クリスマスの華やかさに縁が無くなって一体どれ位経っただろう。何が変わった。
 何も変わらない。だったら、今までの十二月二十四日は何の為にあったのだろう。
「なあ、天蓬」
 ネクタイを抜きセーターを羽織りながら、肩と頬の間に挟んだ受話器に向かってそう問い掛けた。受話器の向こうからは風が吹く音や、車の走り抜ける音が聞こえてくる。暖かな室内でゆっくりとソファに腰掛けながら捲簾は、その音から先程まで自分がいた凍えるような外の空気を思い出した。ローテーブルに手を伸ばしてテレビのリモコンを取る。そして電源を入れて映った番組に何の気なしに目を向ける。映った番組はニュースで、キラキラと輝く夜景を背にした可愛らしいリポーターが零れるような笑顔でその美しさを伝えていた。それを凍えた指先を擦り合わせながら眺める。
『何ですか、寒いからあまり口を開きたくないんですが』
 テレビから聞こえてくる明るく愛らしい声とは対照的な不機嫌丸出しの男の声に、ほっとしてつい笑ってしまう。
「お前さ、今年クリスマスどうすんの?」
『夜勤』
「お前って本当にいい奴だよな」
 病院勤めをしている彼は殆ど自宅にいる時間がない。一年の殆どは病院にいるのではないだろうか。そして余った時間は捲簾の家におり、気紛れな猫のように悠々と入り浸っている。彼が気に入っている柔らかいソファに一人で身体に埋めて画面に映し出される全国の天気に目を遣った。駅まで徒歩十分、台風でもなければ天気が悪ければどうということでもない。クリスマスの夜の天気は何ということもない、曇りだった。
『あ、そういえば頼み忘れてましたけど録画お願いします。ER』
「わーったわーった。寝なかったらな」
『根に持ちますよ』
「わーったって!」
 一人きりの部屋で画面に映るイルミネーションを見ながら捲簾は少しだけ寂しさを感じたりするのだけれど、夜勤でコンビニに夜食を買いに出かけている彼は一体どんな気分なのだろうとふと気になった。しかしどうせ彼が寂しいだとか虚しいだとか、思うことはないのだろうとすぐに考え直した。画面に映った楽しそうなカップルをぼんやり眺めながら、受話器の向こうで寒そうに吐き出される息に耳を澄ませた。そこから冬の冷たい冷気が伝わってくるような気がした。
『あなたは、どうするんですか』
「俺か? 分かんねえけど、当番だから何かトラブルが起きたら帰れねえ……十中八九何か起きると思うけど」
『あなたも同じようなものじゃないですか。……でも、残念ですね。あなたならお誘いも絶えなかったでしょうに』
「そりゃまあよ……お前は」
『明日は入院中の子供たちとおじいちゃんおばあちゃんを集めてクリスマス会です。食べられる人にはケーキとかも出るみたいです……まあ、たまにはイベント事に踊らされるのもいいんじゃないですか』
 そう言って深く息を吐いた彼は、寒い寒い、と呟くように言った。吐いた溜息が雑音として耳に届く。そして暫くの沈黙の間を、車が走り抜けていく音が通り過ぎていく。その余韻が消えてしまった後で、彼はぽつりと声を漏らした。
『何が欲しいですか』
「何、珍しい」
『たまには飴をやっておこうかな、と。僕が病院に着くまでに言わなかったら無効ですからね』
「病院まであとどのくらい?」
『信号守って三分。信号無視して一分です』
「守れよ」
 嫌だ面倒臭い、と受話器の向こうでぶつぶつと一人ごちていた彼は、また少しだけ間を置いた後、様子を窺うように訊ねてきた。その声は少し笑っていて、またその天使のような微笑みで無理難題を吹っ掛けてくるのだろうと予想が付いた。しかしそう考えながらもこちらまで笑いが込み上げてきてしまうのは、こちらもそんな勝手気侭な彼の行動を楽しんでいるからだ。それくらいでなければ彼とはこんなに付き合ってはこられなかっただろう。
『何も言わないということは、お前がいれば何も要らないーということですか』
「それは、お前をくれるという風に受け取っていいわけか」
『残念ながら聖夜の僕は救急患者さんのものなんでね……クリスマスに浮かれたアル中やら階段から落ちた酔っ払いやら次から次へと運ばれてくるもので今夜もてんやわんやです。頼むからあなたは運ばれてこないで下さいね、スタッフに迷惑なんで』
「はいはい。で、いつになったら帰れんの」
『二十七……の夜、かな。もうクリスマスなんてとっくに終わって正月気分になってるでしょうね』
 よくもそんな風につらつらと憎まれ口が出てくるものだと思う。テレビに映る、イルミネーションの前でころころと走り回る子供を目で追いながら笑った。彼はこのイヴの夜に一体何を買って食べたのだろうか。きっと碌なものでありはしないだろう。時々思うことがある。彼は何が楽しくて生きているのだろうか。
「夜食に何買ったの」
『ええと……梅のおにぎりと、インスタントのスープと烏龍茶です』
 夜食だとか言いながらもきっと夕食は食べる時間などなかっただろうから、実質これから夕飯なのだろう、とそろそろ十一時を指そうとしている掛け時計を見上げた。確か職場の女性社員がいつもそんなメニューを昼食にしていたと思い出しながら、その決定的な栄養不足に頭を痛める。医者の不養生とはよく言ったものである。そのうち彼自身が患者になることは間違いない。多少の体調不良ならば気付かなかった振りをしてしまうのが彼の悪い癖だった。彼が来たら、寂しいクリスマスを送った分少しだけ凝った夕食を作ろう。出来るだけ彼の好みを考慮して、しかし彼に不足しているであろう野菜を豊富に使用する。彼は痩せてはいるがそれなりの量を軽く食べるので、買い出しに出なければならないだろう。
 そんな風にこれからの計画を立てながら、昨日会ったばかりの彼が既に恋しくなっているのに気が付いた。自分より僅かばかり低い体温に、悪戯な猫のようにじゃれてくる指先。くすぐったがる捲簾を見て楽しそうに細められる目。自分と同じ石鹸の匂いを腕の中に感じながら迎える朝は、いつが最後だっただろう。年末ということもあり、お互いこの家にいる時間は滅多に重なり合うことがなかった。そもそも天蓬は捲簾の家の鍵を持っておらず、捲簾がいない間は家に入ることが出来ないのである。がらりと広い室内を見渡して、いつも彼が寝転ぶソファに一人腰を掛けながら、久しぶりに一人きりでいるのだということを実感した。
