「たとえばの話、ですよ」
 静かな部屋に、風の吹く音だけが聴こえる。桜の花弁が時折舞い込むのを、細めた目で眺めていた。
「もし、恋人より先に自分が死んだとして、相手がその後誰かと恋して結婚するって、どんな気分だと思います」
 耳に心地好い柔らかな声色が、耳元を撫でる。窓辺でうとうととまどろんでいた捲簾は、その声にゆっくりと瞼を押し上げる。
「……何だ、急に」
 目を開けた先で床に座り込んでいる男は、視線を手元の本に落としていた。そのページを一定間隔で静かに捲りながら、ずり下がりそうな眼鏡を気だるげに中指で押し上げている。美人は三日で飽きるという。しかし本物の美人はそんなことはない。ころころ変わる表情と、そのよく出来た容姿は見飽きることはなかった。そんな風に思っている間にも彼の唇はゆっくりと動く。
「いつまでも悲しさを引き摺って欲しくないから、幸せになって欲しいから、それでいいって思うのか。別の人と結婚出来るくらいにしか自分を好きじゃなかったのかって悲しく思うのか、の二択でしょう」
「……」
「好きだから他の人とでも幸せになって欲しいって思うのか、好きだから他の人とは結婚しないで欲しいって思うのか、ってことですよね。仮に女から女へ渡り歩くようなあなたに、この人だけは失いたくないと思うような相手が現れて、そして運良く結ばれたとして。あなたがうっかり死んだ後、その人が別の男と結ばれて幸せな結婚をするんです」
「……」
「ね。あなたならどっちですか」
 生前誰よりも愛していた人の新たな幸せを、願い、祝福出来ますか。



++++



「……」
 夢か、と捲簾はまだ暗順応しない目を凝らして、天井を見つめた。まだ外は暗い。訓練からの疲れで、呑みにいくこともいつもの部屋へ行くこともしなかった捲簾は、いつもの時間よりずっと早くに床に就いていた。きっと早く寝たせいで早く目覚めてしまったのだろう。しかし起き上がる気分にもなれなくて、布団の中でじっと天井を見つめたままいた。
 この夢は、随分昔のリプレイだ。それこそ、捲簾が西方軍に飛ばされてすぐの頃の話。例の如く部屋の片付けを手伝わされて、疲れて彼の人の部屋の窓辺で休んでいた時のことだ。床に座りこんで本を読んでいた彼が突然捲簾に問いかけてきたことから始まった短い会話。数分間だけの短い会話の内容なのに、どうしてかくっきりとそれは頭の中に残っていた。夢の内容なんて目覚めてしまえばすぐに忘れるようなものなのに、彼の物憂げな表情からその甘めの声が耳を撫でる感覚まで全てリアルに身体が覚えている。

『――――……誰よりも愛していた人の幸せを……』

 今でこそこういう関係に至っているが、その頃、単なる一部下でしかなかった自分にそんなことを訊いた彼の意図はどこにあったのだろう。いや、意図などありはしないのだろう。単に気になったから、というそれだけのことだ。そもそもあの頃はそんなに近しい仲ではなかったのだから、彼のデータ収集に付き合わされたとかそれだけのことだ。
 そういえば、彼自身はどう思っているのだろう。愛した人が、自分の死後に別の人と結ばれること。今彼と付き合っているのは自分だ。自意識過剰でもなく、愛する人、というのは自分を指すはずだ。多分。そうであってくれなければ、困る。正直なところ、今でもあまり彼のことを解っていない気がする。想いを通わせて付き合い始めて、長い時間が経ったのにも拘らず、もしかしたら彼は自分が思うほど愛してくれていないのではないか、と思うことがある。そんなことを思うのは初めてだった。恋人に愛されるというのは大前提だ。愛されることはそんなに珍しいことでもなく、心の底から深く望むほどのものではなかった。
 たとえそれが偽りであっても、甘い言葉と甘い雰囲気、そして快感の伴う行為さえあればよかったからである。そんな自分が形振り構わず誰かの愛を得るために奔走する羽目になるなんて。ベッドの中で天井をじっと見つめていた捲簾は、上掛けを跳ね除けてゆっくりと起き上がった。





 僕が死ぬ瞬間まで、優しい嘘を吐き続けて下さい
 僕が息絶えるまで、お前だけだって、愛してるって言って、僕に信じ込ませて下さい
 その後は自由 僕が死んだ後、あなたが誰と愛し合おうと、僕はその時には何も言えない身体になっているはずだから





