ぷちん、ぷちんと一つずつ、その身を覆う鎧を剥ぐ。
 薔薇の花は棘を持つ。美しい花を守るように、その身を手折ろうとする者を威嚇するように鋭い棘を纏っている。特段その棘に威力があるわけではない。その先端に毒を持つわけでもなく、その棘が掌に刺さったとて命に差し障りはない。捻り取った棘をごみに投げ捨てながら、棘を取り終えた花を花瓶に差していく。大振りな花が揺れて、花弁の中に溜まっていた水滴が滑らかな表面を滑り、テーブルに落ちた。ぱた、と落ちた水滴を指先で拭い去ってから、テーブルで静かに書類に勤しんでいる男に目をやった。口元に手を当てて、難しい顔をしている。その白い面には疲労の色が濃く表れている。目の下の薄く白い皮膚には薄らと隈が浮かび上がっている。その様子は人形のように静かで、それでも一定の間隔で瞼が上下していた。それでもよく出来た仕掛け人形のようだと思えてしまう。暫く思案げな顔をしていた彼は、眼鏡の下から目尻を押さえて、そのままその手を手探りで判へと伸ばす。ぴったり探り当てたそれを何度か朱肉に叩き付けたのち、それをゆっくりとその書類の下部に押し付けた。彼は朝から同じことを繰り返している。溜めに溜めた書類の処理に追われているのだ。自業自得である。しかし時折眠たそうに目を擦る少し幼い仕草を見ていると、どこか可哀想に思えなくもない。しかしそれらの書類は彼でなければ判を押せないものだ。それどころか彼以上の階級の者でなければ目を通してはならないものでもある。そうでもなければさっさと捲簾が代わりに判を押してしまっているところだ。
 可哀想だが、してあげられることは何もない。出来ることと言えば、放置されて可哀想にすっかり枯れそうになっていた花を花瓶に活けておくことくらいだった。数日前からテーブルに置いたままにされていたそれは、彼に執心していると有名な上級神から贈られたものだった。触れることすら汚らわしいとばかりに近寄りもしなかった彼に代わって、今日初めてその包みを解いた。見事な深紅の、大輪の薔薇。普段は煙草や古い書物の匂いしかしないその室内にはそぐわない甘い香りが籠もっていた。それを嫌って彼が開け放った窓からは、強い風が吹き込んでいる。空のカップを載せられて飛ばないようにされている書類の端が、風に煽られてばたばた揺れていた。
 暫くそうして彼の様子を眺めていた捲簾は、手の中にある薔薇が風に煽られて揺れたことでやっと我に返った。そして再び一つの棘を摘んで取ろうとした。が、その指先はつるりと滑って、棘の先端が親指の腹に深く刺さった。小さく息を呑み、その傷をじっと見つめた。傷口からはゆっくりと血液が染み出し、あっという間にぷくりと血の珠がうまれた。刺さり所がよくなかったのかそれでは収まらず、その珠はその内決壊し、指を伝わって掌の方へと流れてしまった。花を手にしていた左手からぱさりと花が落ち、その左手で右手を押さえる。
「……ッ」
 一拍遅れてじわりと痛みが広がってくる。勿論堪え切れないようなものではない。しかし何だか不思議と不快だった。血はもうそれ以上流れる気配はない。そのままじっと掌を見つめていた。その時、カタンと椅子が動く音がした。その音に顔を上げると、机の前で書類に目を落としていた彼が、不思議そうに自分を見上げていたところだった。
「どうかしましたか?」
「……いいや」
 笑って誤魔化すと、彼は訝しげな顔をした。そして机に手を付いて立ち上がる。今までの重圧を批難するように椅子は耳障りな金属音を立てた。つかつかと近付いてきた彼は、少々乱暴に捲簾の手を引いた。そして掌に広がる血の筋を見つけて目を瞬かせる。そんな一連の動作をじっと眺めていた捲簾は、心配しなくていいと言うように左手で彼の頭を軽く叩いた。顔を上げた彼はきゅっと眉根を寄せて、捲簾を睨みつけ、そして次に床に落ちた薔薇の花に目をやった。腰を屈め、それを拾い上げた彼は、血の付いた小さな棘を爪の先で弾いた。それをほんの小さな棘だった。どうしてあんな簡単に指を滑らせて、刺してしまったのか。
 暫くじっとその棘を見つめていた彼は、徐にそれを指先で摘み取ってごみ箱に投げ捨てた。そして棘のなくなった薔薇を乱暴に花瓶に突き刺す。花を大切に扱うという概念は全くないようだ。その動作を呆れて見ていた捲簾は次の瞬間、彼の強い目に睨みつけられて目を瞬かせた。視線を落とした彼は、掌で既に乾き始めている流れた血の筋を指先で突付いている。その目は捲簾のその迂闊なミスを咎めるように鋭い。
「気を付けないと。僕へ贈られるものなんて、何が塗られているか分からないんですから」
「まあな」
