後輩が帰った後のグラウンドを見回りして、部室に戻る。帽子を脱ぎ顔に流れる汗を手の甲で拭ってドアノブを捻った。つい三十分前までは部活が終わった後の解放感で賑やかだった部室はがらんとしていて、少し湿った空気が篭っている。それに僅かに顔を顰め、換気扇でも回そうかと一度思ったものの、どうせ後は自分が着替えて帰るだけだと考え直してそのままドアを閉めた。
 指先で野球帽をくるくる回しながら奥へと入っていくと、軽いミーティング用に置かれている椅子とテーブルのところに、いつもの後ろ姿があるのに気付いた。きっと自分を待つためなんかではないのだろうけど、一人きりだと思っていた分何だか少し得をした気分で、そのワイシャツに包まれた背中を見て声を立てずに笑った。そしてほんの悪戯のつもりで気配を殺して背後に忍び寄り、大声で声を掛けた。
「……天蓬っ!」
「イッ!」
 いつも通り、少し驚いたような顔をして声も立てずに振り返るだろうと思っていた捲簾は、突然上がった妙な悲鳴に動きを止めた。聞いたこともない彼のそんな取り乱した様子に驚いてそのまま立ち尽くす。そして苦々しげな顔をしてゆっくりと振り返った天蓬に曖昧な笑みを返した。その時ふと、彼が手にしているものに気付いて目を瞬かせた。
 彼が手にしていたのは糸の通された針とユニフォーム。背中に途中まで縫い付けられているのは「2」と大きく印字された布、ゼッケンだ。彼は忌々しげに左手の親指の先を見つめている。どうも驚いた際に針を指に刺してしまったらしい。じわりと小さな血の珠が生まれ、天蓬はその指先を唇に押し当てて再び捲簾を睨み付けた。その挑戦的な目がいい、と思わず口元を緩めると、その眼光はますます鋭くなった。それを心楽しく受け止める自分は少しおかしいのだろうか。にやにやと笑うのを止めない捲簾を、少し気味が悪そうに見ていた天蓬は呆れたように溜息を吐いた。
「何子供みたいなことしてるんですか……」
「悪い悪い、まさか針仕事してると思わなくて。それにしても何でここでやってんの?」
「家にないんですよ、糸が。マネージャーに聞いたら好きに使っていいと」
 彼が使っているのは部室に常備されている裁縫セットだ。余程深く刺してしまったのか血はまだ止まらないようで、天蓬は不満げな目で捲簾を見上げながら親指の腹を子供のようにちゅうちゅう吸っている。練習でへとへとに疲れているのに強制的に元気にさせられそうで無意識に顔を逸らして額の汗を袖で拭った。そして気分を落ち着かせるように溜息を一つ吐いてから再び彼の手元に顔を向けた。上端だけ縫いつけられたそれは、正直なところ、お世辞にも綺麗な縫い目とは思えなかった。間隔はまちまちで簡単に言えば、ガタガタの縫い目だ。何だか目の前の男とその縫い目が一致せずに、少々動揺した。
(うわ、すげえ意外)
 天蓬はワンルームのアパートメントで一人暮らしをしている。一応自炊もしているようだったのでてっきり家事全般は得意なものだと勘違いしていた。捲簾の目がじっと縫い目を見ているのに気付いたのか、少しきまり悪げに唇を尖らせた天蓬は、少し拗ねたような表情をした。そんな表情も初めて見たもので思わずまじまじと凝視してしまう。それから怒った顔で睨みつけられ、漸く視線を離した。初めて見た彼の、普通の人間らしい欠点に何故か嬉しくなって、うっかり笑ってしまいそうになる。しかし今笑えば彼がどんな風に勘違いして臍を曲げるか分からないため、その笑いを噛み殺して天井を仰いだ。
 捲簾の思う天蓬は、何でもそつなくこなす完全無欠の男だった。今まで幾度となく会いに行っていた。そして今日まで同級生として、バッテリーとして過ごしてきたが、彼に出来ないことと言われても思い付くものなどなかった。生半可ではない部活の練習をこなした上で、偏差値もそこそこの東高に通っていたとは思えないほど成績も上位に易々と食い込んでいる。考えれば考えるほど精密機械のような男だと思っていたところに、この不器用な縫い目。何だか可愛くすら思えてくる。
