このページに来られたということは、好き・普通の差はあれど「八天許容可能」という方だと思います。
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hide and seek


 リビングのソファに身体を埋め、持ち帰ってきた仕事の書類に目を通していた天蓬は、背後のキッチンからガタガタと音がするのに気付いて深く溜息を吐いた。それでもすぐ立ち上がることもなく、少し眼鏡をずらして再び書類へ視線を落とす。いつものことだ、慣れている。音もなくするりと自分の住処へと足を踏み入れる存在を制することなど不可能だと分かっていた。暫く物音は続いていたが、冷蔵庫の閉められる音と共にその物音は止んだ。そしてぱたぱたとスリッパの足音が近づいてくる。先程までは何一つもの音を立てようとしなかったくせにこんな時ばかり足音を立てて存在を主張してみせるのが憎たらしい。
「……ねえ天蓬、今夜お肉がいいですか? それともお魚?」
「八戒」
「何ですか?」
 名前を呼ばれると、その不法侵入者は嬉しそうに首を傾げた。何がそんなに嬉しいのかさっぱり分からない。天蓬の座っているソファの背凭れの上に両手が置かれ、すぐ背後に彼がいることが分かった。彼はいつもしゃぼんの匂いがする。清潔で温和で、隙がなくて怖い男だった。すぐ傍に温かい体温があるというのに、まるで幽霊かロボットのようなものを相手にしている気分になる。
「あなたに鍵を与えた記憶がないのですが」
「ええ、頂いてませんよ」
 にこにこと笑っているのが、顔を見ずとも分かった。きっとこのまま上を見ればそこに彼の笑顔があるだろう。しかしそんな寒々しい笑顔を見て萎えてはいられない。彼とまともな会話をするのは諦めて、そのまま顔を上げることもないまま書類の小さな文字を目で追った。途端、すっと伸びてきた手に書類の束を奪われて、咄嗟に天蓬は振り返った。すると、悪戯の成功した子供のような笑みで、手にした書類を振っている彼がいた。
「お風呂に入ってきて下さい」
「嫌だ、と言ったら?」
「この書類、全てコンロで炙ってしまってもいいんですよ」
 にっこりと微笑み、その書類の端に唇を当てる。やると言ったら本気でやる男だ。負けは早々に認めた方が傷が浅い。天蓬は立ち上がって彼から書類を奪い返し、それを封筒に収めてから足をバスルームへと向かわせた。あの子供に逆らってはならないと気づいたのはいつだっただろうか。最初の頃こそ、そのことに気付いてはいたものの、「あんな小さなガキに怯えてどうする」というプライドや諸々の事情があってその予感を、気のせいだと決め込んで忘れた振りをしていたのだった。その油断のせいで今こうして大きなしっぺ返しを受けている。
 ワイシャツを脱ぎ捨てて洗濯機にそのまま投げ入れ、パンツはベルトを着けたまま洗濯籠の端に引っ掛けた。眼鏡を外して洗面台に置いてから、バスルームへ足を踏み入れた。どうせ入るのならバスタブに湯を溜めてゆっくり浸かりたかったがそういうわけにもいかない。いつもよりも入浴時間が長いとあの男が覗きに来るのだ。シャワーの温度は温めに設定してコックを捻り、頭から湯を被る。適当に髪を洗って身体を洗う。自分の身体に頓着しないことを度々彼にも咎められてきた。風呂から上がれば彼の好きなように髪を弄り回されるのだから、今わざわざ自分でどうこうする気もない。自分の見た目に興味はなかった。
 彼の買ってくるボディソープは甘い匂いがして、湯で流した後もその甘さが肌に残る。彼と同じ匂いに染められているのだと気付いたのはつい最近のことだった。だから煙草を吸い、わざと別の匂いを纏って外出する。こんな清潔な香りは自分には不釣合いだった。
 バスルームから出れば、洗面台の上に着替えが置かれていた。大人しくそれを身に着けてリビングへと戻る廊下を歩く。キッチンからは魚の焦げるようないい香りがした。先程肉か魚か訊ねられたから、てっきり今から買いに出掛けるのかと思っていたのだがどうも既に両方買ってきてあったらしい。大した通い妻だ。