 確かに注意が足らなかった。彼へ邪なまでの好意を抱いている者からの贈り物だから、何か塗られていたとしても命の危険に晒されるようなものではないだろうと油断していたせいでもある。まあ幾ら言い訳を重ねたとしても、軍人として有るまじき油断だったということに違いはなかろう。素直に謝ると、彼は怒っているのか呆れているのか、少し微妙な表情を見せた。指先の血の珠はまだ消えない。ふと思い付いて、その親指を彼の口元へ近づけてみた。その指先を少し驚いたように見た後、眉をぴくりと動かして捲簾を見上げた彼の表情は、今度こそ明らかに呆れに傾いていた。そして無理矢理している風に口元を吊り上げて笑う。
「……あまり衛生的とは思われませんが」
「いいよ」
 軽く返すと、彼は一瞬驚いたように目を見開いた。そしてそれ以上何も言い返さない捲簾の様子を暫く静かに見つめていた彼は、困ったように舌を唇に滑らせた。そして最後にもう一度視線だけで捲簾を見上げてからそろりと赤い舌を差し出し、傷付いた表面をそっと舐めた。仔猫が飼い主の指先を舐めるような躊躇いがちな舌使いに少し笑う。親指を彼の唇に押し当てたまま、人差し指と中指で彼の顎を捕らえ、軽く持ち上げる。突然顔を上向かせられて瞠られた眸に笑い返すと、その目は批難するように少しだけ細められた。しかしそれでも彼は諦めたように目を伏せた。そして傷のある指を押し付けられた唇の間から柔らかく熱い舌を伸ばして、ちろりと傷を舌先で突付くように舐める。指にちりちりした刺激が走る。痛みというには弱すぎる刺激だった。痺れに似たその感覚を味わってから、指先を軽く唇の間に押し込めてみる。抵抗はなく、彼は素直に捲簾の指を口内に受け入れた。口内は温かく濡れていて、舌が指先をすっぽりと包み込む。ぬるりと舌が傷口を滑って、ぞくりとする感覚が襲った。熱い傷口が更に熱を持った気がした。
 見ればその行為は口で男性器に奉仕する行為に似ている。実際その行為を行っている時の彼の顔はどうしたとしても見ることが出来ない。眼前にあるその表情はくらくらするほど淫靡だった。本人も擬似的なそれに興奮しているのか滑らかな白い頬には淡い桜色が滲み出している。時折苦しげに漏れる鼻に掛かった甘い声が更に劣情を駆り立てた。頬に掛かる黒髪をそっと耳に掛けてやり、徒に指を更に口の深くに押し込んでみると、彼は一瞬苦しげな声を上げて薄く目を開いた。薄らと目尻に涙の溜まった眸が縋るように自分を見上げるのに、心臓が一際大きく高鳴った。彼の、ほんの小さな表情一つでこんなにも煽られるのはどうしてだろう。ぞくりと二の腕が粟立つような感覚が襲ってきた。
 ずるりと彼の唇から指を引き抜く。そしてそのままその指を彼の下唇に擦(なす)り付けた。その唇がぽってりと赤く染まって見えるのは、自らの血のせいだろうか。頬は紅潮して、眸はうっとりと細められている。まるで情事の後のようだった。吸い寄せられるように、その赤い唇に自分の唇を重ねる。口に広がる、覚えのある鉄臭さに彼から顔を離しながら苦笑いした。
「……鉄錆臭えな」
「あなたの、味ですよ」
 そう言ってくすりと笑った彼は、捲簾の血で染まった赤い唇でゆるりと弧を描いた。その強がったような笑顔が何より強く加虐心を煽る。そうやっていつも、わざと棘を見せつけて。そして周りに壁を作って、何とか自分を強大に見せているのだ。そうでもしなければ、周囲が怖くて生きてはいけないくせに。弱みなど見せたら、自尊心を傷付けられたら、きっと彼はそのまま生きてはいられないだろう。こんな脆さで、強い存在だなんてとても言えるわけがない。しかし彼の立たされた地位は弱さを見せることを許さなかった。
 少しくらい刺されたって死にはしない。彼の棘は所詮、チクリと痛む程度の小さな棘だ。毒があるわけでもない。そんな小さな痛みと引き換えにその花を得られるのならば、傷など残っても構いはしなかった。全てはその美しい花を手折るための些細な犠牲に過ぎない。
「お前の味も、知りたいんだけど」
 言葉の棘で、毒の混じった微笑みで、完全武装した美しい人は、全て剥いでしまえばただの一人の弱い男だ。

 ソファの上、組み敷いた細い身体は強く穿つ度に怯えたように震え、首をいやいやするように振るっては涙の雫を飛び散らせる。両腕はギリギリと強くネクタイで締め上げてある。少々強い位が、彼の自尊心を傷つけないのだ。もしもネクタイが緩ければ、その程度の緊縛で逃げようとしなかった自分について彼が悩み込むことになってしまう。だから、いつも捲簾は彼が『どうあっても逃げられない状況』を作る。現実的に考えてこの状況で、彼のような上級の軍人がどうしても逃げられないなどということは有り得ない。しかし今回であれば、彼は『ネクタイ』を逃げに使うことが出来る。あれがあったから逃げられなかった。そう思えば悩む必要がなくなる。だから言い訳に出来るくらいに強い緊縛でなければならなかった。いつも袖口まできっちりボタンを留めている男だから問題はないだろうが、強い緊縛のせいで彼の手首にはいつも跡が残る。赤黒い擦過傷、それが彼の免罪符だった。彼が求めたわけではない、こちらが一方的に求めているだけのこと。
