ミットに返ってこなかった白球は、敗北の音を伴って青い空に吸い込まれて消えた。

 辺りの喧騒が遠く感じられた。涙を零して勝利の歓喜に湧くスタンドがぐにゃりと歪んで見えた。熱中症かな、と頭に手を当てる。マスクを外して初めて、広がるグラウンドで地面に縋りつく仲間たちの姿が目に入って、ますます頭の奥がぐらりと揺れた。ゆるりと首を巡らせると、マウンドに立ち尽くした男が、いつもどんな時でも顔を上げて堂々としている男が、グローブを地面に落として俯いていた。
(何て、情けない顔してるんですか)
 声に出したつもりが、それは唇が空回っただけだった。いや、ひょっとしたら声は出ていたのかも知れない。しかしその声は、相手校の選手たちの歓喜の叫びに掻き消され、耳に届くことがなかった。スタンドからは歓声が上がり、整列していく勝者へと向けられる労いの叫びは絶えることがなかった。操られたように勝者と対面する形で整列する。目の前にした勝者は、隠し切れない喜びに満ち満ちた、鮮やかな表情をしていた。今にも叫び出しそうな彼らはその思いを礼に替えて、大きな声で礼を言って頭を下げた。それに対して器械的に頭を下げ、自分たちを応援してくれた人たちの元へと一斉に掛け出していく彼らを見送った。

 サイレンが響く。夏がそこで終わりを告げた。

 隣に立つ男に、マウンドに置き去りにされていたグローブを手渡す。緩慢な仕草でそれを受け取った男は、聴いたこともないような弱々しい声で「ごめん」と一言絞り出すように言った。その後ろで、地面に崩れ落ちた後輩が声を上げて泣いている。ゆっくりとその後輩の元に歩み寄ってしゃがみ込み、その肩を揺する。顔を擦り擦り顔を上げた彼は、天蓬の顔を見た途端に再び顔をくしゃくしゃにして泣き出した。それに連鎖するように頽れ、土に爪を突き立てて涙を零す。遠くから、聴き覚えのある、勝者の高らかな歌が聞こえて来た。それは誇らしげで、喜びに満ちた歌。それを聴きながら泣きじゃくる仲間たちに掛ける言葉はなかった。地に根が張ったように、足が動かない。全身が鉛で出来ているかのように身体が重かった。そんな身体を叱咤して、何とかゆっくりと、俯いたまま動かない男を振り返った。泥に汚れた頬を見つめて、掛ける言葉を何とか探す。何とか情けなくならぬようにとこんな時にすら体裁を繕ってしまう自分が嫌で嫌で、情けなくて、卑しくて仕方がなかった。
「すみません、でした」
 そう言うのが精一杯だった。掠れたその声が情けなくて唇を噛む。
「……何で、お前が謝る?」
 ゆっくりと彼を顔を上げた彼は、哀しいのか、泣きたいのか笑いたいのか、よく分からない顔をして天蓬に手を伸ばした。そしてぼさぼさになった天蓬の頭を少し乱暴に撫でた。彼は天才などではなかった。生まれ持ったのは僅かな才能で、それを天才と言わしめるまでに高めたのは人知れず重ねた努力だった。胼胝を作って、肉刺を潰して、硬くなった掌が頭を撫でる感触に唇を噛んだ。彼の努力を生かし切れなかった。下らない自分の挑戦に付き合ってくれた彼の夏を、こんな形で終わらせたくなかった。打たれたのは彼だ。この敗北は一生彼の心に残るだろう。自分の球のせいで負けたと。
「僕が、あの打者の力を侮って、配球ミスしたんです。打ち取るためにはもっと、確実な方法があった」
 お前は最後の最後で詰めが甘い、と笑ったのは誰だっただろうか。今はもう思い出せないその声が頭に響いて、苛立ちが募る。今更思い出したって遅いのだ。最後の彼の球は自分のミットに届かず青空に吸い込まれて見えなくなった。マスクを外して見上げた青空に吸い込まれていく白球を思い出す。あの空は一生頭から離れることはないだろう。夏は終わったのだ。もう彼とこの球場に立つことも、ない。
 唇が空回る。戦慄きがとまらない。息が普通に吸い込めなくてしゃくり上げる。歯と歯がぶつかる音が耳障りだった。
「天蓬、お前……」
 目の前の男が驚いたように目を瞠ってこちらを見ていた。その男の顔が歪んで見えて漸く、頬を真っ直ぐ伝う温い水滴に気が付いた。手の甲でそれを拭い、平静を装ってみせようと思うのに、身体は思うように動かない。呼吸が苦しくて口も閉じられず、一旦零れ出した涙は止め処もない。グラウンドでは高らかに校歌が演奏されている。歓喜の声が、自分の惨めな嗚咽を掻き消してくれて少しだけ安心した。校歌が終わったと同時に上がる歓声が、愚かな自分を哂っているような気がした。
「すみません、でした。僕がッ……」
「うるせえよ!」
 突然張り上げられた声に思わず肩を震わせる。ゆっくりと顔を上げれば、俯いたまま肩を震わせていた彼は鋭い目をして顔を上げた。その眸から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる瞬間を、信じられないような思いで見つめた。
「一人で、全部背負いやがって……お前だけじゃねえよ、一点目返されたのだって俺のフォークがすっぽ抜けたからだし、二点目返されたんだって外野が間に合わなかったからだろ! お前がじゃねえ、俺たちが負けたんだ! ……負けたんだよ」
 彼の口から聞かされる敗北は、先程のサイレンの音以上に天蓬の胸を強く押し付け、責め立てた。喉の奥がぐっと詰まったように呼吸が苦しくなって、呻きに似た声が漏れる。堪え切れなくなり、崩れる、と思った。その瞬間強い腕に抱き締められて、驚きに目を瞠る。しかし息苦しいほどのその腕の強さが、一人で立つ気力もない自分には心地よかった。土の匂いに汗の匂いが混じって鼻先を擽って、ほっとしたと同時に感情の箍が外れた。
「お前と最後までやってこれてよかった。……ありがとな」
「僕はッ……あなたを!」
 捲簾の胸を押し退けて顔を上げる。男の顔が涙に濡れていて、ますます何が何だか分からなくなる。
 勝たせたかった。一番にしたかった。ばらばらだった夢は一つのものになり、いつしか彼を一番の投手にすることが目的になっていた。目の前の、困ったような表情をした男の顔が滲んで歪む。人が良くて、努力の欠片も人には見せない強い男を、こんな風に泣かせてしまったのが自分の無力さゆえだと思えば、
「勝たせたかった、のに! 僕の力足らずで」
 最後まで言い切る前に再び強く抱き締められて、口にされることのなかった謝罪は吐息と共に消えた。