「あー……あんまり裁縫得意じゃねえんだ?」
「……放っといて下さい」
 拗ねたような口調に今度こそ可愛い、と思ってしまった。それが伝わったのか否か、彼は俄かに視線を鋭くした。笑ってしまいそうなのを咎められたようで軽く肩を竦めながら指先でトントンとゼッケンを叩いた。
「マネージャーが代わりに縫ってくれるって言わなかったか?」
「ええ、言ってくれましたけど、彼女も他のことで忙しいだろうと思って遠慮したんです」
 何でもないことのように言う天蓬の少し冷たく思える横顔を見て、勇気を振り絞ってそれを提案したマネージャーを想像して溜息を吐いた。この端整な容姿だ。最初こそその冷たい雰囲気で距離を置かれていた彼だが徐々にコミカルな一面を現し始め、それまで近付けずにいた後輩たちやマネージャーたちもドミノ倒しのように一気に傾倒した。それまで話す相手といえば捲簾しかいなかった彼が人に囲まれていくのを遠くから眺めては少々複雑な気分を味わっていた。このところその複雑さが一層極まっている。
 そう言い捨てて天蓬は再びテーブルに向かった。布とゼッケンに針を刺し、糸を引く。その一連の動作が、見ているこちらが恐ろしくなるほどに危な気だった。今まで一度しか指を刺していないのが奇跡と思えるほどである。試合は明日だ。指先を怪我して絆創膏なんて貼る羽目になって指先の感覚が鈍くなって、と考えれば今小さな傷でも負わせるのはいいこととは思えない。
 躍起になって布に顔を近付けている天蓬に苦笑して、彼の隣の椅子を引いて腰掛けた。
「貸しな。俺がやってやるから」
 そう言うと、彼は驚いたように目を見開いて何度も瞬かせた。そして自分の手にあるユニフォームと捲簾とを交互に見て、今度は訝しげに眉根を寄せた。きっとこんな男に裁縫が出来るのだろうかと胡散臭く思っているに違いない、そう思える表情だった。
「言っとくけど、試合の度俺は自分でゼッケンつけてんだからな……なめんなよ」
 彼から針とユニフォームを奪い取り、縫いつける体勢に入る。しかし目の前の天蓬が手持ち無沙汰にこちらを見ているのに気付いて、ちょいちょいとドアの方を指差して見せた。
「縫っとくから、用具室の戸締まりしといて」
「……はあ」
 不承不承という様子で、それでもそれ以上文句を言うことなくテーブルの上の鍵の束を手にして部室を出ていく後ろ姿を見送り、ドアが閉まる音を聞きながら軽く息を吐いた。そして早速縫い付けに取り掛かる。裁縫セットを手探りで引き寄せて、ニッパーを取り出そうとして途中でやめた。その不器用な縫い目を解いてしまうのが何だか勿体ない気がしたのだ。ガタガタの縫い目を指先で辿り、小さく笑ってから、彼の縫ったところから続けて縫いつけに掛かる。
 部室内には掛け時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。こういったことに慣れている捲簾が直線を縫うことに然程時間が掛かることはなく、間もなく縫い始めの部分へと辿り着いた。手探りで糸切り鋏を探すがすぐには見つからなかったため、一旦犬歯で糸を噛み切った。針をピンクッションに戻し、少し皺のついていたユニフォームを広げて掲げてみる。なかなか上出来だ。そう思って笑みを浮かべていると、丁度戸締まりを終えた天蓬が戻ってきた。差し出された鍵の束を受け取って代わりにユニフォームを手渡す。受け取った彼は少し躊躇いがちに、目の前にユニフォームを広げて見ている。一瞬驚いたように目を見開いた彼は、すぐに少し怒ったように唇を曲げて捲簾を恨みがましげに睨み付けた。
