寒い日は、誰かに沿い寝して欲しいものです。
 そう思いつつも一人でベッドに入った夜、ふっと目を覚ますと隣には心地のいい温もりがあった。昨日は出掛けていて夜遅くまで帰ってこなかった恋人が帰ってきてもぐりこんできたのだろうか、と半分眠ったままにやけて、布団を少しだけめくってみた。さらりとした濃茶の髪の毛が覗いて何だか嬉しくなり、その細い身体を抱き寄せた。その途端、それまでじっとしていた身体がもぞりと身動ぎした。その時、腕の中から溢れた髪の毛は肩に付くほど長かった。過去の悪事の自覚は身に沁みているため、その瞬間頭を過ぎった可能性に頭から血が下りた。まさか恋人は帰ってきていないだろうか、帰ってきていたとしたら気付かれる前にどうやって逃がすかとその一瞬の内に考えてしまう自分の頭が憎い。焦りつつも腕に抱いたその身体を離せずにいた。せめてその相手が顔見知りかどうか、話の分かる女かどうか知りたくて、恐る恐るその顔を覗き込んでみる。うつ伏せになって寝ているその顔が目に入った瞬間、悟浄はそのまま固まった。
(て、ててててて)
「天蓬、さん……?」
 女ですらなかった。悟浄の腕の中で身体を丸めた、美しい顔をしたその人は、悟浄の腕の中で小さくクンと鼻を鳴らした。そしてシーツに顔を擦りつけて唸りながら顔を顰めた後、ゆっくりと瞼を上げた。面差はよく似ているのに、その榛色は恋人の持つ翠色とは全く違うそれ。多少不健康なほどの白さや、漂う僅かな頼りなさも全く違う。恋人の会社の先輩である、天蓬だった。恋人繋がりで何度か飲みに出掛けたり家に訪ねてきたこともあった。しかし、どうしたことだろう。昨日彼と会った覚えはない。昨日は確かに家に帰ってきてから素面のまま一人で寝たのだ。酔いに任せてつい、ということも有り得ない。だとしたら一体夜に何があったのだろう。背中にじわりと汗が滲む。その無防備な子供のような目がぱちぱちと瞬いた。そして光を取り戻したその眸が悟浄の間抜けな顔を映す。
「な、ななな何をどうしてここに……」
「……ええと……夜這いに来ました」
「は」
「なのに何やってもあなたが起きないから、つい一緒に寝ちゃったみたいで……」
「な、なななななんだって? 夜這い? 何で? 何で俺? えっ、あんた恋人」
「恋人をあなたの恋人に取られたので、あなたを逆に襲ってやることにしたんです。なので準備も万端です」
「はぁ――!?」
 彼の恋人は悟浄の恋人の大学時代の友人だ。その繋がりで知り合うことになったわけだが。その二人は大層仲が良くて、何の問題もない関係だと思っていた。そしてその言葉を寝起きのぼんやりとした頭でゆっくりと理解していくうちに、その衝撃的な言葉が頭に染み透ってくる。と同時に慌ててベッドから起き上がった。
「何ッ、八戒が、……でええええ!?」
 慌てる悟浄をそのままに、うつ伏せで寝た格好のまま、また再び眠りに落ちていきそうな様子である。その肩を揺さ振って彼の意識を引き戻しつつ、ふと自分が下に履いているスウェットが大分ずり下がっていることに気が付いて血の気が下がった。まさか本当にやってしまったのだろうか、と彼の様子を窺えば、身に着けているのはワイシャツ一枚で下は恐らく……裸。
「ど、どういうこと?」
 そう訊ねると、枕に顔を埋めて片目でじっと悟浄の様子を窺っていた天蓬は、拗ねた子供のように唇を尖らせながらぼそぼそと事情を話し始めた。恋人がこのところ二週間ほどまともに家に帰って来ないこと。帰ってきたかと思えば電話ばかりしていて、履歴をこっそり調べたところ、悟浄の恋人の履歴がずらりと並んでいたこと。ぽつぽつと話される言葉に悟浄の興奮は先に醒め、いつも強気な彼がそんな打ちひしがれた様子でいるのが何だか可哀想で、その小さな頭にそっと手を伸ばした。艶のある濃茶の髪を梳くように撫でながら、彼の言うその話を静かに頭の中で反芻した。
