穏やかに微笑んだそれは、確かに間違いなく、天の花だった。

「おい天! おい!」
 普通に見れば不躾とも言える強さのノックと、耳を覆いたくなるような大声が廊下に響く。しかしここにはそれを咎めるようなものはいなかった。何故ならそれはそこの者なら毎日必ず何度かは目にするものであったし、何と言ってもそれが必要不可欠なことだと皆が理解しているからであった。
「天蓬! いねえのか!?」
 ノックし、呼びかける動作を3セット行った後、その男――捲簾は嫌そうに顔を顰めた。この部屋の主、捲簾の副官である天蓬は、度々こうして行方をくらますことがあった。消える、といってもどこか遠いところに行ってしまったわけではなく、かなり狭い範囲で消えるのだ。例えば、この部屋の中、とか。開ければそこは本の国、というくらい本に覆い尽くされたこの部屋は、うっかりするとドアを開けた途端雪崩に巻き込まれる可能性のある傍迷惑な場所だった。だが誰かが勇気を振り絞って開けなければ彼は自分からはそのまま本の中から出て来ない。
「開けるぞ、いいんだな?」
 ふう、と大きく息を吐いた後、身構えながら捲簾はドアノブに手を掛けた。そして自分の身体をドア側に寄せ、中から雪崩れてくるものが自分に当たらないようにそっと引き開ける。
「……」
 恐る恐る開けたドアからはしかし何も溢れ出るものはなく、しんとしたものだった。呆気に取られた捲簾は、構えた身体を解き、こっそりと部屋の中を覗き込んだ。すると一般人から見ればまあ汚いものの、彼にしてはかなり綺麗な状態の部屋があった。これならきっと本の山で遭難しているということはないだろう。小さく溜息を一つ吐き、その部屋に一歩足を踏み入れる。しかしいつも彼が座り込んでいる机の付近、ソファの付近に彼の姿はなかった。
「……何してるんだあいつは」
 頭を掻き毟りながら部屋の中を見渡し、最後に寝室へ向かうドアに目を留める。確かあそこはもう本の宝庫で侵入不可能のはずである。こまめに掃除してはいるのだか、ものの一ヶ月でジャングルと化すのである。
「おい天蓬! いんのか!?」
 歩いて探すのを放棄した捲簾は、その場で声を掛けて探すことにした。もしトリップしていたらきっと気付かないに違いないが。しかし、その後どこか遠いところから自分を呼ぶ声がしたのに気付く。
(けんれーん)
「……?」
(けーんれーん)
 うっかり変な鳴き声の動物か鳥か、と勘違いしそうになるか細い音に、捲簾はぴたりと動作を止めた。ここがもし下界で自分が普通の人間なら「幽霊か!?」とでも思うところだが、この天界にそんなものがいるはずもなく、捲簾は慌てて辺りをもう一度見渡した。
「天蓬? どこだ、寝室の中か?!」
(ちがいます)
「どこだって言ってんだろうが!」
(お風呂ですよー、おふろ〜)
 放っておけばいつまでも入らず、捲簾に実力行使されてから渋々入るか、下心の発生した捲簾に無理矢理一緒に入らされるかしないと自分から入ることはまずない天蓬が、と捲簾は少し訝しげに思いつつ、部屋の奥のドアを開ける。すると微かに水の音が響いているのが分かった。簡易のシャワールームの磨り硝子には人の影が映っている。
「どうしたんだ、急に風呂なんて」
 磨り硝子越しに声を掛けると、その人影がこっちを見たようだった。
「ええ、今日の討伐で下界で雨に降られまして。流石にそのままでいるわけにはいかなかったのでこうして自主的に」
「ああ……で、今日の討伐で変わったことは」
 今日捲簾は、どうしても外せない会議があり、討伐よりも優先せよとの通告があったために天蓬に全て任せて下界には出向かなかったのだった。といっても、出陣命令があったのは西方軍のみだったわけではなかったので、然程困ることはなかったと思うのだが。
「大丈夫ですよ、誰も可愛い部下に怪我なんてさせてません」
「そういう言い方はねぇだろが、誰もお前を責めてるわけじゃねえよ。……んで? お前は」
