「天蓬さん、あと一時間ですよ、一時間……」
「分かってますから急かさないで下さい、話しかけないで下さい、そんなに睨まないで! あと喉乾きました!」
 何て我儘な人なんですか! と呆れたような声を出した彼は、それでもその場から立ち上がりキッチンの方へと歩いていった。その後ろ姿を見るでもなくデスクの前の椅子に腰掛けて頭を掻きつつパソコンに向かっているのがこの家の主である男、天蓬である。右足の爪先で左足の甲を掻き、耳にペンを挟んでがりがりと頭を掻く様は親父のようだ。残念なことに隈のくっきりと浮き出た顔は、元来すっと整った綺麗な顔立ちをしている。今はその顔は、悩むように歪められたり目が細められたりと百面相を繰り返している。そしてキーボードに添えられた手は一秒も止まることなくも字を打ち込み続けていた。肩までの黒髪に黒縁の飾りっ気のない眼鏡、草臥れたワイシャツにチノパンという風体でありながら彼は、月刊文芸誌では出版部数日本一を誇る伝統ある「文藝櫻雲」で連載を持つ人気新人作家である。時折唸り声を上げながらも打ち込まれていく言葉の数々には淀みがない。頭の中には何を打つべきかもうしっかりと詰め込まれていて、あとはそれを文字にする作業だけなのだ。しかしその作業に移るまでが彼は遅かった。ぎりぎりまでぼんやりと本を読んだり、読みすぎて寝不足で失神したりと彼なりに忙しいのである。そして彼にはもう一つ、遅筆にならざるを得ない最も大きな理由があった。
「どうぞ。アイスコーヒーでよかったですね」
「はいどうも」
 視線をディスプレイから離さず、手も止めぬままそう感謝を告げると、天蓬のデスクの上に冷えたアイスコーヒーを置いた青年、八戒は、集中しきって周りなど意識に入っていない様子の天蓬を見てネクタイを緩めながら大きく溜息を吐いた。
「あなたなら十分作家として食べていけるのに、何でわざわざこんなアパートの管理人なんてやってるんですか……」
「なあに馬鹿なこと言ってるんですか、作家なんて潰しのきかない職業、一生続ける気なんてありませんよ」
 彼の住居はアパートの角の一室。つまり管理人室だ。アパートの外入口を入ってすぐの一つ部屋の多いそこが、彼の創作の場である。普段はアパートの廊下や共有スペース、門の前の清掃をしたり、切れた電球の交換や町内会の仕事を主としている。ここ、『さくら荘』の管理人が彼曰く彼の“本業”だった。
「あなたは! 世間が大注目の人気作家なんですよ、自意識過剰になられるのは困りますけど少しは自覚を持って下さい、天下の『文藝櫻雲』で連載を持っているという誇りをです! あなたは運だの偶然だの言いますが、血反吐を吐くような思いをしたって連載を持てない人や、賞も受賞出来ずデビューも出来ない人だって大勢いるんですよ! これをただの幸運だと片付けるんですか! あなたは類稀な才能を持っているのにそれをドブに捨てようって言うんですか、ああ情けない。落選常連の人間に夜道で刺されてしまえばいい!」
「あああうるさい、本気で間に合わせる気があるんですか!? このままあなたと言い争いをしていたら絶対に間に合いませんから!」
 天蓬は勿論、店に並ぶまでは一秒たりとも気の抜けない担当の彼もまた酷い寝不足だった。二人とも気が立っているのである。普段はここまで殺伐とした関係ではないのだが、締め切り前だけは二人とも別人だった。
「昔世話になった人に任されたんですよ、その人は今海外で代わりに見てくれる人もいないからって! 大体僕は大病院に就職が決まっていたのに寸前でこっちの仕事を押し込まれたせいで結局初出勤の日に辞表を提出する羽目になったんですよ、馬鹿らしい!」
