何があっても伝えないつもりでいる。
 お前のことが大事だった。本当は大事じゃ足りないけど、どれだけ言葉を尽くしてもお前への気持ちはお前に届かないと思う。
 だけど、だから言わないわけじゃない。そんな簡単な出来心でお前の心を壊してしまいたくなかった。
 お前がどれだけ色んなものを抱え込んで何もかも守ろうとして壊れそうになっていたか、誰より知っているつもりだから。








 あの男が出会った端から特別な存在に成り上がったわけではない。最初は本当に変わった男だと、そして前評判とのギャップに驚いただけだった。容姿端麗、但し極端な偏執狂。あの堅物の西海竜王に絶対の信頼を寄せられ、かの口から“優秀な軍人”と言わしめたその男とは如何な、と幾許かの期待と皮肉を抱き訪問しただけに、あの初面会はある意味衝撃的であった。自分の悪戯心や喧嘩を仕掛ける気力だとか、そういったものを根こそぎ奪うだけの力を持って、あの男は自分を見上げた。眼鏡越しの眸は寝惚けているようでいて自分という男を見定めるべく鋭い光を灯していた。あれは天の花などと称される様な大人しく鑑賞されるだけの美しさではない。生ける野生の猛禽の眸の輝きだった。きっとあの瞬間、自分がかの人の気に食わなければ、不敬罪なり何なり無実の罪を捏ち上げられて西方軍から追放されていたに違いないのだ。
 運良くそのお眼鏡に適い、西方軍大将となったわけだが、決してそれからの日々が平穏だったわけではない。元々自分は面倒事や騒動があれば自ら興味本位でその渦中に身を投じることがしばしばあった。しかし西方軍に来てからというもの、自ら飛び込むまでもなく何故か気付けば既に自分がその渦中にいるという、不可思議な事態が日常のものとなったのである。それを心地悪く思うでもなかったのは元々気質が合っていたからなのか、その空気に馴染むまでにはそう時間は掛からなかった。あの男はそれを時折、思い出したように遠くから眺めていた。外で駆け回る自分をじっと部屋の窓辺から眺めているように、彼は決してこちらに近付いてくることはなかった。自分の思い通りにならない距離が何だか少しだけ不愉快だった。

 人に近付こうとしない男だった。ある意味人との距離の取り方が不器用だと言えるだろう。心配をしていてもそれなりの態度を取れない、痛みがあってもうまい表現の方法を知らない、そんな男のことを健気な部下たちはよく理解していた。理解が出来ぬものはさっさと離れていった為、こうしてこの隊の隊員数は極端に少なく、それ故に団結力は強かった。不器用で何もかも背負い込み、一人で怪我ばかりする上官の背中を見つめながら、誰一人そのことに対して発言をすることが出来ずにいた部下たちには同情を禁じ得ない。
 部下を亡くしたことがあるという。だから二度と同じような真似をしないためだと言うつもりであろうが、その行為は結果的に彼と同じ痛みを部下たちに背負わせることになるのだから彼の行為に価値はない。そう切り捨ててしまえなかったのは、顔を伏せて煙草を吹かしている彼が一体どんな表情でいるのか探れなかったからだ。しかし笑っていたら辛辣な言葉を掛けられたかといえばそういうわけではない。彼の眸を見たら見たで、唇は動かなかっただろうと思う。だから少しの言葉を、部下たちが今強く思っているであろう言葉を代弁するだけに留めたのだ。それでも、その言葉に顔を上げた彼の眸が、傷付いた子供のような何とはなしに情けないようなものだったので、(ああなんて扱いにくい)、とつい笑いが漏れてしまった。それから少しだけ間を置いて、自嘲するように彼が呟いた言葉を混ぜっ返して茶化すと、驚いたように一瞬目を瞠った彼もまた、少しだけ口元を緩めて微笑んだ。
 その微笑みは確かに花のようだった。