「――――――……」
 夢か、と天蓬は、ゆっくりと瞼を押し上げた。ぼんやりと暗い室内が目の前に広がる。最後に意識があったのは昼だったから、もう随分と長く気を失っていたようだ。横になっていたソファから起き上がって部屋を見渡す。あちらこちらに本が散らばってはいるが足の踏み場はある。綺麗な方だ。
 そうだ。夢に見たあの場景も、こんな乱雑な部屋の中でのことだった。下界に降りた折りに買って来たある小説。その本を読んでいた時、丁度あの男が部屋にいたのだ。もし、彼だったなら、一体どうするのだろうという純粋な興味があった。
 所詮、永遠や不動の愛など存在しないのだ。心は移ろうもの。彼もきっとそう言うだろうと思っていた。
『死んだ後のことなんて分かんねえだろ』
『気分の問題です』
『気分が好いわけねえだろうが』
『?』
『俺はそんなに心が広く出来てねえからな。死んだ後、相手が誰かに惹かれるのは止められねえけど、祝福はしない』
『この小説の中の妻は、最期に夫に宛てた手紙で“自分のことを引き摺らないで誰かと幸せになって下さい”って、書き残すんですよ』
『ふーん、優しいこった』
『そしてその通り、夫はその意思に沿うままに出会った女性に惹かれて、結婚するんです』
『……わっかんねぇ』
 その日の彼は、そう言ってがりがりと頭を掻いた。思ったよりも一途な男なのかも知れない、とその日、彼についての見解を一部修正した。ただの女たらしとは違うらしい。そして、彼にそこまで愛される女性とは一体どんな人だろう、と純粋な興味が湧いた。彼が何もかも捨ててまでひたすらに追おうとする人。
 そんな風に、あの頃の自分は客観的に彼を見ていた。少し離れた場所から、観察するかのように。あの頃はまさか自分が当事者になるだなんて思いもしなかったのだ。それから幾らか経って、想いを告げられて、冗談かと思って暫く放っておいたら返事を待ちかねた彼が突然キレて襲いかかってきた。全く以って猛獣のような男だった。扱い易いように見えて手が焼ける。かと思えば笑顔は子どものようで、それを見ると、それ以上小言を言う気にもならなくなってしまうのだ。うまく誤魔化されている気がしなくもない。その笑顔だって、いつまで僕に向けられるか分からないではないか。臆病で臆病で、いつまで与え続けられるのか分からないような不安定な愛情には縋ることが出来ずにいる。
 キシ、と軋むソファに力を入れて立ち上がる。静かな世界にひとりぼっちになったような錯覚に襲われた。





 先に死ぬなら黙ってその先で待ってろ 後から死ぬならさっさと来い
 お前が先に逝ったら、すぐにお前の隣に行ってやる 飽きっぽくて淋しがりやのお前の目が他所に移る前に
 お前は俺だけ見てればいい どの世にいたとしても





 目が冴えて眠れない。かといって本を読む気にもなれなかった。そろりと二階の窓から飛び降り執務室を抜け出し、いつもの桜並木へと向かった。夜の闇にぼんやりと白に僅かに紅を溶かしたような色の花弁が浮かぶのが幻想的だ。決して散らないわけではない。散りはするが決して絶えることはないその花たちは、圧倒的な存在感を誇って闇の中に立ち尽くしている。その大木を見上げて、天蓬は便所ゲタを脱いだ。そして靴下も脱いで木の根元に投げ捨ててしまう。そうして再び身体を起こした天蓬は、目の前の大木を見上げて、一息吐いた後、ゆっくりとその木に手を掛けた。裸足の足の裏に木の皮が少しだけ痛かったけれど構わず上へ上へと登って行く。
 最近はしなくなっていたその行為。しかし眠ることが出来ず、本も手につかない。本当はそんな時にどこにいけばいいのか、分かってはいたのだがそれも出来なかった。それをする勇気がなかった。甘えたい。甘えられない。甘えてしまってそれなしで生きられなくなるのが怖い。自分がもう少し怖いもの知らずだったなら、何も考えずに彼の胸に縋って、泣いて、甘えることが出来ただろうか。どんな自分でも彼なら受け止めてくれるだろうことを知っていた。その優しさが痛い。
 不変の愛が欲しいと、強請ってしまいそうになる。
 手足に少し擦り傷を負いながらも何とか木の上に辿り着き、力尽きたように木に凭れる。久しぶりの木登りはなかなかにきつい。歳かな、と呟きながら腰を擦る。昔はもう少しすいすいと登れた。あの男が自分の前に現れる前の頃。ふらりと現れた彼は、そのうち天蓬が一番気に入っていた木の上を占領するようになった。何も知らない彼に自分の場所だと言って追い出すことも出来ずに、そのうち天蓬は木に登らないようになっていた。もしあの頃に戻れたなら、こんなばかげた、悲しい恋をしてくれるな、と当時の自分に言い聞かせたい。
 僕はもう二度と恋などすることはないだろう。