「天蓬、もうすぐですから座ってて下さいね」
「……あなた、毎日こんなところまで来て、勉強は大丈夫なんですか」
「心配してくれるんですか?」
「あの女に責められるのは僕なんですよ」
 一瞬嬉しそうな顔をした八戒は、最後に付け足された天蓬の言葉につまらなさそうに唇を尖らせた。

 あの女とは二人の母のことだ。しかし血が繋がっているのは天蓬の方だけ。夫と死別して子と二人きりになった天蓬の母と、妻と離婚した八戒の父が再婚をした。その当時天蓬は高校二年生、八戒は小学校二年生。九つの差がある弟はその時に出来た。母は天蓬を疎んでいた。自分を愛してくれなかった夫が、天蓬ばかりを可愛がっていたことがそれに拍車を掛けていた。そしてその父がいなくなったと同時に、二人の関係は更に悪化の一途を辿った。だから、あの馬鹿な女が嬉しそうに再婚の話を持ち出した時には本当に嬉しかった。他人の目があれば、今までほどには酷いことにはならないだろうと、つい数時間前に蹴られたばかりの腹部を擦りながら思ったものだった。お前はあまり顔を出すな、とも言われたが望むところだと思った。今更母が猫を被って男に媚を売る姿を見るだなんて、精神的暴力に等しかった。
 ただ、天蓬にとって話が単純にうまくはいかなかったのは、たった一人の少年の存在があったためだった。再婚相手には小さな男の子供がいるという。お前と違って可愛い子だと嬉しそうな母の声、そんな言葉は今更苦痛でもなかった。話によればその子供も母に懐いているということだから、きっと傍から見れば仲の良い親子三人に見えるだろう。家族が出掛ける日でも天蓬は一人部屋に閉じこもり、食事も三人が済ませた後にこっそりと摂る。そんな生活だとしても、今までのような母との二人暮らしに比べれば天国と地獄の差があった。天蓬の顔に、自分を心に置いてくれなかった父を重ねては苛立ちを全てぶつけてきた女から、やっと解放されると思っていた。
 初めて再婚相手の父子が家に訪れた日、少しだけ顔を出してすぐに部屋に戻れと言われていたため、家のチャイムが鳴らされたのを見て静かに階段を降りていった。よく響くテノールの声と、高揚したような母の声が混じって聞こえてくる。階段を降りていく音が聞こえたのか、玄関口に立っていた男性は顔を上げて、人好きのする明るい笑顔でこちらに頭を下げて寄越した。失礼なことだけはしてくれるな、という母の視線が痛いほどだった。階段を降り切った天蓬は、よそゆきの笑顔を浮かべて静かに腰を折る。それを見て男性が一頻り天蓬を褒めるのを、母は少し引き攣ったような笑顔で受け止めていた。それから少しして、母は彼をリビングへ通そうと話を切り出した。これは、部屋へ戻れということだろうと受け取り、天蓬は頭を一つ下げて再び階段を昇って行こうとした。その瞬間、柔らかくて温かいものに手を摘まれて思わず振り返った。
 くりくりした翠の眸がじっと自分を見上げていた。先程まで男性の後ろに隠れるようにして立っていた小さな子供だった。曖昧に笑い掛けて、手を離してもらおうとするがうまくいかない。ほとほと困り果てていると後ろでそれを眺めていた男性が声を上げて笑って言った。気に入られたね、と笑う。隣で母は苦虫を噛み潰したような酷い顔をしてこちらを睨んでいた。ああ、彼らが帰ったらどんな目に遭わされるのだろうかと深く溜息を吐く。それでも小さな子供の眸は穢れがないような振りをしてじっとこちらを見つめていたのだった。その、底のない深い湖のような眸に、引き摺り込まれるような気がして恐ろしくて堪らなかったのを覚えている。
 今では彼はあの頃の自分と同じ高校二年生。自分はとっくに会社員だ。

