誰もが寝静まった深夜。もう誰もいないはずの軍棟の奥まった場所にある、武器倉庫。中からは微かに窘めるような声や、くすくすと笑う低い声と、もう少し高めの声が聞こえてくる。中では男が二人、膝を突き合わせて座っていた。その二人の横には木製の救急箱があり、中から包帯や絆創膏、消毒液などが取り出されていた。
「おら、動くな天蓬」
「沁みるんです、それ」
「たりめえだろ。ほら、顔を上げろ」
「……酷いです、ドS」
「何とでも。ったく、顔に傷なんか拵えやがって」
 両方とも全身傷だらけの状態で、二人は武器倉庫の床に座り込んでいた。両脇にはずらりと様々な武器の収納された棚が奥まで続いている。普段厳重に閉められている鉄の戸が開けっぱなしになっているため、中のものが全て露出していた。
 片方の男、捲簾は頬に大きなガーゼを当てられ、胸から腹に掛けて包帯を巻かれている。もう一人の男、天蓬は、今口元の傷を消毒され、絆創膏を貼られたばかりだ。右目に白い眼帯を付けている。腕にも包帯が巻かれていて、裸の肩から捲簾の上着を掛けられていた。
「あなたそれ、きっと骨折の癖がついちゃったんですよ」
「肋骨のことか」
「ええ」
「だろうな。何度やったか分かんねえし……こればっかはどうにもなんねえわ」
 眼帯をした天蓬は、見えている左目を細めて笑った。少しだけ身体を揺らすと黒い前髪がさらりと目の前を横切る。
「軟弱な骨ですね。牛乳を飲みなさい、牛乳を」
「……悪うございました」
「先陣を切る立場だからといって怪我くらい致し方ないだなんて思ってはいけませんよ」
「心得ております、元帥閣下」
 冗談めかした慇懃無礼な口調でそう言うと、彼はまた薄く微笑んだ。そして、怪我をしたのとは逆の左手を、ゆっくりと持ち上げた。そしてその指先が、なぞるように捲簾の頬のガーゼに触れる。その顔の怪我は火傷だった。当分多少跡が残るだろうが、この果てのない天界の永遠ともいえる永い時間に曝されて、ゆっくりと治癒していくに違いない。痛みも、傷痕も、全て。記憶すらも。
「……ガーゼが外れても、当分ケロイドが残りますね」
「嫌か」
「いいえ。あなたの一部ですから、愛しいですよ」
 天蓬は何でもないようにそう言って微笑んだ。どこまでが冗談でどこからが本気なのか、真意を汲み取れなくて捲簾は目を瞠る。そして真意を探るように天蓬の左目を覗き込み、結局何も分からずに、諦めたように肩を竦めた。
「お前、やっぱり性悪」
「おや、素直に愛を表現したつもりでしたが……お気に召しませんでしたか。残念です」
「信じて糠喜びは出来ねぇなぁ」
 そう言って捲簾は片目を細めて笑った。天蓬もそれを見て、薄めの唇で弧を描いて薄らと微笑む。いつもいつも、その笑顔が綺麗であればあるだけ彼が分からなくなった。愛を信じていないかと言えばそういうわけでもない。これは一種の言葉遊びだ。素直に喜んでしまえば甘い雰囲気にもなろう。しかし今の場所、雰囲気、彼や自分の身体の状態を思えばそんな気にはあまりなれなかった。ただ、確かに彼なら自分の傷まで愛してくれそうな、そんな気がして嬉しいのも事実だった。ただ、少々おかしな愛だとは思うが、それは自分に言えたことではない。彼の頬に流れる血の筋一つ愛しく思う自分に、そんなことを言えるわけがないからだ。
 今までにない、規格外の愛だった。それは捲簾の規格を外れすぎて、愛というカテゴリに当て嵌めていいものかどうか戸惑ってしまうほど。愛でるでもなく、守るでもない愛。毎日会わなきゃ、と強迫観念に駆られるわけでもなく、何となく会いたくなれば傍に行く。その頻度が、少し早いだけ。傍にいると呼吸が楽(になる気がして)で。どれだけ汚く荒れた部屋でも、彼の部屋にはどこかいつも、自分の居場所が確保してあるような気がしたから。


