゆる義務を。それに屈しそうになる彼のために与えられたのが、様々な仮面。それは太陽が落ちると共に溶けてゆくのである。
 早く月が出ればいい、と思った。雲が出ればいい、と思った。彼のために、どうかその死の光を覆い隠せ。

 太陽は嫌いだ。どうしてそうやって責めるように彼の背を照らす。










捲天前提かっていうとそうでもない。周りの誰から見ても出来てるように見えても実際は出来てないとか。でもやっぱり出来てるとか。どっちでもいい。
浮気し放題な捲簾に疲れた天蓬が時々一途な愛を求めて…っていうのでもいいなと思います(今思い付いた) 個人的に復讐作品。
2008/08/07