 あの日掴まれた手は未だ離されぬまま、自分は未だ彼に囚われたままだ。濡れた髪を乱暴に拭きながら思っていると、背後からすっと伸びてきた冷たい手に制される。そしてそのままタオルを取り上げられ、再びタオルを頭に掛けられた。いつものことだが、こうして優しく髪を拭かれるのは気持ちが悪い。ずっと年上を相手にどうしてこんな風に優しく、子供を扱うように触れるのか。
「大丈夫、何があっても僕があなたを守ります」
「……そう思うなら、こんなところに来ないで勉強なさい」
「勉強は授業で事足ります。テストだって、文句を言われるような成績は取ってませんよ?」
 そう言うと、彼は突然手を離した。どうしたのだろうと思い、目を瞬かせていると、すっと目の前に小さな紙が差し出された。自分も見たことのあるマークが印刷されている。それを受け取ると、彼は再び天蓬の髪を拭くのを再開した。その紙に印刷されたマークは、天蓬の母校、そして八戒が今通っている高校の校章だ。表面には「猪八戒」と手書きで書かれている。前期、後期毎に家に送付される、成績表だ。開いてみればオール5、テストは常に学年首席、後期からは生徒会長に選ばれた。確かに文句のつけどころがない。成績表をテーブルに放り投げると、背後の彼はくすりと笑った。
「僕の目標は天蓬ですから。これじゃあまだまだですよね」
「僕を目指すなんて馬鹿なことは止しなさい」
 大きく溜息を吐くと、ふふ、と彼は笑った。それと同時にするりと彼の両腕が天蓬の首に絡んでくる。同じ匂いがした。
「父も、母もどうでもいいんです。あなたがいてくれるなら」
 濡れたタオルが頬に触れて気持ちが悪い。その体温がまるで自分と同じもので、胃から何かがせり上がってきそうだった。引き剥がしたい。なのに、触れ合った部分から溶け合っていきそうなほどに彼の肌は自分の肌に馴染んだ。まるで自分がもう一人いてそのもう一人の自分と触れ合っているような、奇妙な心地がする。ぼんやり柔らかい毛布に包み込まれているような感覚に、意識がぼんやりしてくる。それを断ち切ったのは、彼の冷たい指先だった。冷たい指先が天蓬の顎の先を捉えて、後ろを向かせる。目が合った彼は本当に優しい目をしている。しかし、幼い頃から変わることのない、目の奥に宿る暗い色の意味が分からない。
「本当に、もったいない」
 そう言って彼は反対の手の指先を天蓬の首筋に滑らせた。いつもは髪の毛に隠されて見えないそこには大きな傷があった。酔っ払った母親が割ったコップの欠片を手にして殴りかかってきた時のもの。長髪だなんて手が掛かるだけなのに天蓬が切らない理由はそれだけだ。誰かにその傷痕を見られて理由を訊ねられて、うまく誤魔化せる自信がなかったからだ。それほど、自分がまだあの女を恐れているということかも知れない。完全に塞がり、痕は肉が盛り上がって醜い形を残すばかり。しかしあの頃を思い出すと、今でもその傷痕はじくじくと痛むのだ。そんな忌まわしい傷痕を辿る指先を手でやんわりと引き離して、曖昧に笑ってみせた。
「……あの人は、父さんと仲良くしてますか」
「らしいですね、たまに手紙が来ます。興味ありませんけど」
 彼は周りと穏やかな人間関係を築くのが得意だ。その反面、深く関わることを好まない。それは両親に対してもだった。両親は八戒が高校に入った年から父の海外赴任に母もついていっているため国内にいない。八戒は学校の近くにあるワンルームのアパートで一人暮らしをしていた。真っ先にこの家へ転がり込んでくると思っていたために少々驚いたが、後々それは母がどうしても二人を離しておくために知人のアパート管理人に頼んだことだと分かった。しかし結局八戒は毎日この家に来るし、週の半分は泊まっていく。 母が何を考えて二人を離そうとしたのかは分からないが、結果的に彼女の思い通りにはいかなかったというわけだ。
「天蓬に傷を付けた女のことなんてどうでもいいです。あなたを産んでくれたことだけは、感謝しますけどね」