 武器庫という外部からの侵入を固く拒む場所だというのに、その部屋には何故か窓があった。外側から内側から二重に鉄格子が巡らされているものの、確かにそこは外に臨んでいた。
 月が見える。
 まるで月が鉄格子に囚われているように見えた。


 背後の月をじっと見つめていると、前方から自分の胸へぽさ、と何かが寄り掛かってくるのを感じて捲簾は前に顔を戻した。
「どうした、……痛むのか」
「……少し。少しだけです」
 敵の攻撃に因って右の眼球に傷を負っている彼は、顔の右半分を手で覆って、捲簾の方に額を載せて押し黙っている。必死で耐えているのだ。どうやら彼の身体は、生まれ付き薬類を一切拒んでしまうように出来ているらしい。深くは語らないが、それは軍医も承知の上らしく、いつもどんな怪我をしたとしても鎮痛剤の類を一切処方しなかった。右腕の怪我も、右目の疼痛も、薬によって少しも解消されることのないまま、こうして普通に話していられるのだから大した精神力……否、意地っ張り根性だ。
 僅かに震えている彼の右手をどうしていいのか分からない。ただ、背中を丸めて怯えるように自分に身を寄せてくるそれが、いつもの彼と重ならなくてどこか心許なかった。そっと手を伸ばしてその丸まった背中を撫でてやると、彼が細くゆっくりと息を吐くのが分かった。
「……っ」
 痛みが走るのだろう、時折声を漏らしそうになりながら彼は肩を跳ね上げる。こんな風になるならばいっそ失神して眠っていればいいものを、彼は無駄に強がりで、気を失うことすら躊躇ったのだった。あるいは、鋭い痛みのせいで気を失うことすら出来ないのか。
 今ここで自分が彼の腹を殴るなりして失神させてしまえばいいのだ。そうすれば彼はこの晩、穏やかに眠ることが出来る。彼がそれを望まなくてもそれが一番いいのだと解っていた。酷すぎる痛みは精神を蝕む。断続的に与え続けられる痛みに耐え切れなくなった時、人は狂ってしまう。生憎まだ体験したことのない未知のゾーンだ。
 ひくひくと痛みに喘ぐ背中を擦りながら、その手をじっと見つめる。やはり今の彼を殴るなどということは到底出来そうになかった。
 彼の髪に顔を寄せてみれば、微かに血生臭く、土や火薬の匂いがした。担いで風呂に連れて行けばいいのだろうが生憎と捲簾も手負いで、怪我人を風呂に入れるというところまでは出来そうになかった。そもそも自分自身も入れずにいるのだから致し方ない。
 しかしこの匂いは、戦場を思い出させて仕方なかった。落ち着かない。

「……捲簾」
「どうした」
「視界が、赤いんです、血で、いっぱいで、」
 口調がどこかおかしい。熱に浮かされているようだ。慌てて彼の額に手を当ててみるが、特に熱が上がったようには感じられなかった。
「落ち着け、どうした」
 足の間にいる、顔を手で覆って蹲る身体を胸に抱き込んで辛抱強くそう問いかける。
「……っ、っ、」
 しかし彼は喉をひくつかせるばかりで何も口にしようとしない。言葉が発せないのか、それとも話をしたくないのか。どちらでもいい、と捲簾はその背中を少し力を込めて擦った。肉付きが悪い背中から浮き出る肩甲骨を指でなぞるように。
 不殺生が原則とはいえ、捲簾も天蓬も何かを斬った経験がないわけではない。そんな甘いことを言えるのは一度も生命の危機に晒されたことなどない温室育ちの上級神くらいだ。誰だって命の危機を感じれば咄嗟に反撃してしまうもの。だから、完全に直接何かの命を絶ったことはないものの、所謂半殺し程度の経験ならば何度でもあった。
 初めて他の者の血液を浴びた日のことを忘れることはなかった。特有の鉄臭さとぬめり、ついさっきまでその相手の体温だったはずの生温い温度が、頭の上から液体となって降り注ぐ。
「大きく息を吸って、ゆっくり細く吐くんだ」
 耳朶に唇が触れそうなほど耳元に口を近づけて、彼を刺激しないように耳に言葉を注ぎ込むように囁く。天蓬は大人しくそれに従った。震えながらも息を吸い込み、細くゆっくりと吐いていく。暫く繰り返すうちに彼の喉はヒューヒューと掠れた音を立て始めた。彼が自分の肩に額を擦り寄せる力が、少しだけ強くなる。
 決して天蓬は弱い男ではなかった。寧ろそこらの男よりも強靭な精神を持ち合わせていた。ただ彼は、常に強くあれ、とされる元帥の地位にいた。只の一つも弱音など漏らすことを許されぬ。言葉でも、表情でも態度でも、である。
 後頭部に右手を、背中に左手を回して愛おしむように撫でる。次第に落ち着いてきた様子の彼は、ゆっくりと息を吐きながら捲簾の肩に額をそっと擦り寄せて、ゆっくりと身体を起こした。

