夏企画で書いた兄の恋人に恋する悟浄の続きです。つまりは天蓬さんが普通に女体です。
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(ごじょうは女の子にモテモテですね、すごいすごい)
 悟浄がランドセルから取り出した沢山の色とりどりな包みや手紙を見て、その人は嬉しそうに笑った。そして優しくその手で撫でてくれる。女の子から好きだと言われることは嫌ではなかった。しかしその中に特定の好きな子がいるわけでもなかった。ただ沢山の人に好かれて、囲まれていることが嬉しかったのだ。本当に欲しいのはその他大勢の女の子からのプレゼントでも、沢山の手紙でもなかった。他にどこを探したって替わりは見つからない。唯一のそれは、決して自分の手には入らない。それはとても綺麗で、近くにあるのに決して手が届かない宝物だった。いつも傍にいて大好きだと言って抱き締めてくれても、それは自分のものにはなり得なかった。
(ごじょうの好きな子は、どんな子ですか?)
 そう言って小首を傾げたセーラー服の少女に、悟浄は何も言えなかった。途端何だか泣きたい気分になって俯いた悟浄を、恥ずかしがっているのだと思い込んだ彼女はそれ以上追究してくることはなかったが、その言葉は真っ直ぐに心に冷たく突き刺さったまま。微笑む彼女の顔が美しければ美しいほど悲しくて、悟浄はひたすら悪戯小僧の道化に徹することしか出来なかった。ふざけて茶化して馬鹿をやって、彼女が笑うまで。笑う彼女を見て、そして彼女を連れていってしまう兄の後ろ姿を見て何度自分の幼さを悔やんだか知れない。
 ああ何で。どうしてこんなことになった。
 ずっと本当に欲しかったのはあんただけだったのに。



 上掛けを跳ね除けて、ぼんやりした視界の中、随分明るくなった天井を見上げる。まだ余り慣れないその天井を暫くぼんやりと眺めていた悟浄は、夢の内容を反芻してその場景を頭に思い浮かべ、腹の底から溜息を吐いた。一人きりのワンルームアパートで初めて過ごした夜明けは、大層胸糞の悪いものだった。
(寝覚め最低……)
 むくりと上体を起こし、カーテン越しに差し込む朝日の光の中でがりがりと頭を掻いた悟浄は、立てた膝に両肘をついて再び深く深く溜息を吐いた。酷く懐かしいそれは、近頃忘れかけていた甘い感傷を呼び覚ました。夢の中に出てきたセーラー服の少女は、初恋の相手であり、あの頃から今までずっと憧れの対象であった。自由気侭で奔放で、行動や言動は突拍子もない変わった人で、しかし何をしても憎めない不思議な愛らしさがあった。黙っていれば人形のように愛らしい容姿も、その性格では台無しだと思う人間もひょっとしたらいたかも知れない。しかし悟浄はそうではなかったし、周りをざっと見渡しても彼女の性格で幻滅するような人間はいなかった。確かにその大人しそうな清楚な容姿とその性格や内面のギャップは激しかった。しかしそれすら魅力的に思える。そのせいで逆に深みに嵌ってしまったような気もするのだった。彼女がその見た目通りの清楚で淑やかな美少女であったなら、ひょっとしたらここまでのめり込むことはなかったようにも思うのである。
 ベッドからゆっくりと降り、伸びをして大きく欠伸をした。シャツの中に手を入れて腹を掻きつつ、とりあえず何か腹に入れるべく冷蔵庫へと向かった。何もひかれていない床が裸足の足の裏に少し冷たかった。
 初恋、初失恋の相手であり、憧れの存在であり、母のようでも姉のようでもあったその人は、もうすぐ本当の姉となる。来週には、と話していたから今週一杯はまだ大丈夫なのだけれど。そう考えて、(一体何が大丈夫なんだよ)と自問した。この期に及んでまだ諦められないのかと自己嫌悪に陥りそうになる。小さな冷蔵庫のドアを開け、卵とベーコンを取り出す。まだ碌な食材も買ってきてはいないため、ベーコンエッグとパンくらいしか食べることは出来なさそうだ。そのパンを焼くトースターすらまだ手に入れていない。今月のアルバイト代でまずはトースター、と考えつつフライパンをコンロの上に載せた。火に掛けたフライパンにベーコンを入れると、じゅうと肉の焦げる音と共に食欲をそそるいい匂いが漂い始めた。換気扇をつけて、ベーコンの上に片手で割った卵を落とす。欠伸をして頭を掻きながら、冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。開け口に直接口をつけて残り少ないそれを飲み干して、中を軽く水で洗った。
 見上げた掛け時計が差す時刻は八時半。テーブルの上に昨日から置いたままになっている着慣れないスーツは、まだ腕を通すかどうか迷ったままだ。昨日呑み明かした友人は、酔いで頬を赤くしつつ呂律の回らない声で悟浄に説教をした。世話になった兄の結婚を祝えないとはどういうことだと延々叱り付けられて眠ったからあんな夢を見たのだろう。酔っ払いの説教は際限がない。遠慮がないだけにストレートに胸に突き刺さった言葉の数々が、今も頭の中で反響していた。その声が癇に触って、舌打ちをしてから部屋の真ん中にあるローテーブルの上から煙草を取った。取り出した一本の先にコンロの火を移し取って口に咥える。吸い込んだ煙を換気扇に向かって吐きながら、乱暴に髪をガリガリと掻いた。そして隣のコンロにケトルを掛けて湯を沸かす。友人から餞別に貰ってきたインスタントコーヒーがあったはずだ。その瓶を開け、今のところ家に唯一の食器であるマグカップにそれを少し入れて、端の焦げ始めたベーコンを眺めた。
 多少の不便は強いられても、これで漸く彼女の顔を見ずに済む。兄に向かって微笑み掛ける顔を、拗ねたように膨れる顔を、物憂げに沈む顔を。その全てが美しいのはそれらが全て、兄の存在によって引き出されるものだからだ。彼女があんな笑顔を他の人間に向けることはない。兄に微笑んだ後その顔が自分へ向けられるのが怖かった。差を、見せ付けられるようで。
 ぼんやりと考えに沈んでいた悟浄は、突然ケトルが立てた高い音に漸く我に返った。そして慌ててフライパンの方の火を止め、コンロからケトルを取り上げた。シュンシュンと湯気を立てるそれを暫く眺めていた悟浄は、大きく溜息を吐いた。ケトルを手にして、調理台に置かれたマグカップを見つめた。自分には多少可愛らしすぎる、赤いそれを見るだけで、それを買ってきた少女の顔が今でも鮮やかに思い出されるのだ。
 多少焦げ気味のベーコンエッグに、焼いていない食パンを二枚、インスタントコーヒーというシンプルな朝食を済ませてから、着ていたパジャマ代わりのシャツを脱ぎ捨てて別のシャツの袖に腕を通す。諸々の手続きは昨日済ませてあるし、もしかしたら引っ越し作業が長引くかも知れないと多めに休みを取っておいたために今日もアルバイトはない。どうして今日に限って早く目覚めてしまったのだろうか。どうせなら昼頃までぼんやり眠っていればよかった。そうすれば、余計なことを考えることもなかったのに。そう考えた瞬間、再び頭の中にセーラー服姿の少女が過ぎって、苛立ち紛れに頭をがりがりと掻き毟った。

 まだ外は少し肌寒い。シャツの上からジャケットを一枚羽織って家を出る。まだキーホルダーも付いていない、使い慣れない鍵を閉めて、金属剥き出しの階段を下りた。鼻先を通り過ぎる風が少し冷たくて、肩を窄める。元の家までは一駅ほど。本当は近所にも条件の合うアパートメントがあったのだが、意図的にそこは避けた。そんなことになればきっと兄は頻繁に夕飯に誘ってくるだろうし、あの人と二人でいるところを目にする機会が多くなる。きっといつかはそんなことを気にせずに顔を合わせられる時が来るのだろう。だが今は無理なのだ。幸せを願いたいのに彼女を幸せに出来るのが兄だけだということが辛くて、直視出来ない。それが自分の大人になり切れぬ幼さであることは分かっていた。
 一駅の距離は歩いていくことにして、ジャケットのポケットに手を入れたままぼんやり空を見上げて息を吐いた。