 そう言って彼は天蓬の首筋に顔を埋めた。鎖骨の辺りを温いものが擽って、軽く歯が立てられる。ひく、と喉が動くと、小さく彼が笑ったような気がした。ちりちりした痛痒さが伝わってきて思わず手で払おうとした時には既に彼は顔を離していた。わざわざ見ずともそこに何が残っているかは分かる。うんざりした気分はすぐに諦めに繋がる。この子は何度言っても駄目なのだ。
「……八戒」
「たまにはいいでしょう? 天蓬が危ない目に遭わないためのおまじないですよ」
 そんなことしたって危ない目に遭う時は遭う。そのくらいは彼も分かっているだろう。ぼんやりその少し淋しげな顔を見つめていた天蓬は、彼の顔が突然近付いて来たことに咄嗟に対処出来なかった。柔らかい唇が自分のそれに押し当てられて、天蓬は心の中で溜息を吐いた。彼が天蓬の唇を食み、舌が口内に滑り込んで中を蹂躙し始めても、天蓬は目を開いたままだった。閉じてしまえば、溺れてしまいそうだった。舌先が絡められて上顎を舐め上げられて、ぞくりと背筋が撓る。いつの間にかシャツの中に滑りこんだ指先が首筋を撫でてゆっくりと肩へと滑ってゆく。彼の指が触れる場所からぴりぴりと弱い電気が伝わってくるようだった。
 濡れた音と僅かな体温を残して、ゆっくりと八戒の顔が離れていく。彼の唇が赤く濡れているのが静視に耐えず顔を逸らした。彼はそれを穏やかな笑顔で見つめている。「ねえ天蓬」と問い掛けられて、天蓬は顔を逸らしたままなおざりに返事をする。
「高校を出たら、ここに来てもいいですか?」
「……あの人がそんなこと許すはずないでしょう」
「彼女には文句は言わせませんよ。口を封じるネタなら、幾らでもある」
 目を瞠った。彼は自分の母親を脅す気なのか。血の繋がりのない母だから情もあまりないのだろう。幼い頃から、無邪気な笑顔を浮かべながらもその眸の奥は静かに冷たく光っていたのを思い出す。今笑っていればいいのか、大人しくしていればいいのか、それらを実に繊細に感じ取ることの出来る子供だった。今まで母に対してもそうしてきたのだ。猫を被るというのとは少々異なる気がする。公私の顔を使い分ける異様なほどにクレバーな子供だったのだ。今まで彼が母に従順にしてきたのは、親の庇護下にいなければならない年齢だったからだ。成人してしまえばその必要はない。残酷にも切り捨てる気なのだ、自分を溺愛している義母を。
「脅しだなんて言わないで下さい、大人の穏便な話し合いでしょう?」
「あなたはまだ子供じゃありませんか」
「あと三年。待ってて下さい」
「……」
「それとも、天蓬は僕を置いてどこかへ行ってしまいますか?」
 放す気なんてないくせに。そう思いながらも天蓬は返事をしなかった。そんな天蓬を暫く眺めていた八戒は、ソファの後ろから天蓬の隣へと移動してきた。そして空いたスペースにすとんと腰を下ろす。近頃この子はまた背が伸びた。一体いつまで伸び続けるのだろう。そんな風に思っていると、八戒はその心を読んだかのようににっこりと笑った。
「最近保健室で身長測ったんです。また三センチ伸びてましたよ」
「……え?」
「ちょっと立って下さい、きっと今僕の方が背が高いですよ」
 腕を引かれて促されるままに立ち上がれば、確かに僅か、視線が高い気がした。しかし認めてしまうのは癪で、そのままふいと視線を逸らしてすぐに腰を下ろしてしまう。途端にくすくす笑い出す彼に、少々大人げなかったかと自らの幼い行動を恥じた。同じく横に腰を下ろした八戒は、天蓬の視界の中に突然ひょっこりと顔を出した。
「天蓬」
「……何、ですか」
 にっこりと微笑んだのち、彼の手が素早く天蓬から眼鏡を取り去る。かと思うと柔らかい唇が目尻に軽く押し当てられた。その刺激が首へ、肩から背中へと電流のように伝わって、思わず肩を竦ませた。その一瞬の怯んだ隙を突かれ、そのまま肩を強く掴まれてソファに倒された。ソファの弾力で身体が軽く弾む。咄嗟に抵抗して脚を振り上げようとするも、彼の膝に腿を押さえつけられて動かすことが叶わない。カシン、と音がして、眼鏡が床に落ちたのが分かった。ギシ、と男二人分の体重が一気に掛かったソファが軋んだ。
