天蓬は椅子に腰掛け、咥え煙草のまま男を待っていた。といっても色っぽい話ではない。今晩、ゆるりと休めるかどうかが賭かっている重要な連絡を待っていたのだ。休みにならなかったとてそれが自分に任された命であるから仕方がない。ただ、もしも宵越しの仕事になった場合ぶうぶうと文句を言う男がいるのだ。それは男の不埒な目的がふいになるからである。それを思えば仕事が入るのもよかろう。だが、自分とて男と過ごしたくないわけではなかった。だからこうして今か今かと連絡を待っているのである。そうして待ち侘びている間にどんどん灰皿は一杯になってゆき、蛙の口から溢れんばかりとなった。とうとうぎっちりと詰め込まれた吸殻の隙間に、新たな吸殻を差し込み始めた頃。コンコン、と鋭いノックの音が響いた。続けて響いたのは忠実なる部下の声だった。
「黎峰大尉です。天蓬元帥はご在室ですか」
「入りなさい」
 そう返事をすると、きびきびとした仕草でドアを開けて中に入ってきた男は、一礼をしてドアを閉めた。そしてぴしりと背筋を伸ばして姿勢を正す。付き合いが長くなっても礼儀を欠かない信頼出来る男である。流石にいつもそこまでされるのは、少々息苦しいが。しかし自分と彼の階級や関係をよくよく考えれば、これで普通なのであった。あの無礼な上官が現れてからというもの、どうも自分の感覚はどこか麻痺しているようである。
「ご報告に参りました」
「奥へ」
 中に入ることを許可すると、浅く礼をした黎峰は器用に本の山を避けながら天蓬の執務机の前まで歩いてきた。そして徐に手にしていた封筒の中から一枚の羊皮紙を引き出す。ぴらぴらしたその紙は、窓から吹き込む風に煽られて揺れている。そして彼の赤みのない漆黒の前髪を揺らした。その紙に目を滑らせた彼は、紙を封筒に仕舞い、再び姿勢を正してからゆっくりと口を開いた。
「本日の宵方は、雨天と判断されました」
 雨天。つまりは、自分の仕事があるということだ。残念に思っていいのか安堵していいのか分からず微妙な表情になり、顔を合わせていた黎峰は不思議そうな顔をした。そんな黎峰を微笑んで誤魔化して、天蓬はがりがりと頭を掻いた。そして掻いてしまってからまずいと気付き、さり気なく手を下ろす。頭を掻くのは天蓬が答えに詰まった時の癖だ。それを黎峰も勿論知っている。それを更に誤魔化すように、軽口を叩いて見せた。
「宵越しでバカップルのお世話とは、僕も阿呆ですね」
 天蓬に任されたのは天の川の管理だ。別に二人を逢わせることまでは特に必要とされる任務ではない。面倒臭いからやらない、ということにしても別に怒るものはいないのだ。しかし、悲しむ番(つがい)が一組いる。織り交ぜた冗談にも流石の黎峰は動じず、苦笑いをして、手にしていた封筒を天蓬の方へと差し出した。
「きっと織女様は感謝していらっしゃいますよ。年に一度しか夫に逢うことが叶わないのですから、その一日すら奪われたのでは」
「きっと天帝はそれでも構わないと思っているのでは? そもそも天帝は彼女たちの結婚を早まったと思っているようですし」
「それでもあなたはやるのでしょう」
 にっこり微笑んでそう言う黎峰に、天蓬は思わず言葉に詰まり、閉口した。いつからこんな風な男になったのだろうと悩んでしまう。ぐりぐりとこめかみを揉み解す天蓬を静かに微笑んで見つめていた黎峰は、ふと俯いて少しだけ目を細めて言った。
「……一年に一度しか愛する人に逢えないというのはどんな心地でしょうか」
「おや、案外ロマンチシストですね」
 絶好の話題をそらすネタを掴んだ天蓬がそうからかうと、彼は浅黒い頬を薄らと赤くして、咎めるような目で天蓬を見た。その視線が辛くて軽く肩を竦めると、最前の黎峰の言葉に考えを巡らせた。例えば恋人と引き離されて、一年に一度、それもその日が晴れなければ逢えないなんてことになったとしたらどうする。考え出すと確かに興味深い話である。きっとそれは人によって考えが異なるだろう。それはそれでロマンティックだと思う人もいるかも知れない。しかし全く自分は同意出来ない。少しの間逢えないことは愛を更に育むかも知れない。しかし一年もの間離れていれば疑念も湧くし、浮気心も湧くだろう。燃え上がった愛もさっさと冷めてしまう。