 兄は身寄りのない悟浄を連れて実家を出た。そして自分の通う高校に近い小さなアパートを借りた。それはまだ高校生の身分である彼にとっては大きな冒険だっただろう。家賃や学費だけは払って貰っているものの、光熱費などは全て自分持ちだった。小遣い稼ぎ程度にやっていたアルバイトは生活費を稼ぐためのそれに変わり、今まで一つしかやっていなかったものを三つに増やした。部活を止めた。高校が終われば慌ててアルバイト先へ向かい、夜中になって漸く帰って来るという生活だった。そんな兄の方が余程心配だというのに、彼は悟浄を一人ぼっちで家に置くことの方を心配していた。そしてそんな日々を過ごしていたある日、下校時間になって突然小学校の校門に現れた兄の傍らに立っていたのが彼女だった。奇特にも、兄のアルバイトが終わるまでの時間悟浄を預かってくれると言った彼女は、名前を天蓬と言った。
(あなたが悟浄君ですか。はじめまして)
 悟浄の前にしゃがみ込み、柔らかに微笑んだ少女は、今までに見たことのないような人だった。そんなに綺麗な人を見たことがなかった。今でもそうだ。しかし彼女はその時既に人のもので、しかもその相手は他でもない兄だった。こんな人ならば気の多い兄が惚れ込んでしまうのも無理はないし、また兄は彼女が惚れてもおかしくないほど出来た人だった。白い手でそっと悟浄の頭を撫でた後、ぽかんと自分の顔を見上げてくる悟浄の顔を見てくすりと笑った。彼女が笑う度、視線を動かす度にどきどきさせられて、まるで自分の心臓がおかしくなってしまったようだった。






 宿題見てあげましょうか、おやつでもどうですか、と何かと世話を焼きたがる天蓬に、悟浄は収まらぬ動悸を誤魔化しつつ努めて冷静に振舞っていた。その目を見てしまえば顔が赤らむのは抑えられないし、この緊張に気付かれてしまうのではないかと思ったからだ。そして、まだ少し女というものに対して怯えに似たようなものがあった。母親が自らを手に掛けようとしたその瞬間はまだ記憶にはくっきりと焼きついていて、どうせ女は本当に自分を愛することなどないのだろうという諦めもあった。差し伸べられるその温かい手は、自分が恋人の弟だからだ。そうでもなければ与えられるはずがない。彼女が愛するものもまた、自分ではないのである。
 その日も、しきりに話しかけてくる彼女を避けて、リビングのテーブルで一人宿題をやっていた。本当は分からなくて訊きたい箇所もあったのだけれど、手放しに甘えてしまうのが怖くてじっと口を噤んでいた。拒否を示されるのが怖い。蔑む視線で見られるのが怖い。母もそうだった、兄のことは愛おしむような目で見つめるのに、自分のことは穢わしいものを見るような目で見下ろしてきた。少なからず惹かれている相手だからこそ尚更嫌われたくなくて、怯えを覚えてしまうのだ。
「何か分からないところがあったら訊いて下さいね」
 風呂に入って出て来たばかりの天蓬はふわりと石鹸の香りがする。少し収まっていた胸の高鳴りが再び始まってしまうのを、唇を噛み締めて誤魔化した。唇を噛んだまま返事をしない悟浄に、彼女は暫くその場に立ち尽くしていたがゆっくりとその場に膝を折った。距離は一メートルほど。それだけのことで圧迫感を感じ、身体が強張ってしまう。彼女の真意が分からなかった。
 更に続けられる遠慮がちな声に、胸を押し付けられたように息が苦しくなった。
「遠慮しなくていいですよ? 訊いたらもっと早く終わるかも知れないし……」
「……ひとりで大丈夫だから!」
 彼女の言葉を遮りたくて上げた声は思った以上に大きく響き、彼女はぴくりと怯えたように肩を揺らした。それにしまったと思いつつも放った言葉を撤回するわけにもいかず、きまり悪い声で続けた。ぼそぼそとした声が情けなくて再び唇を噛んだ。きっと呆れてしまっただろう。面倒な子供だと思われただろう。だけどこれでもう、彼女が話しかけてくることはない。そう考えても、何だか涙が滲んできそうになる。震えそうになる声を精一杯平坦に押し出して、顔を逸らした。
「……ほっといてよ、ひとりでいい」
 暫くその場でじっとしていた彼女が、俄かにそっと微笑んだのが分かった。ひやりと空気が一気に冷え込んだような気分になった。何てことを言ったのだろう。撤回しなければ、謝らなければと思っても顔も上げられず、声も出せない。そうして一人でぐるぐると混乱しているうちに、彼女は小さく首を傾げてそっと躊躇いがちに口を開いた。
「……分かりました、邪魔してごめんなさい。僕は自分の部屋にいますから、もし何かあったらすぐに呼んで下さいね」
 どうしてこんな我儘を言う子供にそんなに優しい言葉をかける余裕があるのだろう。涙を堪えて俯いたままの悟浄をどう思ったのか、そのままテーブルに手をついて立ち上がった彼女はリビングを出ていった。ぺたぺたと足音は遠ざかっていき、一度止まった後ドアが開かれる音と閉められる音が響いて、それから先はひたすらの沈黙が下りてきた。じっと鉛筆をテキストに押し付けていたせいで、解答欄には大きな黒い跡が残っていた。それを懸命に消しゴムで消しながら、滲んでくる涙を服の袖で拭った。
 すぐ傍にある温もりに縋りついてしまいたいのに、嫌われるかも知れない、疎まれるかも知れないと思うだけでその一歩が踏み出せない。閉ざされた奥の部屋のドアを見つめて、洟を啜る。茶色いドアがじわりと滲んで見えなくなるのに、再び慌てて服の袖で顔を拭った。拭っても拭っても止むことのないそれが悔しくて、更に涙を呼び起こす。優しい人たちに囲まれて、幸せなのではないのか、嬉しいのではないのか。なのにどうしてこんなに悔しくて悲しくて涙が出るのだろう。拭ってもすぐに滲み始める視界の中、閉ざされたドアは自分を拒絶しているようだった。謝りたいのに、立ち上がることすら出来ない。もう嫌われてしまっただろうか。もうあんな風に優しく微笑みかけて、話しかけてはくれないだろうかと思えば、足元からがらがらと崩れていくような切迫した恐怖が訪れた。
 しかしそのドアは驚くほど呆気なく開いた。ドアを開けて出てきた天蓬は腕に毛布を抱えている。開けたドアを閉めてからリビングに顔を向けた彼女は、驚いたように目を見開いて慌てて悟浄の方へと駆け寄ってきた。ばさりと床に毛布が落ちて、詰まれていた本の山を豪快に崩した。しかしそんなことにも気付かないほどに慌てた様子の彼女は、悟浄の前に膝をついて顔を覗き込んできた。濡れた頬に添えられる少しだけ冷たい手が胸の奥を締め付けて、熱くさせる。
 暫く静かにそうして黙ったままでいた彼女は、少し躊躇いがちな手つきで悟浄の髪を梳くように撫でた。その指先は冷たくて、頭皮に触れて少しだけひやりとした。そう思った瞬間、鼻先に柔らかいものが触れて慌てて目を開いた。目の前には彼女の着ていたシャツの模様。そして今触れた柔らかなものの正体に気付いてカッと顔が熱くなり、慌てて身を離そうとしたが、不意に頭上から下りてきた静かな声にその動きを止めた。
「……ねえ悟浄君。もっと話したいこと話してみませんか。あなたのやりたいことや欲しいもののこと、もっと教えて欲しいです」
(……どう、しよう)
 そんなに優しくされたら、本当に大事にされているのではないかと錯覚してしまう。頭の後ろを撫でられて抱き寄せられて、柔らかい感触と温かさに包まれて、視界が滲んで洟を啜る。このままだと彼女の服を濡らしてしまうのに、それも構わぬように両腕で悟浄の身体を抱き締めた。赤ん坊をあやすようにゆっくりとしたリズムで背中を叩かれて、箍が外れたように涙が堪えられなくなる。無理に堪えれば洟が出て、彼女の服を汚してしまわないように啜り上げた。なるべく声を出さないようにと思うのに、声を堪えれば堪えるだけ苦しくなって、痙攣したようにしゃくり上げた。それをなだめるように掌が背中を上下して、嬉しいのか苦しいのか色々な感情が綯い交ぜになる。
「あれが食べたいとか、何がしたいとか、何だって言っていいんですよ。叶えられる叶えられないはありますけど、それでもあなたには希望を口にする権利があるんですから」
 彼女の手が悟浄の前髪を掻き上げて小さく微笑んだ。そして髪を上げたせいで露わになった頬の大きな傷の痕をそっと撫で、涙でぐしゃぐしゃの両頬を掌で包み込んだ。レンズ越しに与えられる視線は優しくて、また泣きたくなって顔が歪む。そんな悟浄を見て彼女はまた笑って、そっと額に唇を寄せた。柔らかくて温かなそれが触れたのはほんの僅かの間だった。しかしそれっぽっちの温もりも今まで与えられたことがなかった。堪らなくなって飛びつくように抱き付くと、すぐに抱き締め返してくれる腕があった。そのことが涙が出るほど嬉しくて、しかしその温かさと甘い香りは胸が締め付けられるような痛みを伴って悟浄の胸に届いた。
「今夜は一緒に寝ましょうか。ね」
 迷惑だろう、とか、何か用事があるのではないか、と気になることは色々とあったが何一つうまく口に出せなくて、悟浄はそのままこくりと頷く。そして何とか絞り出した声で「ごめん」と呟いた。それを見て笑った彼女は悟浄の心を読んだように、何も心配しなくていいですよ、と言い、その細腕で悟浄の身体を軽々抱えて立ち上がった。心地いい浮遊感に包まれながら、緩く息を吐く。
 柔らかな腕に抱き締められ、優しい石鹸の香りと温かさに包まれながら、涙で腫れぼったくなった瞼を閉じる。そしてあの家を出てから初めての、深く穏やかな眠りに落ちていった。