 本当はデビューをする気などなかった。ただ医大生だった頃に少しだけ文字を書くことに関心を持っていた時期があって、その頃に書いたものを力試しに賞に投稿したのだ。それだって友人たちと酒を呑んでいた時に軽い気持ちで承諾したことだった。受賞をするだなんて夢にも思わなかった。しかしそれはそれで純粋に嬉しいことだったので、有り難くその賞を貰った。が、事態はそれほど簡単なものではなかった。大学生などまだ子供だと思われていたのか、はっきりとした返事をした覚えもないのに次から次へと執筆依頼が舞い込み、最終的には大学の卒業論文を書く時間まで削られることになってしまった。しかしそれも何とか死ぬ思いでクリアして大学を卒業し、研修過程も終了して、大きな病院への就職も決まっていた。全ては順風満帆だと思っていたのだ、勤務が始まるという直前に突然依頼が舞い込んできて、それが予想以上に長引きそうだと分かるまでは。とんでもないことに、締め切りは初出勤の当日だったのである。ぎりぎりまで執筆に時間が掛かった天蓬は勿論欠勤、そんなことを考える精神的余裕もなかったために連絡もしなかったので、結局は無断欠勤だ。大きな叱責を受け、徹夜明けでぎりぎりの精神状態だった天蓬はそのままその夜、辞表を書いた。そして寝不足の酷い顔色のまま病院へ向かい、それを突きつけて帰ってきたのである。そして今のこの生活に至るのであるが、自分はあの時に人生の岐路に立っていた。そして見事に選択を誤ったのである。あの時一晩眠ってからもう少し冷静に考えていれば、あんな選択は決してしなかったはずだ。
「……うううタイムマシンが欲しいです、あの日に帰ってあんな辞表燃やしてやる……そしたら僕はもう少しはましな人生を送ってた!」
「天蓬さん、タイムパラドックスって知ってますか」
「はん、僕が作家にならなかったからって歴史は塵ほども変わりませんよ!」
「変わりますよ! そんなことになったら、僕があなたに出会えなかったじゃないですか!」
 その言葉で、今まで一秒たりとも止まなかったキーボードの音がぴたりと止まった。そして真顔で振り返った天蓬は小さく首を傾げる。
「……あなた相当疲れてますね」
「お互い様です」
 そうですね、と言った天蓬は再びパソコンに向き直り、文字を打つ作業に戻った。先程までと同じ、止むことのないキーボードの音が部屋中を支配した。大きな欠伸が漏れたのは偶然にも二人同時だった。欠伸で滲んだ目を眼鏡の脇から指で擦りながら、八戒は天蓬の丸くなった背中を見つめた。ふとその背中が二重に見えた気がして額を押さえる。そろそろ限界が来ているような気がしたのだ。しかし辛いのは自分だけではない、と近くのソファに腰を下ろして腕時計を見た。そして再び溜息を吐き、この頃溜息しか吐いていない自分に気が付いてまた溜息が出そうになった。堂々巡りを断ち切るため、何か楽しいことだけ考えようと試みる。
「……天蓬さん、締め切り終わったら何が食べたいですか」
「作ってくれるんですか」
「入稿が済んで、無事に発売されたのを見届けて、一眠りした後でよければ」
「じゃあお好み焼き」
「食べに行った方が早いじゃないですか」
「でっかいチョコレートパフェと、プリンが丸ごと一個入ったクレープ」
「女子高生ですか」
「でもまずはお粥で」
 それもそうだ。ここ最近の彼は何も固形物を口にしていない。食べるとしてもゼリーか何かくらいのものだ。そんな状態で突然お好み焼きやらパフェを食べられるはずもない。米と卵、あさつきくらいがあれば事足りるだろう。塩昆布か梅干があれば尚いい。そう考えていると自分まで腹が空いてくるようで、不満を訴える腹部を押さえながら天井を仰いだ。贅沢は言わない、馴染みの定食屋の日替わり定食で構わないから食べたかった。いくら料理好きとて、こんな状態では自分で作る気にもなれない。
「八戒」
「……何ですか」
 ソファにぐったりと凭れていた八戒は上体を僅かに起こして殆ど動きのないその背中を見つめた。
「すみませんね、いつも」
 こんな状態で何を言っているんだ、とつい笑ってしまう。笑いながら目を押さえ、再びぐったりと天井を仰いだ。
「平気ですよ。あなたが好きですからね」
「……僕以上の変わり者はこの世にいないと思っていましたが、世界は広いですね」
「そうですよ、世界はあなたが思うよりもずっと広いです……色んな人間がいるんですよ」