「何で解いて最初からやってくれないんですか! 嫌がらせですか、こんなの……ガタガタ加減が余計に際立ってるじゃないですか」
「いいじゃん。解いたらお前、指の刺し損じゃねえか。それにお前が一生懸命一目一目縫った跡なんだしさ」
「よかないですよ」
「合作ってことで」
「完璧に馬鹿にしてますよね」
 拗ねたような顔をして、自分が縫った縫い目を指でなぞる横顔を見ていると、無意識の内に腕が伸びた。彼が驚いて顔を上げるのにも構わず、自分より少し低い位置にあるその頭をわしわしと撫でる。暫く呆然としていたせいか抵抗をしなかった彼は、ふと我に返ったように目を瞬かせてぱっと捲簾の手を払った。
「何ですか」
「可愛いなあと思って」
「どこが?」
「いやよく分かんねえけど。部の奴等も言ってたよ、思ったより天蓬先輩は可愛いって」
「色々と聞き捨てならない言葉ですね。しかも後輩ですか」
 暫く眺めていたユニフォームを畳んだ天蓬はそう言って軽く眉を顰めた。
 天蓬が部に馴染むのはいいことだった。自分もそれを望んでいた。しかし、今まで自分しか知らなかった彼の魅力が周りに浸透していくことに少々淋しさを感じるのも事実だった。その才能を埋没させてしまいたくなかったから引っ張ってきたはずなのに、それがいざ脚光を浴びると、自分一人のものが皆のものになってしまったようでつまらない思いに駆られるのである。過去にも彼が自分一人のものであったことなどない。いつも彼は、自分の張り巡らせた細かな罠を器用にすり抜けて行くのだった。
 早々に自分のロッカーからバッグを引っ張り出してユニフォームをしまっていた天蓬は、椅子に座り込んだまま俯いている捲簾を見て不思議そうに首を傾げる。そして腰に手を当てて大袈裟に溜息を吐いてみせた。
「しょうがない人ですね……今日だけ部誌は僕が書いておきますから、早くシャワー浴びて帰る準備してくださいよ」
 そう言う彼をゆっくり見上げると、怪訝な表情をしていた彼は小さく嘆息してからテーブルに置いてあった部誌を持ち上げ、それで捲簾の頭をぽんと叩いた。段々離れていく部誌と、その後ろに見える彼の少し呆れた顔を見上げて、ゆっくり口を開いた。
「……うち、寄るだろ。母さんが張り切って夕飯用意してるから、そのまま帰られると困るんだけど」
「僕が帰るまでにあなたの帰る準備が出来ればね」
「うぁい」
 そう言って重い腰を持ち上げる。彼は自分が黙ってシャワールームに向かうまで見張っているつもりなのか、部誌を肩に載せて立ったままじっとこちらの様子を窺っている。ロッカーを開けて荷物を取り出し、その居心地の悪い視線を背中に受けつつシャワーへと向かった。その視線を居心地悪く思うのは、自分に疚しいところがあるからに他ならない。
 シャワーを終えて濡れた髪を拭きながら部室に戻ると、先程と同じようにテーブルを前にして部誌にペンを滑らせている後ろ姿が目に入った。白いワイシャツに包まれている然程逞しいわけでもない背中が、グラウンドであらん限りの力を爆発させる瞬間を知っている。その細い身体のどこからそんな力が湧いてくるのだと嫉妬してしまうような力強い送球は、マウンドで一人きりの自分をいつも奮い起たせた。負けてはいられない。彼を誘った以上、自分は彼に幻滅されるような男であってはならないのである。それは押し潰されそうな重い重いプレッシャーであったが、延いては彼にそれだけ期待されているということでもある。それは全くの脈なしだった数ヶ月前から見れば羨ましくて仕方のない話だ。こちらに見向きもしなかった彼が真っ直ぐにこちらを見据えて、その実力を見定めようとしているのである。
「……ああ、帰ってきましたか」
 椅子の背凭れに腕を掛けて振り返った天蓬は、黙り込んだ捲簾を見て不思議そうに目を瞬かせた。
「何か」
「いや……書けた?」
「ええ、大方。後は戸締まりのチェックだけです」