 暖かな春まであともう少しだ。ちらほら花の綻び始めた桜の木の下では子供たちが駆け回っている。途中、公園から転がり出てきたサッカーボールを蹴り返してやると、駆けて来た小さな二人の少年は行儀よく頭を下げて礼を言って、再び公園の中へと走っていった。ひらひら手を振ってその背中を見送った悟浄は、彼らが再び遊びに戻ってしまうのを確認して再び歩き出した。頬に触れる風はまだ少し冷たいけれど子供たちはそんなものお構いなしだ。途端首筋を通り過ぎていく風に肩を窄める自分は少し歳を取ったように思えてしまう。
 夕暮れまで友人とボールを追い掛け回って遊ぶ。暗くなると友人たちは一人、二人と迎えの母親が訪れて帰っていった。ボールと一緒にぽつんと公園に残されて、ぼんやり点き始めた街灯を見上げた夜を思い出した。早く帰らなくては兄も天蓬も心配するというのに、自分だけが一人で帰るのが悔しくてそのままブランコに腰掛けていた。群青色の空にちらほらと小さな星が輝き始める頃、砂利を踏み締める足音が聴こえたことで顔を上げた。脇に悟浄の上着を抱えた天蓬が、息を切らして木に手をついていた。顔が上げられ、その目が悟浄を捉えて凄烈な光を伴う。そのまま駆け寄ってきた彼女に、目の前に星が散るほど豪快に頬をはられ、それが収まらぬうちに強く抱き寄せられた。心配したのだと、怒られているのに嬉しくて笑ったのを彼女は気付かなかっただろう。
 その後気分が落ち着いてから、赤く腫れた頬を撫でながら謝られた。自分の意地で怒られて当然のことをしたのだから謝られる必要などなかったのだけれど。それから彼女と共に家に帰った。そして兄にも拳骨をされ、その後先程と同じように殴った頭を撫でながら謝られた時には彼女と顔を見合わせて笑ってしまった。

 風はまだ少し冷たいけれど、僅かに花の香りが混じる。一度大きく深呼吸をするとそれは途中から欠伸になった。じわりと浮かんだ涙をジャケットの袖で拭って、先を急ぐ。見上げた空は高く青くて、たまに早起きするのも悪くないと思った。