「うん、僕だったら……そうだなあ……さっさと別れてしまいます」
「は」
「天の川くらい、泳いで逢いにきてくれない人なんて嫌ですから」
 黎峰は想像もし得なかった回答に目を瞠った。そして一瞬微妙な表情をした後にそれを誤魔化すように笑った。天蓬がそのことを不審に思う前に、彼の言葉が頭に引っ掛かってその表情のことはすぐに頭から消えてしまった。
「捲簾大将は大変ですね」
「おや、どうしてそこで奴の名前が」
「流石に元帥でも女性に天の川を横断させるようなつもりはないでしょうし。他の男が元帥に寄り付いたら片っ端から叩いて回るのは大将の仕事でしょうから」
「何ですかそれ。捲簾は僕の父親ですか」
 苦く笑う天蓬を見つめていた黎峰は、少しだけ困ったように笑う。それを見ていた天蓬は、ふと思い出した先程の表情の理由を訊ねようと口を開こうとした。しかしその瞬間、彼はすぐに一礼をして踵を返してしまった。何故か声をかけられることを拒絶するようなその背中を引き留めることが出来なくて、天蓬は黙ってその背中を見送った。ドアの前で再び深く頭を下げた黎峰がドアを閉めて出ていくのを、そのまま何を言うことも出来ずに見つめる。ふと手から滑り落ちた封筒が床に落ち、風に吹かれてはためいた。

 それから、湯を浴びて軍服に着替え、夕日差す河原に天蓬は向かった。随分と川の水嵩が増している。軍靴で川縁の砂利を蹴り飛ばしていた天蓬は、後ろから近付いてきた気配にゆっくりと立ち上がった。そして背後に立つほっそりした立ち姿に微笑みかける。天界でも五本の指に入るとされる、天帝の美しい愛娘、織女である。彼女は高価そうな衣服の裾を躊躇いなく引き摺っていた。きっと砂利のせいで裾が傷んでしまうだろうに。しかし彼女は豪華な衣服や装飾品に拘る質ではないのだった。物は大切にするタイプではあろうが、何故か恋い慕う者たちから捧げられる物は大切にしない。それが彼女なりの、「その気がない」という意思表示なのだ。その通り少し気の強い眸をした彼女は、天蓬に向かって深々と頭を下げた。
「天蓬様……お久しぶりです」
「災難でしたね、今日に限って雨天とは」
 このところ下界は日照りの日が続いていた。それは大地に旱魃が起きるほどに凄まじいものだった。死者も増え、飢えに苦しむ者たちも多かったろう。それを思えばこの雨は救いの雨だ。そのところは彼女も理解しているのだろう、ゆるゆると顔を横に振って微笑んだ。耳朶に付けられた大振りな耳飾が揺れてしゃらりと涼やかな音を立てる。それは昨年の今日、牽牛から贈られた物だという。彼女はそれをとても大切にしていて、公的な儀式にも堂々とそれを付けて出席していた。天帝の娘の付けるような高価なものではない。しかし敢えて彼女はそれを大衆の目に晒した。それもまた、彼女が牽牛以外に心を許すつもりがないという意思表示である。なかなか強かで大胆な女性だ。尤も、気の弱い牽牛の妻にはそれくらいでなければ困るのだが。
「下界の方々には恵みの雨ですわ。喜ばなければなりません。ただ……あなたにまた迷惑を掛けてしまうことが心苦しい」
 雨天の場合、天蓬はこの晩眠ることが出来ない。鵲(かささぎ)の橋が消え去らぬよう見守り、朝が再び来る前に織女が帰って来るのを待たなければならないのだ。そしてもしも帰って来ない場合は迎えに行く。それが雨天の場合自分に課せられた任務だ。ただ見守るだけならば彼女がこんなに恐縮することもないのである。とはいえ天蓬は一晩徹夜するくらい何でもないので恐縮されてしまうと却って戸惑ってしまう。ゆるゆると天蓬が首を振ると、彼女は淡く微笑んだ。
「いいえ、とんでもない」
「またいつか織物を贈らせて下さいまし。服ではあなたはお召しにならないかもしれませんから、膝掛けか何かでも」