 その縮図であるが如く、このアパートに住む面々は非常に個性的だった。容姿からしても、服装も様々、顔立ちも様々、色とりどりである。職業も様々で、帰宅時間も在宅時間もまばらであるため色々と天蓬は気が抜けないのだった。殆どは引き落としだが、引き落とし日にきちんと引き落とされなかった場合は家賃の取立てに向かうことになる。しかしなかなか掴まらない相手もいるのだった。その度に家に天蓬を引っ張り込もうとする――しかも実にいい笑顔で――不埒な輩が多いのである。今はもうただの仕事仲間ではないだけに、八戒は天蓬の無事が心配で仕方がなかった。八戒にとってこのさくら荘の面々は、実に不愉快であった。

101号室:短髪黒髪の食えない狼
 これが何とも八戒にとっては掴み所のない厄介な存在だった。天蓬も、初めて入居した男であるせいか馴染み深いらしく全くと言っていいほど警戒心がない。103のへたれと仲が良いらしく時折行き来があるが、一度朝早く103から出てくるのを天蓬に見られ妙な誤解をされて、絶望的な顔をしていたのがとても愉快だった。写真に撮っておくべきだったと後悔している。職業は不明。
103号室:赤毛のへたれた狼
 こちらは八戒のとって非常にあしらい易い存在だった。何度かした餌付けが功を奏しているらしい。101の男と同じく天蓬に妙な誤解をされて、八戒に誤解を解いてくれと泣きついてきたことがあった。特に悪い人間でなければおかしな行動に走るタイプでもないため、現在の状態では安全牌である。大学を出たばかりで今はヘアメイクアーティスト(見習い)という話である。
104号室:金髪垂れ目
 隣室である103の男と度々ご近所トラブルを起こしては天蓬の手を煩わせる面倒な存在だった。態度も尊大で、しかしそれを押し通せてしまうだけの迫力のある美形だった。左右の住人と度々行きすぎたじゃれ合いで騒音を起こしている。職業は不明。
105号室:掴み所のない小猿
 悪い人間ではないのは分かるのだが、どうも掴み所のない少年だった。無邪気な顔をして時折覗かせる冷徹とすら思える表情は、年齢詐称をしているのではないかと思ってしまうほどだった。しかし一応表向きには近くの高校に通う高校二年生ということだ。104の男、202の男とは妙に仲がよく、天蓬は彼らを暗に怪しい関係だと思っているようである。
201号室:黒髪の清楚な少女
 彼女がこのアパートで唯一の常識人である。最寄の駅から電車で何駅かの医大の薬学部に通っている、今時擦れていない、しかしどこかおかしい少女だった。殆どと言っていいほど害のない人間だった。時折窓から妙な色の煙が出てくるという点のみが、天蓬の不安を煽っているらしい。時折近所の活発な小学生の女の子が遊びに来る。その少女と言えば八戒を飯炊き男呼ばわりしたツワモノ。
202号室:金髪ロングの王子様
 凡そこんなアパートには似つかわしくない、物語に出てくる所謂『王子様』のような男だった。豪邸にでも住んでいるのが自然だろうにどうしてこんなちんまりとしたアパートに住んでいるのかが甚だ疑問である。彼は年齢、職業共に全く見当が付かない。
206号室:研究者然とした不審な男
 不審としか言いようのない奇妙な男だった。他の入居者にちょっかいをかけては天蓬に注意されている。しかし不思議と天蓬とは気が合うようである。201の少女は元々205に住んでいたが、その男との間に一度トラブルがあり、天蓬の計らいで一番端の201への転居となったという経緯がある。全く家から出ない期間もあれば、数ヶ月ずっと帰って来ない期間もある不思議な男だ。勿論職業不明。

 そんな灰汁の強い入居者たちを纏め上げて作家業もこなすのだから楽な仕事ではない。先程は少し言いすぎたかと反省しながらその猫背な背中を見つめていると、突然部屋の電話が鳴り出した。締め切りが近くなると天蓬は携帯電話の電源を落とし、ひどい時には電池パックまで抜いてしまうのだが、固定電話は管理人業の方の電話が掛かってくるため切ることが出来ないのだ。いつものように八戒はその電話を取る。その相手はいつものように、馴染みの不動産屋の夫人からだった。