「それって昨日も、一昨日も?」
「昨日も一昨日も、その前もです。日付が変わって三時頃にやっと帰ってきて、朝早く出ていっての繰り返しです!」
「……八戒なら、昨日は確かに遅かったけど、一昨日もその前も、七時頃に帰ってきて一緒に飯食って、夜一時頃一緒に寝たけど」
「え?」
「いや、マジな話。っていうか、ここ二週間で夜遅く帰ってきたのなんて二回くらいだけど。そういや確かに電話は何回もしてたな」
 悟浄に隠れて電話をしている様子でもなかったし、部屋からその声は筒抜けだということくらい彼とて分かっているだろう。その電話は興奮した相手を窘めるような内容だったのを覚えている。決して色っぽい内容ではなかったのは確かだ。彼の話を聞いた直後は焦ってしまったが、考えれば考えるほどあり得ない話に段々と冷静になってくる。混乱したようにじっと悟浄を見上げていた眸は徐々に潤み始め、その端からころころと涙の雫を零し始める。ぱたぱたとその雫がシーツに落ちる段になって、悟浄は再び焦り始めた。
「ちょ、まっ、泣くことないだろ!」
「じゃあ、あの人は一体どこの誰と一緒にいるって言うんですか! 二週間ですよ!」
 白い頬を伝う涙を見ていられなくて、ベッドサイドからティッシュ箱を取って二、三枚引き抜いてそれで頬を拭ってやる。それでも涙は止め処なく溢れ、頬をすぐに濡らしていく。ずっと自分よりも大人で、いつも感情を表に出すことのない彼が子供のように泣きじゃくる様子は胸を突き刺すようだった。この状況の不思議さは置いておくとして、とにかく天蓬を宥めることにした。ベッドの上、漸く起き上がった彼はティッシュを目に押し当てたまま小さくなって座っている。項垂れたその小さな頭を撫でながらほとほと困り果てて頭を掻く。
 正直なところ、悟浄は天蓬の恋人をよく知っているわけではない。会うことはたまにあるが親しいわけでもないので軽く会釈をするくらいだ。しかし、多少自分に似た匂いを感じないでもないので、浮気は決してあり得ないとも言い切れないのである。
「でもまあ、遊んでるだけかも知れねえし別に浮気とは……」
「絶対違います。毎日毎日遅くに帰ってくるくせに、洗濯物は一枚も出してません。絶対どこかで洗ってもらってるんです」
 こういう時は何を言っても無駄だということは今までの経験で痛いほど分かっている。こういう時は反論はせず、肯定もせずに黙って話を聞いてやらなければ余計に興奮してしまうのだ。
「大学の友人が、何だって言うんですか、先に知り合ったから何ですか」
 しくしく泣き続ける彼を撫でながら、悟浄はそわそわしていた。いつ恋人が帰ってくるか分からない時にこの状況はかなり拙いのではないだろうか。相手はシャツ一枚羽織っただけのほぼ裸、しかも泣いている。しかもその相手は恋人の会社の先輩でかなり慕っている様子だった。あちらのカップルの不仲がこちらにまで飛び火するのは勘弁して欲しいのである。
「と、とりあえずさ……えー、八戒が帰ってくるまではまだまだあるし、もう少し寝た方がいいって。な? ここのベッド貸すからさ」