「ありがとうございます。以前頂いたクロスも大切に使わせて頂いています」
 微笑むと、彼女もほっとしたように微笑んだ。夕日が光を収め、月の舟人が姿を現し始める。しかし二人の方を見ることもなく、まるで気付いていないかのように、川をついと流れていく。つれない舟人は織女を運んではくれないのである。そうしているうち、夜の向こうから一つ二つと近付いてくる小さなものが目に付き始めた。彼女と牽牛にとっての救いの鳥、鵲たちである。次々に川へ橋を渡していくそれを眺めながら、その勢いで起こった風に目を細めた。煽られる風に髪を押さえて、織女に目をやった。彼女は少し不安そうに出来ていく橋を見つめている。彼女の胸の中にはもう、自分の夫のことしかない。当然のことだ、一年振りの逢瀬である。そんな中、現実に引き戻すような言葉を口にするのは躊躇われたが、ここは仕事だと心を鬼にして、天蓬は咳払いを一つした後口を開いた。
「織女、必ず夜の明ける前に橋を渡って下さい。これを破れば来年はありません。そして勿論、それから先も」
「分かっています」
 話をしている間にも、橋は完成していく。彼女の目はもう、向こう岸しか見つめていない。その横顔を見つめていると、ふと以前から胸で燻っていた疑問が顔を出した。それは口にしていいのかどうか迷ってしまうようなもので、本来ならばそんな風に訊ねていいのか迷うような質問は女性にぶつけるべきではないと分かっていた。しかし、訊くなら今しかないと思えば、自然口は言葉を紡ぐために開かれていた。
「……一度訊いてみたかったことがあるんです」
 そう訊ねると、ふっと一瞬現実に戻ってきた目をした彼女は、薄らと微笑んで天蓬の方を見た。そして、それが「よそゆきの笑顔」であると気付いてしまう。女には顔が沢山あるのだと、一度遊び好きの男に聞かされたことがなかったか。今まで全く気付かなかったその変化に、思わず言葉を失った。それを不思議な微笑みで見つめていた織女に続きを促されて、やっと我に返って天蓬は口を開いた。
「何なりと」
「……あなたは、牽牛の不貞を疑ったことはないんですか」
「ありますわ」
 彼女は迷うことなくそう言った。そして思わず返事に詰まった天蓬を楽しそうに見つめている。
「長い間離れて過ごすとはそういうものです。きっと彼も私を疑ったことが何度もあるでしょう。それでも何とか壊れずにいる。……そういうことです。でももうずっとこのままで構いませんわ。今更ずっと一緒にいてもいいなんて言われても刺激が足りませんもの」
 やはり女は強かだ。天蓬はもう何を言っても敵う気がしなくて、肩を竦めて降参を示した。そんな天蓬を見てくすりと笑った彼女は、小さく頭を下げて、川に架かった橋に向かい合った。ゆっくりとその橋を渡り、愛しい男の元へと向かう後ろ姿を見つめながら、天蓬はポケットから煙草を取り出して火を点けた。その煙を吸い込み、静かに息を吐いて煙を風にたなびかせる。ふと、織女が橋の中頃で立ち止まった。そしてからかうような眸でくるりと振り返った。ゆらりと彼女の髪が揺れて、その下から琥珀色の耳飾が覗く。暮れ泥む中でその耳飾が僅かな光を反射してきらりと輝く。
「もしも恋人とのお付き合いに飽きたら、少しの間距離を置いてみては。尤も、あの方は離れるなんてこと許したりしないかしら」
 目を瞠る天蓬を楽しそうにたっぷりと眺め、ゆったりと織女は踵を返した。その後ろ姿を呆然と見送りつつ、天蓬は指に挟まれたままの煙草を持て余して、それがすっかり灰になってしまうまでじっと川辺に立ち尽くしていた。




 それから数刻後、すっかり日も落ち、濃紺の帳が落ちた頃。いつもよりもぐんと水嵩の増した砂利の河原で、天蓬はじっと川のほとりにしゃがみ込み、手当たり次第に石を川に放り込んでいた。川の下には大きな三日月がかかっている。ゆったりと舟人が行き交う川のほとりで溜息を一つ。そして一際大きな石を投げ入れた瞬間、ふと、背後から近付いてくる濃厚な男の気配に顔を上げた。そして立ち上がり、その男を迎える。少し不機嫌な顔をしたその男は、咥え煙草でゆっくりと自分の方へと近付いてくる。剣呑な光を宿したその黒い双眸に、きょとんとした自分の顔が映し出されている。