「さっき全部確認してあるから全部チェック入れといて」
 頷いてから一度テーブルに向き直ってペンを取った彼は、すぐにぱたんと部誌を閉じて立ち上がった。
「出してきます。鍵も……荷物持って外出て下さい。鍵閉めますから」
「おいおい締め出すのか」
「早く帰りたいんでしょう?」
 そう言って首を傾げられれば、返す言葉がない。肩を軽く竦めて降参の意思を示してから自分のロッカーを開け、バッグを取り出して大人しく部室を出た。部室の外で髪を拭いていると、窓の鍵を閉めて電気を消して天蓬が出てきた。部室の鍵を閉めて、部誌と鍵を手にして校舎の方へと歩いていった。そのまま自分の荷物を置いていったということは、捲簾にどうにかしろということか。
「……校門の辺りで待ってるぞー」
 そう小さくなり始めた背中に呼び掛けると、振り返らぬまま彼は右手を上げて軽く振った。

 濡れ髪に風が心地いい。右肩に自分のバッグを下げ、右手に彼のバッグを持って校門に辿り着いた。生垣の縁に軽く腰掛けてバッグを地面に下ろした。そしてまだ乾かない髪の毛を指先で弄る。彼が急かすものだからセットが出来なかったので、乾いて締まったら前髪はだらしなく額に下がってきてしまうだろう。まだ濡れている前髪を掻き上げて小さく息を吐く。仰いだ初夏の夜空はチカチカと眩しいほど星が瞬いている。暫くぼんやりと空を見上げていると、ふと彼の指先のことを思い出した。かなり深く刺したようだったが傷は塞がったのだろうか。突然思い出して、バッグの外ポケットを探る。探り当てたそれは以前怪我をした時余分に貰っていた絆創膏だ。本来なら絆創膏などせずに直すのが一番いいのだろうが今日ばかりはそうも言っていられない。利き手ではなかったことが不幸中の幸いだった。
(明後日が初戦だってのに……)
 後で巻いてやろうと思いながら、その絆創膏をワイシャツの胸ポケットに放り込む。そしてバッグのファスナーを閉めようとした時、その隙間から携帯電話がちらりと見えた。携帯電話を見てみれば友人たちから応援のメールが山ほど届いているだろう。天蓬が帰ってくるまでメールでも確認しようかと思ったが、そういう気分にもなれなかった。そのままファスナーを閉めて、再び同じように空を見上げる。乾き始めた髪の毛が風に揺れ、退屈で欠伸をし始めた頃、校舎の方から長い影が伸びてきたのに気付いた。顔を上げれば、電灯の光を背負って天蓬が小走りに近づいてくるところだった。
「お待たせしました、ちょっと教務主任に捕まってて」
「何の話?」
「まあ試験のことで少々……」
 彼はそう言って言葉を濁したが、どうせ悪い話ではあり得ないと捲簾はそれ以上の追求は止めた。先週の中間考査も当たり前のように学年トップの成績を叩き出していたのだ。それがカンニングによるものだったとかそういうことがない限り彼が教師から叱咤されるようなことはないだろう。そんな姑息な真似が出来るような男とは思えないし、そこまでして高成績を取りたいと躍起になるタイプにも思えなかった。本当にそうなら試験の前夜も必死に勉強するだろう。しかし彼の場合、試験前で部活がないからと喜んでさっさと早い時間から寝てしまうのである。目立って試験のために特別勉強をしている姿も見ないから、本当に授業でしか勉強をしていないのだろう。それだからますます、彼が機械仕掛けのようだと思ってしまうのだった。自分の見ていないどこかでバッテリーの交換でもしているのではないかと。
「あ、飴貰ったんですけど一つどうぞ」
 しかしまあ甘いものが大好きな機械というのもどうなのだろう。天蓬が捲簾の掌に転がしたのは、白地に苺柄のプリントがされたフィルムに包まれた小さな飴玉だった。あまり好きでもない、と思いながらも、彼の厚意は貰っておくことにしてそれを受け取り、その代わりに胸ポケットから取り出した絆創膏を彼の掌に載せた。