「天蓬さん、木下不動産の奥様からですけど後にして貰いましょうか?」
「何の用件ですか?」
「今入居を検討している方がいて、二、三質問があるんだそうです」
「貸して下さい」
 そう言われて八戒は子機を持ったまま彼の元へと歩み寄り、いつものように彼の右肩と彼の耳の間に電話を挟んだ。
「どうもお電話変わりましたさくら荘の管理に……あ、はいはい、どうもー、入居を検討されているとか……はあ、男女比? 何でまた」
 そうして馴染みの婦人と会話をしながらも彼の手は止まることがない。こういう時の彼の姿は惚れ惚れするほどだった。テレビを見ながら食事をして電話をする……というような次元とは全く違う『ながら』である。ストーリーを考えてそれを打ち込みつつ電話の内容に耳を傾け、相応の返答をする。時折片手を耳に挟んでいたペンに持ち替えて傍に置いてあるノートに何かを書き込む。その間も逆の手は休むことなくキーボードを打っている。素晴らしい、と思いつつもどうしてここまで出来る能力があるのにぎりぎりまで溜め込むのだろうということが大きな疑問だった。
「は、見学ですか……ええ……三日、いや、四日ほど後なら大丈夫でしょう。いえ、今非常に立て込んでまして……ええ、空き部屋は一階に二部屋と、二階に三部屋です。角部屋? 二階の両端は埋まってますねえ、一階の端なら空いてますよ。あ、それと話は変わるんですけど……ええ、うちの条件に足して欲しい項目があるんですよ。ええ、うちのすぐ近くにコンビニが出来まして、ええ、一度行きましたが品揃えもいいですし、宅配便も出せますし……え? 勿論ですよ、二十四時間営業じゃないコンビニなんて今時ありませんよ」
 営業も欠かさない徹底振りはもう見事としか言いようがない。これほどに出来る人間が普段どうしてあれだけぐうたらな生活を送っているのだろうか。そんなところも放っておけないと思わせられて仕方がないのだが、それと同じ感情を持っている人間がこのアパートの入居者にいるということが問題だ。目下の敵は101の男だ。管理人室のすぐ隣ということもあり、少し分が悪い。しかもその男が料理の腕がいいと言うのも予想外のことで八戒を焦らせた。彼は警戒心の強いタイプだろうと思っていたのに、その男には呆気ないほど簡単にプライベートエリアへの侵入を許しているのである。それが許し難かった。
「はい、それではそちらの方にどうぞよろしくと、ええ、……そうですね、いらっしゃる前にお電話頂ければ外でお待ちしてますよ。はい、それでは失礼致しますー……」
 そして相手の通話が切れたのを確認した後、天蓬は肩と頭の間に挟んでいた電話の子機をそのまま床に落とした。運良くそれは椅子の下に置かれていたクッションに落ちて破損を免れた。それを拾いに向かい、通話を切てから充電器に接続し直した八戒は再びソファに身体を埋めた。そして同じ姿勢をしていたせいか疲れたように頸を左右に傾けてこきこきと小気味のいい音を立てている後ろ姿をぼんやりと眺めていた。このままでは失神してしまいそうだ、と思い、それでも何とか目を開いてその後ろ姿を見つめる。その目が限界に達して上と下がくっ付きそうになる瞬間、静かな声が掛けられて、八戒は慌てて身体を起こした。
「八戒、もうすぐ、終わりますからね」
「え、もうですか?」
「もうって。タイムリミットまであと二十分しかありませんよ。寝てたんですか?」
 そう言われて慌てて腕時計を見る。時計の針は確かに彼の言う通り進んでいて、二十分ほど前までの記憶しかなかった八戒は狐につままれたような気分に陥った。これから校正をして時間一杯というところか。立ち上がり、カフスボタンを外して腕まくりをした。ここからは自分の仕事だ、彼には十分に休んで貰おう。キーボードの音が止む。喉の奥からの唸り声を上げて、伸びをした彼がそのまま椅子ごと後ろへ倒れそうになるのを慌てて支える。力の限界を知らせるように弱々しい溜息を吐いた彼の身体を抱きかかえてソファへと移動させた。ソファに横たわらせてからパソコンへ向かう。
