「どうしてあんな事を仰ったのですか」
 まだ醒めやらぬ驚愕と、沸々と腹の底から沸き上がる怒りに、掌に握り込んだ指先が自分のものではないかの様に氷の如く凍て付き鈍麻してゆく。彼は本当に周囲が持て囃す様な英知の人なのか、それとも単なる馬鹿なのか。今までならば選択肢すら思い浮かばなかった様な疑問に胸が焼けた。几帳面に詰められていた軍服の襟元を緩めながらその麗人は口許だけで微笑んだ。自分が真っ直ぐ彼に向けた視線に、彼の曖昧に逸らされた視線が絡むことはない。
 数刻前に終会した軍議の議題は来週頭に遂行予定の任務についてだった。人手が足らず第一小隊単独での討伐となった今回、しかしそれは小隊一つで手掛けるには大き過ぎるヤマでもあった。彼の口から説明される過酷を極めたタイトなスケジュールに、いつもは多少浮わついた所もある小隊の面々も表情を引き締めている中、何ということもないと言う様に彼は美しく微笑みながら発言した。それは誰もの頭にありながらも隊のナンバーツーが口にしてはならないことでもあった。そしてそれが、彼の心にもない言葉であると永繕は知っていたのだった。
『各々、命の一つや二つ、落とす覚悟くらいして置きなさい』

「副官は愚かで、冷酷であればある程いいじゃありませんか」
 静かに風が木々を揺さぶる木の葉の音しかしない回廊で、腰程までの高さの柱に凭れ掛かり、彼はポケットから無造作に煙草のパッケージを取り出す。その香りの強烈な個性は彼に良く似合っていると思えた。
「副官が人非人である程に、大将の清廉さやカリスマ性が際立つでしょうが」
 実際、彼のその発言に竜王は眉を盛大に顰め、大将は机を叩いて烈火の如く怒った。彼の発言を諌めた大将の言葉は事実清廉そのもので、理想の上官、紛いもなくその人であった。その威風堂々とした語り口にまた信奉者が増えたのは事実であろうし、それが彼の狙いだということも分かる。しかしその為に彼は自らの株を落とし、言いたくもない言葉で自らの心を深く傷付けているのだ。それは代償としては余りにも手酷い。
 彼は誰よりも、誰一人失いたくないはずなのに。
「心にもない事を仰って、そうしてご自身の心を削ってゆかれるのですか」
 シュ、とマッチを擦る音がして直に独特の甘い香が漂い始める。薄紅色の唇から吐き出される息と共に、その煙の色味と香が濃さを増した。
「僕は心の麻酔を持っています」
 何だか分かりますか、と言って彼は顔を上げた。その瞬間、漸く彼の視線と自分の視線が交差した。その問い掛けの真意を測りながら沈黙を守る永繕に、彼は小さく微笑んだ。そして僅かに俯く。
「覚悟という名の麻酔です。痛みなんて、感じませんよ」








ネタ帳より       2009/04/03