 いらっしゃい、と悟浄を出迎えた天蓬は髪を後ろで束ね、珍しくエプロンをしていた。黒で大きめのそれは兄がいつも使っていたものだった。それを指摘すると、誤魔化すように笑いながら彼女は頬を掻いた。中へと入っていくと、キッチンの方からは香ばしい良い香りがした。
「遅いんですけど、これから朝ご飯なんです」
「兄貴は?」
「急に呼び出されて、午前中だけ会社に行ってるんです。お昼には帰ってきますよ、お昼までゆっくりしていって下さい」
「いや……いいよ、すぐ帰る」
 残念そうな顔をした彼女はあと暫く粘ったが、悟浄がもう一度断ると諦めたように少しだけ淋しそうな顔をした。今日は、まだ運び切れていない荷物を取りにきたのだ。今日兄が届けてくれると言ったのを断ってのことだったのだが、仕事があったのならば丁度よかったようである。ソファに腰を下ろすと、朝食のために丁度入れてあったのかすぐにコーヒーを持って彼女が現れた。いつものカップは悟浄の家にあるため、差し出されたのは客用の小さくて華奢な把手のカップだった。慣れないカップを掌に包み込んで、部屋をぐるりと見渡した。食器棚も本棚もダイニングテーブルもソファも、何も変わっていないのに、住んでいる人間が違うだけでまるで別の家だ、と思った。部屋の隅に置かれている段ボール箱は、天蓬が自分の家から越してきた荷物だろう。悟浄は自分の部屋を空けてしまってもいいと言ったのだが、兄は頑として部屋はそのままにしておくと言って聞かなかった。彼女の家にあった本が全てこの家に入り切るのかが些か不安であるが、ふと見れば部屋の中には自然に彼女の私物が置かれていて馴染んでいる。喜ばしいことなのに何だか少し淋しくて、ソファの上に置かれた彼女の本に手を伸ばす。小難しい単語ばかりが連なるそれは悟浄にとっては苦手意識を目覚めさせるものでしかない。数秒ほど眺めてすぐにそれを閉じた悟浄を見て、天蓬はくすくすと笑った。
「やっぱり活字は嫌いですか」
「新聞くらいは読むけど……」
「それにしたって政治面は飛ばすんでしょ?」
 返事に詰まる悟浄に、少し悪戯っぽく首を傾げてみせた天蓬はそのうち小さく噴き出した。
「でも僕はそういう悟浄の方が好きですよ、毎朝欠かさず経済新聞読んでるような悟浄なんて僕は嫌です」
「……将来はどうなるか分かんねえだろ」
「将来ですか? 全く想像出来ないですけど……悟浄がどんな大人になるのか、楽しみだなあ」
 決定打だ、と思ったが、それは別に今気付いたことではない。彼女は自分のことを本当の弟のように可愛がってくれていて、どんな風に成長するのか楽しみにしている。彼女にとっての自分が『男』ではないと、そのくらい前々から嫌というほど知っていたのではなかったか。明日には人のものになってしまう彼女を前にして、まだ卑しい感情を持つ自分が嫌になる。あれからもう十年の年月が経ったのだ。本当ならばもっと早くに幸せになっていたはずだった二人は、自分のために先延ばしにしていたのである。これで漸く二人の邪魔をせずに済むようになるのだ。正式に彼女の弟として過ごす日々が来るのである。
 コーヒーカップを手にしてにこにこと笑顔で自分を見つめてくる彼女は、やはり綺麗だった。今でも、彼女が手に入れば、と思う気持ちがあるのは誤魔化せない。しかし彼女の幸せと兄の幸せを願うのならば、少しおちゃらけた弟を演じ切るしかない。淋しさも妬みも滲ませてはならない。笑って祝福して、彼らをからかうくらいの余裕がなければいけなかった。
「……んで、ドレスはどうなの。腹がきついとか」
「もう、捲簾と同じこと言って。大丈夫ですよ、毎日一応腹囲測ってますけど、変わってません」
 どうあっても幸せでいて欲しい人は、そう言って笑った。大人になったら少しは対等な目線で自分を見てくれるのだろうか、とはただの仮定でしかない。自分が子供だから、というのはただの逃げだ。自分が兄と同じ歳であって、同じ条件で彼と並んだら彼女が自分の方を選ぶだろうか。その答えは明らかだった。自分が大人だろうと、弟のような存在でなかろうとも、彼女の愛する相手は兄だった。
 逆に考えれば、彼女が惚れた相手がそんな出来すぎた兄でよかったとも思える。もし彼女の結婚相手が、何でそんな男を、と思ってしまうような相手だったならばきっとずっと諦め切れないだろうから。
「あ、クッキーありますよ。今出してきますね」
「あ、いや、いいって……」
 そう言って止めようとしたが話を聴いている様子もない彼女は自分のカップをテーブルに置いてキッチンへと戻っていった。彼女の白とベージュのツートンカラーのマグカップは、家を出ると決めた時に彼女に送ったものだった。色違いで揃いのものを兄にも渡してある。そちらは白と黒のツートンカラーだった。ゆらりゆらりと湯気を立ち昇らせるカップをぼんやり眺めていると、金色をした缶を手にした彼女がスリッパを鳴らして舞い戻ってきた。美味しいんですよ、と言いながら嬉しそうに蓋を開ける様子を見れば、本当に食べたかったのは彼女の方なのだとすぐに分かる。思わず少し笑ってしまうと、そんな悟浄に気付いたのか彼女は少しムッとしたように唇を曲げた。
「何ですか」
「いや、相変わらずこういうの好きだよなあと思ってさ」
 そう言ってコーヒーを啜る悟浄に、缶の中からプティフールをつまみ出した彼女は、少し拗ねたような表情でそれに歯を立てた。白い歯がちらりと覗く。それを半ば無意識でぼうっと眺めていた悟浄に彼女はどう思ったのかクッキーの缶を指でこちら側に押しやってきた。正直なところそんなに食べたい気分でもなかったのだけれど、ここで突っぱねたらまた彼女が臍を曲げるであろうことが分かっていた。大人しく礼を言い、缶からアーモンドの載った小さなものを取り出して、一口に咀嚼した。口に広がる甘い味をコーヒーで流して息を吐く。
「……ところで荷物ってどれ?」
「ああ、そこに置いてある紙袋ですよ。ほんのちょっとだったし、わざわざ来てもらうほどのものじゃなかったんですけど」
 天蓬が指差した先は部屋の隅にある茶色の紙袋だった。カップをテーブルに置いてから立ち上がり、その袋を取りに向かう。思ったよりも重みのあるそれを持って再びソファに戻り、テーブルの上に載せて、その口を開いてみた。そして予想もしていなかった中身に目を瞬かせ、顔を上げる。するとにこにことこちらを見つめていた天蓬と目が合った。
「これ……」
「新しいうち、まだトースターもないでしょう。引っ越し祝いにって、捲簾がね」
 そう言われて、悟浄は再び袋の中に視線を落とした。まだ新品のトースターの箱だ。そこでふと、ある可能性が頭の中に芽生えた。本当に彼は仕事で出ていったのだろうか。これを直接渡すのが照れ臭くてわざと席を外したのか。それとも……悟浄に最後の時を与えたのか。どちらにしても彼らしい優しい――しかし今の悟浄には残酷としか思えない――心遣いだった。
「早くお金貯めて、洗濯機くらい買えよって言ってましたよ」
「いーんだよ、洗濯機は友達から古いの貰う予定だし。……さんきゅって言っといて」
 小さく笑った天蓬が「はい」と答えるのを聞いて、再び椅子に深く腰掛ける。その時、紙袋の中の箱の脇に何か別なものが入っているのが見えた。身体を起こして袋からそれを引っ張り出す。彼女もその存在は知らなかったのか、驚いたように目を瞬かせている。
「何ですか? それ」
 取り出したものは、フォトアルバムだった。ずっしりと重いものの正体は寧ろこちらだったようだ。紙袋をテーブルから下ろして代わりにそのアルバムを広げた。カップを持ったままソファから立ち上がり、悟浄の隣へ移ってきた天蓬はそのアルバムに顔を寄せた。そして嫌そうに顔を顰める。
「うわやだ、写真じゃないですか……ああ何だ、昨日の晩一人で何やってるのかと思ったらこんなことしてたんですね」
「え?」
「昨日の夜、食事の後一人でクローゼット漁りながら何かしてたんですよ」
 アルバムはまず仏頂面の悟浄から始まった。まだ兄に引き取られたばかりで孤独感に荒み切った表情をしている。次の写真に写っていたのは、セーラー服を着た天蓬とそれに無理矢理引っ張り込まれた格好の悟浄。動物園に行った時。水族館に行った時。遊園地に行った時。どれもが小さな頃の悟浄には初めてで、自分で見てもこそばゆくなってしまうほど自分の表情は輝いていた。
「何かすごく若いですねえ」
「そんなに変わってねえよ」
「そうですか? もう今じゃこんな格好出来ませんよ」
 そう言って彼女は少し丈の短いスカート姿の自分を指差した。まだ高校生の頃の姿だから比較する方がおかしいのだが、彼女なら今でも無理ということはない。しかし本人があまり好まないのだ。この頃だって友人に無理矢理勧められて漸く着たのではなかっただろうか。
「この頃は、こんな風になるなんて思わなかったなあ……」
「え?」
 その呟きを聞き咎めて悟浄が声を上げると、天蓬は少しきまり悪げに笑った。膝の上で頬杖をついてアルバムを見つめる目は物憂げだった。久しく見たことのなかった彼女の沈んだ表情に、ざわりと胸に嫌な感じが広がる。
「正直、どうせいつか別れが来る関係なんだろうって思ってましたからね。捲簾の想いも、この頃はあまり信用してなかったかも知れません。彼の女性遍歴も知ってますし、浮気を疑ったこともありました。実際あの頃は何度か浮気したこともあったんだろうって今でも思ってますよ。あの頃は、喧嘩する度にもうこれでおしまいだって何回も思ってましたから」
 誰に聞かせるともなく淡々と話す彼女の横顔を見て、頭をふっと過ぎった言葉は「マリッジブルー」だった。付け込める、と咄嗟に思ってしまった自分を激しく叱咤して、そんな自分にぞっとした。今二人きりでいるこの状態が怖くなる。このままこうしていたらどうなってしまうのだろう。今だって、少し自分が動けばその細い身体を拘束してしまうことだって出来るのに。物憂げに吐かれた溜息に胸が苦しくなる。
「……後悔、してんの?」
「少し、分からないです。後悔というより、先が見えなくて不安で、何だか平均台の上を歩いてるみたいで心許ない感じ」
 膝の上で重ねていた掌を擦り合わせて、天蓬はそうもごもごと歯切れの悪い様子で言った。そして突然立ち上がり、悟浄と自分のカップを持って笑ってみせた。無理矢理に作ったようなそれは見ているこちらに痛みを感じさせるものだった。
「冷めちゃいましたね。今淹れ直しますから」
 そう言ってこちらに背を向けた彼女の、結い上げた髪の毛の下から覗く細くて白い首筋を見たら、突然泣きたいような気分に駆られた。膝の上で両手をぎゅっと握り締めて、ぎゅっと目を瞑って俯いた。堪えた涙が洟になってくるのを啜って、立ち上がった。