「バックアップは」
「取りました……」
 消え入りそうな声が背後から聞こえてきて、少しだけ八戒は顔を歪めた。彼のことだからきっと誤字などはないのだろうが、このまま落ちてしまえば確認したい事項が出た時に起こすのに躊躇ってしまう。マウスを操作しながら手首の腕時計を確認した。リミットまであと十分ほど、残酷かも知れないがそれまで意識を保っていて欲しい。少しの罪悪感と、大半を占める仕事への使命感で八戒は霞み始める目を擦りながらディスプレイを見つめ続けた。マウスを操作しながらポケットから携帯電話を取り出してワンプッシュで繋がるようになっている編集部へと電話を掛けた。二度ほどコールした後すぐに出た上司の声は上擦っていて、原稿の安否を訊ねてくる。その声に被せるように八戒は用件のみ告げた。
「猪です、先生の原稿上がりました。これからそちらへ転送します」
 そうとだけ告げて通話を切る。データを送信した後、数秒後に携帯電話が震え出した。それを取ると、先程の上司が原稿を受け取った旨を安堵の滲み出す声で伝えてきた。続けて掛けられた労いの言葉に深く溜息を吐いてから、すぐに会社に戻ることを告げて通話を切断する。出来ることならばそのまま座っていたかったがそういうわけにもいかず、八戒は椅子から立ち上がって天蓬が眠っているであろうソファを振り返った。しかし彼は眠ってはおらず、ソファの上で膝を抱えて小さくなって虚ろな目でテーブルを見つめていた。彼は、八戒が目の前に立っていることに漸く気付いたようで、ぼんやりとしていた視線を八戒に向けてふにゃりと笑った。
「お疲れ様です」
「帰るんですか」
「ええ。これから無事に書店に並ぶまでが、仕事ですから」
「えらいえらい」
 そう言って笑った天蓬はゆらりと少々危なげな様子で立ち上がった。その瞬間、家のチャイムが鳴り響いて天蓬の目は驚いたように瞬き、八戒の表情は瞬時に厳しくなった。何でしょう、とふわふわした足取りで玄関に向かう彼が心配でその後を追う。彼は躊躇いもなく裸足で土間に片足を付いてチェーンロックと鍵を解除した。折角高性能のインターフォンが付いているというのに彼は殆ど活用しようとしない。いつかしっかりと言い聞かせて少しは警戒心を持たせなければと思っている。ただ今は自分がいるから大丈夫、と思いながら、「どちら様ですか」とドアを躊躇いもなく開ける彼の後ろで仁王立ちをした。そして予想通りドアの前に立っていた男に顔が引き攣った。しかしその男はといえば八戒のことなどまるで眼中にないようで、酷い顔色をしている天蓬を慌てたように気遣っている。
「おいあんた大丈夫なのか」
「平気平気……」
「全然平気そうじゃねえよ、寝てねえな。飯も……何だ、あんたもいたのか」
「いて悪いですか?」
「そうつっかかんなよ。あんたも相当ひでえ顔してるぜ」
 ほっとけ、と思いつつも八戒は焦りを押さえつつ腕時計を見た。天蓬のことも心配だが社に戻る方が明らかに優先だ。この男は見た目に反して面倒身が良いから、彼を一人にしておくよりは安心なのかも知れない。しかし自分がそれは嫌だった。いっそ彼を一人で寝せておいた方が余程自分にとっては安心だった。こんな夜中にやってくる奴がいるかと心の中で彼を詰りながらも八戒は踵を返して先程の部屋に戻り、鞄を持って玄関に戻る。
「……では社に戻ります」
「そうですか……あまり無理なさらないように。運転に気を付けて」
「あんたこれから会社?」
「ええ。何か?」
 そう言うと、彼は頭を掻きながら「別にあんたの仕事にゃ興味ねえけど」と言い切ったのちに夜に見るには爽やか過ぎる笑顔で言った。
「こいつの面倒は俺が見ておくから、安心して仕事に戻れよ」