「ええご心配なく。大した怪我は」
「大した……って、お前、怪我してるときに限って何で風呂に入るんだ! さっさと出てこい!」
「やだなぁ大丈夫ですよ、あ、捲簾、タオル取ってきてくれませんか」
 はぐらかしてばかりで一向に答えようとしない天蓬に青筋を立てながらも、努めて冷静に、と深呼吸をした。
「……どこにあるんだ」
「あなたの部屋にないんですか」
「は」
「僕のタオル、止血に使っちゃって」
 さり気なく告げられた言葉に、捲簾は素早くシャワールームを出て、部屋に戻りごみ箱を覗き込む。少しはみ出しながらも突っ込まれていた水色のバスタオルを持ち上げ、広げると、そこには顔を顰めるほどの量の血が染み込んでいた。そのタオルを抱えたままシャワールームに戻ると、もう既に水音は止んでいた。
「天蓬! 馬鹿野郎、こんな出血で風呂に入るな!」
「どうでもいいからタオル……」
 浅はかな天蓬の行動に苛立っていた捲簾だったが、シャワールームから響く耳に馴染んだ声が、いつもよりもずっと弱々しいのに気付く。そういえば先程の会話もどことなく語尾が怪しかった。
「……分かった。すぐに取ってくるからそこから動くなよ!」
「はーい」

 たまに可笑しなものの喋り方をする奴だが、あれは明らかに様子がおかしかった。しかし捲簾にはそれが何のせいだか何となく分かっていた。出血のしすぎで多少頭がハイになっているのだろう。怪我をよくする捲簾が一番よく分かっていた。きっと部下が手当てをすると言ったのも断って部屋に篭っていたのだろう。極端に人に弱みを見せるのを嫌がる質だからだ。
 足音も荒く自室に戻り、バスタオルを一枚取り上げて踵を返しかけて、ふと考えてもう一枚タオルを取る。もしまだ出血していたら困る。バスタオルを二枚小脇に抱えて捲簾が天蓬の部屋への道を急いでいると、前から西方軍の下士官が二人歩いてきた。どちらも軍内では最も新しい期の者だ。
「あ、捲簾大将!」
「おう、ご苦労さん」
 片手を上げてそう声を掛けると、下士官二人はバタバタと捲簾の元に走り寄ってきた。
「大将、元帥の所には行かれましたか?」
「え? ああ、今から行く」
 そう言うと、二人は顔を見合わせて複雑そうな顔をした。捲簾が問い詰めるような視線を送ると、片方が重い空気に圧されたようにゆっくりと口を開いた。
「あの……多分元帥、かなり酷い怪我をされてると思うんです。左腕を庇うような仕草をしていたんですが、何ともない振りをして部屋に篭ったきり出てこなくて」
「皆手当てをすると言ったんですが、それほど酷くないと言ってすべて断られてしまったんです」
 その二人の言葉を聞きながら、先ほどシャワールームの擦りガラス越しに見えた細い身体を思い出す。そしてあの血に塗れたタオル。あの出血で水を浴びるなど自殺行為だ。
「あの馬鹿が……」
 捲簾が顔を顰めて悪態をつくと、何故か下士官二人の方が申し訳なさそうに俯いた。
「……どうしたよ」
「あの、差し出がましいことを言うようですが、元帥がスタンドプレーをしたとか、そういうことではないので、あまりその……」
 言い辛そうに言葉尻を濁す下士官に、彼の言いたいことの分かった捲簾はため息をついた。天蓬を責めないで欲しいと言いたいのだろう。その後彼が言うにはこうだ。簡単に言えば、捲簾を欠いた西方軍と共に出陣した他軍の部隊が使い物にならず、天蓬が先陣を切らずを得なかったのだと言う。その話の中で最も捲簾を苛立たせたのは、天蓬の怪我の中に、その他軍の下士官を庇った時のものもあるということだった。
(馬鹿が)