 特別な存在は欲しくなかった。いざという時の足枷になるからだ。しかし人に触れ、触れられるのは好きだった。自分ではそれでいいと思っていたし、それに不満を言うような相手とはそれ以上の関わりを持たなかったため、そのことについて深く考えたことはない。正しいも正しくないもない。それを、真正面から“残酷だ”と切り捨てたのがあの男だった。物分かりのいい相手とだけ付き合ってきたつもりでいる、そう言った自分に向かって、彼はシニカルに微笑って、言った。
『あなたは誰かを強烈に想ったことがないんですね。いつも求めるものは簡単に手に入るからですか』
 一体どういうことだと詰め寄る自分を、何の感情も窺えない硝子球のように光る眸は真っ直ぐに見つめ返してきた。しかしそのことについて、彼がそれ以上口を開くことはなかった。今まで信じてきたことを引っ繰り返された不快感は言葉にならない。まるで生まれてからずっと黒だと信じていた色を白だと断言されたような気分だった。しかもその言葉が妙に真実味を帯びていてまるで責められているような気分になる。不愉快だった。しかしぞくぞくするような期待と快感の予感が伴ってはいなかったか。
 その男は、日毎に只の上官ではなくなっていった。
 決して人の方へは踏み込んでは来ないくせに、ふっと上げられたその視線が胸の奥底まで見透かしているようだ。開いた唇から放たれる言の葉は、自分が長い間見て見ぬ振りをし続けてきたものを真正面から突きつけるような鋭さを持つ。こちらから手を伸ばしてみれば実に不器用な仕草で逃げていく。逃げるように背けられた横顔に、何故か見慣れてしまったその項(うなじ)に、いつも掛ける言葉を見失った。頑ななその後ろ姿を振り向かせる言葉を欲した。偏屈な変わり者という仰々しい仮面を盾にしていつも人目を避けている男は、人と必要以上に親しくなることを善しとしなかった。親しくなるということは、弱みを握られるということです。そう言い放った男に、その時は思わず呆れ返ってしまったが、その時の真摯で僅かに陰鬱なその表情を思い返すとそれは確かに紛れもない彼の本音だったのだと気付く。弱みを握られることは彼にとっては精神の死に等しかったのである。
 昔から男の周りは敵ばかりだった。その秀でた頭脳と容姿はあらゆるものを惹き付けて、同時に一部の者の不の感情を煽りもした。だから彼の幼い心は周囲全てを敵と見なした。だから今でも彼は尖った毛を逆立てて凍えながら、それでも体温を分け合える誰かを探している。彼が精一杯に伸ばした棘に触れぬよう、ぎりぎりまで近付いて彼を冷たい風から守ろうとしている者たちの存在に気付かぬほど、彼は深く深く俯いていたのである。
 言葉は得意な方だと思っていた。しかし彼を前にしてこの唇は容易に凍り付いた。何を言っても彼には悪いようにしか伝わらないのだと気付いてしまった。優しい言葉、甘い言葉を打算なしに掛けられることなど、彼の頭には可能性すらなかったのだ。優しくされれば何か裏が有るのだろう、甘い言葉を掛けられれば何が望みなのか、そう考えてしまう頭の持ち主だった。彼は確かに淋しがりの子供のようではあったけれど、ただ子供を慰めるような優しい言葉では彼の殻にぶち当たって砕けるだけだ。彼の殻を突き破って、彼の心まで届くような言葉を自分は持たなかった。限りなく無に近い透明で、強靭なその殻は他者を確実に拒否していた。

 彼の部屋はいつも汚い。月に一回程度の清掃に入る自分に、彼は嫌がる顔こそしなかったものの、いつも少しだけ困ったように微笑んだ。どうせすぐに汚れます。どうせ僕しかいない部屋です。拒否はしない。しかしそう言って暗に遠ざけようとする様子が癇に触れた。彼のテリトリーは極狭い範囲に限られている。その中でも重要な一つを、他者に踏み荒らされるのが嫌なのだろうとその時は思っていたのだ。しかし次第に疑問を感じ始めるのに然程の時間は要さなかった。彼ほどの男ならば本当に嫌ならどんな手を使っても拒否するはずだった。逆に、有り難いと思っているのなら遠慮や恐縮などせずに笑って受け入れるはずだ。どうしてそんな困ったような顔をする。
 猫のように気紛れで、自分だけのテリトリーを持つ彼が、唯一息つくことの出来る場所を踏み荒らす。
 恐れたのは、彼を融かしてしまうことだった。
 誰も信じていないような顔をして殻に閉じ篭る彼を、壊さずに連れ出す術を持たなかった。打てども踏めども壊れそうにない彼が、触れただけで融けてしまいそうだなどと思ったのは何故だっただろう。内包する熱に反して彼の心を包み込む氷の壁は冷たく硬く、中の像を歪めて見せるほどに厚い。融かしてしまえばそれが一番いいのだと分かっている。しかし、今まで自分を守ってきた氷の盾を失った時、生まれたての彼が壊れてしまわないか。それが怖かった。
 守りたかったのは今の二人。それだけ。そのためならば、胸に覚える寂寥や熱などなかったことにしてしまおうと思ったのだ。
 お前が欲しいものは、何だ。それがもし自分に与えられるものならばどれだけいいだろう。