 そう言って聞かせ、彼を静かに横たわらせた。暫く枕に顔を埋めて啜り泣いていた彼はそのうち静かになった。規則正しく身体が上下し、静かな吐息が耳に届いた。ずっとその頭を撫でていた悟浄は漸くほっとして息を吐いた。そしてそっと手を離す。覗き込んで見れば、擦ったせいか僅かに赤らんだ目元が痛々しかった。顔に掛かった横髪を耳に掛けてやりながら再びそっと頭を撫でた。その瞬間、唐突に響いた音に心臓がぎゅっと握られたような感覚を味わった。恐る恐る開かれたドアの向こうには、きょとんと目を見開いた恋人――八戒が呆然として立っていた。
「あ……は、八戒さん、お早……」
「どちら様です」
「え、いやその、いや、違うよ!? 別にそういうことしてたわけじゃないぞ!」
「人が徹夜で仕事して帰ってきたっていう時に、あなたは……ッ! どこまで不実な男なんですか!」
 呆然としていた顔は静かに微笑みの形に歪められた。その微笑みは全身が総毛立つようなおぞましい微笑みで、裸の上半身にはさっと鳥肌が立った。その背後には禍々しいオーラが溢れんばかりに満ちており、そのまま身動ぎも出来なかった。一旦部屋に背を向けてどこかに向かった彼は、何かを手にして再び部屋に戻ってきた。鈍く光るそれは、使い込まれた断ち切り鋏だった。殺される、とその瞬間分かった。自分の寿命をここまでリアルに感じたのは初めてだった。ふふ、と静かに笑った八戒は、その鋏を手にゆっくりとした足取りで部屋の中へと踏み込んでくる。
「この鋏……最近錆びて切れ味が悪いんです……錆びたナイフって、痛いって言いますよね、試してくれませんか」
「は、八戒! 本当に違うってば……話を聞けえ!」
「どれ、殺す前に女の顔を拝ませていただきましょうか。そのブッサイクな顔を」
 全く隠すつもりがなさそうなその棘だらけの言葉に思わず震えが来る。右手に鋏を持ち、左手で無造作に悟浄の隣で眠る人間の髪を鷲掴んだ八戒はその顔を覗き込んだ。そしてその瞬間慌てて手を離して身を離した。後退りをしながら悟浄を見上げたその顔は、先程とはうって変わって焦りに満ちている。
「てッ……天蓬さんじゃないですかっ……ちょ、そうならそうと早く言って下さいよ! 天蓬さんに乱暴するところだったじゃないですか!」
 本気で焦った様子で悟浄に食って掛かってきた八戒は、眠っているところに乱暴な扱いをされた天蓬がむにゃむにゃと唸っているのに慌てて口を押さえた。そして今度は声を潜めて悟浄にぐっと顔を近づけてきた。
「したんですか、天蓬さんと……!」
「し、してません……」
「じゃあどうして天蓬さんがこんなところに! 天蓬さんがこんなっ……悟浄が無理矢理誘ったに違いありません!」
「ちょ、冤罪にも程があるッつーの! この人が勝手に潜り込んできたんだよ」
「言い訳にしてももうちょっとマシな嘘が吐けないんですか馬鹿!」
「ばッ……」
 あまりにあまりな恋人の暴言に悟浄は言葉を失った。頭をふっと過ぎったのは『ドメスティック・バイオレンス』だった。精神的暴力にも程がある。ベッドの上で沈み込む悟浄を放ったまま、八戒はいそいそと天蓬の上に布団を掛けてやっている。そして先程自分が掴んだせいで乱れた髪を梳いてやったり撫でてやったりと実に献身的だ。八戒が天蓬を慕っているのは前々から知っている。それが、とても先輩を慕う後輩というレベルとは思えないことも。チャンスがあれば彼の恋人から奪う気でいるのではないかとすら思えてくるのである。そうしたら自分はあっさり捨てられるわけだ、笑い事ではない。しかし今の悟浄はその彼に一言物申すことすら出来そうになかった。眠り続ける天蓬に向かって先程の無礼を謝り続けている恋人を見ていたら目から液体が出てきそうだった。
 暫く哀しみに暮れていた悟浄は、恋人の視線が漸く自分に向けられたのに気付いて一度咳払いをした。