 口の中に苦いものを感じながら、捲簾は奥歯を噛み締めた。どれだけ怪我をしても簡単に「平気ですよ」と言ってのける天蓬。それは捲簾も同じことだが、それとは少し違っていた。捲簾は本当に我慢出来ないほど痛ければ騒ぐし暴れる。人に治療させたり肩を揉ませたりなどもする。だがあの男は違う。本当に痛くても、死にそうなくらいに痛くても口にも態度にも出さない。その割に「肩が凝りました」「もう疲れました」などと簡単なことは黙れと言いたくなるほど口に出すから誰もおかしく思わないのだ。この前もまともに立ってもいられないほどの高熱を出しながら会議に出席し、フラフラしているのがおかしいと思った敖潤に初めて気付かれて部屋に引っ張り戻されたばかりだ。野生動物は敵に自分の体調不良を悟られないために常に気張っているというが。
(野生動物……虎あたりか)
 どうやらこの下士官二人が異常に恐縮しているのは彼らも庇われたことがあるせいか。そんな二人を眺めながら、捲簾は部屋に残してきた天蓬のことを考えていた。そろそろ戻らなければならない。風呂場に倒れている可能性もある。
「分かった。とりあえず今から奴のところに行って手当てしてくる。言いたいことがあんなら各々本人に直接言いな」
「……はい」
「あ……お大事に、とお伝え下さい」
 そう口々に言った下士官たちは、丁寧に頭を下げた。それに居心地の悪いものを感じながらも、捲簾は天蓬の部屋に向かって足を進めた。天蓬は質の悪い男だと思う。確かに性格も複雑を極めていて質が悪いと言えば悪いのだが、今回はそのことではない。普段はズボラ、変人、軍事オタクと碌な噂が付き纏わない。それなのに一旦軍服に身を包んで出陣となればそれはそれは別人かと目を瞠るような変わりぶりだ。いつもの口ぶりでは非情なことも簡単に言うくせに、時々今回のように無駄に自分を犠牲にしたりする。今回だけではない。捲簾の不祥事のツケを「汚れ役の仕事ですから」と言って天蓬が被っていることも決してなくはないのだ。徹底的に天蓬は裏方に回って副官に徹することにしているらしく、以前などうっかり捲簾の代わりに懲罰房に入れられそうになっていた(勿論すんでのところで敖潤が引き止めた)。正直なところ、こんなだから妻夫関係などと揶揄されるのだと思う。
 捲簾も部下には人気があるが、天蓬にも同等……かもしくはそれ以上の“崇拝”者がいる。しかもそれは軍内外、上官部下も問わない。敵も多いがその分昔からの根強い部下などはその命を捧げる覚悟すらありそうだ。質が悪いと言うのは、そんな風に自分の一つ一つの動作がどれだけ他のものを惹き付けているかということに全く気付いていないところだ。勿論天蓬は十分に自分の外見の良さを知っていて利用している場合もあるのだが、自分が意図して利用している時以外は誰も自分に興味など示していないと思っている節がある。無自覚すぎるのだ。自分の意図しない場面でその姿が人を惹き付けていることに気付いていない。下手をすれば今回の一件で他軍にまで崇拝者を増やしたのではないだろうかと思うとぞっとさせられる。同時に恋人としては面白くない。天蓬の思惑通りに罪を引っ被った汚れ役の副官、という認識が周りにされていたらそれはそれで自分は怒りそうだが、今のこの状態だって決して面白くはない。

「天蓬、大人しくしてるだろうな!」
「……捲簾ですか」
 足音も荒く室内に入り込み、けたたましい音を立ててシャワールームのドアを開けた主に、天蓬のか細いともとれる声が届いた。
「開けるぞ」
 一応断ってから捲簾はそのドアを開けた。そこにはとりあえずといった感じでズボンを身に付け、肩から白いワイシャツを腕を通さずに羽織って、バスタブの縁に軽く腰掛けている天蓬がいた。あれだけ出血する怪我をしているのであれば服を脱ぐのも難しかっただろうに、と捲簾は顔を顰めた。
 天蓬の顔には血の気がない。いつものような余裕の笑みを浮かべる余裕もないというようにぼんやりとした目を捲簾に向けた。ハイな気分も体力の減少に伴い消えてしまったのだろう。濡れたままの髪の毛から水が滴り、シャツの肩にぱたぱたと落ちていく。濡れた肌にそのまま着たせいか、ワイシャツはぴたりとその痩身に張り付き、白い肌の色を透かしていて息を呑むほどに魅惑的だ。ズボンもぴたりとその細い脚を際立たせている。