「やっぱ、プレゼントはお前がいいわ」
『え?』
「早く帰ってこい。お前の好きなもん作っててやるから、さ」
 そう言うと、ふっと電話の向こう側に沈黙が横たわった。彼がどんな顔をしているのか分からない分、目を伏せて聴覚に全ての神経を集中し、天蓬の全てを耳で感じた。小さく息を吐いて、ビニール袋を逆の手に持ち替えたのだろうか、がさりと遠くから音がした。小さく咳払いをして、笑うような涼やかな小さな息遣いが耳に届く。
『それは楽しみです。期待していいんですよね』
「おう、深夜のフルコースまで完璧だぜ」
 そんな一笑されて終わりだと思っていた、何の気なしに口にした、(しかし決して嘘ではない)軽口は思わぬ形で彼に拾い上げられ、逆に度肝を抜かれることになる。
『期待してますよ。僕も正直かなり溜まってるので、我慢を重ねたあなたが、一体どんな風にしてくれるのか』
 僅かな欲を滲ませて濡れ、艶を帯びた声が耳を擽る。この場が自宅でよかったと心底安堵した。こんな声を屋外で聴かされては堪らない。明日はのんびり料理でもしながら彼を待とうと思っていたが、俄然やる気がふつふつと沸いてきた。ソファの上で片膝を抱いて、くくっと喉を鳴らす。
「正直、今日辺り一発抜いとこうと思ってたけど止めとくわ」
『おや、程よく力を抜いておいて貰わないと僕が困るんですが』
「それは本音か」
『勿論』
 嘘吐きだな、と笑うと、受話器の向こうの彼は沈黙してしまった。怒らせてしまったかと笑い声を控えると、ややあって彼は躊躇いがちに声を漏らした。距離を探るようなそのはっきりしない対応が何だか彼らしくなくておかしい。ぱっと切り替わったテレビ画面では、強張った表情のアナウンサーから速報が読み上げられている。それを暫く黙って見ていたが、その事故の起こった現場の住所を見て顔を顰める。
「おい」
『何ですか』
「お前んとこの病院近くの環状線で玉突き事故だって……今夜は寝らんねえな」
 そう捲簾が言うと、受話器の向こうから盛大な溜息が聞こえてきた。折角買ってきた夜食も食べられないまま放置されるに違いない。
『切りますね』
「おう、頑張れよ」
『血気盛んなら献血にでも協力して下さい、年末に掛けて血が足りないので』
 そう言うと躊躇いもなく通話はぶつりと途切れた。受話器の向こうの天蓬は、きっと信号もあっさり無視して病院に向かって駆け出していることだろう。彼のそんな頑張り様は実に好ましいのだが、自分の健康には全くと言っていいほど頓着しないところには少々辟易してしまう。ニュースの途中で無造作にテレビの電源を切った。そしてリモコンをテーブルに放り投げ、受話器を電話機本体に戻す。受話器が下ろされる小さな音と同時に、一人きりのリビングには静けさだけが広がった。
 明るい室内から、イルミネーションの輝く街を眺める。あの光一つ一つにカップルや家族の幸せが詰まっているのだ。
 一人でいることを決めたのはいつからだっただろう。クリスマスだから、正月だから、バレンタインだから一人でいるのは嫌だと思わなくなるまでに一体何があったか。少しだけ開いたカーテンをきっちりと閉めてからサイドボードに手を伸ばした。中から酒瓶を引っ張り出してキッチンへ向かい、グラスを手にして再びリビングに戻る。どっかりとソファに腰を下ろして、再びテレビをつける。ニュースは既に終わった後で、流れているのはよく分からないバラエティ番組だ。彼が食事も取らずに頑張っている中で自分がこんな風にしていることに多少の罪悪感がないでもなかったが、小皿に残っていたナッツを一粒指先で摘まんで口に放り込む。
 男同士で、尚且つ二人とも昼夜を問わない不規則な職に就いている。いつでも一緒にいたいとか、会いたい時に会いたいと思うことがないわけではない。いつもより少し辛く感じる酒を舐めて、ぼんやりと賑やかな画面を眺めた。気付けばもう考えることは彼だけだ。何を作っておけばいいだろうか。どうせなら、ケーキを買っておくべきだろうか、と考え、彼の好みに頭を巡らせた。
 一日のどれだけ自分は彼のことを考えているだろう。一日のどれだけ彼は自分のことを考えてくれているだろう。しかし、今頃、搬送されてきた患者に汗だくになって心肺蘇生を施しているであろう彼を思えば、一日のうち数分の間でも自分のことを考えていてくれるのであれば十分幸せな方ではないだろうかとも思えるのである。



 ぴぽん、ぴぽん、とチャイムが二回、短く鳴らされる。あの電話から二日が経っていた。クリスマス一色だった街からクリスマスカラーは消え、テレビはすっかり年末、果ては正月モードに入っている。今年も残すところあと五日となったその日、陽もとっぷりと暮れた午後十時のことだった。昼頃漸く家に帰ってきて十分睡眠を取った後、ぼんやりした頭でコーヒーの為のお湯を沸かしていた捲簾は、その音の余韻で漸く慌てて顔を上げてリビングへと向かった。壁に取り付けられたインターフォンのボタンを押すと、ドアの前には今にも眠りに落ちてしまいそうな限界の顔をした男がうとうとしながら立っていた。インターフォンを切って、足の先に引っかけたスリッパを縺れさせながら玄関へ向かう。チェーンロックを開け、身体を乗り出してドアを押し開ける。既にうつらうつらと目を細めていた天蓬は、ドアが開かれたことに気付いてゆるりと首を擡げた。そしてその目はじ、と捲簾を捉える。
「ただいま」
 ふにゃりと表情を崩した彼は、そのまま捲簾の腕の中に凭れ込んでくる。それを両腕で受け止めてドアから手を離すと、彼の背後でドアはゆっくりと音を立てて閉まった。むにゃむにゃとそのまま眠りに入ってしまいそうな唸り声を漏らす身体を抱き留めながら再び鍵を締める。そして彼の言葉を頭の中で反芻して、顔に熱が昇っていくのを感じた。彼はまるでぬいぐるみでも抱き締めるようにぎゅっと捲簾の身体を掴んで離さない。ただいまなんて、まるで同居をしているようではないか。実際は彼にしてみれば世話係か何かと同じようなものなのだろうが、少しだけ楽しい夢を見てしまう。見下ろせば腕の中で、満足げな穏やかな吐息を繰り返している彼がいる。その目がふと、ぱちりと開いて捲簾を映した。その目は、ベッドの中にいる時のようについと楽しげに細められる。たったそれだけのことに揺さぶられて、昂ぶらされて止まらなくなる。