「……やっぱり雨か」
「ええ、残念でしたね」
 折角明日は二人揃いの休暇だったというのに。むっすりとした顔をしている男の気持ちも分かるが、毎年続けてきていることを今年ばかり自分の都合で止めるわけにはいかないのである。それは自分のプライドでもあり、友人二人のためでもある。涙もろい牽牛が泣くのを見ているのは鬱陶しい、というのもある。煙草を指に挟み、煙を天蓬の顔に吹き掛けた捲簾は、その煙草をそのままピンと弾いて川の中に投げ入れた。何を投げ入れても星屑に代わってしまう川とはいえ、自分の管理している川をごみ箱代わりに使われるのは些か不愉快である。咎めるように彼を睨み上げると、彼は何とも思っていないような顔で肩を竦めた。普段なら見た目に反して良識のある男だから、こんなことは絶対にしないのだ。ならば今はいつもはしないそんなことまでしてしまうほど苛立っているということか。
「どうせならこの間一人で休み取っておくんだったな、そうしたら一人で釣りでも行けたのに」
 明らかに当て擦りめいた言葉に、腹立たしいやら何だか少し淋しいやらでよく分からない気分になりながら天蓬が唇を尖らせると、暫く怒ったような顔を隠さずにそっぽを向いていた彼は、ちらりとこちらを振り返って困ったように頭を掻いた。
「……悪い」
「僕らは、いつだって逢おうとすれば逢えるでしょう」
「あ?」
「黎峰が話してたんです。一年に一度しか恋人と逢えないっていうのは、どんな心地だろうって」
 そう言うと、それだけで天蓬が何を言いたいのか分かったのか捲簾は再びがりがりと頭を掻いて同じ言葉を繰り返した。
「まあ、一年はきついわなあ」
 たとえここが天界で、自分たちの生存する期間からすれば一年など下界の人間の瞬き一つにも満たないとしてもだ。
「また雨が降って織女に逢えないかも知れなくなると牽牛がぴーぴー泣くんですよ。その鬱陶しい泣き顔を見てると職務放棄なんて」
「織女って言やぁ、天界でも指折りの美人だもんな。何であんな美人が牽牛なんかに操を立てるんだか」
「牽牛は、あなたよりは誠実で貞淑ですよ。もしご希望でしたら鵲を全て撃ち殺して橋を作れないようにして、さっさと彼女を寝取ってしまったらよろしかったのに。僕なんかのところでうろうろして時間の浪費をしていないで」
 思った以上に嫌味な物言いになってしまった。これでは彼を喜ばせるだけである。その予想通り、その口元を緩めた捲簾はにやにやと天蓬の腰に手を回した。すぐに元の調子を取り戻した捲簾に、安堵するやら呆れるやらだ。それでも自分の腰を撫で回す不埒な手を拒絶することはせず、そのまま彼の肩に額を押し付けて身体を凭れ掛けさせた。散々織女に惚気られたせいで、少し体温が恋しくなっているのかも知れない。素直に捲簾に身を寄せてきた天蓬に、彼自身驚いたようで一瞬彼は動きを止めた。しかしすぐにその手の動きは更に大胆になる。腰から更に下へするりと降りてくる手に、溜息を吐く。その手は確実な目的を持っていた。その目的に思い至って、天蓬は腹の底から溜息を吐いた。
「僕は、夜が明ける前に織女が帰ってくるまで寝られないんですよ。勿論失神するわけにもいかないんですからね」
「織女も馬鹿じゃねえだろう。一晩の誘惑に負けて父親との約束を破って二度と逢えなくなる方を選ぶほどな」
「知ったような口を」
「女は頭が良いんだよ。そして強かだ」
 その返事を聞いて、天蓬は溜息を吐いた。女性の心理に関する問題では、自分が彼に勝てるはずがないのだった。