「……少しは落ち着いたか」
「すみません、みっともない真似を」
 やっと見えた彼の顔は見るからに青褪めていた。背後から差し込む青白い月明りのせいでその気色が一層強まる。右手で頭を押さえながら、彼はそっと捲簾から離れようとする。それを肩を引き寄せて止めた。
「このままでいろ、動くと傷に障る」
「……でも、臭うでしょう。……血」
「今更だ。それに、俺も同じ臭いがしてる」
 今日現れたのはいつもの妖獣ではなかった。下界の人間。相手が人の形をしているというだけで、銃口を向けるのが躊躇われてしまうのは何故だろうか。それは天蓬も同じだった。その一瞬の迷いが、彼の右目の怪我の原因だった。彼は右目を斬り付けられ反射的に抜刀し、峰打ちなどする時間の余裕もなく、人を斬った。勿論それは死に至る傷ではなかった。ただ、大きな血管を傷つけたらしく、大量の血が彼の頭から降り注いだ。それは彼の髪を濡らし、軍服を濡らし、白い肌を濡らした。天蓬の刀から、鮮やか過ぎる紅がつう、と滑り流れて足元にぱたぱたと血溜まりを作る。
 視界が赤く染まる。壊れた眼鏡が、血溜まりの中に小さな音を立てて落ちる。天蓬の頬を、紅い涙が一筋、滑り落ちた。異臭の漂うその異常な光景の中、そこだけが切り取られた美しくグロテスクな絵画のようだった。この天界では間違いなく穢らわしいとされる光景だった。ただ捲簾にはそう思えなかった。
 彼にだけある経験ではない。勿論自分にもあった。不殺生であっても、何者も傷つけずに、などと出来るはずはなかった。たとえ軍人が何者も傷つけずにいようとしたならば初陣で死を選ぶほかないからだ。
「金蝉や悟空には、当分任務で天界にはいないと伝えて貰えますか」
「……分かった」
 会えないのだ。合わせる顔がないのだ、あの穢れを知らない二人には。
 すっかり衰弱してしまったように、天蓬は身体をすっぽりと捲簾の胸に預けてどこか遠くを見ている。呼気は穏やかだ。誰もいない軍棟は物音一つしない。その中でも厳重に締め切られたこの武器庫内は、何の音も聴こえなかった。胸の鼓動すら壁に反響しそうだった。
 天蓬の上着は洗ってどうなるレベルではなかったので捨ててしまった。血に塗れた髪もとりあえず洗わせて身体中を濡れたタオルで拭いてやった。血はそんなもので拭い去れるものではない。臭いとなれば、尚更。
 捲簾は、右腕で彼の身体を支えたまま左腕を伸ばした。そして横に落ちている自動小銃を拾い上げる。グリップの辺りには手の型に血がこびり付いていた。捲簾の血かも知れないし、捲簾が手に掛けた下界人の血かも知れない。