 彼が棘を取る必要はない。自分が怪我をすれば済むことだ。
「ッあ、あ、っぅ……! く、あァ……」
 仰け反った白い喉元に痕が残るほど噛み付いて、その赤い痕を舌で優しく舐める。ひくりと彼の喉仏が動いて、ヒュウヒュウと掠れた、喘ぐような息遣いが室内に響く。痙攣するように縛られた先の指がぴくぴくと跳ねる。手を伸ばして縛られた腕を引き寄せてその指先に舌を這わせれば、一瞬驚いたように震えた指先はきつく掌の中に握り込まれてしまった。きつく伏せられた瞼も噛み締められた唇も、快感の欠片も覗かせない。一瞬それを憎たらしく思いかけて、被害妄想だと自分を笑った。これは一方的なものだから、相手に意思などない。これはこちら側が彼に無理に強いていることなのだから。
 涙を湛えた眸がすっと細められて、辛そうに、悔しそうに歪められる。睨んで満足するなら睨めばいい。恨んで納得するならそれでいい。そうやって俺のことを恨み続けていればいい。部下の前では一枚も二枚も微笑みの仮面を被って、喧嘩はしても仲の良い上官二人を演じきってみせる彼が、この瞬間だけその仮面を剥ぎ取って生々しいまでのあからさまな憎悪を向けてくるのが、心が浮き立つほどの快感だった。この天界はスリルに飢えている。命の危機を感じることなどない。そんな中、彼のこの視線は真正面から受け取れば焼き殺されてしまうのではないかと思うくらいに激しく、熱かった。
 スリルを求めて大事なものを手に入れる可能性を捨てることに、躊躇いがなかったわけではない。しかし黙っていたからといって手に入るわけではない。行動を起こしたからといって手に入る可能性は限りなくゼロ。ならばその可能性を思い切りよく捨ててでも、楽しいことをしたかった。いつ終わりが来るとも分からない独り善がりのゲームだった。すぐに終わらせられるだろうと思っていたそれは、存外長く続いている。止め時が分からないくらい。楽しめるはずだったのに、それが続けられる度に心が少しずつ削られていくようだった。
 息が苦しいだろうに懸命に唇を噛んで声を殺して、引き攣れた呻き声だけを漏らす。色気の欠片もないはずのその声に酷く劣情を誘われて、彼の噛みしめられた唇に指を這わす。そしてそれを辿るように唇を重ねた。噛まれるかもしれない、と思ったが、それでもいいだろうと思った。その傷一つが引き換えになるのなら小さなもの。薔薇を手折るための、小さな犠牲。
「天蓬……お前は、本当に嫌な奴だよ」
 そんなに淫らな顔をして、とろりとした目をして見つめるくせに口を開けば暴言ばかりだ。腕を解放すれば手刀が飛んでくるだろう、脚を解放すれば蹴りが飛んでくる。この時だけでいい、抱かれているこの数時間だけでいいのにどうして求めてくれないのだろう。それが終わってから冷たく背を向けられるならそれはそれで構わないのに。それ以上の拘束は決してしないのに、どうして今だけ、この数刻の間だけでも甘い声を上げてくれない。
「ィ、う……ッく、ぁァ……ッ!」
 彼にとってこの行為は快感にはなり得ないのである。ただ単に耐え難いばかりの屈辱。一瞬だけでも、彼の目が自分を映せばいいのに。どうしてそんなことすら叶わないのだろうと歯痒くて堪らない。優しくするだけでは彼が自分を見もしないから痛めつけるだなんて、自分が何て様だ。痛めつけて彼の目がこちらに向くはずなどないのに、それ以外に彼の気を引く方法も思い付かないだなんておかしな話。
 いつまで待ってもこの闇に光は訪れない。一度熱を解放した後、口を開けたまま荒い呼吸を繰り返しながら、死んだ魚のような濁った眸でこちらを見つめるその彼の目は、光の一切窺えない闇の色をしていた。





 目が覚めた時には近くに温度が感じられなかった。そしてふと指先の違和感に気付いて、ブランケットの下にある自分の手を持ち上げた。やけに重く感じるそれを目の前に掲げてみると、右手の親指には茶色の絆創膏が巻かれてあった。綿の部分には既に血が染み込んでいて、どす黒い。傷付いた親指を、人差し指の先で軽く押してみる。じりじりとした痛みが末端から身体を蝕むようだった。