 心配しなくていいよ。
 そのまま何も不安がらずに笑っていて。
 絶対に、あんたは幸せになれるから。

「――――――天蓬!」
 そう呼びかけられ、振り返ったその身体を強く強く抱き締める。彼女が小さく息を吸い込むのが分かった。柔らかい感触に、柔らかな甘い香りがしてまた息が苦しくなる。あの頃自分をあんなにも軽々と抱き上げた身体はこんなに細かっただろうか。その身体が軋むほどに力を込めて強く抱き締めた。もうきっとこれが最後だと思うと力の加減を誤ってしまう。その体温を貪るように身体を抱いて、小さな頭を掻き抱く。戸惑ったように悟浄の身体に掛けられた手は結局掴まる場所に困ったように、そのままするりと下に落とされた。
「ご、じょう……?」
 躊躇いがちな声が耳元で聞こえた。
 今この場にいない彼が悪いのだ。彼が今日一日、彼女から離れなければこんなことにはならなかったのだから。
 彼女の身体を拘束する腕を解くと、戸惑ったような表情をした彼女がじっと自分を揺れる眸で見上げていた。その肩に、頭に手を伸ばして再び引き寄せる。何か言いたげに僅かに開いていたその薄紅の唇に自分のそれを合わせる。それはほんの数秒のことだった。舌を絡ませるでも、体温を交換するでもない、ただ合わせるだけの口付けだった。ほんのりと自分と違う体温が残った唇を噛んで、再びその身体を強く抱き締める。その黒髪に頬を寄せて、溢れ出しそうな感情を堪える。気を抜けば、あの頃のように泣いてしまいそうだった。
「ごめん、……ごめん、天蓬」
「ごじょ、う」
「ずっと好きで、ごめん」
 そう告げた途端、堪えていたものが全て溢れ出した。溢れたものが頬を伝って天蓬の髪を濡らす。強く抱き締められ、黙ったままの彼女はそれでもゆっくりと両手を上げて悟浄の背中をそっと擦り始めた。その温かさにまた涙を誘われ、不意に鼻先を掠める香りに胸が痛くなる。どうしてこんなに傍にあって手に入らないのだろう。全てを手にしている兄が、本当が憎かった。憎くて憎くて殺してしまいたいほどで、だけどあの優しい人を嫌いになることも出来なかった。
 この人一人いれば、自分は他に何も要らないのに。
「……悟浄、ごじょう」
 トントン、と背中を擦っていた天蓬の手が背中を軽く叩いた。そしてぎゅう、と強く抱き締め返された。自分も同じことをしているというのに、彼女にその行為を返されたことに跳ね上がるほどに驚いた。彼女を抱き寄せる手が僅かに震えている。
「ごじょう」
 すり、と天蓬の顔が悟浄の首筋に擦り寄せられた。黒髪が肌を掠めてくすぐったいのにそんなことも気にならないほどに胸が高鳴っていた。怒らないのだろうか、と怯える今の状態は子供そのものだ。その彼女の一挙一動に緊張する悟浄に掛けられたのは、思いも掛けない言葉だった。
「ありがとう」
 何で、どうして「ありがとう」なのだろう。分からなくて、自分の首筋に顔を埋めたままのその人を見下ろす。そのまま動かない彼女の表情を窺うことは出来なくて、戸惑ったまま、滲んだ視界の中でその黒髪を見つめ続けた。
「好きでいてくれて、ありがとうございます。……こちらこそ、ごめんなさい」
 続けられる言葉に増えていくのは疑問ばかりだ。戸惑い、抱き締め返すことも出来ずにいる悟浄を見上げたその目は僅かに濡れていた。どうして泣くのだろう、と考える前に、泣かせてしまったことを悔やんだ。明日には幸福の日を迎える彼女の目が赤くなるようなことだけはあってはならないのに。その目元を指先で拭うと、くすぐったそうに彼女は小さく笑った。
「……何で、謝るんだよ」
 そう問うと、天蓬は一度だけ視線を落として、首を横に振った。そして少し痛そうに笑って、また何かを言い掛けるように口を開いた。しかし寸前で躊躇ったようにその言葉を飲み込んでしまう。また曖昧に笑い、再び悟浄の肩に顔を埋めた。そして縋るように悟浄の背中を掴み、くぐもった声で呟いた。
「何でもありません」
 こうして彼女に触れる手は、兄への裏切りだろうか。しかし今は、この場からいなくなった彼に責任を押し付けてしまいたかった。無防備な背中に腕を回して抱き締め、これを最後の抱擁にする。もう二度とこんなことはない。これ以上の裏切りは出来ない。だからせめて今だけでもこの人を貸していて欲しかった。
「大丈夫だよ」
「悟浄?」
「絶対、兄貴が幸せにするからさ。しなかったら、ブン殴ってやる」
 彼なら絶対に誰よりも彼女を幸せに出来ると信じているから託すのだ。もしも彼が彼女を苦しめ泣かせるようなことがあるのならば、その時は相手が兄であろうと躊躇うつもりはなかった。彼に限って、そんなことは決してないのだろうけれど。
「今まで、ありがとう」
 思えばずっと甘えっぱなしだった。子供だったら当然と彼らは言うが、その彼らだって子供だったのだ。遊ぶ時間を削って、勉強する時間を削ってはアルバイトをして生活費を稼ぎ、悟浄の行事に付き合い、休日は遊びに出掛け、宿題に付き合ってくれた。幸せを、願わずにいられようか。もう自分も子供ではない。まだ大人と認められる歳ではないけれど、もう彼らにべったりでいなくても生きられる。今まで注いで貰っただけの優しさをゆっくりと返していかなければならない。
「安心して、幸せになれよ」














