うちのベーカリーショップは商店街の端にある。そこに半年くらい前から週に二回、少し変わった客が来るようになった。革の鞄を持った、如何にもサラリーマンらしい風体の、綺麗な顔をした眼鏡の男だ。買うのは決まってホテルブレッド一斤だけ。釣り銭を落としたのを拾ってやった時、一度だけ声を聴いたことがある。「ありがとうございます」と心地いい静かな声に顔を上げると、如何にも温厚そうで綺麗な笑顔を向けられて一瞬口篭った。やっと復活した頃には既に彼は踵を返していて、丁度正面の自動ドアが閉まったところだった。
 それで、と言うかそれだけのことで、自分は毎日、彼の訪れる七時過ぎには厨房を仲間に任せてレジに立つ。無論、彼がいつ来てもいいように、だ。何でこんなことをしているんだと思うことがなくもないのだが、待ち焦がれる気持ちがそれより遥かに勝っていた。そして今日も、レジから無意識にあの綺麗な姿を目で探す。笑わずにいるといっそ冷ややかとも思えるような面差しに、それを更に増幅させる眼鏡。背は決して低くないが大柄な雰囲気は与えない。女と見間違う、と言うほど女々しい顔立ちでもないが、男にしては線が細く綺麗だ。……というのが、日々会計の間の十数秒間でその容姿を観察した感想だった。
 時計の針が七時半を指す。仕事帰りの会社員、部活の終わった学生などが店に訪れてはいくつかパンを買い求めていく。売れ残ったパンは自然、自分の夜食、朝食となるため少しそれも気にしつつ、常に意識を入り口へと向けていた。しかしその日、彼が来店することはなかった。そんなこともざらだった。週に二回とは言っても彼の来店は不定期で、パンがなくなったら買いに来る、というかたちらしい。
 そうしているうち、閉店時間が訪れて店の片付けを始めた。そして、明日は来るだろうかとぼんやり考えた。毎日餌を貰いに来る野良猫が珍しく姿を現さない、というような僅かな不安に駆られる。そしていつも(何を考えているんだ)と自己嫌悪に陥る羽目になるのだった。何がそう、そんなに気になるのか分からない。しかしどうしても目があの姿を探した。
 次の日も、変わることなくパンを焼く。目新しいものもいいが、変わらないからこそいいものもある。いつもと変わらぬ姿に味。変わってしまったら、ひょっとしたら彼はもう買いに来ないかもしれないし。オーブンの熱さに僅かに目を細めつつ、頬を擦った。土曜日の夕方。しかし彼は大概休日には訪れない。だから気を抜いていたのだけれど。
「捲簾、焼き上がりまで少し休憩したらどうだ」
「あ、すんません」
 オーブンの熱で火照った頬を手で扇ぎながら、厨房に入ってきた店主に促されて厨房を出た。そして外の販売スペースを抜けて、隣接している小さなカフェへ向かった。買ったパンやケーキをそのまま隣で食べられるようにしてあるのだ。カウンターに置かれた、ドリップされているコーヒーをカップに注いでから店に一番近い席に腰掛けた。休憩の際に店員がコーヒーを飲むのは自由なのである。そしてちらほらと店に入ってくる客を眺めながら、ぼんやりとカップを傾けていた。その中に見慣れた綺麗な顔を見つけるまでは。
 涼しい顔をして店に入ってきた彼は、土曜の夕方だというのにいつもと同じスーツ姿だ。珍しく髪の毛を後ろで括っている。その彼は歩きながらきょろりと店内を見渡して、そのまま店を出ていこうとした。焦って腰を浮かせ掛けた瞬間、いつも彼が入り口から真っ直ぐに向かう場所の、空になったトレーが目に入った。いつも彼が買うのはホテルブレッド。今そのパンは売り切れていて、焼いている最中だった。
 カップを置き、出口へ向かう彼の後を慌てて追う。そして彼の足が自動ドアのマットを踏み掛けた瞬間、「あの」と声を掛けた。すると彼は不思議そうな顔で静かに振り返った。その時、初めて真正面から顔を合わせたような気がした。
「……何でしょう」