「何か、物凄く久しぶりに会った気分ですね」
「確かにな。明日は休めんの」
「明日は丸一日……」
 三日前に会ったばかりなのだけれど、その時も三十分ほど一緒にいただけですぐに彼は出ていってしまった。こんな風に密に触れ合うのは久しぶりである。彼の身体からは、小さな頃大嫌いだった病院独特の消毒液のような匂いがする。そして帰宅途中に吸ったのか、消毒液の匂いを覆うようにいつもの煙草の香が漂っていた。自分を見上げてくる眸に呑まれ、甘そうに見えて触れると実は苦い唇に吸い寄せられる。その柔らかな頬の上に唇を滑らせ、そっと唇を重ねた。見た目よりずっと柔らかい唇に、触れるだけのつもりがそれ以上に進みたくて身体にブレーキが利かなくなってしまう。弾力のあるそれを甘噛みし、舌を誘い出して絡み合わせると、時々仔犬のように鼻を鳴らしては縋り付くように頼りなく捲簾の背中に手を回してくる。シャツ越しにその手の温度を感じながら、ますます加速度を増していくのを自分自身で止められずにいた。
 その身体を背後のドアに押し付けて、貪るように舌でその口腔を犯す。珍しく、悪戯を仕掛けるでも抵抗するでもなく大人しく愛撫を受け入れている彼は目を閉じてうっとりと頬を染めている。彼のコートからは少しだけツンと冷たい冬の匂いがした。彼の腕が背中に回され、冷たい手が捲簾の首筋を掠める。角度を変えて唇を重ねると、かちゃりと眼鏡がずれて小さな音を立てた。
 かり、と彼の爪が何かに耐えるように捲簾の首筋を引っ掻いた。それを合図にゆっくりと唇を離す。ちゅ、と濡れた音がして、ぞくりと二の腕が粟立つ。口付けを終えてからも暫く目を伏せたままだった彼は、捲簾の指先が瞼を撫でたのに応じてゆるりと瞼を上げた。うっとりと濡れた眸が自分を映して、ぽってりと赤くなった唇から甘い息が吐き出される。そしてくたりと凭れ掛かってくる身体を受け止めて抱き締める。小さな子供が愚図るように小さく唸りながら、ぐりぐりと額を捲簾の肩に押し付けてくる彼の後頭部をポンポンと軽く叩く。
「お疲れさん」
「……眠い……けど、お腹も空きました……」
 いっそ寝言のような気だるげな、はっきりしない声で呟いた天蓬は、捲簾の肩に顔を摺り寄せてくる。甘えているのかただ凭れているのかいまいち計り兼ねて、曖昧にその頭を撫でた。そしてとりあえず彼の着込んだコートのボタンを上から一つずつ外していく。それをぼうっと見つめていた彼は、大きく一度欠伸をした。そしてボタンを全て外されたコートを大人しく自分で脱ぎ、玄関に置かれた洋服掛けにそれを適当に引っかけた。
「風呂沸いてるから。沈没すんなよ」
「十分経っても出てこなかったら、起こしに来て下さい」
「分かった分かった」
 捲簾の横を通り抜けてよたよたと風呂場へ向かう後ろ姿を見送ってから、漸く深く息を吐いた。半端なままで放置された熱が、身体の奥で燻っているのを感じていた。しかし仕事で疲れて帰ってきて、放っておけば眠りに落ちてしまいそうな状態の彼に無体を強いることなど出来そうになかった。元々自分たちは、どこか放って置けない頼りなさを持った彼と、それに嫌というほど庇護心を煽られてしまう自分との奇妙な関係だった。出会った当時高校の後輩だった彼のだらしなさや頼りなさを見ていられなくて始まった関係だから、その土台を崩すようなことは出来なかった。眠いという彼を無理矢理叩き起こすことは出来ないし、お腹が空いたと訴える彼を無視して行為に雪崩れ込むことも出来ない。これを優しさと捉えるか情けなさと捉えるかは人それぞれだが、捲簾自身はそんな自分を多少情けないと感じていた。きっと彼の方も、捲簾が自分に酷いことをするはずがないと無意識に思い込んでいるはずだ。それは信頼に等しい。人はそれを信頼ではなく甘えだと見るかもしれないが、しかし、彼に甘えて貰うことをずっと望み続けていたのは自分である。確かに自分だって時々、少し羽目を外したいと思うこともあるのだが、漸く手に入れた、彼に甘えて貰える立場を裏切ることは出来なかった。
 バスルームのドアが開けられる音を聞いて、顔を上げた。そのままキッチンへと足を運び、すっかり冷えてしまった薬缶の表面を指先で弾いた。そして一昨日の晩から煮込んでいたシチューの鍋を冷蔵庫から取り出して火に掛ける。蓋を開け、掻き混ぜながら、ぼんやりと彼のことを思った。一日の中で彼のことを考えている時間がそんなに多いわけでもない。しかし、ふとした瞬間にぱっと思い浮かぶのはやはり彼のことだった。服を見かければ、以前彼が似たようなものを着ていたことを思い出し、じゃがいもを見れば、最近彼が美味しかったポテトグラタンの話をしていたことを思い出す。きっかけはほんの些細なことばかり。そして本当に下らないことばかりだ。そうくれば、彼が一日でどれくらい自分のことを思い出す時間があるのかが気になるところではあるが、みすみす傷付きたいわけでもないので訊ねるのは止めにした。きっと彼が自分を思い出す時なんて、お腹が空いた時くらいのものだろうから。
 熱が入ってとろけてきたシチューがふつふつと沸き立ってくるのを見て火を弱め、時計を見上げる。そしてそろそろ起こしにいこうかとバスルームへ足を向けた瞬間、バタンとバスルームのドアが開く音がした。どうやら自分から出てきたらしいと足を止め、食器棚からシチュー皿を取り出した。いつでもよそって出せるように鍋の横にそれを置き、一緒に出すバゲットを探す。袋から取り出したそれを適当な厚さに切り分けていると、パチンと電気のスイッチを切る音が聞こえて、捲簾は手を止めた。パンナイフを軽く布巾で拭ってから、ぺたぺたと裸足の足音が近付いてくる方へと向かう。