 意識こそ失っていないまでもほとんど意識が朦朧としていて自分では動けない様子の彼をソファに運び、身体を拭いてやった。そして漸く眠りに就いた彼の横で、自分も頭を彼の横に凭せ掛けて目を閉じた。そこまでの記憶はあった。しかし彼が横になっていたはずのソファは、かけてあったブランケットをそのままに空になっていた。ぼんやりと視界の中で、緩慢な動作で手を伸ばしてブランケットとソファの表面に触れてみた。熱の気配はない。決して身体は楽ではないだろうに、どこかへ出掛けたのだろうか。
 無理を強いたのは自分だというのにそれを少しつまらなく思いながら首をぐるりと回して、顔を上げた。そしてその目に映ったものに思わず声を上げそうになって咄嗟に声を堪える。目に飛び込んできた光景にただ沈黙することしか出来なかった。

 大きく開かれた窓の外では、月の蒼白い光に照らされた桜がはらはらとまるで雪のように薄紅の花弁を散らしている。その大きな窓の前に据えられた大きな革張りの椅子の上には、天蓬がいた。細い下肢を引き寄せて膝を抱え小さくなり、ぼんやりと窓の外を見つめている。月の光が彼の黒髪の上を滑り、肩からは彼の身体をすっぽり包み込むように黒い軍服の上着が掛けられていた。
 ソファの周りを見回してみたが、自分の上着が見当たらない。きっとそれを持っていったのだろう。その時、捲簾が身じろぎしたことで気配に気付いたのか、じっと外を眺めていた彼がゆっくりとこちらを向いた。驚いたように一瞬目を瞠った彼は、既に仮面をつけた後。いつもと同じ、穏やかな笑顔を浮かべてみせた。その変化の鮮やかさにはいつも寒気すら覚える。本当に、先程まで射殺さんばかりの憎悪の目を向けてきた男とは別人なのではないかと思ってしまう。

「……起きましたか」
 別人ではあるまいか、と一瞬疑った。しかしこんな容姿をした男がこの天界に二人といるだろうか。そのくらいなら、彼が二重人格であるという可能性の方が幾らか信憑性がある。激情を露わにする天蓬は眠りに就き、今は別の天蓬が顔を出しているとすればどうだ。一体、どちらが本当の天蓬なのか、分からなくなる。いや、どちらも本物なのだろう。だから片方の天蓬が自分を好きだと言ったとしても、もう一人の、今は眠っている天蓬は自分を激しく拒絶するかも知れない。ならば、彼は本当は自分を受け入れる気などないのではないだろうか。はっきりとした実態が掴めない。
「風邪、引くぞ」
「これ、お借りしてますから平気です」
 首を横に振って、そう言って笑った。彼の指先が捲簾の上着を摘み、少し露出していた肩を隠すように掛け直される。そしてちらりと躊躇いがちに捲簾に向けられた視線は、何かを見つけたように再び同じ場所を巡った。その視線の先を探ると自分の手に辿り付く。手をひらひらと振ってみせると、彼は小さく呟いた。
「傷、変わりありませんか」
「ああ、少し痛む程度だ」
「それはよかった」
 そう言って笑い、彼は再び窓の外へと顔を向けた。晒された頸が月明かりで不健康なほど白く見える。既に捲簾から興味は失せてしまったかのように、膝を抱えて窓の外を眺めている。大きな月がその興味を奪っている。雲が出で、その月を覆い隠してしまえば良いと思った。彼が積極的に自分に興味を示すことなど稀なのだから、その僅かな時間を少しでも奪ってくれるなと思ってしまう。
「天蓬」
 何も言わずに振り返った彼は、静かに捲簾を見つめて、薄らと微笑んだ。
「部屋に帰ったらどうですか」
「どうして」
「用は済んだじゃないですか。服でしたら、どうせもうボロですし明日新調してお返しします。サイズ今と同じでいいですね」
(間違いねえな)
 彼は先程の彼と同じ人間。ただ、先程まで剥き出しにしていた感情を薄皮一枚の下に巧く隠している。しかしそれは爪を引っ掛ける程度で露呈してしまうような簡単なものだ。穏やかな表情は皮一枚で、その頬に爪を立てれば、その下には嫌悪や憎悪を露わにした素顔の彼がいるのではないかと思えてしまう。ならばその白く滑らかな肌を切り裂いてしまいたいと思った。それで、本当の彼に見(まみ)えることになるのなら、その綺麗な笑顔を形どる仮面など壊れてしまえばいい。
「お前、いつから俺のことが嫌いだ」
「嫌ですね……好きだったことなんてただの一度もありませんよ」
 今日はいい月ですね。そうとでも言いそうな穏やかな笑顔で言うものだから思ったほどのショックはなかった。寧ろその言葉をするりと簡単に受け入れてしまった自分に、一拍後の自分が驚いた。好かれているとは思っていなかったが、こんなにも直接的な言葉を聞かされることなど想像もしていなかったというのに、その静かな声はするりと心に滑り込んだ。しかしその意味が心に染み渡っていくうちに苛立ちがゆっくりと頭に伝わってきて、握った拳をソファに押し付けた。
「お前は嫌いな奴にでも割と平気でやられるんだな。そういう質には思えなかったが」