 その目はいつも気付けばじっとこちらに向けられている。得体の知れぬものの様子を窺う猫のように、じ、と身を縮込めて、瞬きも忘れたようにその榛の眸を周囲に巡らせている。そんなにも気を張って、警戒心を張り巡らせていては碌に眠れもしないだろう。その癖ぴりりと張り詰めた内面を知られるまいと、平然とした顔をして見せるのが憎たらしい。
 時折無防備に自分の横でころりと横になってみせたりするものだから、つい気を許してくれたものと思ってしまう。そうかと思えば自分の前で酔うことを避けるほどに他人行儀になる。そんなことを周期的に繰り返すうち、すっかりこちらの胸の内にも諦めが居座るようになってしまった。彼自身の心が警戒を解くまで、自分がどれだけじたばたしてみせても変化はない。それがいつになるのかだなんて分からない。
 彼を庇護したいなんてことは、露ほども思わない。彼は立派に一人の男であって、一人の軍人である。そんな彼に対して守りたいなどと思うことは傲慢であり、軍人としての彼への冒涜である。自分が守るとすればそれは自分自身と自分より弱き者。彼はそれには当て嵌まらない。
 守るでも守られるでもない。ただ肩を並べて、同じものを見て違うことを考え、同じ目的のために歩む。それだけでいいと思う。だから何も望まない。何も言わない。この関係を、この危うくも心地よい状態を壊すことは何一つしたくはなかった。それでも時々、彼を試すように寄り掛かって、その反応を窺ってみるのである。
 彼が見せる表情一つが気に掛かって、笑顔の裏が気になって、たまの饒舌が心配になる。作り笑いの時少し口元が引き攣ることや、怒っている時それを誤魔化すように妙に口数が多くなること。過ごす時間が増える度に分かってくること。手が出るのが早いという自覚のある自分から見ても危なっかしく思える喧嘩っ早さにはいつも冷や冷やさせられた。誰にも見えないところで一人で危険に飛び込んで怪我をして、それを悟られないように自らのテリトリーに閉じ篭もる。そして一人きりで傷を舐めて、何事もなかったような顔をしている。
 それは何もかもを守ろうとするからこその自ら望んだ孤立。

 何も分かっていなかったのはこっちだ。

 彼の心をすっかり凍り付かせてしまった部下の死がどんなものだったのか、気にならないわけではない。しかし部隊の誰もがそのことに関して口を閉ざしているのであった。それほどに凄惨な最期だったからか、それとも軍の上層部から緘口令が敷かれているのか。どちらも違うような気がしている。誰もが、その忌まわしい記憶が、尊敬する上官を変えてしまったことを知っているからだ。彼と出会った頃、彼のことを“自分以外の誰も信じていないような”と称したことがある。しかし今になって考えれば、本当に彼が自分自身を信じているのかどうかもあやふやだ。誰よりも彼自身が、部下を死に追い遣った自分を憎んでいるのに違いはないだろうし、その日自分の立てた計画をどれほど悔やんだか知れない。
 彼は周りが思うほどに達観した男ではない。人並みの欲望も感情も持ち合わせていて、迷うこともあれば恐怖を感じることもある。
 彼にとって誰かを身の内に取り込むことは恐怖なのだ。自分のミスで危険に巻き込むかも知れない、何か起きた時に自分の傍にいたことで窮地に追い遣られるかも知れない。だから彼は大事なものほど遠ざけた。最低限傍に置かねばならない部下にも一定の距離を置き、もし何か自分の身に起こったとしても部下たちの身に危険や責任が及ばないようにしている。大切なものほど遠くに置いて、一人篭った部屋の窓から寂寥の眸でそれらを眺めている。
 そんなのはくそ喰らえだ。
 勝手に人を頼りない壊れ物扱いして、遠ざけて、全てを背負い込んで、それが偉いとでも思っているのか。
 融かさないように、壊さないようにしてこの関係を守っていこうと思っていた気持ちは消えた。彼を守る厚い殻を無理矢理叩き壊してでも、彼を空の下に引き摺り出してやろうと思ったのだ。彼は周りが思うほどに強くはないだろう。しかし、その殻なくして立っていられないほどに弱くはない。そうして周りを遠ざける態度は憎たらしいけれど、人格として嫌いではない。寧ろ好ましくすらある。だからこそ、生身の彼の手を引きたい。本当は誰より人が好きで、失うことに臆病なはずの彼を再び空の下に連れ戻すために。
 それも全て、あの日見た花の微笑みが本当の彼だと信じたいからだ。