 頭の上からバスタオルを被った天蓬は、いつものようにぽつんとリビングの入り口に立ち尽くしていた。一旦手を引いて招き入れれば図々しいほどにソファを占領するくせに、いつも彼は入り口で躊躇いを見せる。ここに足を踏み入れていいのか、食べていいのか、座っていいのか、触っていいのか。いつも下らないことで足を竦ませて、捲簾の手が差し伸べられるのを“待て”をされた犬のようにぽつんとして待っているのである。溜息を一つ吐いてから、彼の元に歩み寄る。そしてその手を引いてリビングの中へ入り、彼の好きなソファの前で、正面からその俯き加減の頭をタオルごと包み込んで、揉むように水分を拭き取る。半端に長い豊かな黒髪は、しっとりと水を含んで艶めいている。
「先輩」
 俯いたまま、彼はぼそりと呟いた。その呼び方はあまり好ましくないと何度も伝えてあるが、彼がその呼び名を止めるのはふとした瞬間だけだ。時々、うっかり間違ったように“けんれん”と子供のように呼んでくる。彼がまだ学生服を着ていて、二人とも青臭い顔立ちをしていたその頃から今までずっとのことである。その呼び名に嫌な気がするのには様々な理由がある。二人ともすっかり大人になって、二歳程の年の差など殆ど気にならなくなった今もその呼び名で呼ばれるのは抵抗がある、というのが一つ目の理由だった。もう一つの理由は、彼がその他人行儀な呼び方を以って、自分との間に距離を置いているのだということが分かるからだ。
「何」
「眠いし、疲れたし、お腹が空きました」
「ベッドメイクも済んでるし、シチューも出来てる。今朝売れ残りのケーキも買ってきたし」
 売れ残り、は余計だっただろうかと唇を舐めて、彼の反応を窺う。しかし彼は特に嫌そうな顔をするでもなく、黙ったままだった。ひょっとしてもう眠りかけているのだろうかとタオルを剥がしてソファに置き、まだ湿った彼の前髪を掻き上げながらその表情を窺った。その瞬間、その熱さに手が止まった。風呂上がりのせいではない熱を帯びた視線が、熱に煽られた甘い香りが、立ち上って周囲を包み込み息を苦しくさせる。噎せ返るようなその甘い香りに目が眩む。
「――――けど、今はあなたが、欲しいです」
「……シチューも温めてるんだけど」
 見上げる目が、苦しさに僅かの悔しさを滲ませて細められる。その表情に少しだけ優越感を覚えながら、その髪に指を差し込んでそっと梳く。拗ねたように上目で捲簾を見上げた彼は、頬を染めたままふっと俯こうとする。しかし漸く上げられた顔を再び俯かせてしまいたくなくて、その顎を指先で掬い上げた。
「フルコース、順番変えるか?」
 訴えるようにその眸がぱちり、と瞬く。それ以上言葉を求めるつもりはなかった。彼の手を引いて、キッチンへ向かう。シチュー鍋を掛けていたコンロの火を止め、換気扇を止めてから寝室へと向かう。繋いだ手が発熱しているように、熱い。

 ベッドに辿り着くや否やその身体をベッドに倒し、覆い被さるようにしてその唇を貪った。いつもは自らの持つ欲望から目を逸らすように僅かな拒否を見せる天蓬が、するりと両腕を捲簾の背中に回して何かを堪えるようにしがみ付き、鼻に掛かったような声を漏らす。いつもどんなに乱れていても頭のどこかが冷静なままの彼が欲望に流される。その姿が可愛くて、苛めたくて仕方がなくなる。枯渇していた身体を潤すように長い口付けを交わし合った後、自分の身体の下で胸を喘がせている彼を静かに見下ろした。そして首筋に張り付いた、生乾きの髪の毛を指で剥がし取る。それだけの刺激で身体をひくりと震わせた彼は、熱に濡れた目を向けてこくんと喉を動かした。
 乱暴はしたくない、まるで子供のような無条件の信頼を寄せてくる彼を裏切りたくなかった。
 眠い中でうつらうつらしながら留めたのであろうワイシャツのボタンは上下に一つずつずれていて、少し笑ってしまった。暴走しかけた頭はそれを見て少しだけブレーキが掛かった。ボタンを上から一つずつゆっくりと外していく。風呂上がりの肌のまだしっとりした感触が指に心地いい。シャツをはだけ、露わになった白い肌を唇で啄ばむ。耳朶から、首筋を伝って鎖骨の上をきつく吸い上げるとその度ひくひくと身体を震わせる。そしてその下でツンと硬くなって存在を主張する、桜色の突起を指先で押し潰した。抓んだり軽く力を込めたり弄っていると、しっとりと汗を掻いたように湿り気を帯びてくる。殊の外その淡く色付いた部位が弱い彼は次第にとろんとした目をして、涙の溜まった目を細める。薄く開かれたままの唇からは甘い吐息だけが漏れ続けた。
「ん……あぁ、ん、やぁ……う、ん」
 この手で彼の両目を塞ぎながらした、初めてのキスを憶えている。せんぱい、せんぱい、とあまり抑揚のない声で捲簾を呼びながら無防備に近付いてくるのに耐えられず、牽制をしたつもりだった。出会った頃、何も信じないと言わんばかりの冷たい目をしていた彼に、無防備になって欲しいと望んだのは自分だ。そしてその自分が、その無防備さに耐えられなくなっていた。しかしながら彼の、絶望や軽蔑の眸を直視したくなくてその目を手で塞いだのだった。初めて合わせたその唇は思ったよりも熱く、それでいて少しの抵抗も見せなかった。驚いて少しも動けなかったのかもしくは、と考える間もなく我に返り、慌てて唇を離した。唇を薄く開いたまま、両目を覆われたまま彼は大人しく立ち尽くしていた。その目を封じた手を離すのが、その目が一体自分の掌の下でどんな色を浮かべているのか知るのが怖くて、そのまま暫く動けなかったことを覚えている。
 それから数年。自分たちはただの先輩後輩でもなければ、恋人同士でも、友人でもなかった。ただ、他の誰もを信頼していないような目をする彼が、少なくとも自分だけのことは信じてくれているという自負はある。そして、普段は社交的だが一定の距離までは他人には絶対に踏み込まれたくない自分が、唯一家へ招き入れるのが彼だけということも事実である。今更この関係に名前など付けようもなかった。そもそも名前など必要はない。他人に説明するつもりなどないのだ。周りがどう不審に思おうと、自分たちだけがその関係の意味を知っていればいい。ある時は共犯であり、ある時は加害者と被害者であった。またある時は男役と女役であり、兄弟であり、依頼主と協力者だった。そんな幾つもの面を持つ自分たちにはっきりした形など、ない。