 そう態と挑発するように言うと、彼は一拍置いた後、ゆるりと首を廻らせて流し目で捲簾の様子をちらりと窺った。その目にはからかいの色がありありと現れている。まるで駄々を捏ねる子供を諭す年長者のようなその慈愛に満ちた表情に尚更苛立ちが募る。椅子を回転させて部屋の中に身体を向けた彼は膝を抱え直して、膝の上に顎を載せて小さく笑った。
「あなたは上手だから、好きですよ。セックスしている時のあなたはね。その他には仕事以外で特にお付き合いする必要もないです」
「俺ってそこまで魅力ないかね」
「さあ……生憎僕は人並みのセンスを持ち合わせていないらしいのでね、一概には判断出来ませんが……あなたはとてもいい人だと思いますよ。部下からの信頼も厚くて、女性からも人気があるようですし。現に僕はあなたを仕事のパートナーとして信頼していますよ」
 そう言って、月を背後に背負った男はうつくしく笑った。見慣れたそのうつくしさが何故か、哀しかった。

 頭を掻き、溜息を吐きつつ立ち上がる。きょとんと目を瞬かせた天蓬は、捲簾が自分の方へと近付いてくるのを身構えもせずに眺めている。そんなに自分を嫌うなら、もっと警戒すればいいものを。自分に近付いてくる嫌いな男を何故端から疑って掛からない。いつも棘でからだの周りを全て覆っているくせに、時々こうして棘を隠すから気を許されているのではないかと錯覚してしまう。彼の座る椅子の後ろに回って、振り返ってこちらの様子を窺おうとする男を後ろから縛り留めるように抱き締めた。反射的に振り払おうとするその手を封じるように手首を掴んで、纏めて抱き締める。こうしてみれば、見た目ほどには華奢ではないことが分かる。洗われたばかりの髪の毛は石鹸の香りを漂わせ、まだ僅かに湿っていた。
「お前、愛されたことがないのか」
「……そうですね、ないのかも知れません。あなたと違って、人好きのする質でもなければ愛嬌もありませんし」
 存外あっさりと抵抗するのを止めた彼はそう言って力なく笑い、自分を緊縛する捲簾の腕を軽くぽんと叩いた。そして気侭な猫のように頭をのんびりと背後の捲簾の胸に凭せ掛ける姿からは少しの警戒心も見て取ることが出来ない。その身体を包み込む上着を取れば彼は一糸纏わぬ姿だ。その上着だって、元は捲簾のものではないか。甘えられているとしか思えない。しかし彼はそういう自覚はないと言う。酷すぎる。挑発するだけしておいて、その気はありませんとはどういうことだ。傍にあるのに、触れているのに心を通わすことの出来ない歯痒さなど今まで味わったこともなかった。
 彼が愛されたことがないなどということは有り得ない。現に、彼の友人からも一身にその愛を受けてきたのではないのか。そしてその養い子からも、形は違えどあんなにも愛されているのに、どうして彼が愛されたことなどないと思い込んでいるのかといえば。
「愛されてても、愛されてる感覚が分からないんじゃ愛されてないのと同じだな」
 彼が今までのどんな求愛にも応えなかった理由が分かった気がした。彼は求愛をされたという自覚がないのである。だから応えられないし、応え方も知らないに違いない。「愛してる」と言われたところで「そうなんですか」で終わらせそうな男だから。こんなにも愛されているにも拘らず、愛されることを知らず、愛することを知らない。愛しても愛し方が分からない。彼らしいといえば彼らしい。普通の者なら教えられるまでもなく自然に理解しているそれを、こんなに頭のいい男が知らないというのは何だかおかしかった。
「……どんな感じですか。愛されるっていうのは」
 そうぽつりと漏らした彼は、自分の指先を捲簾の指先に絡めて一人遊びをしている。それがどこかいじけた子供のようで、ついその頭を撫でてしまう。それを咎めるように彼は捲簾を見上げて軽く睨みつけて来た。それをいいことにその露わになった白い額にキスを落とした。抵抗することもなく、目を瞠ったままそれを受け入れた彼は捲簾の顔が離れていく段になってもぽかんとして上を見上げたままだった。丁度無防備になっていた喉元を擽ってやると、漸く我に返ったように彼は何度か瞬きをして、再び恐る恐るといった様子で捲簾を見上げた。普段見られないその少し動転したような様子がおかしくて、もう一度額に口付ける。そして顔を離し、口付けた跡を指でなぞるように触れる。むずがるように、喉仏がこくんと小さく動いた。
「こんな感じかな」
「……くすぐったいです」
「それだけ?」
 そう訊ねると、上目でじっと捲簾を見つめていた天蓬は、触れられた喉元がくすぐったいのか少しだけ目を細めた。その表情が切なげで妙に色めいていて、こんな状況下でありながら生唾を呑んでしまう。その表情で緩く息を吐き、顔を下ろした。そうすると再び彼の表情を窺うことは出来なくなり、彼の旋毛を見下ろして捲簾は気付かれないよう小さく嘆息した。両手は捲簾の手に拘束されたまま、俯いた天蓬はぽつんと呟いた。