 ギイイ、と鈍い音を立てて大きなチョコレート色をしたドアを引き開けると、そこには驚いた顔をした兄がいた。
 ブラックストライプのショートフロックを身に着けた彼はまるで初めて会う男のようだった。彼が正装だなんてきっと浮いてしまうだろうと、笑ってしまうだろうと思っていたのに、きちんと襟元を締めてきりりと前髪を軽く上げた彼は憎たらしいほどに男らしかった。タイトなフォルムのミドル丈のフロックコートにシルバーグレイのベストとダークグレイのタイを合わせたダークな色合いの衣装は彼によく似合っている。腿の半ばほどまでの丈のコートから伸びる同色のパンツに包まれた脚はすらりと長く、上げられた前髪が僅かに解れて額に掛かっている様すら計算されているかのように男の色気を醸していた。純粋に、「ずるい」と思った。似たような顔立ちをしているのに、彼は自分の持たない全てを持っている男だった。グローブを手に、驚きに僅かの戸惑いを滲ませていた彼は、すぐに頬を緩ませて悟浄の方へと近付いてきた。艶のないブラックのカーフシューズが絨毯張りの床を打つ。悟浄のすぐ前まで来た彼は一度口を開いた後、迷ったように一度俯いて唇を舐めた。それでも何とか顔を上げ、再び口を開く。
「来ないかと思った」
 本当は来ないつもりだったのだ、とは言わなかったが、きっと彼は分かっていただろう。パンツのポケットに手を突っ込んだまま曖昧に声を漏らしながら俯いた悟浄に、彼は少しだけ表情を緩めた。
「暇だったし、お前らの晴れ姿でも見てやろうと思ってさ」
 いざとなると何を話していいのか分からなくなってしまう。着ている物が違うだけなのにまるで見知らぬ男のようで、いつものように気安く声が掛けられない。対して着慣れないスーツが何だか落ち着かず、もぞもぞと肩を動かしている自分とは大きな違いだった。あの人はこんな自分ではなく、いつも堂々とした兄を選んだ。自分自身、堂々と誇れる自慢の兄だ。彼女が選ぶのも不思議ではない。そしてこれから、それが永遠のものとなる。明日には届けが提出されて、公式に彼女は兄のものとなるのである。
「……式も軽くやるんだろ?」
 教会の一室で、知人の写真屋に一枚写真を取って貰って終わりにする予定だと言っていたが、わざわざこんな場所でやるということはそれなりの目的があるはずだ。少し戸惑ったように視線を泳がせた彼は、ちらりと奥にあるドアに視線をやった後、頷いた。
「あいつは嫌だって言って一頻り暴れたんだけどな。観世音のババアがどうしてもって言うから漸く納得した」
「何で観世音が出てくるんだよ」
「ドレス、あの人から借りたんだよ。借りたっつうか……譲って貰ったっつうか。タダより高いモンはねえってのをすっかり忘れてたよ。式までちゃんとやったらドレスも譲ってやるし写真代もタダとか言いやがって……まあ、安いに越したことはねえからな」
 譲って貰ったドレスはもう彼女のサイズに直してしまったのだという。つまりは今更返すと言っても意味がないというわけだ。そもそもウエディングドレスなんかをあの女がこれから着る機会があるだなんて思えない。必要のない物を譲り渡して自らも楽しめるのだからあの女にしたら笑いが止まらないだろう。いつもなら箸より重い物など持たない彼女であるが、楽しいことや愉快なことのためなら苦労も惜しまないのである。頭を抱える彼に乾いた笑い声を上げて、ちらりと奥のドアを見た。その奥で今彼女は純潔の色に身を包んでいる。
「っていうか、あのババアの着たドレスって……どんだけ派手なんだよ」
「知らねえ。式までお前には内緒だとか言って採寸にはあいつ一人だけが呼ばれたし、どんなデザインかは俺もまだ知らねえよ。今そこの部屋で着付けして貰ってるけど……そろそろだな」
 そのドアを見つめて、悟浄は僅かに腰が引けた。ここに来るのを躊躇った一番の理由は、純白に身を包んで幸せに微笑む彼女を見るのが辛かったからだ。彼女が幸せになることは嬉しい、なのにそれが他の男によるものだと思うだけで胸が昏い炎でじりじりと焼かれていくような気分に襲われるのである。男二人しかいない教会の廊下には、耳に痛いほどの沈黙が落ちてきた。
「……この間は、悪かったな」
「何の話」
 手持ち無沙汰にぶらつかせていたグローブを手に握り込んだ彼は、小さく笑って少しだけ俯いた。
「あいつを渡せないからごめんなんて、謝ることじゃなかった。悪かった」
 俯き加減でそう言う彼の顔に影が掛かって、また腹が立つ。結局謝っているではないか。彼がすることには何一つ間違いなんてなかった。ただ一つの誤りは、あの日あの時、家にいなかったこと。それは彼が望んだことだったのだろうか。
 彼女が話したということはなかろう。しかし兄は、何もかも見通してしまっているような気がした。
「……引っ越し祝い、どうも」
「ああ、別に、そう高いモンでもねえし」
「あと、……アルバムも」
 彼は俯き加減のまま沈黙した。
「十年そこそこの記録しかねえけど、あれでありったけだ」
「俺のアルバムとか言って、天蓬ばっか写ってやんの。誰の記録だか分かったもんじゃねえ」
 そう言うと、漸く彼は笑って顔を上げた。兄の顔は笑みを刷くだけで数歳若返ったように子供っぽくなる。そしてぶらつかせていたグローブを手に嵌めながら小さく呟いた。
「知ってたか。あいつ本当は写真が嫌いなんだ」
「え?」
 そう言われて見れば、昨日彼女はアルバムを見た時一瞬嫌そうな顔をしなかったか。しかし悟浄の前ではいつでも嬉々としてカメラの前に出て行くような人だったから今まで気が付かなかったのだ。
「最初の頃、お前一人だと写真写りたがらなかっただろ。だから、お前の写真を出来るだけ一杯残したいって、わざわざお前を引っ張って一緒に写ってたんだよ。現像されてきてから死ぬほど後悔するくせに」
 最後の方はもう楽しんでたみたいだけどな、と笑って、グローブを嵌めた後の袖を直している。その姿を見て、やっぱり来なければよかったと思った。彼のことも、天蓬のことも、嫌ってしまえれば楽になれた。しかしそれはどうしてか、許されない。嫌いになりたい、忘れてしまいたいのにその記憶は悟浄の心の根元にあった。憎たらしくて優しい兄も、ずっと恋をし続けていた彼女も一生消え去ることはない。
「ありがとな」
「何が」
 笑う兄に、何だか涙が出そうになった。
「俺がいなきゃ、もっと早く幸せになれたのにさ」
「お前がいなきゃ、あいつとも続かなかったかも知れねえよ」
「子は鎹って?」
「そうそう」
 そうか、自分が二人を繋いでいたのなら、二人が終わるはずなどなかったのだ。そう思ったら何だか少し情けない気分になった腹の底から笑いが出てきた。そうして暫く笑っていると、奥の扉がギイ、と開いた。そしてぽっちゃりとした顔の女性が顔を出し、悟浄を見てにっこりと微笑んだ。着付けをしてくれていた人だろう。
「弟さん?」
「あ、はい」
「じゃあ新郎よりもちょっと早く花嫁さんに会う?」
「え、俺は後?」
「ごめんなさいね、観世音様から、新郎にはぎりぎりまで見せないようにって言われてるのよ。さ、こっちにいらっしゃい」
 手招きされて悟浄は詰まらなさそうな顔をする兄を置いてドアの前まで歩いていった。膝が震えているような気がしたが、見下ろしてみても震えている様子はなかった。隣に立つ女性も何かおかしく思っている様子でもない。半開きのドアに手を掛けて開けようとすると、突然彼女の方から電子音が鳴り始めた。ポケットから携帯電話を取り出した彼女は画面を確認してから申し訳なさそうに悟浄に言った。
「ごめんなさい、ちょっと電話してこなくちゃ。すぐに主人が機材を持ってくるから、それまで花嫁さんをお願い出来るかしら」
「は、はあ……」
 そう言い置くと彼女はすぐに教会を出ていってしまった。兄に目配せすると、彼はさっさと行けと言うように手を振った。それに促されるように、花嫁の部屋のドアに手を掛けた。