「天蓬、……ありがとうな。最後の一年、だけでも、お前とやれてよかった」

 自分の背中を強く抱き寄せる彼の手が震えているのが分かった。震える手をそっと伸ばし、男の背中に縋りついて、その土に汚れたユニフォームに顔を埋めた。ごめんなさいもありがとうも言えぬまま、ただ彼のユニフォームの肩口に顔を押し付けて、泣いた。周りから起こる嗚咽や啜り泣く声が大きくなって、顔も上げられぬまま、小さく口許を緩めて笑った。今年の夏は、今までで一番汗を掻いて、笑って、泣いた。途中からは力試しなんてどうでもよくなっていた。一つでも、少しでも多く長くこのチームで試合をしていたかった。この夏に、終わりなど来ないと思っていたかった。
「西に、来て、よかったです」
「天……?」
「最後一度だけでも、こんなに笑って、泣けて、よかっ……」
 金蝉たちと過ごした二年間を否定するつもりはない。だけど、このチームで、五ヶ月程しか一緒にいられなかったことが、哀しいのか辛いのか、悔しいのか、考えるだけでまた涙が滲む。

「……捲簾、ありがとうございました」

 道を示してくれて、別の生き方を教えてくれて、ここまで連れてきてくれて。
 感謝してもし足りない。何一つ言葉に出来ないけれど、いつか落ち着いたら伝えようと思った。

「あなたがいなきゃ、こんなに自分が泣けるなんて、知りませんでしたよ」

 彼の身体に縋り付いて何とか立ち続けながら、新たに涙が目頭に浮かんでくるのを感じて、彼のユニフォームに顔を押し付けた。彼の匂いが、グラウンドの土の匂いが、鳴り止まない歓声が、皆の啜り泣く声が、頭の中を占領して何も考えられなくなる。
 今日の空をずっと覚えていようと思った。自分の持っている力の程を知った、自分の新しい一面に気付いた。初めて人前でこんなに泣いた。彼に伝えきれないほどの感謝をした。
「あなたとここまで来られて、よかった」
 忘れられない最後の夏を、この空色と共に。










サヨナラホームラン喰らって準優勝、という設定。でも準優勝でも凄い。          2007/10/15
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