 つまらなさそうに唇を尖らせる天蓬をにやけた顔で眺めていた捲簾は、風に煽られる天蓬の髪を手で押さえてそっと梳いた。思えば、恋人として過ごすものとしては初めての雨の七夕だ。恋人になってからは長く晴れが続いていたし、その前は彼はほいほいと女のところへ出掛けていた。そして自分はいつもと変わりなく、この河原に一人座り込んで夜明けを待っていたのである。一人じっと、恋人たちが睦まじく過ごしているであろう夜を越えた。

「この退屈さが分かりますか、雨が降る度天帝の娘夫婦のためにここで寝ずの番です。あなたは楽しーく過ごしていたと思いますが」
「可愛いな。やきもちか」
 一言くだらないと切り捨て、それでもその腕を拒絶することはなく彼の身体に鼻先を押し付けた。ころころ変わる煙草の香りと彼自身の匂いに包まれて、静かに息を吐いた。からかいに反論するのも面倒だったのだ。彼は自分をからかうことに関しては妙に頭が回る。そのため、彼を口で言い包めるのにもそれなりの精神力が必要だった。だから今は余計なことを考えたくない。何も考えずにこのままこうしていたかった。それもまた、女々しい思想だなとは思うのだが。違います、とも、そうです、とも言わない天蓬に彼は一瞬口を噤んだ。そしてどこか気遣いの窺える手付きで、天蓬の後ろ髪をそっと撫でてきた。それでも何も言わない。もしも天蓬に何かがあって、こんな風になっているのならば何も言わない方が得策だと思ったからだろう。
 しかし残念ながら天蓬に何があったわけではない。大してこの行動に意味もない。有り体に言えば羨ましかったのだろう。丸々一年間離れたままでいて、それでも不安など覚えているようでもない織女が。それどころか彼女はそれを楽しんでいるようでもあった。そういえばあの夫婦はもういつからこうして丸一年逢うことの出来ない生活を続けているのだったか。それなのに二人の愛は冷める様子を見せない。ならばたった数週間離れているだけで不安になってしまう自分は、一体何なのか。彼女よりも自分の方が思考が女々しいようで、虚しくなるのだ。離れていることに耐えられることが男らしさとは、思わないが。
「……僕らも、当分距離を置いてみますか」
「何、急に」
「織女が言ってたんですよ。倦怠期には、少し距離を置いてみたらどうですかって」
 倦怠期、という言葉に捲簾は嫌そうに顔を顰めた。そしてぽかんとその顔を見上げて首を傾げる天蓬の額を指先で弾いて少し凄んでみせる。彼がその言葉を気に入らないというのは分かったが、彼の言い分を聞いてみたくて天蓬は黙って彼の言葉の続きを促した。
「何だ、俺とお前が倦怠期だってのか」
「……僕はね、試してみたいんです。もし彼女たちのように一年に一度しか逢えない生活をしても僕は変わらずあなたを好きでいられて、あなたは僕を好きでいてくれるのかを。もしそうでないのなら、僕たちの間柄は良質ではないのではないかと」
 それは、あの夫婦の関係を良質と仮定した場合の話だ。離れていても愛し合えることが良質なのか、少し足りとも離れられないことが良質なのかは分からない。それは個人の価値観の問題である。それでも天蓬は知りたかった。逢えない一年間の長さとその間の心境の変化、そして再び一年後出逢った時の状況。ひょっとしたら半分もいかないうちに音をあげてしまうことになるかも知れないけれど。

「……本当に、病的なくらい知りたがりだよな」
 天蓬の言うことを黙って聞いていた捲簾は、呆れたように溜息を吐いて頭を掻いた。そして宥めるように天蓬の前髪を梳き上げてくすぐるように頭を撫でる。優しく甘美なその手を拒絶することも出来なくて、天蓬は黙ってその手を受け入れた。温かい手が皮膚を掠めてくすぐったさで身を震わせる。くすぐったいからだ。他意はない。
「あなたは知りたくないですか?」
「別に。……それに、どうせ試してみてもお前は分かんねえと思うぞ」
「どうして」
「多分、俺の方が我慢し切れなくて逢いに行っちまうから」