 部屋の奥、椅子に腰掛けた……人形のようにも思えた。俯きがちに目を閉じたままのそれに、前もって考えていた言葉を全て奪われた。うっかりドアを締める音を立ててしまって慌てるも遅く、その人形はゆっくりと白い瞼を押し上げた。膝の上で組まれた細い手は肘ほどまで白い手袋に包まれている。剥き出しになっている白い肩が頼りない風情を感じさせた。開かれた胸元には共布の大きなリボンのモチーフがあしらわれ、足元に掛けてふわりと広がったスカート部分は絞り出されたクリームのようで、まるで全体が甘いもので出来た人形のようだった。砂糖細工のようなスカートが、彼女が脚を動かしたことで柔らかさを主張するように少しだけふわりと動いた。同時に、それが元々観世音の物であったというのは嘘なのではないだろうかと思えた。状態もデザイン的にも古いものには思えないし、どう考えてもこのタイプはあの女の好みではないだろう。ひょっとしたら新品を贈ると言っても受け取らないだろうと踏んでお古だと嘘を吐いたのではないだろうか、と考えながら、彼女の動きにならって揺れる生地を眺めた。
 元々長い睫毛は化粧によってまるで人形の睫毛のようだ。いつもの眼鏡は取り払われている。ふるりと震えた睫毛が押し上げられ、現れた榛の眸は驚いたように見開かれた。しかしすぐに嬉しそうに緩んで、紅を刷かれた唇が弧を描く。しっかりめのメイクをして、髪をアップスタイルにしているだけでまるで別人のようだった。初めて会う人のようで悟浄が声を掛けあぐねていると、彼女の方が小首を傾げながら口を開いた。
「来てくれたんですね」
「あ、うん……」
 彼女がゆったりと立ち上がるとドレスのドレープはたおやかに、さざ波のように揺れて、その部屋の空気は静かに張り詰める。窓から穏やかに差し込む光はヴェールのようにその人の周りを包み込む。まるで映画のワンシーンのような場景に、息を継ぐことも躊躇われた。いつも自分と共にふざけあっていた彼女とは思えなかった。その気品高さに圧倒される。差し込む光と部屋の間で闇が生まれ、ドレスの波に陰影を作る。露わになった胸元から肩にかけては息を呑むほどに肌理細やかで白い。アクセサリーはピアス以外には何もない。ネックレスも、クラウンやティアラもない。しかしそのシンプルさが逆に彼女一人の魅力を引き立てている。
 悟浄の元まで歩いてきた彼女は少し重たそうにスカート部分を持ち上げてみせた。動きづらくってじっとしてるしかなくて、と言って笑うと、先程までの違和感はさっと拭われた。いつもの少し悪戯っぽい笑みが、悟浄の緊張を解す。
「もうすぐさっきのおばさんの旦那が来るって?」
「ええ、彼女の旦那様が写真屋さんなんですよ」
 そう言ってから彼女は身を翻し、部屋の奥からブーケを持ってきた。
「一度ブーケトスってやってみたかったんですけど……悟浄キャッチしてくれます?」
「やだよ」
「ですよねえ」
 笑って彼女は腕にブーケを抱えた。まるで幸せの象徴だ。彼女の顔に、昨日のような迷いや不安はない。穢れなどないような表情をしている。喜びの日だ。そうでなければ困る。なのに、ふとした瞬間に見せる顔が、自分の知っている彼女から離れていくような気がして、焦りが募るのである。
「捲簾はどうしてます?」
「入っちゃ駄目って言われてつまんなさそうにしてたよ」
「僕ももう退屈で退屈で……早くスウェットに着替えてごろごろしたいんですけど」
 色気の欠片もない言葉だったが、ほんの僅かだけでも悟浄の知っている天蓬に戻ったような気がして少しだけ笑った。それを見つめていた天蓬は目を細める。そしてふっと俯いた。白い石の付いたチェーンの少し長いピアスがしゃらりと揺れる。睫毛が長いのがよく分かった。躊躇いがちに開かれた唇は戸惑ったように閉じられ、視線はちらちらと彷徨っている。
「……何?」
「あの……今まで、ありがとうございました」
 突然の言葉に思わず笑ってしまう。まるで自分が父親になったようだ。
「何、どしたの」
「……いいえ。何でもないです。でも、言っておきたかったから」
 そうして彼女は静かに微笑む。その真意を訊ねようとした瞬間、厚いドアがノックされた。二人が顔を上げると同時にドアが開かれて、先程の女性がにこにこしながら入ってきた。伴われて後ろからついてきた初老の男性が人好きのする笑顔で軽く会釈した。
「撮影の準備が出来ましたよ。さ、お部屋へどうぞ」

 天蓬と漸く対面した時の兄の顔は見物だった。男前も台無しな顔をした彼に思わず吹き出すと、続けて天蓬も笑いを漏らした。
 撮影の準備が整えられた広い部屋に入る。邪魔にならないようにカメラマンの後ろの方に立った悟浄は、婦人に促されて並んで立つ二人を存外穏やかな気分で見つめていた。天蓬が蹴躓かぬようにさり気なく兄がフォローする姿は見ていて何だかくすぐったくなる。壁に凭れて腕を組み、大きな窓の外を眺める。快晴だ。外の並木の桜も五分咲きといったところだろうか。どうせなら、二人の好きなあの花が満開だったらよかったのにと思う。そうしている間にも撮影の準備は着々と進んでいく。白いスクリーンが張ってあるでもなく、高価な機器を使うでもない。部屋の壁を背景にしての、本当にシンプルな記念撮影だった。しかしその二人が立っているだけでその写真は十分にその幸福感を滲ませるだろう。カメラマンに促されて、二人が顔を上げる。ひらひらとカメラマンの後ろから手を振ってやると、二人は小さく表情を緩めた。
 ああなんて似合いの二人だろう。悔しさも湧かない。
 黒布の向こうにカメラマンが顔を隠し、フラッシュが焚かれる。それを二度繰り返した後、彼は布から顔を出して親指と人差指で丸を作ってみせた。写真撮影は終わりだ。式が始まる。

 教会の最後部の席に腰を下ろして腕を組む。司教の代わりにカメラマンの老人が祭壇に立ち、リングペアラーの代わりに先程の婦人が指輪を載せたリングピローを持って現れた。それはささやかな指輪交換だった。時折小声で何か囁いては、相手が笑うことを繰り返している。二人の指に光る輝きは、円になって終わりのない愛を示している。同時に、彼女に終わりのない幸福を、終わりのない笑顔を願った。正式な式をなぞる程度で宣誓を済ませ、兄は少し緊張した面持ちで天蓬の方へと向き直った。対して天蓬はといえばそんな彼を面白がるように笑いを噛み殺している。そうしていた彼女も、ヴェールが上げられる段になると漸く笑いを収めて、じっと自らの伴侶を見上げた。
 目を逸らしたかったけれど、逸らせなかった。僅かな間の触れるだけの口付けが済み、淡く花が綻ぶような笑みを浮かべた彼女を見た瞬間、何かが終わったような気がした。

「いい天気ですねえ」
 百合をメインに仕立てられたブーケを抱えた天蓬は眩しそうに目を細めて空を見上げた。兄の方はというとまだ少し照れ臭さが抜けないのか、ポケットに両手を突っ込んだまま明後日の方向を向いている。世にも珍しいそれを横目に見て笑い、からかってやれという気分で近付いていった。ぽんとその背中を叩いて肩に腕を回す。
「横抱きにでもしてやったら? 写真撮ろうぜ、俺携帯あるし」
「お前なあ……いいや。これ、やるよ」
 そう言って兄は胸ポケットから差してあった花を抜き出して悟浄の方へと放って寄越した。それを受け止めて、訳が分からず首を捻っていると、彼は少し笑った。春風に煽られてきちんとセットしてあった髪が少し解れていく。それを片手で押さえながら口を開いた。
「ブートニアっつって、未婚の男に投げてやるらしいぞ、いい結婚が出来るようにって。……ご利益があればいいな」
 如何にも好青年らしくそう言い置いて、さっさと彼は新婦の元へと歩いていってしまった。一輪の花と共にぽつんと残された悟浄は、二人をぼんやりと見つめた。兄が肩を叩くとくるりと振り返った彼女は通りの桜並木を指差した。二人揃って桜の花が好きだから、きっとまた何度も花見に出掛けるのだろう。二言三言言葉を交わしたのち、突然兄が片腕で天蓬の膝裏を攫い、もう片腕でその華奢な背中を支えた。驚いて動転した彼女が暴れようとするのを何か耳元で囁いて止める。顔を赤くして悔しそうな顔をする彼女に、兄は声を上げて笑っていた。
 無意識にポケットを探って、携帯電話を取り出した。カメラを起動してレンズを二人へと向ける。シャッターの音に気付いた二人がこちらを見て、二通りの反応をするのを見て思わず笑った。保存しました、のメッセージを確認して携帯電話をポケットにしまう。
 再び暴れて兄の腕から逃れた天蓬はすっかり膨れてしまった。兄がへらへら笑っているのを見てぷいと顔を逸らした彼女は、視線の先に何かを見つけたのか、教会の門の辺りへと歩いて行った。何事だと目を凝らすその先には、門の裏からこっそりと教会を覗いている小さな少女がいた。歳は四、五歳だろうか、左右に三つ編みを結った大きな眸の女の子だった。怒られると思ったのか、少し怯えた目をしていた少女は、天蓬が目の前にしゃがみ込んだのを見て目を丸くした。二言三言言葉を交わした後、彼女は手にしていたブーケをそのまま少女に手渡した。遠慮がちに手を伸ばしてそれを受け取り、天蓬を見上げた少女は何かを告げられてぱあっと表情を明るくした。そして大きく頷いて、こちらにまで聞こえるような声で「ありがとう!」と言って走っていった。
 少女が走っていくのを見て漸く立ち上がった天蓬は、くるりと兄を振り返って少しくすぐったそうに笑った。
 その時、吹き抜けていった風が彼女のヴェールを揺らした。その軌跡を目で追って、そのまま空を見上げる。雲一つない空は高く澄んで、兄に手を引かれて歩いた春の日を思い出させた。その頃からの、十年越しの恋だった。
「今年も一緒にお花見行きましょうね」
「……おう」
 笑って答えて、無造作にポケットに手を入れた。そして再び空を仰ぐ。
 そして十代のすべてを懸けた恋がその日、終わった。
