 その爽やかさがほぼ一日一時間睡眠の八戒の触れてはいけない部分を激しく揺さ振った。怒鳴り散らしてしまいたかったがドアも全開のこの状態では近所迷惑だし、何より天蓬をびっくりさせてしまう。残りの理性を総動員して唇を噛み、「それはどうも」と辛うじてそれだけ口にした。そして靴を履き、ドアが止まるのを止める形で立っている彼の横を擦り抜ける瞬間、その彼の顔を睨み付けた。怯んだように一瞬顔を引き攣らせたその表情を見て漸く溜飲を下げ、そのまま内廊下を通り、外玄関へと向かって危なげなく歩いていった。ポケットから取り出した車のキーの音が廊下に静かに反響して、何だか少しだけ淋しい気分にさせられた。



 カツカツと響いていた革靴の音が、外扉の開閉される音と共に消えてから、捲簾は漸く土間に足を踏み入れてドアを後ろ手に閉めた。ぼんやりした目をした天蓬は小さく首を傾げてその捲簾の行動を不思議そうに見つめている。
「どうしたんですか? こんな時間に……」
「あ、迷惑だった?」
「いえ、そういうわけじゃ……でも今は見ての通りの状態で大してお構いも……」
 誰も彼に持て成して貰おうだなんて思ってはいない。引っ掛ける程度に履いていたスニーカーを脱ぎ、彼の身体を押しながら家に上がりこんだ。不思議そうにそれを見つめていた彼はそれを制することもなく、捲簾に促されるままに大人しく部屋の奥へと歩いていった。そして目に入ったリビングは思った通りの惨状だった。服は脱ぎ捨てられたまま、使った食器はそのまま、本は読み散らかされて整頓もされていない。しかし彼の場合こんなことは日常的なものである。アパートの廊下や共有スペースの掃除は毎日欠かさないというのに、自分の部屋の掃除となると面倒臭くなってしまうらしい。足元に落ちている皺くちゃのワイシャツを拾い上げてソファに放り投げて、部屋の真ん中にぼうっと立ち尽くしている彼の腕を引いた。
「軽くシャワー浴びてきな、そんで今日はすぐに寝ろ」
「え……でもあなた、何か用があったんじゃ……」
「回覧板が俺んとこで終わったから届けに来ただけだ。ほら早く、服出しとくから」
 暫くぼんやりと何も言わずにいた彼は、数秒後まるで漸く言葉の意味を理解したように時間差でこくりと頷いた。眠すぎて会話の内容を考えるだけの脳も働いていないのかも知れない。風呂場で失神して倒れなければいいが、と思いながらそのふらふらとした後ろ姿を見送った。少し心配で脱衣所を覗いてみたが、服は洗濯籠に突っ込まれていて、無事にシャワーの音が響き始めていた。それを確認してから、リビングに戻る。そして辺りに落ちている服を拾い上げて全て脱衣所の籠に入れ、あちらこちらに散らばっている本や雑誌は重ねて一箇所に纏めた。食事、とは思ったものの今の状態では食べられないだろうと踏んで、それは明日にすることにした。
 テーブルに置かれた食器を運んでキッチンへ向かう。食器といっても菓子類が載せられただけであろう小皿と、マグカップや湯呑みだけだ。殆ど固形物は摂取していないに違いない。
 回覧板だって口実だ。普通こんな夜中に持ってくるはずがないだろうと彼は気付かなかった。ただ、ここ最近彼が外に出て来ない日々が続いていたのが気になって、回覧板を返すついでにそのチャイムを押してみたのである。彼が家から滅多に出なくなるのは一ヶ月スパン、そしてある一定の日を境に再びいつものように朝掃除する日々に戻っているのである。その違和感と僅かな可能性に気付いていないわけではない。しかし自分はそれを問い質すことの許されるような関係にあるのかどうかと考えてしまうと、自然と口はその話題から離れたがった。彼のプライベートに踏み込む権利を持たない自分に訊ねられることではなかった。
 乱雑な室内の中、でんと構えた大きなソファに腰を下ろして頭を抱える。無意識に溜息が洩れた。


(やっばいだろうなぁ……)
 ぼんやりとした意識の中でもやっぱり湯を浴びるとさっぱりする。がしがしと髪を洗いながら、頭上から降り注ぐ湯の飛沫を見上げて顔に浴びた。顔についていた泡はすぐに洗い落とされて、ひたひたと頬を熱い湯が打ちつける。