「あの、ホテルブレッドをお求めでしたら、あと十分ほどお待ち頂ければ焼き立てをお渡し出来ますが」
 そう言ってしまってから、余計なことだっただろうか、待つ時間なんてないだろうか、と色々と不安が襲ってきた。感情のいまいち読めない表情で静かに捲簾を見つめていた彼は、少しだけ視線を彷徨わせた後、少し躊躇いがちにこくりと頷いた。その仕草が幼い子供のようで、不思議な気分を覚えながら彼をカフェの方へと導いた。困ったように立ち尽くしている彼に椅子を引いてみせると、彼は大人しくその椅子に腰を下ろした。しかしその後何をしていいのか分からなくなって、間を持たせるためカウンターに向かった。カップにコーヒーを満たして席に戻り、彼の前に差し出す。するとそれと捲簾の顔を交互に見つめて、彼はおずおずと視線を上げた。
「……あの、こちらのお代は」
「あ、いいですよ。こちらがお待たせしているわけですし……よく来て頂いてますし」
 戸惑った表情でカップを見つめていた彼は、それでもカップを手に取って「頂きます」と口にした。彼は実に行儀良くコーヒーを飲んだ。時折腕時計を窺うのを見て、やはり引きとめたのは拙かっただろうかと不安が胸を過ぎる。一瞬躊躇ったが、捲簾はさり気なく彼の向かい側の席へ腰掛けた。そして唇を舌で湿らせながら言葉を考えた。
「あー……あの」
「はい?」
「お時間、まずかったですか。何か、無理にお引き留めしたみたいで」
 言葉を選びながらそう何とか口にすると、両手にカップを包み込むようにして持っていた彼は、驚いたように目を瞬かせた。そしてすぐに薄らと柔らかい微笑を浮かべて、首を横に振った。
「いえ、もう家に帰るだけですから、時間は構いません。同居人もおりませんし」
「そう、ですか」
「こちらこそすみません、お付き合いさせてしまって」
「いや、俺は休憩中なんで……」
 逆に恐縮されてしまい、困って頭を掻く。その時、ふと彼と目が合った。僅かに明るさを帯びた珈琲色の眸が、レンズ越しに自分をじっと見つめている。その不思議な色に飲まれるように、言葉も返せないまま捲簾はその目に惹き付けられていた。捲簾には永遠とも思える時間だったが、実際にはものの数秒であろう。彼はすぐに興味を失ったように目を逸らし、カップに口をつけた。勝手に翻弄されて、勝手に放置されたようで何だか少し虚しい思いを感じながら頭を掻いた。その瞬間、店の方から微かにブザーの音が聞こえたのに、捲簾は顔を上げた。焼き上がりのブザーである。自分の前にあったカップの中身を飲み干して立ち上がる。そしてカップをカウンターに戻してから、再び彼の元へ戻った。
「焼き上がったみたいなので、すぐに出してきます」
「すみません」
 そして彼は実に礼儀正しく頭を下げた。余程育ちが良いと思われる。彼を置いて再び厨房に入ると、オーブンの熱気で中は蒸し暑かった。少し顔を顰めつつも、しっかりとふっくら焼き上がったホテルブレッドを一つずつ取り出して型から外す。そして後は仲間に任せ、その中の一つを袋に入れて捲簾は厨房を出た。すると、丁度彼がカップを片付けてレジの方へと向かってくるところだった。口を開けたままの紙袋を店のビニール袋に入れ、レジに立った。
「280円です。焼き立てなんで開けときますけど、冷めたらこれで封して下さい」
 そう言って袋に白いビニールタイを入れると、彼はまたこくりと子供のように頷いた。そして会計を済ませて袋を受け取る。そのまま彼は店に背を向けかけて、再び振り返った。それは見事なまでの綺麗な笑顔で、思わずレジスタの前で立ち尽くす。
「コーヒーご馳走様でした。……また来ます」
 そう、言いたいだけ言って彼はすぐに店を出て行った。暫く反応出来ないまま、買い物に訪れた他の客に声を掛けられるまでずっとその場で呆然と立ち尽くしていた。







2007/06/11