「少し、熱いです」
「お前にはちょっと熱すぎるか。これが、普通なんだけどな」
 いつも一人でばかりいた彼は人肌や他人の体温に不慣れだった。幼い頃から人と触れ合うことが自然だった自分と彼とでは生い立ちが余りに違いすぎて価値観にも大きな隔たりがあった。しかし彼も自分も同じで、人肌が恋しくなる瞬間は間違いなくあるはずで。今まではそんな気持ちになった時にも、一人殻に篭って活字の世界に沈み込んでいたのだろうということは想像に易い。一人ぼっちの彼を抱きしめてやれる大人が誰一人いなかったというのもおかしな話である。だとしたら彼自身がそれを拒んでいたということか。そう考え始めた時、小さく彼が笑うのが分かって捲簾は意識を浮上させた。
「おかしいでしょう。僕、他人の体温で吐いたことがあるんです」
 事も無げに言った天蓬は、再び捲簾の指先をおもちゃにして一人遊びを始める。
「それも手を握られただけでね。握られた手から虫が這い登るような何とも言えない気色の悪い感覚が走るんです。そのままその手を振り払って逃げて、トイレで延々と吐きました。そしてその後、手の皮が擦り切れるくらい手を洗って、真っ赤に腫れた手を見て漸く我に返ったんです。それからも暫くはその感覚と、手に残った体温や湿った感触が消えなくて、その度に吐いていました」
 そんなことを言いながら、彼は捲簾の指を握ったり自分の指を絡めたりしている。そんなことをするから、甘えられているのだと、許されているのだと錯覚してしまう。自分の手は気色悪くないのか、と訊いてみたかった。しかしどんな答えが返ってくるのか、らしくもなく怖くなってしまって、そのまま開き掛けた唇を噛むしかなかった。暫く、捲簾の指の胼胝を爪で引っ掻いたりしながら黙り込んでいた天蓬は、外の桜の木が風に揺れて音を立てたのを聴いて漸く顔を上げた。そして一拍置いて、再び小さく笑ってから言った。
「だから、もしいつか誰かと裸で触れ合うようなことがあれば、ひょっとしたら発狂してしまうのではないかと思っていました」
 胸が一つ大きく鳴って、彼がぎゅっと手を握ったことに不覚にも肩が跳ねた。握られた手はそのまま少し持ち上げられ、その甲に柔らかくて少し温かい感触を覚えた。続けて少し冷たい、滑らかな皮膚が擦り寄せられて、先程のそれが彼の唇だったことに思い至った時、彼が静かに呟くように言った。手の甲に息が掛かり、ぞくりと背筋に電気が走る。
「でも、あなたに触れられても、こうして触れても何ともないんですよね……」
 そう言って静かに振り返った彼は笑っていたが、捲簾にはそれが今にも泣き出しそうな表情に見えた。
「案外、大丈夫なんでしょうか。……それとも、あなただからですか」
 そんなことを言って、そんな顔をして、一体何を求めているのか分からない。抱き締めていいのか、口付けていいのか、それも分からない。答えを捲簾に求めて自分で決めようとしないのは怖いからだ。彼が断言してくれれば、このまま抱き締めることも簡単なのに、彼の濁した言葉尻が壁のように立ち塞がってあと一歩を遮る。立ちはだかる壁は膜のように薄いのに、触れれば弾かれてしまいそうなほど周りを拒絶していた。情けなくもその前で怖気付き、伸ばそうとした手をその場で凍らせた。
 しかし、静かに自分を見つめていた彼の顔が俯く段になってふっと我に返る。この花を手折るためなら多少の痛みは覚悟していたはずだと、思い出した瞬間凍り付いていた身体は氷解し、伸ばした手は彼の下がっていく顎を捕らえて持ち上げた。驚きに見開かれた目は一杯に捲簾を映す。
「こうされるのは嫌か」
 そう問われて、彼はゆっくりと二度瞬きをした後、目を逸らさぬままでゆるゆると首を横に振った。それを確認してから、今度は彼を拘束する手を離して、両手でその冷たい両頬を包み込む。くすぐったそうに目を細めた彼は、それでも目を逸らさなかった。その眸を真正面から見つめ返して、再び同じように問う。
「こうするのは?」
 また彼はゆっくりと二度きっちり瞬きをした後に首を横に振った。滑らかな頬は掌の体温と馴染んで段々と温かくなっていく。この体温を彼は不快に思うことはないのだろうか。手を退いてしまいそうになりながらも、一度唾を飲み下した。そしてじっと自分を見つめてくる眸に顔を近づける。そして前髪の間から露わになった白い額に口付けた。そして再び同じ問いをしても、彼はやはり同じように首を横に振った。そこまで出来て、何故言葉に出来ないのだと彼を責めてしまいたくなる。苛立ちをそのままに、曖昧に開いたままの紅い唇に自分のそれを重ね合わせた。舌を滑り込ませて貪るように絡め取っても抵抗しない。触れられて嫌悪感の現れない相手なら誰にでもこうして従順なのかと思うだけで、虐めて痛め付けてやりたくなってしまう。