 ゆっくりと顔を上げて、彼の顔を真っ直ぐ見上げた。彼の表情は静かだ。その視線の前に晒されて、ふっ、と昂っていた気分が穏やかに凪ぐ。自分を飾らず、プライドの高い自分のために代わりに折れることが出来るのは彼の強さだ。そして、プライドが邪魔をして本音を口にすることが出来ないのは自分の弱さである。それを突きつけられたようで、それ以上彼と目を合わせていられなくなる。
「お前が知りたがりなのは良い、だけどそれには相手がいるのを忘れるな」
 結局自分は頭が良くなどなくて、自分のことを考えるだけで心も頭も一杯なのだ。自分がそうすることによって相手がどう思うか、どんな表情をしているか、そこまで頭が回らなくて、いつもひとりよがりになってしまう。それが堪らなく不愉快で、口惜しくて、自分の無能さに腹が立つ。しかし少し心掛けたからと言って、その問題が改善するでもない。結局心のキャパシティが元から少ないのである。

 鬱々とした気分を持て余しつつ俯いて足元の丸い砂利を見つめていると、不意に腕を掴まれて反射的に顔を上げた。そのままその腕を引かれて、川縁に座らせられる。彼が何をしたいのかはよく分からなかったがそのまま従うと、捲簾は座り込んだ天蓬の隣に胡坐を掻いた。ぽかんとして捲簾を見上げていると、急に彼の大きな手が伸びてきて天蓬の頭を鷲掴みに捕らえた。そしてそのまま彼の方へ引き寄せられ、思わず目を閉じる。すると突然、額にこつんと軽い衝撃が伝わってきた。目を開くと、それは彼の軍服の肩当てだった。そして強く天蓬の頭を掴んでいた手は緩み、慈しむように優しくなる。節張った指が髪を梳いて、髪を括ってあった紐を解く。解けた髪が肩にぱさりと落ちて、耳を覆った。がさがさした彼の指先が時折頭皮を掠めて、微かな痛みを残していく。
「牽牛みたいに丸々一年間逢わなくてもずっと相手を愛し続けていられることも一つの愛の証明だろうよ。でも、もし俺だったら自力で川渡って毎日逢いに行ってやるけど」
 実際、彼ならやりそうだと思うと笑いが出てきてしまう。冷たい肩当てに額を押し当てて笑いを噛み殺す。それを知ってか知らずか、捲簾はそのまま言葉を続けて紡いだ。
「一日たりとも、淋しがらせてなんてやらねえよ」
「誰が、淋しがるんですか」
「お前が」
「冗談でしょ」
 彼が時折自分を指して淋しがりやだと称するのが以前から気にはなっていた。一体、自分のどこが淋しがりやだと言うのだろう。個人主義で、常に一人でいることを好む自分の、どこを見て彼はそう思うのだろうか。そんな思いを込めての返事だったのだが、彼はまるで相手にせずに笑っている。いつもなら癪に触るはずのそれが、今はどうしてか心地いい。彼の低い、押し殺した笑い声が耳を擽って、彼の体温が頭から伝わってくる。川面がユラリと揺れて、星の瞬きを増幅させて映し出した。月がゆらゆらと揺れている。
「失くしたくないから手に入れないようにするってのは、お前みたいな頭のいい奴にしては随分愚かな行為だな」
「――――」
 ひとりで川の流れを見つめながら、じっと朝を待つ夜は、まるで終わりがこないかのようだった。いつになったら日が差すのだろうと眠ることも出来ずに太陽を待ち続けていた。膝を抱えて額を彼の身体に押し付けて、小さくなる。顔を両手で覆って、深く息を吐いた。自己嫌悪で潰れてしまいそうになる。自分の弱さを直視出来ないことも、自分の女々しさの一端なのかも知れない。直視したらそれこそ、プライドの高い自分の精神が均衡を保てなくなってしまいそうだから、無意識に庇ってしまうのだ。
 淋しいのは、間違いではない。離れていても通じ合っているようなあの夫婦が羨ましかったのも事実だ。そんな関係は、自分には決して手に入れようのないものだからである。相手を信じるには力がいる。自分にはそんな力はない。
 すっかり思考が下降して上がる気配を見せない天蓬に、捲簾は困った子供を見るように笑った。そして俯いた天蓬の旋毛を軽く指先で突付いたりと、天蓬の気を引こうとあれやこれやと指先で悪戯を仕掛けてくる。どんな顔をして顔を上げていいか分からない天蓬がそのままじっと顔を手で覆っていると、諦めたように捲簾の悪戯は止んだ。それがなくなるとなくなったでどこか淋しくなって、彼の次の動きを察知するために神経を張り巡らせる。