「……ワリ、遅くなった」
 そう言って捲簾はとりあえず天蓬の肩に一枚目のタオルを掛けた。そしてすっかり冷えた薄い肩をタオルごとさすりながら暖めるような仕草をする。するとぼんやりした視線をそのままに、天蓬は捲簾を見上げた。
「……何で謝るんです」
 そう、いつもの毒のない口調で問われて、思わず捲簾は言葉に詰まった。何で謝ったのだろう、一瞬自分でもそう思った。だが、不意に漏れてしまったその言葉には自分の不甲斐無さや話も聞かずにきつい口調で問い詰めてしまったことへの謝罪と、様々な思いが交錯していた。何で今回に限って出陣よりも会議などを選んでしまったのだろう、と捲簾は歯噛みした。いつもなら会議を優先せよと言われても勝手に出陣について行くくらいだったのに。普通に考えれば、そう簡単に封印出来る相手ではなかった。西方軍と共に出陣した北方軍も、捲簾にすればそれほど実力のある軍とは思っていなかった。どうして天蓬が無茶をして怪我をする可能性を考えなかったのだろう。
「そんな顔しないで下さいよ。そんなに僕がいなくてさみしかったですか」
 混ぜっ返すような軽口にもいつものような力がない。それを苦々しく思いながら、捲簾はドアの外に置いていた救急箱を手に、天蓬の足元に跪いた。そしてタオルは掛けたまま、その下のワイシャツを剥がすように脱がせた。
「……馬鹿野郎」
 やつ当たらないと心に決めたばかりだったのに、その傷口を目にすると同時に、思わず捲簾はそう漏らしていた。ぱっくり割れた傷口は肩から二の腕に掛けて五寸ほどに伸び、それもかなり深かった。見たくもない筋肉の筋の線まで見えそうで、思わず捲簾は顔を逸らした。
「相当痛いんじゃないのか」
「ええ、大分。だけどそのうち痛まなくなったので」
「それは感覚が麻痺してんだよ」
 大怪我の常習者である捲簾にはよく分かることだった。あまりの痛みが訪れると、自らの肉体が限界を感じて失神するか、精神に異常を来たさない為に痛みを緩和させる物質が分泌されて麻酔のような効果を生み出すのだ。痛まないのはいいことだが、はっきり言っていい現象とは言いがたい。しかも自分の身体ならともかく天蓬の身体だ。
「とりあえず消毒して包帯巻いとく。後でちゃんと李偉んとこ行って診てもらえ」
「はい」
 李偉とは西方軍付きの軍医で、影ではマッドな趣味を持つと噂の、だかそれなりに腕のある医師だ。天蓬とは捲簾が西方軍に来る前からの付き合いらしく天蓬の複雑な性格も熟知している。こくりと頷いた天蓬に、捲簾は複雑な思いの溜息を吐きながら救急箱から消毒液を出した。
「頼むから無茶はしてくれるな」
「気付いたら、体が動いてたんですよ」
「そんなもん言い訳になるか」
「この前あなたが僕に使った言い訳ですけどね」
 つい先日、天蓬が釈迦如来の御前に参ずることになり、軍の出陣について来られなかった時のことだ。自分の直属の部下を庇って背中に大きな傷を負った捲簾が、呆れ顔で理由を問い詰めた天蓬に言った台詞がそうだ。
『気が付いたらやっちまってたんだよ、そんな怒るなって』
『……呆れた。野生動物並ですね』
 そんなやりとりをしたのも記憶に新しい。
「死ななかったんだからいいじゃないですか」
「馬鹿が」
「馬鹿……僕だってあなたが毎回毎回大怪我をする度に同じことを思ってるんです、こちらの非ばかり持ち上げないで下さい」
「悪い」
 微かに、しかし確かな怒りを含んだ声に、流石の捲簾もばつが悪くなって口を噤んだ。元々口では勝てた例がないのに加え、今の状態では確かに自分が悪く、分が悪い。
「じゃ、これからはあなたも僕の繊細な心を痛めつけないように怪我するのを控えて下さい」
 突っ込みどころは色々あったが、今回悪いのは自分だ。捲簾は大人しく口を噤んで、消毒液を染ませた脱脂綿を傷口に当てる。天蓬の指先がぴくりと揺れたのを見て咄嗟に顔を上げたが、彼の表情からは何も窺い知ることは出来なかった。