「もう一度言うけど、本当に俺は何もしてない。昨日はお前が遅くなるっていう電話を受けてから帰ってきて、軽く飯食った後一人で寝たよ。んで、さっき起きて気付いたら隣に天蓬さんがいて」
「そこがおかしいです。どうして天蓬さんがうちに来て、しかもあなたのベッドに入るんですか。それを説明できる理由があると?」
「あるよ」
「言って御覧なさい」
 自分を論破出来るのならやってみろと言わんばかりの態度に、悟浄も流石に苛立ちが募り始めていた。
「天蓬さんは恋人の浮気を疑ってました。そしてその相手をお前だと思ってました。そんで哀しみに暮れて嫉妬に狂った天蓬さんは逆にお前から俺を奪ってやろうと思ったらしく、夜這いを仕掛けてきたけど俺が何をしても起きなかったのでつい隣で寝てしまったと。……嘘だと思うんなら、天蓬さん起こして聞いてみろよ。さっきまでずーっと泣いてたんだからな」
「泣いてッ!? 天蓬さんが!?」
 気にするところが違うだろう、と再び悟浄ががっくりしていると、漸く重要な点に気付いたらしい八戒は顔を青くした。
「は……捲簾が浮気して、相手が僕だと……え、どうしてですか?」
「お前、このところ何回も何回もそいつと電話してたんだって? そんでそいつ、ここ二週間くらいあんまり家に帰ってねんだと。それでお前と毎晩会ってるに違いないって思ったらしいぜ。こーんな頭がいい人でも、恋人のことになると頭が回らなくなるんだな」
「捲簾となんて冗談じゃありませんよ! どうせ浮気するなら天蓬さんとしたいです!」
「ちょ、だからお前さっきから言うこと言うこと酷すぎるっつーの! っていうかそういう問題じゃなくてね……天蓬さんがそう思い込んでるっていうこと自体が問題なの。ったく、誤解されるような真似すんじゃねえよ」
 そう悟浄がひとりごちた瞬間、八戒の翠の眸が凄烈な光を帯びた。
「何ですかそれ……僕が悪いって言いたいんですか!」
「お前と捲簾以外の誰が悪いんだよ! 俺は何にも悪くねえし、天蓬さんはもっと悪くねえだろうが!」
「天蓬さんが悪くないというのは同意です、だけど僕だって悪くありませんよ!」
「何かあるごとに捲簾と呑みに行くだの出掛けるだのって、女子高生でもあるめえしいい歳して一人で行動出来ねえのか!」
「何ですって!? 元カノだのオトモダチだの、女とばかり呑みに出掛けてるあなたがどんな顔してそんなことを言うんですか!」
 丁度話がずれ始めた頃、ベッドですやすや眠っていた天蓬が、周りが煩いせいかむにゃむにゃとまた唸り始めた。まだ何か言いたげだった八戒も一旦口を噤み、ちらりと悟浄を見上げた。
「……続きはリビングでしましょうか」
「おう」
 悟浄は近くに落ちていたシャツを拾い上げて腕を通した。再びきちんと天蓬の身体に布団を掛けた八戒は、悟浄の身体を多少乱暴に押しやって悟浄の部屋を出た。ぱたりとドアを閉めた後、再び八戒の眸はぞっとするほどの冷たい光を宿した。しかし苛立ちは最高潮で怖い者なしの状態である悟浄はそれを見ても退くことはない。自分とて、天蓬ほど暴走しないものの大学時代の友人と未だに仲の良い八戒に対して苛立っていなかったわけではない。天蓬がああして突飛な行動に出たのも今までのそんな鬱憤が溜まっていたからだろう。あの天蓬を見ているとまるで自分を見ているようで哀しみや苛立ちが倍になった。
「天蓬さんが不憫だぜ、あんな男に引っ掛かっちまってよ」
「それには同意ですけど、僕は悪くありません。僕はただ、ちょっと相談に乗ってただけです」
「相談て?」
 そう訊ねると、一瞬嫌そうに顔を顰めた八戒は、少し顔を逸らしながらぼそりと呟いた。