 離れていく唇に、潤んだ目を細める彼が憎らしくて、ふと殺意すら芽生えそうになる。今この瞬間その額を撃ち抜いたら、彼が最後に見たものは自分だけになる。もう、他の誰もその目に映すことはなくなる。半ば狂ったようなことを考えながら、濡れた唇を絆創膏の巻かれた親指で拭う。そしてその絆創膏に血が滲み出していたことに気付いた。彼の口に包み込まれた感触を思い出すだけでざわりと心が揺す振られた。
「誰にでも、こんなこと出来るか」
「……できません」
 一度首を横に振った後、彼は漸く口を開いた。
 何も知らない男だ。勉強が出来ても、軍事に長けていても、武術に優れていても、本当は何も知らない。これは刷り込みということになるのだろうか、と自問した。愛されることを知らない彼に、偏った愛を教えることは間違っている。そもそも、自分だって愛が何だと語ることの出来るような立場ではなかった。
「愛がどんなものだか、本当はあなたも知らないんじゃありませんか」
 心の底を見透かしたように、呟くように言った彼の顔にはからかいの色は窺えなかった。ただ、少しだけ顔を緩めて優しい目でこちらを見上げてくる。しかしすぐに視線を落とし、自嘲するように口許を歪めた。
「でもあなたは僕と違って、愛されたことがある」
「愛されたいと思ったことがあるのか」
「おかしいですか?」
 おかしいことはない、ただ彼がそういう感情を持つことがあるということは意識の範疇から外れていた。普段の、人並み外れた能力や生活態度を見ているせいか、彼が自分と同じ人種であることを忘れそうになることがよくあった。物を食べなくても、眠らなくても、人と接さなくても生きていけるのではないかとふと思ってしまう瞬間があることは確かだった。彼に嘘を吐いても、全て見透かされてしまいそうで、捲簾は小さく息を吐いた後少しきまり悪くなった。
「……正直、ちょっとな」
 正直にそう告げた捲簾に、ずり下がりかけていた上着を肩に掛け直した彼は小さく笑った。銀色の月の光が彼の静かな微笑を横から照らして、妖しげな影を作る。触れれば柔らかいと、温かいと分かるのに、それはまるで硬くて冷たい作りもののように見えてしまう。
「愛されたいのに、触れられたら触れられたで拒絶してしまう自分がおかしくて仕方がありませんでした。そのうち諦めてしまいましたけど」
 彼の諦めは、その冷めた態度によく表れていた。彼が常に纏う、外界を拒絶する棘もその諦めのせいだ。咲く薔薇は遠くから眺められるばかりで、手に取り愛でられることはない。孤独に苛まれても、ただ一人でいるほかになかったのだ。
「僕には自分があなたをどう思っているのかも分からない。嫌っているのか好いているのか、愛しているのか憎んでいるのか」
 きっと全部だろう、と瞬時に思った。ただ確信が持てないのは、肝心な、愛されているかどうかの部分。
 どうか言葉にして欲しい。そうしたら、迷うことなく有りっ丈の心を彼に傾けてやれるのに。奥歯を噛み締め、椅子の背凭れに掛けた手を血管が浮き出るほど強く握り締めた。傷付いた親指の腹に爪を立てる。じくじくと苛む鈍い痛みが理性を手放してしまいそうになる自分をなんとか引き留めている。その間じっと俯いたままこちらの様子を見ずにいた天蓬は、風に窓が揺らされる音を合図にしたように、決心したような表情で顔を上げた。
「あなたが教えてくれませんか」
 その静かな声と、真摯な眸に一瞬呼吸を忘れる。
 彼はもう既に落ちているのではないか、とも思える。しかし手に入れたとそう思った瞬間に指の隙間をすり抜けてゆくのが彼だった。まるで自分の気持ちを全て知った上でからかっているようだとも思えてしまう。
「……もし、お前が本当は俺のことを嫌ってるんだとしたら?」
 捲簾の言葉に一瞬揺れたようだった彼は、それでも首を横に振った。
「大丈夫だと思います。だから」
 どうしてそこまで言えるのに、最後の一歩を歩み寄ってくれないのだろうか。真剣で、無垢な眸が辛い。それがまさか、戦場で見せる荒み切った目をする男の表情とはとても思えなかった。焦れて、示指の爪先で親指の傷を引っ掻いていると、それを見咎めた彼が慌てて捲簾の手を掴んだ。
「何をやってるんですか、もう」
 捲簾の腕を掴んだまま自分の執務机に手を伸ばした天蓬は、一番上の抽斗の奥から絆創膏の箱を取り出して、中から一枚絆創膏を取る。そして古い絆創膏をそっと剥がして顔を顰めた。そして捲簾を咎めるように上目で睨み上げてくる。