「――――天蓬?」
 その声に、思わず息が詰まって天蓬が咽ると、声の主は慌てたように木を登ってきた。立派な大木ではあるが、大の大人二人を載せてそれは少しだけ軋んだ。
「どうした、具合悪いのか」
 下の方からひょっこりと現れた黒い短髪に、胸が思わず詰まったような気分になった。息が苦しい。
「いえ、……どうしてここに」
「いや、ちょっと目が覚めて。二度寝出来なくて」
 返答に困ったように頭を掻く彼に、天蓬は軽く首を傾げる。まさか、自分の部屋に来たのだろうか。そんな風に考えていると、それを悟ったように捲簾は少しだけ視線を逸らしながら言った。
「……んで、お前の部屋行ったんだけど、誰もいないし」
「あなたは、眠れないと僕の部屋に来るんですか」
「お前の間抜けな寝顔見たら寝られるかなぁって」
「残念でしたね」
「……いや。いいや」
 そう言うと、勢い付けて腕の力で上に上がってきた彼は、天蓬とは逆側の太めの枝に足を乗せた。そしてその枝に座り、天蓬をじっと見つめてくる。その視線に何だか居た堪れなくなって、天蓬は曖昧に笑った。
「夢、見てた」
「……そうですか」
 心を見透かしたような言葉に思わず振り向いてしまいそうになって、天蓬は必死に平静を装った。
「お前がさ、もし自分が死んだ後に恋人が別の奴とくっ付くってどんな感じだろうって、訊いて来た時の」
 その言葉に、今度こそ木から転がり落ちそうになってしまった。ぎゅっとその木の幹を掴む手に力を込めて、彼と視線を合わせないようにしながら口元に笑みを浮かべた。目を合わせたら、心の動揺を悟られてしまう。
「なあ。お前が好きなのは、俺だろう」
 そんな余裕のない様子の言葉に、ゆっくりと顔を上げる。すると、存外真剣な眸と目が合って、その強い視線に呑まれるようになりながらも曖昧に微笑んで小首を傾げた。
「どうしたんですか、捲簾」
 そんなのらりくらりとした返答に、一瞬言葉に詰まった様子の捲簾は口を噤んだ。そして再び、ゆっくりと開いた口からは想像もしなかったような弱音が零れた。
「なーんか、自信なくなっただけ」
「……」
「なんてな」
「あなたにそんなことって、あるんですねえ」
「あるよ、繊細だからな」
「笑わせないで下さい」
 むっとした顔をした捲簾だったが、それが冗談だと解っているから笑い飛ばしてしまえる。どこか切羽詰ったような顔をしていた捲簾に笑顔が戻ったのを見て少しだけほっとした。そしてそんな自分を気持ち悪く思う。
「好きですよ」
 もう二度とこんな恋は出来ないだろう。出来なくていい。この言葉に乗せられた重い気持ちに彼が気付きませんように。
 好きだった。こんな軽い言葉で表すことなんて出来ないくらいに。何て伝えたらいいのか、伝えない方がいいのか、そんな小さなことにも臆病になるんです。そしてそんな自分が気持ち悪くて大嫌いで仕方がない。ぽつん、と呟いた言葉が、桜の花弁の舞う中でやけに鮮明に響いた。もしかしたら、気付かれてしまったかもしれなかった。
「――――好き、ですよ」

