(うわ……最低)
 すし詰めの電車から機械的に押し出されてコンコースを歩いていた捲簾は、辺りの人のざわめきで初めて顔を上げ、顔を顰めた。雨が降っているのだ。天気予報でも0パーセントとされていたはずの夜空は雲に閉ざされ無数の雨粒を地面に叩き付けていた。頼れる(はずの)相棒は夕方頃にふらりとどこかへ出掛けてから捲簾の元へ帰ってきていない。自分を小さな不幸から回避させるためにいるのではないのかとやつあたりしたくもなる。折り畳み傘は会社に置いたままである。家には今までに同じ目に遭った時に買ったビニール傘が何本もあるので、このためにビニール傘を買うのも癪だった。もし彼がいたならどうにかしてくれそうな気もするのに、こういう日に限って彼はいない。指環の中に篭っているのだろうか。しかし何もこんな日にいなくならなくてもいいだろう。段々と歩く速度を落としながら雨の降り頻る屋根の外へと足を運ぶ。折り畳み傘を使う者、ビニール傘を買い求める者、それぞれだ。捲簾の住むマンションまでここから走って十分ほど。ずぶ濡れになることは免れない。しかし明日は休みであることを考えれば頑張れなくもない。
(……うっし)
 気合を入れ直し、薄手のコートの襟を立てた。そして雨空の下へと足を踏み出そうとした時、にこにこと近付いてくる子供に気が付いた。通り過ぎる人々が微笑ましげにその小さな姿を振り返っている。青いレインコートを着て長靴を履いて、フードをすっぽり被った目のくりくりした子供は、腕に大人ものの傘を一本抱えて捲簾の前に立った。見知らぬ子供に行く手を阻まれ、しかし子供に乱暴することも出来ない捲簾は曖昧に笑って腰を屈めた。父親か誰かのために傘を持ってきたのだろうか。しかし生憎捲簾はこんな大きな子を持った覚えはない。
「坊や、一体どうし……」
「お迎えに来ましたよ、けんれん」
 言葉を遮るようににっこり笑ってそう言った子供に、腰を屈めた格好のままで固まった捲簾は、まじまじとその顔を覗き込んだ。言われて見ればその傘は確かに家に置いてある捲簾のものである。しかしその子供が何故自分の名を知っていて挙句その傘を持っているのか皆目見当がつかない。しかしその飄々とした話し方には心当たりがあった。そしてそのくるんとした榛色の大きな眸が悪戯っぽく輝くのを見て顔を引き攣らせる。漸く分かったと踏んだのか、子供は再びにっこりと笑ってその傘を捲簾に向かって差し出してきた。きらきらした大きな眸が得意げだ。それは確かに間違いなく。
「何だってわざわざ、子供の姿……」
「だって、大人の男が傘持ってあなたを迎えに来てたらおかしくありませんか? この姿だと、お父さんのお迎えにきた子供みたいで微笑ましいかなあと思って。駄目でしたか?」
 子供らしくない、その人を食ったような余裕のある笑みと含みのある言葉は間違いなくあのチビだった。いつでも好きな姿に身体を変えられる彼は、時折こうして突然手を変え品を変え、突拍子もない行動で捲簾をおちょくっていた。役立つことも多々あったからそれを責めることは出来ないのだけれど、どうも時々遊んでいるようにしか思えないと思う瞬間があるのである。
 しかし今日の姿は確かに愛らしいものだった。もし自分が本当に父親で、こうして迎えに来てくれたなら一日の疲れも吹き飛ぶというものだ。しかし今のこの時世で子供がこんな夜に一人で家から歩いてくるだなんて危ないことがあるだろうか。
「馬鹿野郎、こんな時間にそんな姿でほっつき歩いて危ない目に遭ったらどうすんだ、誘拐されるかも知れねえんだぞ」
 傘を受け取りつつしっかりとそう言い聞かせると、呆然としたままするりとレインコートのフードを脱いだてんぽうは、じっと捲簾を見上げてきた。その目はやけにきらきらとしていて面映い気分になりながら少し顔を逸らして「何だ」と問う。すると満面の笑みを浮かべたそれは、少し照れたように顔を俯かせた。
「いえ、まさかけんれんが心配なんてしてくれると思わなくって、ちょっとびっくりしました」