「最近天蓬さんが元気ないってね。それで色々と相談に乗ってたんです……電話も全部そのせいですよ」
「元気ないだぁ!? そりゃお前のせいだろって……え、じゃあこのところまともに家に帰ってないとかいうのは何……?」
「纏まった休みを取るために残業してるとか言ってましたよ。よく知りませんけど、旅行とかでも考えてるんじゃないですか」
「は……だったら、電話なりメールなりしてやったらいいじゃねえか! わざわざ隠して淋しがらせて疑わせて何がしてえんだよ」
「知りませんよ! ドッキリでもやりたいんじゃないですか……」
 その後二人は沈黙した。考えていることは二人同じであろう、そう思っていると、その気持ちを代表したように八戒は舌打ちしそうな勢いで憎々しげに呟いた。
「何だ……捲簾がそんな風に分かりやすくこそこそしたのが悪いんじゃないですか……隠すなら完璧に隠せばいいのにあの馬鹿」
 手にしていた鋏をテーブルに置いた八戒は、暫く何か考え込んでいる様子だったが、ふと何か思い付いたようにそのまま近くに置いてあった悟浄の携帯電話を手にした。そしてそのまま再び寝室へと戻っていく。自分の携帯電話を何に使う気だと慌てて付いていくと、八戒は携帯電話を開き、突然カメラの画面を起動させた。そしてそのレンズを、ベッドでぐっすり眠る天蓬の顔へ向けた。暫くして間抜けな「ぴろりーん」という音と共にフラッシュが焚かれた。立ち上がり、ボタンを暫く弄っていた八戒は、ふうと息を吐いた後携帯電話を畳み、それを悟浄に向かって放り投げた。何をしたのかと慌ててそれを開く悟浄をそのままに、八戒はリビングへと戻っていく。携帯電話を弄りながらそれを追った悟浄は、結局何をされたのか分からず八戒に食って掛かった。
「おい八戒、一体何を……」
「あんまり腹が立ったので捲簾に送りました。天蓬さんの乱れた寝姿ショットを。悟浄の名前入りで」
 頭を掻こうと持ち上げた手はそのまま止まった。そして慌てて送信ボックスを確かめるが削除された後だ。指先が震えてくる。
「ばッ……馬鹿野郎! 俺がブッ殺されるわ!」
 大して話をしたことはないが、その言葉の端々や八戒から聞かされた話だけでもその男の独占欲の強さや腕っ節の強さは知れてくるというものだ。危うきには進んで近付いていった若い頃と違って今は平穏を望んでいるのである。眠れる獅子には寄りたくない。慌てた顔をする悟浄を見て八戒は「知りません」と言ってぷいと顔を逸らした。
「……何怒ってんの。女子高生って言ったの怒ってんの」
「別に」
「暴言ならお前のがよっぽど酷かったぞ」
「何?」
「何でもありません。……でも別にいいし、もし捲簾が怒ってここに来たとしても、天蓬さん起こして本当のこと話してもらえばいいし」
「話してくれればいいですけどね」
「……」
 そうだった、と冷静になった。あの意地っ張りで天邪鬼な人が大人しく捲簾の前で事情を話すだろうか。自棄になってとんでもない行動に出ないとも言い切れない。そう考えて焦りつつも意識の半分は八戒の方へと向かっていた。彼は何とも思わないのだろうか。仮にも恋人が誰かに盗られようとしている時の態度とは思えない。そう考えると、先程静まっていた怒りが再び再燃し始めた。
「ほおー……それじゃ八戒が俺が天蓬さんの方に行っちゃっても別に構わねえと、そういうわけか」
「どうしてそうなるんですか、極論過ぎるんですよ」
「自分が何言っても俺が離れていくことなんてねえだろうと思ってんだろうが! 俺にだって不満はあるし鬱憤だって大分溜まってるよ!」
 珍しく声を荒げた悟浄に暫く呆然としていた八戒は、その言葉を飲み込んだ後再びその綺麗な顔に怖気立つような微笑みを浮かべた。しかし悟浄とて今引くわけにはいかない。ここは男の矜持だった。