「治りが遅くなりますよ」
「その度お前が絆創膏張り直してくれるんなら、それでもいいかもな」
 新しい絆創膏を取り出して今まさに張り直そうとしていた彼は驚いた顔をして目を見開き、すぐに憮然とした表情になった。そして多少乱暴に絆創膏を巻き、パシンと手の甲を叩いた。ジンジンとした痛みに、目が覚めるようだった。叩かれた手をひらひらと振って肩を竦めると、呆れたような目で天蓬は溜息を吐いた。やっといつもの彼らしさが戻ったようでほっとしつつも少し残念に思っていた矢先、溜息を吐いた後俯いていた彼がぽつりと呟いた。
「……すみません。今日は、おかしなことを言いましたね。全部忘れて下さい、僕も……忘れますから。全部」
 その言葉に、心が冷える。少しだけ縮まったように思えた二人の距離が再び開いてしまう。壁が、立ち塞がる。
 それだけは許すことが出来ず、咄嗟に彼の身体を引き寄せて抱き締める。一瞬驚いたように捲簾の身体を押し返そうとした天蓬の手は、そのまま行き場を失って二人の身体の間で握り締められた。息が苦しくなるだけ強く抱き締められて、それでも彼はそれ以上の抵抗を見せなかった。何故従順なのか分からない。嫌なら拒絶してくれればいい、嫌いだと言ってくれればいい。何も言葉をくれず、曖昧な態度を取り続ける彼に苛立ちが募る。我慢も限界だ。
「ふざけんな……忘れさせねえよ」
 簡単に忘れられてしまうような、その他大勢ではいたくなかった。こんな鈍い痛みが続くのなら、棘の痛みなど何でもないように思える。
「そのうち、俺がいなけりゃ三日といられないようにしてやるからな」
 小さな頭を胸に押し付け、すっかり乾いた艶やかな黒髪に頬を擦り寄せる。こんなにも近くにいるのに、まるで心が通っていないことが苦しくて、痛い。胸の奥の蟠りが腐り始め、鈍い痛みを訴え始める。しかしそれを抑える手段を知らない。それでも彼の体温に触れている間はその痛みが薄まるようで、その体温を貪るように抱き寄せる。
「……その頃には、分かるようになりますか」
「なるよ」
 そして今の俺と同じような痛みを味わえばいい。思うように気持ちの伝わらぬもどかしさや相手の感情を想像しては不安や自己嫌悪に陥る羽目になる苦しさを知ればいい。そう思いながら、彼の肩を覆う上着の下に手を滑り込ませ、頸の後ろから背筋に指を滑らせた。びくりと身体を固くした天蓬が小さく身体を震わせて、深く息を吐いたのが分かった。
 まだ本当の痛みを知らない、子供のような男だ。そんな彼が愛を知る前に、肉体的な快感を教え込んでしまうことに僅かばかりの良心が痛まなかったわけではない。しかし放っておけば好奇心旺盛な彼が誘いを掛けてくる者に気の迷いでふらふらとついていかないとも言い切れない。ならば先に身体だけでも吾が物にしておくのも悪くはないと思ったのだ。優しさだけでは花を手折ることなど出来ない。本当にその花を愛でたいと思うなら、触れない方がいいのかも知れないということにも気付いていた。しかしその花の香は神経を麻痺させ、正常な理性を保つことを許さない。こんなにも自分はその毒に似た香に侵されているというのに、花は何も知らずに静かに咲き誇っているというのだから多少の醜い感情が生まれてもおかしくはないだろう。
 手折るための犠牲は十分に払ったはずだ。相当する痛みも苦しさも、眠れぬ夜をも幾らも通り過ぎてきた。もうそろそろ許されてもいい頃だろう。今度落ちてくるのは彼だ。これから彼は、今まで知らぬままだった未知の痛みや苦しみを知るのである。そう思えば、今までの苦悩も全て報われるような気がした。彼の髪に頬を寄せて、小さく笑みを浮かべる。捲簾の手が背中を辿る度にびくびくと身体を震わせる彼は、短く甘い吐息を漏らしている。そのままゆっくりと落ちてくればいい。抱きとめる準備は出来ている。
 窓の外の桜の木がざわりと大きく揺れて花弁を散らす。そのうち幾らかが部屋の中に入り込み、天蓬の頭の上に舞い落ちた。息を吹きかけてそれを落とし、再びその黒髪を指で梳いた。桜にすら触れさせたくないというのは、狭量だろうか。彼に触れる全てから彼を庇うように抱き締めて、彼を硬質に照らしていた銀の月を見上げた。その光の元では、舞い散る桜の花弁すら硬質な硝子の破片のようだ。降り注ぐ光に目を細め、腕の中にある確かな体温を確かめる。

 愛する痛みに泣く彼は、一層の艶を増すだろうか。













天蓬は薔薇みたいにあからさまな棘を持っているというより、綺麗な見た目に油断してたら毒持ってた、みたいな感じ。しかもじわじわ効く。
非常に懐かしいWANDS「世界が終るまでは…」
2007/10/14