「……ふーん。綺麗じゃん、天蓬さん」
「そりゃあよ」
 悟浄の携帯を暫く眺めていた鷭里は、辛気臭いとばかりにそれを閉じて悟浄の方に放って寄越した。画面に映っていたのは純白に身を包んだ、今はもう人のものである女の姿だ。それを受け取ってカウンターの上に置き、灰皿に置いていた煙草を手に取る。鷭里が店主の世話になって歳を誤魔化しアルバイトをしているバーの片隅で、悟浄はカウンターに突っ伏していた。カウンターの中で適当な手付きでグラスを磨き始めた鷭里はそんな悟浄を見て鼻で笑った。
「お前はほんっとにアホだなァ」
「……人が珍しく落ち込んでる時にお前は……」
「兄貴なんて構わず、取っちまえばよかったんだ。そうじゃなかったんならお前、本当に天蓬さんのこと好きだったのかも怪しいな」
「何だよそれ」
 聞き捨てならない言葉にカウンターに沈んでいた悟浄が浮上すると、カウンターの中から真っ直ぐ伸ばされた彼の指に額を弾かれた。突然の衝撃に豆鉄砲を食らった鳩のように固まっていると、けっけっと彼はおかしそうに笑った。
「全てを犠牲にしてまで欲しいたァ思わなかったってことだろ。優しさと臆病は紙一重だぜ。女に言わせりゃ優しくって思い遣りのある素敵な悟浄君ーで、悪く言やァ兄貴にも逆らえねえ臆病モンでドアホの悟浄だな」
「お前ね……」
「結構応援してたのによ」
「……嘘だろ?」
「マジマジ。俺、お前の兄貴大っ嫌えだし。お前がぱーっとその嫁さん攫ってきたら楽しいなあと思って」
「どうせそんなこったろうと思ったよ……」
 鷭里が兄を敵視しているのは昔からだ。逆に言えば兄の方も鷭里をよく思っていない。自分たちのことに口出しする兄を鷭里は疎ましく思い嫌っており、兄は兄で悟浄をあまりよくない方向に導こうとする鷭里に警戒心を抱いていた。その間でどちらに加担することもなく中立の立場を守っていた天蓬と鷭里はそれでも少し仲が良い。ここの店主と彼を結びつけたのも天蓬だった。そのことを兄は知らない。ただでも鷭里を嫌っているのに天蓬とまで仲が良いだなんて知ったらどうなるか分からない。
 そんな経緯もあって、鷭里は世話になった天蓬と大嫌いな兄が結婚することをよく思っていないのだ。だからこそ悟浄が天蓬を攫ってくれれば彼としては万々歳だったに違いない。ただ彼とて悟浄と伊達に悪友でいるわけではないので、そんなことを本当に悟浄が出来るとは思っていなかっただろうが。
「あーあ、あの人があの男にいいようにされるかと思うとむしゃくしゃするな。お前だってそうだろ?」
「今更だろ……あいつらもう十年以上付き合ってんだぞ、とっくの昔に色々やられてるっつー……」
「あーやだもう止めだ止め、嫌なもん想像しちまっただろォがボケ。誰があんな美人があの男にやられる想像なんかしたいっつーんだ」
「天蓬、今度店に来るっつってたよ。多分結婚の挨拶だろ」
「うわ、勘弁しろよ」
「安心しろよ、写真は三枚しかないからな。その三枚ももう配り終えてあるし」
「ナニソレ、天蓬さんとあの兄貴と、お前の分ってことか?」
「いんや。二人の手元に置く分と、天蓬が親御さん亡くしてから世話んなってた人に送った分と」
 そこで言葉を止めた悟浄に、拭き終えたグラスを戻していた鷭里は訝しげに片眉を跳ね上げた。何も言わず続きを促すその態度に、少しだけ唇を舐めてから呟いた。
「俺が写真屋に頼んで一つ多く作ってもらって、おじさんとおばさんとこに送ったよ」
「おじさんとおばさん? その兄貴の両親か? 絶縁状態なんだろうが。ウチんとこもそんなもんだけど、余計なことしてよかったのかよ」
 昔に警察に捕まった鷭里の父親は今も塀の中だ。そのせいで謂れのない噂を立てられ嫌がらせをされていたのを知っている。母親の顔ももう十年以上見ていないという。彼が荒みきった生活を送っていたのはそのせいであるが、それでも彼は泣き言一つ言ったことはなかった。今もこうして何でもないことのように言って、笑っている。そんな、強いのか弱いのか分からない悪友の横顔を見つめながら煙草の先の灰を灰皿に落とした悟浄は、一度煙草を咥えて煙を吸い込んでから吐き出しながら言った。
「……後からありがとうって電話貰ったよ。んで、一度嫁さん連れて帰ってこいって伝えてくれって言われた」
 それを聞いているのかいないのか、奥から氷を持って戻ってきた彼は、グラスにそれを入れて深く溜息を吐いた。カウンターの上の棚からボトルを下ろし、それを氷の入ったグラスに少しだけ注ぐ。そしてそれを水で割りながら、呆れたように笑った。それは嘲るようなものではなく、し様のない子供を見るような表情だったが、俯いたままの悟浄はそれに気付かなかった。
「……本当にお前は馬鹿だねえ」
 カン、と無造作にグラスが目の前に置かれる。思わず見上げると、カウンターの中で鷭里は軽く肩を竦めた。そして再び店の奥へと戻っていく。その後ろ姿を見つめていた悟浄は、既に誰もいなくなったカウンターに向かってひとりごちた。
「……いーのかよ」
 未成年だし、と言いながらもカラカラとそのグラスを揺らす。ゆらゆら揺れる液体を眺めながら、視界が滲み出すのを感じた。しかし今日はそれを堪えるつもりはなかった。こうして泣くのも今夜が最後。明日からは新しく生きるのだ。カウンターに肘を付いて、揺れる液体を見つめながら洟を啜った。せめてもの水分補給とばかりにグラスを傾ける。その味で口の中の苦さを流してしまう。
「大学、いい子いるといいなあ……」
 カラカラ、とグラスを揺らして、薄茶の液体をぼんやり眺めた。この一杯がなくなるまでには泣くのを止めよう。そして鷭里を付き合わせて夜が明けるまで呑み明かすのがいい。少しずつ、名残を惜しむようにそのグラスの中身を舐めながら、再び洟を啜った。












何かよく分からないけど鷭里が好きです。そして仲は良いけど断じて兄弟はうんにゃらな関係ではありません。どっちもれっきとした攻です。
ドレスに潜っていって口でガーターベルト取って来る捲簾まで書こうかと思いましたが、どう見ても変態です。              2007/10/28
utada hikaru [First Love] [Flavor of life]