「ああそうですか! 分かりましたよすぐにでもこの家を出て行きます! 二度と会うこともないですね!」
「おーおー出てけ! いい嫁さんでも見つけて楽しい家庭を築けよ、俺みたいなのなんてさっさと忘れてな!」
 そう言って悟浄が近くのテーブルを思い切り叩いたのと同時に、玄関の方からドアを物凄い勢いで叩く音が響き始めた。同時にチャイムが近所迷惑なほどに連打される。血の気が降りた。八戒も同じことに思い至ったのだろう。恐る恐るという様子で八戒は玄関の方へと向かった。動くことも出来ずにその場に立ち尽くしていた悟浄は、開錠される音と共に邪悪なオーラを纏ったそれがゆっくりと自分に近付いてくるのが目に見えないのに分かった。頭の中に鳴り響く音楽は某暗黒のフォースを使う暗黒卿のテーマだった。そしてそのものずばり、上下黒の装いでゆったりとした足取りでリビングに入ってきたその男は、悟浄の存在を認め、そのただでもあまり目付きの良くない目でギロリと睨んだ。蛇の前の蛙よりも分が悪いような気がした。その男の後ろからきまり悪げな顔をしてリビングに戻ってきた八戒は、悟浄の救いを求める目に気付いているだろうに、すい、と視線を逸らした。恋人を見捨てる気か、と先程の遣り取りを忘れてそう思いながら、一歩後退りした。暗黒のフォースに満ち満ちている目の前の男はそれを見て一歩前進した。
「どういうことか説明してもらおうか……」
「ちょ、は、はい、話すから、話すからちょっと落ち着いて座ろうぜ……な」
「そうですよ捲簾、ちょっと座って下さい。今コーヒーでも淹れますから」
 そんなしおらしい申し出をしつつ、この場から逃げたいという感情が駄々洩れである。長い付き合いである気安さからか、暗黒のフォースを気にすることもなく捲簾の腕を引いてソファに座らせた八戒はひとりでさっさとキッチンへと引っ込んでしまった。逃げたのだ。座ったまま悟浄を睨み上げた捲簾に圧されるように近くの椅子に腰を下ろした。
「説明を」
「……あんた、このところ八戒と電話ばっかりしてただろ」
 どこから話そうか考えた悟浄は、まずそこからとっかかりを作ろうと口を開いた。しかし何が地雷だったのか、ソファからゆらりと立ち上がった捲簾は悟浄の前まで歩いてきて静かに胸倉を掴み上げた。その目は本気だ。静かな動作だったけれど、それは悟浄がどう動こうと捕らえられる柔軟な立ち格好だった。逃げようとしたら、首根っこを圧し折られかねない。
「恋人取られて悔しかったから逆に取ってやろうと思ったっつうのか? あ?」
 その形相も声も何もかも恐ろしかったけれど、その全く的を射ていない言葉を聞いていると脱力感しか湧いてこなかった。一体自分は折角の休日に何をしているのだろう。朝から隣に寝ている美人にびっくりさせられ恋人に殺されかけて、冤罪でその美人の恋人に殺されそうになっている。何て薄幸の人生だろう。深く深く溜息を吐いた後、げんなりしながら悟浄は口を開いた。
「……違うって。それは、あんたの恋人。天蓬さん」
「……は?」
「天蓬さんが、あんたの八戒との浮気を疑って、俺を寝盗っちゃおうと思ったという……まあそんだけの話でさ。しかもそれも未遂だし」
 多分、というところは言わずに置いて「だから離して」と言うと、呆然と悟浄の話を聞いていた捲簾の手は緩んで、その間から悟浄のシャツの襟は解放される。漸く楽になった悟浄は襟を直しながら態とらしく溜息を吐いてみせた。
「あーあ、あんたの浮気の巻き添え喰らって俺ってばカワイソ」