「……沁みるか?」
「ええまあ」
「痛いなら痛いって言え。お前、痛い時でも痛いって素直に言わないだろ。そんなに俺が信用ならねぇか」
 何だかどうしようもなく辛かったから口にしたはずなのに、そうした途端急に不甲斐無さに襲われた。口にしてもらわなければ副官の身体状態も分からないくらいだ、と自分で大声で公言しているようで、不甲斐無く口惜しかった。いつもそうだ、天蓬が倒れたと聞いてから全てを思い出す。
「可愛いですねぇ捲簾は」
「は」
「あなたを信用もしていないような僕をそんなに心配してくれているんですね」
 天蓬の言葉にいつも以上の、しかも少しも隠そうとしていない棘が含まれているのに嫌でも気付いて、咄嗟に否定しようと天蓬の顔を見上げた。だが、その口は、言い訳を口にする前に固まってしまう。
「……あなたを信用してない訳じゃありません。信用しているから僕の部下だって預けていますしあなたがどうせ怪我をするだろうと分かっていても黙って出陣について行っているじゃないですか。第一信用もしていない男に手当てなんかさせますか。それなのにどうしてそう僕の非ばかり持ち上げてそんな悲しい顔して見せるんです」
 怒ったような諦めたようなその声にもう一度顔を覗き込もうとするが、顔を逸らした天蓬の顔は窺い知ることが出来ない。
「信頼していないつもりはありません。だけどあなたの求める信頼の度合いを、今の僕に急に求められても無理なんです」
「天蓬、もういい」
「元からそういう性格なんです。……あなたと会って、少しは変わったと自分でも思いますが全てを預け切るほどまだ」
「もういいから」
 珍しく饒舌な彼が自棄になっているのだとやっと気付き、捲簾は立ち上がってその口を右手で塞ぐ。一瞬驚いたように目を見開いた天蓬だったが、すぐに目から色を失い、冷めた目を瞼で閉ざした。瞼には血の気がなく、うっすら青みを帯びている。それは頬も同じで、しかし唇だけはいつもの潤んだような紅さを保っていた。まるで血で濡れたような。普通、真っ先に青褪めるのではないだろうか。
 出会った頃の彼と、今の彼がオーバーラップする。全て諦めたようで、どこか捨て鉢になっているような表情。それでも心の中にはうっかり口にも出せないような、それでも捲簾にはこの世界が全て色変わりするようなそんな考えを持っていた。絶えることない桜の花びらの色ようにぼんやりとした、混濁し麻痺した意識を切り裂くような鮮烈な、自分とは全く違う生き物。
「悪い」
 そう呟くと、ぼんやりと目を開いた天蓬は、その色のない目を捲簾に向けて数回瞬きした。長い睫毛が上下する。
「いつもあなたのそれに騙されていますよ」
「騙してない」
「そうですね、僕が勝手に騙されているんです」
「勝手に自虐思考に走るな」
 そう言って両手で艶やかな黒髪を撫でる。洗ったばかりで生乾きの黒髪はしっとりと柔らかい。
「自虐なんてしてませんよ」
「してる」
 そしてその心持ち俯いた小さな頭を両腕の中に抱き込んだ。戦場に立つ姿は酷く凛々しく大きく見えるのに、実際腕に抱いて見るとこの程度の大きさで、この細さで。
 噂を聞いて、何て奴だ、と思って。でも面白そうな奴だ、と思って。実際に会いに部屋に行ってみて、ドアを開けた途端に雪崩れてきた本に出鼻をくじかれて。やっとの思いで部屋に踏み込んで、本の中に埋もれて、死んだように眠るその姿に目を奪われて。
 惹かれたのはどこにだったか。長い睫毛だったか、白い肌にだったか、さらりと顔の動きに逆らわない黒髪だったか。
 それとも。

「お前と一緒にいくって決めてあるんだ」
 そう呟くように耳元で言うと、抗わずに捲簾の腕の中にいた天蓬は、ゆっくりとその胸を押しやり、捲簾の顔を見上げた。
「お前の前は歩かない。そして後ろを歩くつもりもない」
「まさか、手と手取り合って、なんて言いませんよね」