 自信過剰のどこが悪い。自分の可能性を信じてやれなくなったらそれこそ終わりだろう。そんな自分が自信を失うという経験をするだなんて、昔の自分が知ったら絶望するだろうか。するだろう。しかし、不思議なことに後悔はなかった。囚われている今の状態があまりにも甘美だからだ。蜜の味を覚えてしまったらもう逃げるつもりはなかった。逆に、吸いつくしてやろうと思っている。
 捲簾は顔を上げて、自分の自信を根こそぎ攫っていった男の顔を見上げた。これだけ整っていると、妖の類と思えなくもない。
 なあ、俺のこと好きだろう。そう訊くと、仕方のない子供に対するように微笑んで、好きですよ、と返してくれる。嬉しいけれど、欲しいのはそんなものではない。
「……なあ」
「――――はい?」
「お前が昔俺に訊いたこと、あっただろう。お前はどう思うわけ」
 もしお前が先に死んで、俺がその後ホイホイ他の女とセックスしてたら、どう思うんだ。どうでもいいって、それだけの思いなのか。祈るような思いで、彼の唇が動くのを見つめた。
 喉が乾く。
「……あなたには、幸せになって欲しいです」
 胸の奥からひんやりと冷えた気がした。ここがどこかも忘れて、彼の両肩を掴んで揺さ振ってしまいたかった。俺にはお前しかないのに。急に捲簾を取り巻く空気が変わったのに気付いたのか、天蓬はゆるりと微笑んで、少し困ったような眸で捲簾を見つめた。
「どうして怒るんですか」
「誰が怒ったよ」
「あなたが……」
 そこまで言って、天蓬は言葉を切った。そしてゆっくりと手を伸ばし、捲簾の髪に指を絡ませた。その一本一本すら愛おしむように。
「好きです」
「誤魔化すな」
「嘘を吐いていて下さい」
「……は」
 前後の脈絡のない言葉に、思わず捲簾は素っ頓狂な声を上げた。しかし天蓬は極々自然な顔をしている。そして、いつものように、挨拶をするように柔らかな声で言葉を続けた。
「僕が息絶えるその瞬間までずっと、嘘を吐き続けて下さい。僕だけだって、他の人となんて一緒にならないって、僕の息が止まって心臓が止まって全身の機能が停止してただの肉塊になってしまうまで、言い続けて、信じ込ませて下さい」
「てん……」
「他は、なんにもいりません。僕の亡き後誰と付き合っても構いません。誰とキスしても、セックスしても。身を固めることだって何ら悪いこととは思えません」
 何を、言っているんだと思った。実は今目の前にいる男は桜の見せた幻覚で、捲簾の良く知る天蓬という男ではないのではないかと思ったのだ。だって、彼がこんなことを口にするなんてことは。
「あなたに、僕を最後にして欲しいなんて願いません。だからせめて、僕の最後の人になって下さい」
 ああ、やっぱりこれは幻覚だ。こんな、こんな都合のいいことを彼が言うはずがない、思っているはずもない。捲簾の髪を弄っていた天蓬の手がするりとすり抜けていくのを見て、思わずそれを掴んでいた。
「……もし今お前が冗談ですとか言ったら、本気で嬲り殺しにするかもしれねえな」
 翻弄されるのは嫌いじゃない。だけど、冗談で糠喜びさせられるのは大嫌いだ。掴んだ彼の手首に力を込めると、彼は痛がるでもなく不思議そうな顔をして、捲簾の目を見つめてきた。臆することのない真っ直ぐな視線を受ける。
 そうだ。余計なことは考えず、俺だけ見ていればいい。
「そんなに俺喜ばせて何がしたいわけ。何か欲しいもんでもあんのか」
「捲簾」
 きょとんと黒目がちの目を瞬かせる彼に、にやりと笑ってその右手首を掴んだまま木の幹に身体を押し付ける。きしりと枝が揺れた気がした。このまま二人で落ちるかもしれないけれど、木の下は散った花弁がたっぷりと敷き詰められている。少しくらいは衝撃を吸ってくれるだろう。二人で落ちるならそれも悪くない。何が何だかよく分からない、というような視線を向ける彼に顔を寄せて、左手を頬に添えた。大して肉が付いているわけでもなく女のように柔らかいわけでもないが、滑らかで肌理の細かい肌に指を這わせる。
「わざわざ心配して頂いた後で悪いけど、そんな心配いらねえよ」
「え」
「先に死んだら、その先でちょっと待ってろよ。すぐ隣に逝ってやるから」
 ゆっくりと、濃い鳶色の眸が見開かれる。ひらりとその前を桜の花弁が過ぎっていく。ひらりひらりとそれは彼の髪や肩に積もっては、重さに耐え切れなくなって下に落ちていく。
「お前、結構淋しがりだもんな」
「な……」
「飽きっぽいし」
「な、そんなの何の関係が」
 突然並べ立てられた言葉に天蓬はいつもの勢いを取り戻して捲簾に食いかかってきた。それに笑って、彼の頭を撫でる。
「早く行かなきゃ、忘れられちまいそうだし」
「……」
「俺にはお前だけなんだ。お前にだって俺しかないだろう」
 そう言って抱き寄せてみれば、最初硬直していた彼の身体が段々と弛緩していく。
「どうしてこう」
「あ」
「僕はこんなに馬鹿なんでしょう」
「分からん」
「そんな僕のことをそんなに好きなあなたは、もっと馬鹿です」
「まあな。お前のためなら馬鹿にもなるさ」
 彼を手に入れるためなら女好きという通称を返上することだって、同性愛への拭い切れない違和感をさっぱり忘れることだって出来た。もう出来ないことなんてない。
「……あなたはもう十分利口ですよ」
「お。久しぶりに褒められた」
「褒めてません」
 ばっさりと言い捨てて、彼は捲簾の腕の中でふいと顔を背けた。本気で怒ってはないだろう。今本気で怒ったらこのまま木の上から突き落とすくらいのことはしそうだから。
「それと」
「ん」
「死ぬ時は連れてくから。俺」
「大人しくついて行くと思いますか」
「思わない。だけど、その頃どうせお前も死ぬ寸前だろうから」
「……まあ」
「もしそうなったら、俺はお前の部屋にも行けないし、片付けだって出来ないし、こうやって抱くことも出来ない」
「……暇になるでしょうね」
「俺も、お前がいなくなったら暇になるわ」
「じゃあ、いてください」
「いるよ。ずっと」
 暫く木の上で捲簾にしがみ付く格好になっていた天蓬は、ふと大きく欠伸をした。それを、微笑ましげに捲簾が見下ろす。
「そろそろ眠くなったか」
 しかし、天蓬はふるふると首を振って、額を捲簾の胸にぶつける。そしてじっと捲簾を見上げて、見つめ始めた。これは、いつもの何かをねだるときの目だ。
「夜はまだまだこれからでしょう」
「あ?」
「捲簾、したくなりました」
「……あ!?」
「駄目ですか」
「……どうしちゃったのお前。や、嬉しい、嬉しいから撤回はなしな」
「しませんよ。とにかく、あなたが欲しいです」
「ここで?」
「それもスリルがあっていいかもしれませんけど、あなたに突っ込まれたまま転落死ってのもあれなので部屋に戻りましょう」
 そう言うと、天蓬は捲簾の身体を押し退けて先にするすると木を下りていく。それを呆然と見ていた捲簾は、下から名前を呼ばれて我に返った。そして次に続けられた言葉に焦って木を下りた。
「……ガマン、出来ないんですけど」