「何……!?」
「一番カワイソーなのは天蓬さんだけどね。あんな大人が声殺してシクシク泣いてさ。頭は良い癖に男見る目はないってことか」
 再び折角正した襟を掴み上げられ、悟浄はその男の顔を睨みつける。先程の勢いはない。悟浄の話に明らかに動揺している。
「離せよ」
「浮気なんてしてねえ」
「俺は知ったこっちゃねえよ。八戒が浮気してたとしたら別れるまでだ。さっきまでその話をしてた。あんたに熨斗付けてくれてやる」
 態と彼を挑発するようなことばかり口にする。苦虫を噛み潰したような顔になった彼は、手を離すタイミングすら逸したようだった。彼の手首を掴んで自分のシャツから手を離させる。リビングに横たわった沈黙は重苦しく、突破口も見出せそうにない。その中、恐る恐るトレイを手にした八戒がキッチンから出てきた。三つのカップが湯気を立てている。何も言わずにカップをダイニングテーブルに置いた。しかし誰も手を付けられない。きまり悪そうに湯気を見つめていた捲簾は、頭をガリガリと掻いて忌々しげにひとりごちた。
「……よりによって何で八戒となんだよ……クソ」
「元はと言えばあなたが相談相手に僕を選んだせいじゃないですか! そのせいで僕なんて殺人事件を起こすところだったんですよ!」
「それは俺のせいじゃないだろ! 勝手に感情の箍を外して暴れたんならお前だけの責任だろうが!」
「なっ、何て友達甲斐のない人なんですか! 最低です! 恩を仇で返すような人だったなんて今まで知りませんでしたよ!」
「あーうるせえな、ここは俺んち! 痴話喧嘩なら他所でやってくんねえかな!」
「悟浄! まだ僕のことを疑ってるんですか、本当に僕がこの男と浮気をしたと! 本当にそう思ってるんですか!」
「知るかい!」
「俺だってお前みたいな性悪腹黒と浮気なんて願い下げだ! ここまで友人として続いたことだって奇跡だと思ってるっつーのに!」
「性悪腹黒!? いい加減にしなさいよ、あなたの過去の悪行を僕は事細かに記憶してるんですからね、文にしたためて流布してやってもいいんですよ! 勿論僕がやったなんて少しも匂わせない方法でね」
「そういうところが性悪腹黒だっていうのが分かんねえのか! あーあーお前もよくもこんな奴選んだよ、大した男だぜ」
「何ですって……!?」
「お前の恋人は大した悪趣味だ、っつってんだよ」
「おい、何で俺まで巻き添え喰らってんだよ! 俺が悪趣味だろうがあんたに関係ねえだろ!」
「悟浄! 何認めてるんですか! 僕がゲテモノだって認めてるようなものでしょうが!」
「ある意味当たってんだろうが!」
「その口縫いつけて開けないようにしてやりましょうか!?」
「その上暴力に訴えるわけか」
「黙りなさいこの万年発情期!」
「あんだと!?」
 捲簾が八戒の胸倉を掴み上げる。悟浄もあまりに白熱した二人の口論に口を挟めずに立ち竦んでいると、ふと奥からカチャリと音がしたのに気付いた。首を巡らせて、そのまま固まる。悟浄の私室のドアを開けた天蓬が、そのまま顔を強張らせて立ち尽くしていた。その先には、唇がくっ付かんばかりに顔を寄せ合った(好意的に見れば)捲簾と八戒がいる。しかもまずいことに角度的に、捲簾の酷い形相が見えておらず、何気に色っぽい体勢に見えなくも……ない。寝起きのぼんやりした目と頭で見て考えたのならば尚更だ。
「……お、い。おいおい、まずいって、そこのお二人さん……」
「ああ!?」
「何ですか!」
 物凄い勢いで振り返った二人は、その先で青い顔をして立っている天蓬にすぐに気付いたようだった。ふらり、と一歩踏み出した天蓬は、そのまま三人の横をすり抜けて玄関へ向かおうとしている。咄嗟に捲簾が掴んだその手首はすぐに振り払われてしまった。