 そう言ってから、ちら、と顔を上げたてんぽうは、再び照れたように笑って下を向いた。そんなちまちました仕草を見ながら、捲簾は頭を押さえた。そういう趣味はないというのに、しかもこれはてんぽうだというのに、可愛くて仕方がない。少しだけ躊躇った後、そっと伸ばした手でその小さな頭をくしゃくしゃと撫でる。まだ照れが収まらないのか、半笑いのまま顔を上げたてんぽうはキョトンとして首を傾げた。それを横目に傘をカチンと開き、彼の頭に再びそのフードを被せてやる。そして彼に向かって手を差し伸べた。暫くその手をじっと見つめていたてんぽうは、少々躊躇いがちに自分の手を伸ばして捲簾の手を握った。
 小さなその温もりが何だか慣れなくて掌の中で転がしながら、歩幅の小さな彼に合わせてゆっくりと足を運ぶ。雨が傘の表面を叩く小さな音すら心楽しく思える。既に大きく出来ている水溜りを避けるように歩きながら、雨が地面や建物にぶつかる様々な音に耳を澄ましていた。しかし長靴を履いた小さな姿のてんぽうの方は水溜りをわざわざ探して近づいていくものだから、捲簾のパンツの裾は大分濡れてしまっていた。
「遠かっただろ」
「平気です。夕方頃家に帰って、駅に行くまでちょっとごろごろしてましたから」
「雨が降るって知ってたら教えてくれりゃいいだろ、折り畳み傘会社にあったんだぞ」
 責めたつもりはなかったが、そう言うとてんぽうは少しきまり悪そうに上目で捲簾を見上げてもごもごと口篭った。
「……怒ってますか?」
「は? や、別に……けどなんでかなあって不思議に思っただけ」
 いつもと違う、見慣れぬ位置にある彼の顔を見下ろしながら捲簾がそう言うと、ちらりと目を逸らしたてんぽうは、ぼそりと小さな声で呟いた。激しい雨音に掻き消されてしまいそうな小さな声は、思ったよりも大きく耳に響いた。
「ちょっと、やってみたかっただけですよ……」
 そう言ったきり、拗ねたのか照れたのか俯いたまま顔を上げないその姿に口元が緩むのが抑えられなくて、無理矢理に噛み殺した笑みのせいでおかしなひょうじょうになっているだろう。傘を持った左手の甲で口元を擦り、彼に気付かれぬように小さく息を吐いた。

「何か甘いもんでも買って帰るか?」
 そう声を掛ければ、案外簡単に誘惑に負けた彼はそろりと顔を上げた。叱られるのではないかという目をした彼が何だか珍しくて新鮮だった。物珍しくて多少楽しさを感じないでもないが、やはりそれでは張り合いがない。その小さな手を握る手に力を込めて、触れた指先一本一本を愛しむように親指で撫ぜた。
「いい子で迎えに来てくれたからな」
「子供扱いしてますね」
「子供じゃねえか」
「子供じゃありません!」
「ふーん……じゃ、子供じゃないならおやつなんていらねえだろ?」
 そうわざとらしく訊ねる捲簾に、珍しく何も言い返せぬ様子で悔しそうに唇を尖らせたてんぽうは、俯き加減で「いじがわるいです」と小さな声で呟いた。その表情がますます子供っぽく見えて思わず吹き出すと、今度こそ完全に拗ねてしまった彼は捲簾の手を振り払い、ぱしゃぱしゃと水溜りを踏みながら走っていってしまった。先に曲がり角を曲がったてんぽうを追って捲簾が角を曲がると、憮然とした表情をした、いつものサイズのてんぽうがぷかぷかと目の高さで浮いていた。腰に手を当ててじっとこちらを睨み付けてくるそれに、少しだけ安堵した。
「わざわざむかえにきて、ソンしました」
「そう言うなって」
 その小さな身体を摘み、胸ポケットに押し込んで家路を急ぐ。もぞもぞと暫くポケットの中で暴れていた彼は、顔と手だけポケットから出す格好で落ち着いたようで、小さく溜息を漏らした。









以前書いた妖精パラレルの続きです。わたしの傘が盗まれた記念。時期的には今書いている話の少し後くらいです。そちらも近日アップ予定。           2007/10/21
うっかりしていましたがいつの間にか電車通勤になってた…バイクか車の方がおいしかったかな…。