 そして、永遠とも思える沈黙の後、ふわりと頭の上に大きな掌が下りてきた。反射的に俯いたまま目を開く。

「来年からは、もし雨が降ってもずっと俺が隣にいる。不安に思うことは、もう何もないだろう?」





 捲簾が放り投げた丸い小石が、ぽちゃ、と軽い音を立てて川に沈んで星屑と消える。ゆっくりと繰り返されるその動作を、彼の肩に頭を凭せ掛けながら見つめていた天蓬は、思い付いたように夢を見ているような口調で話し始めた。
「下界では、今日はお願い事をする日なんだそうですよ」
「へえ。誰が叶えてくれるわけ」
「織女と牽牛らしいです」
 天蓬の言葉に捲簾は喉を鳴らして笑って、また再び足元の小石を拾い上げて遠くへと放り投げた。どぽん、と少し低い音がして、石は静かに沈んでゆく。少しうとうとしたせいで天蓬の身体が僅かに傾ぐのを見て、捲簾は咄嗟にその肩を腕で支えた。今日は開き直って甘え切ってしまうことにしたらしく、天蓬は捲簾の腕に身体を預けて目を細めた。煙草が吸いたいと思ったのか、天蓬の手が自分のポケットの辺りを探る。しかし手を動かすことさえ大儀そうで、結局その手は煙草に辿り着く前に動きをとめた。
「奴等に人の願いまで叶えるような余裕があるわけねえのに」
 一年に一度の逢瀬を楽しんでいる夫婦に人の願いまで叶えろとは酷な話である。彼らだって自分たちだけのことで精一杯だろうに。
「お前が思う以上に、織女も牽牛も余裕がねえってことだよ……」
 織女のあの強さが、所謂「強がり」であると聡いはずの天蓬は気付かない。それは自分も同属であるせいだ。そして天蓬自身に、自分が強がっているという自覚がないためでもある。傍にいたくないわけなどない。しかしそれを織女は「刺激だ」と言って誤魔化し、天蓬は「試してみたい」という尤もらしい言葉で誤魔化した。それでもきっと二人は、強がっている自覚はないのである。
「やっぱり、願い事は自分で叶えるしか、ないですね」
「何、何か願いがあんの」
「……寝たい、です」
 どこかふわふわした口調の天蓬を訝しく思って、捲簾は天蓬の顔を覗き込む。上瞼が何とか下瞼にくっ付こうとするのを必死で阻止している状況だった。うつらうつらと頭も頼りなく揺れている。そんなどこか幼い寝顔を暫く眺めていた捲簾は、うとうとと付いたり離れたりを繰り返している瞼を手でそっと閉じさせた。そして彼の肩を規則的なリズムで緩く叩く。それを暫く繰り返していると、耳元では穏やかな寝息が聞こえるようになった。夜はまだこれから、夜明けまでは十分時間がある。

 自分の肩に寄り掛かる彼の身体が揺れないように気を付けながら、ポケットから煙草を引っ張り出す。そしてパッケージを指で押すようにして一本出し、その先端を口に咥えて取り出した。しかしライターは見当たらず、ポケットに入っていたマッチを一本擦った。淡く灯った火の色に、天蓬の横顔が僅かに照らされた。穏やかな表情をしている。夢の中ではどうか悩みなく過ごしているように願う。しかし自分の願いを叶えてくれるような相手はいない。彼の言う通り、自分の願いは自分で叶える以外にない。自分の望みは、彼の心が平穏であることだ。きっと、そんなことは成し遂げることなど出来ないのだろうけれど。
 煙草に火を点けてマッチの火を消す。ふっと辺りが暗くなり、煙草の先の赤い光だけがぼんやりと闇の中に浮かび上がっている。吸い込むと一層赤みを増し、口から離すとその光は闇に沈んでいった。吐き出した煙で辺りの景色が滲んだ。
(せめて今だけでも、穏やかな夢を)
 月が揺れている。









もし捲簾なら海パン一丁で天の川横断して逢いにくるよ。        2007/07/08 (心意気は07/07)
背景画像お借りしました*whim+