「貼っとけ、家に帰ったらちゃんと手当てするから」
「そんな、別にいいのに」
「よくねえよ、明後日だぞ明後日!」
 そう語気荒く訴えると、彼は一瞬キョトンとして、その後よく分からない笑みを浮かべた。それがどんな感情を込めた笑みなのか読み取ることが出来ずに捲簾は顔を顰める。その、相手から僅かに距離を置くその笑みが嫌いだった。あからさまに距離を置くでもなく、しかし手が届くほど近くもない。その距離がもどかしくて腹立たしくて堪らない。いつまで経っても、やっと縮めたと思っても次の瞬間には大きく開いている、自分でも測れないその不思議な距離。手が届きそうで届かない、しかし手が届きそうな程近くに見えるのが憎らしかった。
 のそりと伸びをしてから地面に置かれた自分のバッグを持ち上げた彼は、「行きましょうか」と言い、先に校門から外へと出た。

 夏の夜の乾いた風が、半歩前を行く天蓬の髪の毛を揺らしている。明日も一緒に家に帰って、美容師をしている母に天蓬の髪を切って貰う予定だった。彼は毎年大会の始まる前日に、願を掛けるように髪を短くするという。毎年家の近くにある床屋でやっているというそれを、今年は捲簾の家で行うことにした。それは自分の我儘である。彼を元の場所に近付けたくなかった、里心がつくのではないかという危惧があったせいである。そのことは彼には告げていないが、大人しく従ったところを見ればきっとそんな疚しい感情は彼には筒抜けであろう。
 黙っていても汗が滲み出る。汗を掻いた頭皮が何となくむず痒くて、無造作に上げた手で髪を掻き毟った。それに対して彼はといえば随分と涼しげな顔付きだ。白いシャツの袖の中で腕が遊んでいる。そこからはくっきりとした半袖焼けが見て取れて、自分に比べれば色白に見えても、やはりしっかり焼けているのだと実感した。
「……お前って、いつから始めた?」
「野球ですか? ええ……スポーツとして始めたのは九歳くらいです、リトルから。それで小学生の頃に金蝉に出会って」
 唐突に出てきた名前に、思わず捲簾は身構えた。それがあからさまだったのか、ちらりとこちらを窺った天蓬は小さく笑った。わざとだ、と気付き、顔を顰めると彼はまた少し笑って肩を竦めた。
「金蝉と一緒に野球をやってみたくて、だけど一人で部活に入るような人じゃなかったから。だから中学に入る前にリトルを辞めて、中学の部活に入ったんです。だからあなたが言うのも強ち間違いではないですよ……僕が彼のために人生を曲げてきたというのは」
 そう言う彼の横顔をちらりと窺った。丁度差しかかった街灯で顔が照らされて、彼が実に穏やかな表情をしているのが見えた。見えなければよかったのに、とすぐに顔を逸らす。
「だけど後悔はしてませんよ」
「それを今俺に話す意味は」
「まあまあ、やきもち焼かないで」
 誰が! と食って掛かるも天蓬にはあっさりとかわされて、納得がいかないながらも大人しく話の続きを聞く羽目になった。
「僕は東で相当憎まれているようです。明後日からの試合、ひょっとしたら野次が飛ぶかも知れません」
「そんなもん何だ、気にする必要ねえだろ」
「あなたならそう言うと思いましたよ。だけど僕はそれなり罪悪感もありましてね、あなた実にいいくじ運を発揮してくれましたし」
 そう言われて、捲簾もまた少々きまり悪く顔を逸らした。先日行われた組み合わせ抽選会、去年優勝校主将の捲簾が引き当てたブロックには東高も含まれていた。両方が勝ち上がれば、対戦する可能性もある。東は毎年よくても二回戦止まりだ。しかも主力の天蓬が抜けた。それで、西に対戦するまで勝ち上がれるかは五分五分……途中敗退の可能性の方が大きいだろうか。ただでさえ西はシードなのである。しかし何が起こるか分からないのが夏というものだった。