 自分の上に覆い被さった弟の顔を、信じられないものを見るような目で見る。笑顔はいつものまま、眸の奥の冷たい火は強さを増したように思えた。深い翠の奥に揺らめく蜃気楼が見える。余程自分がおかしな顔をしていたのか、彼は少し困ったように笑った。
「……逃げないで下さいね。怖がらないで」
「誰が、怖がってなんて」
「あなたがです。昔から……初めて会ったあの日から、ずっと僕のことを怖いと思っていたでしょう」
 こんな九つも下の義弟が怖いはずが、ない。しかし確かに自分は彼をずっと恐れていた。その手が無邪気に自分に伸ばされる度に怯えていた。情けない話だ。小さくて可愛い弟が懐いてくる度に怯える兄なんておかしい。そう思って、逃げたくなる自分を押し殺してきた。それこそ、本当に仲睦まじい兄弟のように振舞った。小さな頃は膝に載せたり、一緒に寝たり、背中に負ぶったり。大きくなってくると勉強を見てやったり一緒に出掛けたりと、何の確執もないように見せかけた。周りもそれに騙されて、二人を仲の良い兄弟だと称した。まるで本当の兄弟のようだと。そう言われる度に、恐怖のような焦りのような気分が自分を追い立てた。
 天蓬には、血の繋がった兄弟どころか、まるで自分がもう一人いるようにすら思えた。
 その唇が自分の唇に重なって、何度も啄むように口付けられる。天蓬は抵抗しなかった。出来なかった。指先には少しも力が入らない。彼の視線に晒されるだけで、身体が射竦められたように動かなくなった。しかしそっと身体を撫でられると、反射的に体が跳ね上がる。ぴりぴりと弱い電気が走る。
「僕はずっとあなたが欲しいと思ってましたよ。――――分かってたんでしょう?」
(……そうだ、知っていた)
 その子供の目は自分には強すぎた。まるでその視線に晒されるだけで全てを絡め取られてしまいそうな恐怖を覚えていた。それでも逃げられなかったのは何故だろう。彼に黙って転居することも出来た。遠くの都市で就職することも出来た、なのに天蓬は生まれ育った都市で就職し、彼が気軽に来られるような場所にアパートメントを借りた。何故か。
 果たして逃げるつもりがあったのか。思えば、今の今まで逃げることなど考えもしなかった。
 いつかこうして、全て絡め取られてしまうと知っていたのに。

「天蓬」
 自分を呼ぶ、彼の声が僅かに変わる。弟が兄を慕うような声ではない。その声が頭の奥に響いて、まるで逆らえなくなってしまう。
「名前、呼んで下さい」
「……八、戒」
「怖がる必要なんてないですよ。僕が、あなたを傷つける全てから守ります。他の全てを敵に回すことも厭わない」
「八戒……」
 思った以上に頼りない声が出てしまって、唇を噛む。彼はそれに嬉しそうに顔を綻ばせて、噛み締められた唇に再び口付けてきた。
 指先に力を入れると、少しだけ動いた。腕をゆっくりと持ち上げてみる。その指をそっと彼のシャツの胸元に引っ掛けた。僅かに指先が震えているのが情けなくて、顔を顰める。きっとまた彼はこんな自分を見て笑っているのだろうと思い、そっと彼に顔を見上げてみた。
 目を瞠り、こちらを見ている彼に驚き、戸惑った。こんな、余裕のない彼の顔を見たのは初めてだった。しかしその珍しい表情はすぐに覆い隠され、いつものように嬉しくて堪らないというような笑顔に変わる。じゃれるように天蓬の身体に覆い被さってきた彼の頭が、自分の肩の辺りにある。彼の髪が頬を掠めてくすぐったい。思わず笑みが漏れた。
「八戒、くすぐったいですよ」
 彼の前で初めて自然に笑みが洩れた。愛しい、と思ってしまった。それが本能の告げる最終通告だった。そしてそれが、あの日から今日までずっと目を逸らし、抗い続けてきた一線を呆気なく踏み越えた瞬間。
 それが、一生出ることの叶わない優しい檻に囚われた瞬間だった。









8月10日から一週間ほど、informationのページに隠していました。エロスでクレバーな17歳×魔性の26歳。
2007/08/10