「……今日中に、あの家を出て行きますから」
「ちょっ、待てって天蓬!」
 顔もこちらに向けぬままそう言った天蓬は、ゆっくりと振り返った。赤らんだ目元に蒼褪めた顔は痛々しいばかりだ。しかし、その絶望ばかりが満ちた目が向かう先は捲簾でも悟浄でもなく。
「……八戒さん」
 囁くように呼びかけられた八戒が肩を揺らす。細められた目が射抜くようだ、とその視線を直接向けられているわけでもない悟浄ですら寒気を感じた。殺意、悪意、侮蔑、折角の美しい目はそんな不の感情に満ちて暗い色を宿している。
「会社でもしすれ違っても……二度と僕に話し掛けないで下さい」
 ゆっくりと顔を正面に戻し天蓬がリビングを出ていった後、玄関の辺りでは暫くがたがたと物音がしていたが、そのうちドアが開けられ、ガチン、と全てを断ち切るように重い扉が閉ざされた。その音を最後にして、家の中には一切の物音がなくなってしまった。


「……あのお」
 それからたっぷり一時間は経っただろう。ソファの上ですっかり冷めたコーヒーの二杯目を口にしていた悟浄は、壁に向かって俯いたまま立ち尽くす男と、椅子の上で膝を抱えて俯いたままの二人を見て溜息を吐いた。
「何かさ……カビとかキノコ生えそうだから二人とも……帰ってくんね?」
「……ごじょお」
「何」
「僕……もう生きていけません。存在をすっぱり否定されました。きっと廊下ですれ違ったとしてもそこには誰もいないような態度を取られるんです、もう駄目です。会社が怖いです」
「だったら躍起になって誤解を解きに行くとかさ……行動しろよ」
「またあんな目で見られたらと思うと怖くて行けません」
 ぐずぐずと愚痴ばかり零している八戒も面倒と言えば面倒だったが、一番重症なのは壁に向かって反省状態の男の方だった。その後ろ姿を見ながら、きっとこれから誤解の解消に奔走させられるのは自分なのだろうということがほぼ確定しているような気がした。そして丁度のタイミングで、八戒が少しだけ顔を上げた。目が赤くなっているのは確かに痛々しくて可哀想だが理由が理由だ。
「悟浄、誤解を解いてきて下さい」
「報酬は?」
「休日一日中何でも好きなプレイさせてあげます」
「……分かった」
 五秒で悟浄の決心は固まった。意地になったら梃子でも動かないような天蓬を自分がどうにか出来るのかはあまり自信がなかったが、今まで何度頼んでも無理だったあんなプレイやこんなプレイのためなら頑張れる気がする。
「約束だぞ、破ったら今度また別な誤解を天蓬さんに植え付けてくるからな」
「破りませんよ! 破りませんからそれだけはやめて下さい!」
「そうだ調子に乗んなええいお願いします心の底から!」
 壁に向かって反省をしていた捲簾は、怒っているのか頼んでいるのか腰が低いのかよく分からない言葉を口にしてから、力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。そして腹の底から溜息を吐くと同時に、非常に情けない声で呟いた。
「一人の家に帰りたくねえ……」
「帰って下さいお願いだから」
 まさかこの誤解が解けるまで二人の居候が増えるのではないだろうか。その悟浄の嫌な予感は、的中した。








何かこういう夢を見ました。とにかく全員が怒りまくってた。初の58がこれって、ちょっとホントに申し訳ない感じ…。
あまりにも捲簾と八戒が不憫な夢でした。でもこの後ちゃんと捲天は仲直りしてましたよ。         2007/11/19