 彼が首を振り、その黒髪がぱたぱたとシーツを打つ音でふっと現実に引き戻された。抓られ、赤くなった突起がつんと立ち上がっている。今にも零れそうなほどに目を潤ませた彼は、じっと捲簾を見上げてくる。その目を見つめながら、その小さな先端を舐め上げた。途端にその細い腰がびくんと揺れるのを楽しく思いながら、ちゅうと軽く吸い上げる。
「ぁ、ぁあ……ッぁあ、だめ、も、や……ん、ぅ」
「……本当に、嫌か? ――――なあ……こんなに真っ赤になって、びしょびしょにして、硬くしてんのに……」
 甘い誘うような声で、拒否のことばかり表すのが憎らしかった。反対側で放っておかれたまま拗ねたように尖っている先端を指先で摘み、ゆるゆると揉みながら、彼の下腹部のその下の熱に手を伸ばした。ズボンのファスナーの下で張り詰めた熱を、ボタンとファスナーを下ろして解放する。弾かれたように顔を出し、先端を濡らしながら震えているそれを前に、覆い被さっていた身体を起こした。そして少し怯えたような顔をする彼を前にして、その下腹部に顔を埋めた。その瞬間少しだけ見えた彼の顔が驚きに満ちていたことに、絶えない感情は悦びだった。
「いや、……いやですッ! ぁ、あぁァッ……や、ぃああぁ!」
 彼の両膝の裏に手を回し、ぐいと膝が胸に付くくらい持ち上げてから、熱を持って震えるその屹立を下からねっとりと舐め上げた。上がる嬌声や滴る苦みにも構わず先端から根元まで銜え込むと、びくりと身体を緊張させた彼は一つ、高く鳴いたきり声を上げなくなった。下唇を噛み締め、目を両手で覆い隠して必死に波に流されまいと耐えている。上等だと笑い、吸い上げ、根元を手で扱き上げる。噛み締められ、白くなった唇が震えている。手で隠されてはっきりとは窺えないその表情が、どれだけ欲に濡れているのかを想像するだけでぞっとするほどに興奮した。じゅくじゅくと粘着質な音を立ててしゃぶると、堪え切れないように彼は薄らと口を開いた。
「や、……その、音、やめてください……へんッ……!!」
 その言葉を聞いて、昂ぶったその屹立から口を離し唇を手の甲で拭う。そして、唾液と彼自身の先走りとでてらてらといやらしく光るその先端を、親指の先で擦り上げながら訊ね返した。
「すげえいい音だと思うけどな……何が変?」
「何がいい音ッ……! ァあぁ、んァ……や、っそんなにしちゃ、ぁ」
 シーツを掴み、衝動を堪えるようにその身体はふるふると震えている。しかし扱き上げる手の動きを止めることはない。更に苛め追い立てるようにその動きを速めていくと、喘ぐように彼の呼吸が荒くなるのが分かった。きもちいい? と訊ねれば、忌々しげな目でじろりと強く睨み付けられる。しかし先端に軽く爪を立てればその強気は鳴りを潜め、きゅっと切なげに歪められた表情に堪らない気分になる。手を濡らすぬるつきは量を増し、その動きを加速させる。ぺろりと唇を舐めた。かくんと白い喉が仰け反る。
「駄目なんかじゃないくせに」
「んぁ……ぁ、だめッ! ぃあ、……はぁ、んぁあ……!!」
 か細い声を上げながら身体を小さく震わせていた天蓬は、横を向いたまま荒い息を繰り返している。身体を乗り上げ彼の顎を掴み顔を覗き込むと、目尻からつうと涙が溢れていた。指先でその涙の筋を拭い取り、涙で赤らんだ目元に軽く触れるだけの口付けをした。目を伏せていた彼は、その刺激でゆるゆると瞼を押し上げる。そして一度二度瞬き、潤んだ眸は捲簾を映して批難するように薄らと細められた。
「そんな顔すんなって……スゲーよかったろ?」
「……っ、舐められるのは嫌だってッ」
「だって舐めると反応が可愛くって」
「か……」
 それきり真っ赤な顔をして言葉を失う彼に笑う。しかしそれには構わず、ズボンと下着を一気に引き降ろしてベッドの下に落とした。ワイシャツ一枚にされた彼は、心許ない様子で近くにある枕を引っ張ってきて胸の前で抱える。今更恥じらうような関係でもないというのに、とおかしい気分でその枕を引き剥がした。最後の砦を奪われた彼は、じり、とベッドの上で一歩後退する。その足首を掴み、逃れることを許さない。少しの間怯えたような目をしていた彼は、ふと何かを見つけたように目を瞬かせた。そして様子を窺うように捲簾の顔をそろりと見上げてくる。
「……つらい、ですか?」
「何週間してねえと思ってんだ、二週間だぞ、二週間」
「あ、結局一昨日」
 してないんですか、と首を傾げる彼に脱力していると、無邪気なその手はするりと伸びてきて、ズボンの上からそろりと優しすぎるタッチで撫でてくる。ぞわりと全身に鳥肌が立った。二週間だ。二週間前、彼の家で身体を合わせて以来触れ合っていない。
「どこかのお姉さんと、してないんですか……」
 そう言いながら、彼の細い指が確実な意志を持ってその部位を撫でてくるのに舌打ちしたくなる。もし直接触れられたら、長持ちさせる自信はない。窮屈さに耐え兼ね、焦れてボタンを外しにかかる。そのままファスナーも引き降ろそうとした瞬間「あ」と声が上げられ、捲簾は反射的に手を止めた。どうしたのだろうとそのまま動けずにいると、のろのろと起き上がった天蓬は今度は四つ這いになり、肘と胸をベッドにつけた。そして顔を捲簾の両脚の間に近付けてくる。何をされるのか何となく想像は付いていながら、その信じられないことに動くことも出来ずその光景を眺めていることしか出来なかった。
 舌を伸ばし、ファスナーの金具を掬い上げてそれを歯で噛む。じり、じり、とゆっくり口でファスナーを下ろす。じれったくてじれったくて、それ以上ないほど興奮する光景だった。布越しに飛び出したそれを舌先でぺろぺろと舐め、唇でその布地を食んだ。口で下着を引き摺り下ろし、顔を出した屹立が天蓬の白い頬を打つ。少しだけ驚いたように目を瞬かせた天蓬は、それでもすぐに気を取り直したようにその根元を慣れない手つき で支えて、先端をおずおずと躊躇いがちな動きで舐めた。仔猫がミルクを舐めるような、一生懸命な舌使いに焦れて集まった熱が解放を待っている。溢れ出す苦みをぺろぺろと舐め、ちゅうと先端を吸い上げる。