「捲簾」
 不意に名前を呼ばれ、その血の痕を辿っていた捲簾は思わず銃を取り落としそうになりながら、何だ、と訊ねた。
「いて下さい」
「……」
 腕の中でマリオネットのように力を抜いたまま、天蓬はそう、平坦な声で囁いた。顔を覗き込んでみれば、月明りだけの武器庫内で、その鳶色の大きな眸は妖しく輝いて見えた。そして一切の感情は排除されている。しかし彼の表情から感情が見えないなんて、いつものことだった。
「いるよ」
 そう言うと、人形の目は少しだけ揺れた。ああ一体彼が何を怖がってどうなりたいのか解らない。肝心な時に言葉が足りなさ過ぎる。
「怖いのか」
 そう問えば、彼は視線を少しだけ上げて、その目に捲簾を映して、ゆっくりと口を開いた。
「怖いですね」
「俺がいなくなるのが、か」
「いえ」
「じゃあ」
「あなたがいなくなって、自分がどうにかなるのが、です」
「どうにかなるのか」
「さあ、生憎まだそういう事態に陥っていませんので」
 そして彼は捲簾から視線を外した。彼の目はじっと、床に落とされた自身の刀を見つめている。柄にも鞘にも取り切れないほどの血の染みが浮き出ていた。刀をそう易々と捨てるわけにはいかない。次の出陣指令が下りれば、天蓬はまたその刀の柄を握ることになる。幾重にも重なった彼の罪の証だった。いずれの血の主も、死んではいない。少なくとも、天蓬によって与えられた傷が原因では。ただそのまま放置されて手当てをされることなく死んだかも知れないし、傷口から感染症にかかって死んだかも知れない。
 軍人として、誰の死とも係わらずになど生きられようか。
「……いえ、違うかな」
「何」
「あなたがいなくなったらどうにかなってしまうかも知れない、と気付いてしまったことに、ですか」
 どうにかなるか、ならないか、それはその時にならなければ解らない。ただ、その可能性に気付いてしまったことで不安になる。

「今更だろ」
「何を……」
「お前がいなくなったらどうにかなるかも知れないなんて、俺が今まで何度考えたと思う」
 それは確信に基づいた予感だった。彼がいなくなれば、自分の中の何かが変わってしまいそうな予感。それに対して、彼がいなくなったとしても何一つ変わりはしないのではないかという予感もする。狂ってしまうのか、それとも彼を忘れて、そのままいつもの日常を繰り返すようになるのか。それこそその時にならなければ解らない。今この瞬間に腕の中から彼が消えたとして自分がどうなってしまうのかなんて。解りはしない。ならばどうなってしまうのか解らないような未来を迎えないようにするまでだ。失わなければいい。
 俺の傍からいなくなるな。俺を狂わせるな。
 お前の存在が俺を人にさせている。

 暫く驚いたように捲簾を見上げていた鳶色は、どこか物憂げに伏し目がちになった。そして唇から細く息が吐き出される。
「共依存なんて、とても好い傾向とは思えませんね」
 そう言う彼の口調には僅かな嫌悪が入り混じっていた。それは自分に寄り掛かってくる捲簾に対してのものか、他のものに寄り掛かるほどに弱くなってしまった自分に対するものか。捲簾にはそれを判断する術がなかった。



 再び、彼の左手が捲簾の頬に伸びる。白い指には五本中三本に絆創膏が巻かれている。その傷だらけの指がガーゼの上を滑った。
「好い月夜ですね」
 背中を捲簾の右腕に支えられながら、天蓬はそう呟いた。口元は僅かに微笑みを形取り、甘えるように頭を捲簾の右肩に預けた。視線は少しも捲簾から離れることはないのに。
「ああ」
 白い面に蒼白い月明り。この腕の中の存在に熱がなかったら、人形か屍かと疑うところだ。しかし確かに、彼を抱く自分の腕には彼の熱が伝わってきた。生きている。血が流れているのだ。蒼白いその頬の下に確かに血が通っている。
「綺麗だ」
 その言葉に彼の口角がゆっくりと持ち上がった。その笑みの美しさにぞっとした。もうとっくに自分はこの魔物に魅入られてしまったに違いない。その二人といない魔物が腕の内から逃げぬよう、力を込めて抱き寄せた。逃がすくらいならば自分の身をも餌にしてそれを引き留めよう。互いが互いに囚われ続ければいい。
 窓の外で、格子の内に囚われた月が笑っている。












キーワードは「夜中・軍棟・武器庫・怪我・逢引・秘密・手当て…眼帯天蓬・アバラクラッシュ捲簾」など。
片目だけ包帯と眼帯、どっちがえろいかを悩みました。ちなみに海賊みたいなやつじゃなくて、薬屋で売ってる白い眼帯。
BGM:「のうぜんかつら」*安藤裕子        2006/7/23