 彼には自分が作家であることを隠していた。単に最初はそう名乗るのが照れ臭かったから黙っていたのだけれど、彼が掲載誌である文藝櫻雲を毎月購読するような人間であることや、彼の部屋の本棚に自分の本が並んでいるのを見たせいか今更それは自分ですなどと言えるものではなかった。言うなら言うでもっと早く言ってしまえばよかった。隠し通すのは少しの罪悪感を伴うのである。彼には雑誌のライターをしていると話しているが、そんな人間に一人担当が付くはずもなければ毎月こうして死にそうなほどの修羅場を迎えるはずもない。彼は察しのいい人だ。きっと薄らとは気付いているに違いない。あちら側から、「お前ってひょっとして」と訊ねられれば気軽に肯定することも出来ように、彼は本当に気付いていないのかもしくは気を遣っているのか、必要以上には突っ込んで来ないのである。
(腫れ物扱い、とは、違うかなぁ……)
 その優しさにひどく甘えている。管理人として力足らずなところもあるだろうに彼は一度も自分を責めたことがない。それどころか何も言わずにさり気ないフォローを入れてくれる。その優しさが憎々しくて、悔しくなるほどだった。シャワーのコックを閉めて、濡れた髪を軽く絞る。そしてプルプルと首を振ってから、バスルームのドアを開けた。そこには新しい着替えが置いてあり、洗濯機の脇に置かれた籠には自分が今までリビングに脱ぎ散らかしていた衣類が押し込まれていた。きっと明日には洗濯をしてくれるに違いない、と自意識過剰ではなく純粋にそう予想した。バスタオルを一枚引っ張り出して身体を拭きながら、思わず洩れた溜息に驚く。そうして、一頻り悩んだ後、足元から昇ってくる冷気に身震いをして、慌てて服を身に着けた。そしてタオルで髪を拭きながらリビングへ戻ると、隣接したキッチンから食器のぶつかるような音が聞こえてきた。髪を拭き拭きキッチンの方へ歩いていくと、顔を上げた彼は泡に塗れた手でちょいちょいと寝室の方を指差してみせた。
「ベッドちゃんと作っといたから、さっさと寝な。俺は時間見てちゃんと帰るから」
「でも……」
 来客を放って眠ってしまうのは少し憚られてその場に立ち尽くしていると、まだ洗い物は残っていたが、泡塗れの手を一旦水で流した彼は布巾で手を拭いた後、その手で天蓬の腕を掴んだ。その僅かな力だけでもふらりと身体が傾いでしまう。自分の思った以上の身体の衰弱に気が付いて苦々しくなる。食事は摂っておらず睡眠は限界が来て失神した暫くの間だけだ。そういえば先程は意図的に鏡を見ることを避けてしまっていたが、自分の顔は余程ひどいことになっているのかも知れない。そういえば自分に付き合ってくれた八戒の顔色もひどかった、と思いながら、ふらふらする身体を何とか立て直して男を見上げた。彼はそんな目にも構わず天蓬の腕を引いて寝室へと引っ張っていく。いつもなら抗えるはずの腕にも全く歯が立たない。そのうち抵抗を試みるだけで疲れてしまって、天蓬はすぐに抵抗を諦めた。
 引っ張られるままに寝室に連れられて行き、突き飛ばされるのかと思えば、何故か抱き上げるように抱えられて存外そっとベッドに横たわらせられた。子供にするようにわざわざ上掛けまで掛けて貰って何だか申し訳ない、と思いつつも久しぶりに入った布団の柔らかくて少し冷たい感触があまりにも甘美で、早くも意識が飛びそうになる。その上寝付きの悪い子供にするように頭を優しく撫でられて瞼を伏せさせるようにそっと顔を撫でられると、意地になって意識を保つのも難しくなる。そこに掛けられた言葉で、呆気なく天蓬は意地になるのをやめた。
「おやすみ。朝ンなったら卵粥でも作ってやっから」
 最後に少しだけ笑ったような彼の顔が見えたがそれは確かではない。薄れ行く意識の中で、その手の温かさが離れていくのを感じていた。そしてその後、静かな足音と閉ざされるドアの音で、ぷっつりと意識が途切れた。









いつか拍手で書きたかった短編ネタ。でもカップリングがごったごたなので拍手には不向きでした。           2007/11/02