「冗談」
 そう茶化すように言った天蓬の逃げ道を塞ぐ。きっと彼はこの続きの言葉を最も欲して、そして最も恐れている。自分だって同じだ。気合を入れなければ無様にも手が震えそうだった。自分たちが今からやろうとしている事を考えれば、口に出してはならない言葉かもしれなかった。そしてその言葉によって成してはならない形を作ることになるかもしれなかった。顔を逸らそうとした天蓬の細い顎を右手で固定して、それを振り払おうとした右手を自分の左手で掴んでしまう。
「手なんて繋いでなくていい。俺の視界に入る範囲にいろ」
「……僕は迷子か何かですか」
「同じようなもんだろ。一人になって、どこに行っていいか分からないくせにいっちょまえに意地張って」
「僕はガキ扱いですか?」
「お前も悟空もナタクも、俺から見りゃそう大差ねぇよ」
 ああ、だけど悟空のがずっと素直だな、と笑って言うと、天蓬はさも心外だと言うように頬を膨れさせた。
「嫌、ですよ」
「は」
「僕はいきたい時には勝手にいきます。見失ったらそれはあなたの責任でしょう」
 その“行く”が、“逝く”に連想されて捲簾は一瞬心臓が竦んだのを感じた。天蓬が勝手に死んだら、死ぬ間際に立ち会えなかったら、それは目を離した自分の責任だと。
「迷子の責任なんて、とらなくてもいいですよ。別にあなたは僕の保護者じゃないですしね」
「行かせねぇよ」
「……何」
「お前かいくなら一緒にいく」
 一瞬沈黙した天蓬が、ゆっくりと色を宿し始めた目を捲簾に向けた。そして、その小さな唇を動かす。
「……後追いでもしてくれるんですか。この世界で、自殺で死ねるかどうかは別として」
 その言葉で、先程の天蓬の言葉の“いく”が、本当に“逝く”の意だったのだと気付く。
「まさか。お前が死に直面するほどボロボロになってる時に自分が無傷だなんて考えられねえよ」
 一瞬目を見張った天蓬は、その大きな目をそっと緩めてうっすらと微笑んだ。時々見る笑い方だ。全てを諦めてしまったような。生きることに全く執着がないような、この世界に何かを期待することを諦めてしまったような、美しいのに妙に腹立たしくなる微笑み。
 だけど今彼がこうして生きているのは、やらなければならないことがあるからだ。

「そうだな、俺が死ぬ時はお前も連れてってやるよ」
「何処にです」
「お前が望むなら、何処へでも」
 そう言って、天蓬は口元をゆっくり緩めた。それは、ほわりと花が綻ぶようなやわらかく艶やかな微笑。これこそ天の花と讃えられた、この天界で最も美しいもの。何だ。こんなことをしてまで俺はこれが見たかったのかと思うと全身から力が抜けた。
 この男が、好きだった。彼の崇拝者は、艶やかな薔薇や清楚な百合など、何にでも彼を喩えるだろう。だが捲簾はずっと、桜のような男だと思っていた。それも下界の桜。ふわりと夜空に浮かぶように、白に薄い桃を溶かしたような花を咲かせ、散る時には鮮やかに風に倣って、散り際を綺麗に彩る。それに、共に並ぶことが出来たなら。
 捲簾が巻いた包帯から、じんわりと赤い色が滲み出てくる。桜の下には屍が埋まっていると。そう寝物語に聴かせてくれたのは、他でもない彼ではなかったか。自分も彼も同じ、数え切れないほどの部下や、仲間の血を糧にして生きている。はじめは躊躇いがなかった訳ではなかった。だけど、それも何年……何百、何千年前の話か分からない。

「ついて来るなら、勝手にどうぞ」
「……へーい」
 悪戯っぽく目を細めた天蓬は、怪我をしていない右腕を持ち上げ、跪いたままの捲簾の頬に触れた。
「精々、ついて来てみなさい」
 この世界の、虚ろさと哀しさを見せてあげます。そう、天の花は笑った。
 その花が散るのを、この目で見たいと思った。
「仰せのままに」
 そうして天の花は、そっと捲簾の額に、花びらが撫でるようにそっと唇を寄せた。


 彼が、好きだった。









2005/9/5