 意味なんてものはない。彼の傍にいる理由なんてものは。

 彼の話した通り、自分は何かを強烈に想ったことがなかった。狙いを定めた獲物が落とせなかったことはなかったし、たとえ落とせなかったところで然程の未練は感じないだろうと薄々思っていた。そう考えれば、自分には欲しいものがない。自分の生活になければならないものといえば酒と煙草と女。どれも手に入れるのは至極簡単なこと。欲するまでもなく、手を伸ばせば届くもの。全て。
 どうして彼はあんな風に言えたのか。彼には、何かを強烈に想ったことがあるのか。一体彼は何を乞うたのだろう。それは失われた部下の命なのか。決して届かないものに手を伸ばし続ける彼に苛立ちが募った。誰も死んだ者には勝てぬ。今もずっと、彼の心の中の片隅に消えることなく蟠り続ける最期の記憶が、いつも彼がどこか遠くを見つめる時の眸に映っているのだ。それが腹立たしいのは過去にしがみ付いて一歩も進めない彼に苛立ったからだと思っていた。しかし、違う。何かが違うと感じていた。
 手に入らないものに手を伸ばしているのは自分も同じだ。
 自分が、亡くなった部下と同じように彼の心の中の一角を占領することを求めている。彼の奥深くまで踏み入って、優しくして大事にして、その心の傷を癒して。その傷を消して、その上から更に深い傷を刻み込む残酷な行為を、自分は欲した。しかし自分にそんなことが出来る度胸がないことも分かっていた。
 彼は大切なもののために強くもなれば、弱くもなってしまう。
 自分が彼に必要以上に踏み入ることによって彼の心を弱くしてしまうのなら、何も言わないでいようと思った。
 どうせうまく言葉にならない気持ちばかりだ、わざわざ不器用でうまく操れない言葉を使う必要はない。全て閉ざしてしまう。伸ばした自分の指先が彼の枷となり、この感情が彼の頭を鈍らせる麻酔となるのなら、彼の望む通りの距離を保ったままいようと思ったのだ。

 この距離でお前が息が出来ると言うのなら、この場所からずっとお前を見てる。
 それがお前にとっていいことだと言うのなら、他の者と同じように扱おう。
 それでいいんだろう。なあ。


 覚えてるから。どんな下らないことでも全て。

 最後となるであろう夜、彼が初めてした願い事はその透き通った声と共に闇に溶けていった。
 何と返せばいいのか分からなくて、素っ気無い言葉を返した自分をどう思ったのか。俯いた彼の表情は窺うことが出来なかった。最後くらい、彼の望む答えを返してやりたかったのに、何も思い浮かばない。言葉に尽くせぬ思いが無音の吐息と共に部屋に消え、広がったのは果てのない沈黙だった。普段こんな感傷的なことを言うはずがない男にここまで言わせた、そのぎりぎりの心中を図れないわけではないのに、この喉は乾涸びたまま、うまい言葉を紡げない。こんなに自分は言葉が不器用だっただろうか。
 闇の沈黙の中から先に一歩踏み出したのは彼だった。窓辺から離れ、机の方まで歩いて行ったかと思えばその辺りに落ちていた紙切れとペンを探し出して図式を描き出し始めた。この部屋の間取りだった。どうやら早朝、この部屋に攻め入られた時のためのトラップを仕掛けるつもりのようだ。討伐の布陣を敷く時のように迷いなくペンを滑らせていくその横顔を見つめながら、遠い日を思って目を細めた。
 思えば、どんな劣悪な盤上に置かれても惑うことのないその指揮に、いつも見惚れていた。どれだけその先が困難であろうともその横顔にはいつだって光を見出せていた。
 いつだってお前は泣きたかったはずなんだ。それなのに、この期に及んでまだ、差し出そうとする手が背中の後ろで尻込みする。