「んむ、ぅ…………ん、ん……ぅく、んは……っ」
 溢れ出した先走りと唾液で口の周りを濡らした天蓬は、少し苦しそうに眉根を寄せて顔を上げた。荒く息を繰り返している彼の頬を指先で撫でて、髪を撫でた。その手をそのまま後ろへ動かし、シャツに覆われた背筋を撫で、その先にある双丘の割れ目に爪を立てて軽く引っ掻くと、ゆっくりと息を整えていた天蓬は弾かれたように顔を上げた。
「ぁ、ちょっ……!」
「俺まだイってねえんだけど」
 そう言って自らの陰茎をその清潔そうな男の頬にぶつけてみる。白い頬が唾液と先走りの液に汚され、濡れている様が酷くいやらしい。赤く、とろりと欲に濡れた表情をしていた天蓬は少し躊躇うように視線を落とし、唇を噛み締めた後、意を決したように再びその熱を口に含んだ。あんなにいつも隙がなく少しの乱れも見せない男が、尻だけを突き出した格好で男の身体に奉仕をしている。そのことだけで限界を感じてしまいそうになるが、折角の機会を呆気なく終わらせてしまうのは勿体ない。与えられる快感を感受しながら、指を更に前進させる。指を舐め、双丘の谷間にその濡れた指を忍ばせて小さな窄まりを探り当てた。そしてその襞の一つ一つを擽るように指を蠢かせる。深くまで陰茎を銜え込んだ天蓬は少し苦しそうに喉からうめき声を上げた。苦しそうに寄せられた眉間を撫ぜ、顔に掛かる髪を耳に掛けてやる。桜色をした艶めく唇が、赤黒くグロテスクな物体を一杯に銜え込んでいる様が淫らで、少しばかりの背徳感をもたらした。彼が苦しげに嘔吐く度に喉がきゅうきゅうと締め付けてくる。
「ぐ……ん、んうぅっ! ん、ぅッ」
「すげ……喉、締まる…………ッやべ……」
 根元を手で扱きながら頭を前後させて愛撫し、追い立ててくる彼の顔を見下ろしながら、限界を諦め始めていた。その時、一際強く天蓬が吸い上げた瞬間、喉の奥から唸り声が漏れた。視界の下にある黒髪に指を絡ませ、身体に少しその頭を押し付けると、喉の奥まで銜え込ませられた彼は苦しげに一際高く声を上げた。
「く、ぁ……ッぅあ……」
「んんッ!! ん……っ」
 熱の解放を待ち、天蓬の口からずるりと力を失った陰茎が引き摺り出される。すると、赤くぽってりと腫れたような唇を、捲簾の放った精がとろりと伝い落ちる。それと同時に、ぐったりと彼の頬はベッドに懐いてしまった。薄い背中が荒い息と共に上下するのを、解放の余韻に浸りながら眺めていた。息が整った頃、くたりとベッドに沈んでしまったその背中に手を伸ばしそっと掌で撫でた。背筋を伝ってそっと撫で下ろすと、背を反らせてびくりと敏感な反応を返す。このまま進めていいのかと考えた。きっと彼はここ数日は不眠不休で働いているはずなのだ。幾ら彼自身が望んだとはいえこれ以上無理をさせるのはよくないのではないか。躊躇いが、それ以上手を進めることを止めようとしていた。自分自身我慢を重ねていて、一度解放しただけでは収まりそうにはない。しかし呼び名通りの“先輩”という立場の自分が彼に無理強いをすることを叱咤するのである。
「大丈夫か、天蓬……もう寝な、眠いだろ」
 そう言って髪を撫で、彼を寝せる為に自分はベッドから出ようとする。するといつの間に伸びてきたのか、天蓬のいつもながらに冷たい手が捲簾の手首に追い縋るように掴まっていた。驚いて振り返った先では彼がのろのろと身体を起こそうとしていた。痛々しさすら感じる姿に、慌てて両手でその身体を支える。何とか起き上がり、ゆるゆると顔を上げた彼は、確かな目的を持ってたっぷりと濡れた眸で捲簾をじっと見つめた。
「いや……です、あなたがほしいって、いったじゃないですか――――――」
 いつから彼はこんなに甘えん坊になったのだろう。傷付いたような目をして、そんなことを言って、一体何が彼をそんな風にさせたのだろう。性欲なんてあるのか分からないような清潔な顔をして、希望や夢など口にすることもない彼が。白濁に汚れた眼鏡をそっと外して畳み、ベッドサイドのテーブルに置く。そして期待と怯えの入り交じったような目をする彼を柔らかい布団の上に横たえた。覆い被さって見る彼の表情は、いつものものよりずっと頼りなく見える。影が掛かっているせいなのだろうか。歪められた顔が、潤んだ眸が、僅かに頬に射した光が、まるで彼が泣いているように見せていた。
 何年一緒にいたって、彼については未だ分からないことばかりである。
「今日はもう何もしなくていい、全部俺がやるから……夢も見ねえくらい、ぐっすり眠らせてやるからさ」

 久しぶりに解き開くその窄まりを丹念に解していく。後ろ向きでうつ伏せて尻だけを突き出した格好の天蓬はもう抵抗する気もない様子で大人しく捲簾の指を受け入れている。
「自分で広げてくれ、……舐めらんねえから」
 そう言うと、驚いたようにふっと振り返った天蓬は、真っ赤な顔をして唇を震わせていた。しかし暫く泣きそうに顔を歪めていたが、そのうち諦めたように顔を枕に押し付けて、震える両手で自らの双丘を割り開いた。眼前に露わになる小さな蕾に思わず喉が鳴る。捲簾の指によってぐすぐすに解れ始めた、薄らと赤く染まった窄まりをもったいぶったように舌先でちろりと舐め上げる。枕に顔を押し付けて声を堪えているつもりなのだろうが、堪え切れぬ声が布越しに漏れてくる様は逆に淫らな響きとして部屋に広がっていた。黒髪の合間から覗く耳朶は真っ赤に染まっている。ひくりと蠢くその窄まりに少しだけ舌をめり込ませ、すぐに抜くと焦れたようにその穴はひくんと締め付けてくる。丹念に解され、ひくひくと物欲しげに蠢くそこを満足げに眺めて上唇を舐めた。
「ぁ、……ぁ、はあ、ぁう……ぁ、もッ…………せんぱ、ッ……!」