 大人しく木を下りていくと、天蓬は裸足で便所ゲタを履いていた。靴下が適当に白衣のポケットに突っ込まれている。ぼうっと自分を見ている捲簾に気付いたように、天蓬は顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「お部屋まで運んで下さい」
 語尾にハートマークの付きそうな調子で言われて、それでも悪い気がしないのはもう惚れた弱みとしか言いようがない。それが彼流の不器用な甘え方だと知っているから尚更だ。
「……はいよ、姫様」
 そう言って、彼の背中と膝裏に腕を回して抱き上げる。彼の細い腕が自分の首にするりと巻き付くのを感じて、一層力を込めて抱きしめた。痛がるわけでもなく彼は少しくすぐったそうな顔をして、捲簾の短い髪に頬を擦り寄せた。

「とりあえず、やれるときにやっておきましょう」
「案外即物的ね」
「まさかあなたに言われるとは思いませんでしたね。だってキモチイイことは好きですし」
「同じく」
 にやりと笑って、捲簾は我侭な彼を満足させるべく桜の木に背を向けて一歩踏み出した。


(お前と同じ時を過ごすことが出来たことが、唯一神に感謝すべきことかもしれない。)













キャラが、愛する人を失った後再婚するっていう筋書きについて、でした。現実や純文学とかならいいんですけど、二次ではちょっと苦手。
折角二次なんだからみんなを幸せにしたいのです。死ぬキャラのことを考えると哀しいので。
BGM : 宇多田ヒカル 「Be My Last」 / 平井堅 「LIFE is...〜another story〜」       2006/5/31