 ふ、と、彼が手を止めた。その睫毛がゆっくりと二度上下し、そっとその目をこちらに向けた。その眦が月明かりに滲んで映る。口元は微笑みを形取り、彼は、哀しいくらいに優しく笑った。
「――――今までの我儘、堪忍して下さいね」
 そう言って微笑んだ後、すっかり彼は口を閉ざしてしまった。気の利いた言葉一つ返せなかった間抜けな男は窓辺で一人、何も掴めなかったその手を強く握る。もっと前に、もっと早く、何か言えなかったのか。動けなかったのか。それでも自分は彼を守りたくなかった。彼を守ることは出来た、しかしそうしてしまって、彼を庇護下に置いて、彼の軍人として、男としての誇りを眠らせてしまいたくなかった。
 しかし、二人の軍人として出会った以上、これ以上自分から彼にしてあげられることは何もない。

 それでも。
 それでもいつか、自分から彼に、手を差し伸べられる時が来るのなら。
 その時は。








 多量の失血と痛みで朦朧とする意識の中、哀しい化物を見上げて口元を釣り上げた。頭の中を巡る今生の出来事につい笑ってしまいそうになる。案外、天界も悪くない場所だったのかも知れない。しかしその安穏とした生活は誰かの犠牲の下に成り立っていた。この化物とてその犠牲者に他ならない。とは言え、自分を喰らったところでこの哀しい生き物が助かるわけでも、満足するわけでもないのは誰が考えても分かることだ。しかし、これでいいような気がしたのだ。親子は彼が送り届けたはず。ついていってやることは出来ないけれど、きっとあの男が保護者としての責務を全うしてくれるはずだ。そうと信じ込みでもしなければやってはおれない。最期まで一片の望みは捨てないと決めていた。希望もないのに命を擲つなど馬鹿のすることだ。だから、せめて、あの子供たちだけでも。
 それと、思い残すことが一つだけ。誰より失うことが怖い彼が泣いていないだろうかと考えた。あんな暴走癖のある男を一人残していくことに一抹の不安が過ぎったがすぐに、まあいいか、と思い直した。どうせ彼もそのうちこちらに来るだろうから、それまで待っていてやろう。歪む視界の中、真っ直ぐに化物と視線を合わせて、叫んだ。

 ひょっとしたらこの声が、彼にも届かないだろうかと思いながら。
 待つことが徒労に終わればいい、と思ったのだ。

 なのに、やっぱり彼は来てしまったわけで。馬鹿だ。本当に馬鹿な男だ。そんな状態になっても、まだ進もうとしたのか。ずるい。紅に塗れて、血肉を曝け出して、それでもまだ闘おうとしたのか。あんまり格好良くて、妬ましい程だ。全てに抗い続けたその手が、最期に掴もうとしたものは一体何だったのだろう。床に突き立てられた爪は剥がれて血が滲み、手は傷だらけになっている。
 その手を掴むのは、自分でいいのだろうか。
 視線を奥に巡らせれば、彼の付き進んできた道に折り重なる数え切れない屍。この多勢に打刀一振りで立ち向かったのか。お疲れ様、と労いながら、ゆっくりと彼に近付いた。血塗れで這い蹲った跡が生々しく残る床を見下ろして、その場に膝をついた。そして血塗れの顔に掛かる乱れた黒髪に、もうものには触れられない手をそっと乗せた。ぴく、と僅かに頬が動き、薄く開かれた眸から、いつもの鋭い光を宿した眸が覗いた。
「………待たせ、しました」
 そんな待ってねえよ。もっと待たせろよ、馬鹿。早過ぎるんだ。
 まあ、いいか。
 薄らとどうにか開いたその眸が、ゆっくりと閉ざされていくのを静かに見守った。血塗れの身体から生気が消失していく様をそのままの格好で眺めていた捲簾は、改めてその男に向き直った。既に力の入らない、床にしがみ付いた格好の手の甲に自分の掌を重ねてみる。もうこれも、ただの入れ物だ。腐敗するのを待つだけだった。自分も彼も、もう行かなければ。
 その場からゆっくりと立ち上がり、軍服の膝を払った。そして正面に向かって笑い掛ける。それが何だかやけに、面映ゆい。


 とりあえず、行くか。
 お前ももう、いい加減ヤニ切れだろ。

 あと、ちょっとお前に聞いて欲しいことがあんだけど。……ん、後で聞いて。
 ――――ライター? 心配すんな、ちゃんと持ってるよ。