 すっかり彼の息が上がってしまう頃、漸く繋がるに至った。彼の身体を反転させて仰向けにし、両脚を担ぎ上げ胸に付くほどに折り曲げた。幾度となく正面から深く穿つと、天蓬の口からは止め処もなく噛み殺した甘ったるい声が漏れる。ぷくりと胸の上で膨れた紅色の突起を指先で捏ね繰り回し、ふるふると震える陰茎をゆっくりと扱き上げて彼を絶頂へと導く。彼が何も思うことなく、穏やかで深い眠りにすぐ落ちていけるように。堪え切れない嬌声と共に、背中に首に感じる微かな痛みに身を震わせた。快感に理性を持っていかれそうな彼が、精一杯意識を保とうと爪を立ててしがみ付いている証拠だった。それを感じながら更に追い上げを強める。しかし彼はその強さでは満足しない様子で、焦れたように泣きそうな顔で薄らと目を開いた。
「せんぱ……せんぱ、い……っ」
「……だぁめ、いい加減直せって言ってんのに」
「や、ぅ…………ッけんれ……ん、けんれんっ……! ゃ、もう――――」
 ぶるぶると首を振りながら何度も何度も名前を呼んでくる唇を指でなぞって、その吐息を塞ぐように口付ける。
「……ま、上出来か」
 先程までの深くゆっくりとした動きとは打って変わった抉るような突き上げに、絹を裂くような艶声と共に身体を反らせて絶頂を極める。彼は、穏やかで深い吐息を繰り返しながら、辛うじて保っていた意識を深い闇の中に沈ませていった。捲簾はほぼ同時に熱を解放した後、その火照った頬を指先で撫でた。涙で濡れて体液に汚された火照った赤い頬に、覆い被さるようにしてキスをする。自分勝手な都合で彼を引っ張り回していることは自覚している。彼と自分を繋ぐものは何一つとしてない。ただ唯一あるのは携帯電話の番号くらいだが、それだって変えようと思えばすぐに変えられる、本当に細い糸でしかない。こちらから彼の家に行くことは滅多にない。きっと彼がこっそり引っ越せば自分には分からない。自分と彼を繋ぐもの、それはいつも気付けば彼がこの家に現れるというその事実、それだけだった。



 柔らかく、温かい綿に包み込まれているような夢だった。自分はただひたすら、胎児のように身体を丸めてその優しさの中に蹲っていた。誰にも触れられない代わりに、決して傷付くこともない世界。それで満足していた。誰とも交わらなくてもいいと思っていた。そんな自分に人の温度を教えて、こんなにも一人では寂しくていられないような弱さを作り出したのは、あの人だ。誰にでも無条件に与えられる優しさを持つ彼が憎い。寂しい人間がいれば、誰にでもああやって微笑んで、撫でて、慰めてやるのだろうか。誰と交われなくてもいいと言いつつ、自分一人だけのものが欲しいとごねてしまう。自分の精神状態は複雑を極め、自身ですら気付かないような深層にまで及んでいる。矛盾を抱えたその心は他人にはただの我侭にしか映らないのだ。ああ彼が離れていくのも時間の問題である。
 与えられる熱も、口付けも、頬を包み込む大きな手も何もかも泣きたくなるほど嬉しいのに、いつか自分のものでなくなるのならば愛せないのだ。愛することの出来ない者が愛されることなどないだろう。ならばこれは長い夢なのだ。温かい掌も、寂しさに耐え兼ねた自分自身が作り出した幻影に他ならないのだとしたら。そう考えれば、少しだけ気分が楽になったような気がした。幻影ならば消えることなどないのではないかと、この期に及んでそう思ったからである。
 頭を撫でてくれる温かく大きな掌が、まるで夢の続きのようだった。

 今自分が覚醒しているのか、未だ眠りの中にいるのか分からなかった。ふわふわと温かく柔らかいものに包まれて、温かい掌が頭を撫でていた。ぼんやりとした意識の中、暫くその穏やかな幸福の中をたゆたっていた。目を開けば、その夢が終わってしまいそうだと思ったのだ。しかし、頭を撫でるその指先がふと頭皮に触れたことでひくりと身体を震わせてしまう。するとその手の主は目覚めに気付いたのか、身体を屈めて天蓬の顔を覗き込んできた。
「起きたのか、天蓬」
「……先輩」
 声を掛けられても尚、暫くどうしようか迷っていたが、観念してそろりと瞼を開く。彼はベッドの縁に腰掛けて天蓬の顔を少し心配そうに覗き込んでいた。服装はすっかり出勤前の状態である。起き抜けの少し掠れた声で彼を呼ぶと、彼は少しだけ残念そうな顔をしたようだった。その原因は何となく分かっている。彼がこの呼び方を善しとしてないことを知っていた。まるでわざと距離を置きたがっているようだと思っているらしい、そう、お節介な友人から聞いた。特に意味があるわけではない。初めの頃の呼び方がそれだから、というだけだ。そこから名前に移行するのが何だか照れ臭いというだけで、彼の考えているような深刻な理由ではないのである。少しだけ困ったように頭を掻いていた彼は、再び天蓬の頭を軽く撫でて言った。
「今まだ六時だからもうちょっと寝とけ、俺は仕事納めでそろそろ家出るから。……多分遅くなるから、一日ゆっくりしてな」
 そう言って、ぽんぽんと軽く頭を叩く。それを大人しく受け入れていた天蓬は、毛布に包まってころりと寝返りを打った。そして彼の腿に顔を擦り寄せる。寂しい、と感じないわけではない。けれど彼が普通の勤め人である以上仕方のないことだ。分かりました、と自分に言い聞かせるように呟いて、しっかりのアイロンの掛けられたパンツに頬を寄せた。帰ってくる頃にはきっとアイロンも取れかけて皺が出来て、煙草臭くなっているに違いない。子供のような行動をする天蓬に、彼の手はひたすら優しい。髪を撫で、我侭を言う子供を宥めるように優しく背中を擦ってくれる。
「シチューは鍋ごと冷蔵庫に入れてあるし、パンはダイニングテーブルの上に置いといたから起きたら食え。着替えはいつもの棚に洗濯して入れてあるし……えーと後は何だ……ケーキもあるし、アークもいつもの抽斗にカートンで入ってるから。あんまり散らかすんじゃないぞ」
「先輩」
「何だ」
「何が欲しいですか」
 そう訊ねれば、彼は一瞬驚いたように手を止めた。しかしすぐに小さな笑い声と共に動き始め、天蓬の髪を一房ずつ梳いていく。振り払えないのは身体がだるいから……それだけではない。抗えなくなる。その指先からまるで電気が流れているように身体がじりじりして、その刺激に身体が震えた。その心地のいい刺激は身体を、心を麻痺させていく。