「勝つなら圧倒的力差で勝たなければ意味がない。所詮この程度の力かと思われるようでは東を出た意味がないんです」
 そのきっぱりした物言いは、東が……というよりも、彼の元相棒が自分のところまで勝ち上がって来ると確信している。その繋がりは、手を触れることさえ叶わないような気がした。
「お前は、東がうちと当たるまで勝ち上がると思ってるんだな」
「公式試合で対戦して完璧に打ち負かす。そうでなければきっと、金蝉との間に出来たしこりは一生このままですから。勝ったせいで余計に関係が悪化するのならそれはそれで構わないと思ってます」
 何て馬鹿な男だろうと思ってしまう。確執だなんて簡単にやり過ごせばいいものを真正面から受け止めて、その痛みも一身に受けようとしているのだから被虐趣味としか思えない。自分には理解出来そうにない思考だが、それは彼の生まれ持った行き過ぎた生真面目さだ。呆れこそすれ不快に思いはしない……が。
 彼は思い出したように胸ポケットから絆創膏を取り出して、外包装を取ってフィルムを剥がし、親指を包むように巻きつけた。親指はどうしたとしてもぴったり貼ることは出来ずでこぼこしてしまう。がたがたしたその角を指でなぞりながら、天蓬は小さく息を吐いた。
「らしくもなく緊張してるらしくて、最近寝付きも悪くって」
「馬鹿、考え過ぎなんだよ。なるようにしかならねえんだから悩むだけ時間の無駄だ」
「世界中の人間があなたみたいな頭の仕組みをしてたら、平和でしょうねえ」
 そう言って笑い、彼はふわふわと欠伸をした。気の抜けたような吐息が夜空の下に消える。
 家に帰ったら今日のうちにさっさと髪を切って貰おう。明日はそれこそもっと早く眠らせなければならない。そして今夜はたっぷり食事を摂らせて早々に眠らせる。シード校だからと油断はしていられない。自分が完全に彼を手に入れるためには彼の元相棒との因縁を解く必要があるのだ。そうでなければ一生彼は過去に縛られたまま、自分の方を向くことはないだろう。
(困る困る、それは)
 だから今は彼の、勝つための道具でいい。いずれ彼が全てを終わらせてまっさらな状態で自分に向き合ってくれるまでは。

「コンビニに寄りたいです」
「駄目、今日は早く帰るんだ」
「アイス」
 恨みがましげな目で見つめられてつい折れそうになるが、それを彼も分かっていてやっているのである。だからここで折れれば彼の思う壺というわけだ。基本頼られると弱い捲簾だが、今日明日くらいは早く帰って早く眠らせたい。幾ら何日徹夜しても平気な顔をしている男とはいえ、やはり人間だ。『緊張している』と彼が自ら口にしたことすら驚きだった。彼が人並みの感情を持ち合わせていることが不思議だなんて、口が避けても言えないけれど。
「駄目」
「けち」
 つまらなさそうに天蓬は頬を膨れさせるが、家に帰れば何かしか甘い物が置いてあるだろう。機嫌もすぐに直る。しかし捲簾との会話を一切拒否するように一歩先を歩き始めてしまった後ろ姿を見て無意識に頭を掻いた。全く困った問題児である。しかしそんな面倒臭いところまで可愛いように思えてくるのがおかしかった。彼は人の心を掌握するのが巧いのである。意識せずともそうなのだから、意識して誰かの気を引こうとしたら靡かぬものなどいないのではないだろうか。
 そしてそれにあっさりと陥落した自分は今こうして四苦八苦しているわけである。しかし手に入れることは容易でないと覚悟している。
「……ったく、一個だけだぞ」
 途端に『待ってました』と言わんばかりに顔を輝かせて振り返った彼は、事実自分がそう言うのを待っていたに違いない。

(飴と、鞭ねえ……)
 今が鞭の入れ時なのだろうか。









料理は出来ても裁縫が苦手な天蓬とか。面倒見の良い大将は健在です。            2007/10/01