「昨日いっぱい貰ったけど?」
「……貰ったのは、僕ばっかりです。あんな――――卑しい我侭を言って、挙句、一人で勝手に失神して……」
「卑しいって何だ、おかしくねえよ……可愛かった。まあ、回数的に多少不満といえば不満だけど、昨日のでオカズは十分補給したし、何とか一人で持たしたから」
 笑いながらそう言う彼の顔をそろりと上目で窺う。嬉しくて堪らないような表情を彼は隠さない。その真っ直ぐな表情を、ひねた自分は直視できずに顔を逸らした。その真っ直ぐで強すぎる穢れのない光が天蓬には痛みのように感じられた。
「とにかく……他に何か欲しいものはないんですか」
「んー……別に。強いて言うなら時間?」
「……無茶言わないで下さい。何かこう、して欲しいこととか。肩叩きとか、皿洗いとか」
 本当なら、何か形が残るものが良かった。彼が自分にくれたものに対しての、恩を、しっかりと返しておきたかった。いつか進む先が別れる時に、後悔をしないようにしたかった。天蓬にとってこの穏やかな幸せは、出会いと別れという二つの嵐の間にある凪の時間なのである。いつか別れの嵐が訪れれば、この暖かな場所は跡形もなく嵐に攫われ、ぽつんと自分一人が取り残されるのだから。
 下らない、虚しい妄想ばかり繰り返す自分をどう思ったのか、小さく笑った捲簾は、天蓬の額に掛かった髪を掻き上げて掻き回すように髪を撫でた。
「じゃあ、俺が帰ってきたら玄関で出迎えてよ。お帰りなさいーって」
「どうして、そんなことがいいんです」
「ロマンってやつよ。……そんじゃ、俺そろそろ出るな。何か困ったらメールしろよ、すぐは返事出来ねえけど」
 最後に一度頭を撫でて、彼はベッドの縁から立ち上がった。沈み込んでいたスプリングが跳ね上がってぎしりと揺れる。つい反射的にそれを追って起き上がろうとすると、そっと肩を押されてベッドに押し戻された。そして目の下までしっかりと毛布を掛けられる。まるで風邪を引いた子供にするような行為に少し眉根を寄せると、小さく吹き出した捲簾は、そのまま身体を屈めて天蓬の前髪を掻き上げた。続いて落ちてくる熱い唇に咄嗟に反応出来ずきょとんと目を瞬かせる。そうしている間に、毛布の中から手を引っ張り出された。
「出かけてもいいけど、天気悪くなるらしいからあんまり無理すんな。…………なくすなよ」
 そう言うと同時に、掌の上に何か冷たい硬質なものが落とされた。そのまま掌を握らされ、再び毛布の中に戻された。反応出来ず目を瞬かせる天蓬をそのままに、捲簾は立ち上がり、寝室を出ていった。パタン、とドアが閉まり、ぱたぱたとスリッパの音が遠ざかっていく。ぼんやりとして閉まったドアを見つめていた天蓬は、玄関のドアが閉まる重い音にふっと意識が引き戻された。慌てて起き上がると腰に痛みが走ったがそれは意識に上らず、毛布を跳ね除けて掌に握らされたものを確認した。自分の掌で温められたそれは、カーテンの隙間から差し込むまだ暗い光に照らされてちかりと光る金属だ。少しぎざついたそれは鍵だった。
「……なんですか、これ」
 そう独り言を言いつつ、頭の中ではそれが何なのか、理解は行き渡っていた。少し大振りなそれは家の合鍵。キーホルダーも付けられていないその鍵を掌に握り込んで、再びぱたりとベッドに横になる。捲簾の匂いのする毛布に包まって、捲簾の匂いのする枕に顔を埋める。目頭に涙が滲んだ。今はいない彼を思いながら毛布をぎゅっと抱き締める。彼の匂いに包まれて洟を啜る。ごしごしと目を手の甲で擦りながら、毛布の中で再び、掌の中の小さな金属を見つめた。こんなに貰ってばかりでいいのだろうかとふと不安になる。クリスマスから遅れてこんなに幾つも貰っていいのだろうか。
 一体どんな顔をして彼を出迎えればいいのだろう。こんなに泣いていて、まともな顔で迎えられるのだろうか。ベッドの中でしか彼を名前で呼んだことはない。しかし今日は、ちょっとだけ名前で呼んでみようかなんて思ってしまうのである。

 上着とコート、鞄を脇に抱えて足早に部屋を出た。革靴を引っ掛けてドアを閉める。同僚に旅行の土産で貰った妙な猫のキーホルダーの付いた鍵を取り出し、鍵を締める。かちん、と鍵の締まる音がしたのと同時に、全身から力が抜けた。ドアを背にぐったりとそのままずるずるとしゃがみ込んだ。どうしてここまで緊張しているのか自分でも分からない。恋人でもない、友人でもないにしても、ここまで何年も通い合いが続いているのだから渡していてもおかしくないのだ。しかし渡すきっかけを掴めずに掌の中で五年以上も温めたその合鍵は、日を増す毎に重みを増していくようだった。掌で重くなってゆくそれを手渡すことが出来なくて今まで来た。漸くだ。よくよく考えればこのマンションに越してきた頃から用意していたような気がする。その頃からずっと渡すことが出来ずにこの手の中にあったのだ。渡し辛くもなるというものである。
 今まではずっと、彼と自分を繋ぐものなど存在しなかった。今はこの、同じ凹凸を持つ銀の鍵が二人を繋いでいる。
「……ちくしょ……どんな顔で帰れっつうんだよ」
 そう呟きつつも、帰らないという選択は頭になかった。早く帰りたくて仕方がない。きっと忘年会の誘いもあるだろうが、今日だけは断って帰ろう。世間からはずれていても、今日が自分にとってのクリスマスだった。家に帰れば大きなプレゼントが待っている。毛布にぐるぐるに包まって眠たそうな目をしたプレゼントが。
 赤い頬を擦り、鞄を横において立ち上がって上着の袖に腕を通した。ボタンを留めて上からコートを羽織りながら鞄を手にした。小走りに廊下を抜けて、外扉を開けて寒風の吹く外へと足を踏み出す。コートの襟を立てて、澄み渡った冷たい空を見上げた。吐き出した息が白く染まり、青空に散っていった。










書けもしないエロに再挑戦したせいで遅れたわけです。クリスマスネタなんて名乗らない方がいい。ケン兄ちゃんは包容力の塊です。
天ちゃんは何かよく分からないものと甘いものときらきらしたものと漠然と素敵なものの集合体です。大体そんな感じ。       2007/12/29